聖が学校を休んで今日で三日目だ。三日前に「心配するな」という短いメールが来て何のことか分からなかったが、今なら合点がいく。けれどどこに安心材料があるのか分からなくて、龍巳は不機嫌に顔を歪めた。
「角倉がいないと静かなんだか逆に煩いんだかわかりませんね」
誠の言葉を聞き流しながら携帯を確認してみるけれど連絡はない。一時間ほど前にも連絡を寄越せとメールしたばかりなのに。聖が休んでいるおかげで、茜とさくらが大声で聖の心配をしながら食事を取っているのだ。どちらもお互いに聖の彼女だと知らないで友達をやっている。聖が誤魔化すのが上手いのか彼女たちが底抜けに間抜けなのかいまいち判断できないが、龍巳にはそんなことは関係ない。いつもと同じように無言で食事を終えるだけだ。
「聖、どうしちゃったんだろうね」
「さぁな」
「連絡はないのか?」
「ない」
いつの間にかレギュラーで食事をとるようになったのかは分からないが、もうこれが普通になってしまった。葵と晃に尋ねられたが龍巳も知らないので答えられなかった。先輩たちなら知っているだろうが、けれど聞きに行くのも癪だ。聖は自分たちの仲間であって、先輩たちの方が優先して情報を得ているなんて面白くない。聖が彼らの方を信用しているなんて、受け入れたくない。
「でもこの間の参観のことを考えたら、あのご当主になにか……」
「参観のことって?」
ぽつりと誠がもらしたことに対して寿季が不思議そうに首を傾げた。このことはあまり周りに漏らしたくはなかったので龍巳は眉間に皺を寄せて誠を見やったが、クラスではその話はひそひそと伝えられている。角倉の家の問題だから声高に話せないが、けれど角倉の子息の話だから噂は流れる。難儀なものだ。
当主が聖の料理をひっくり返した話を軽くしてやると、寿季は本当に悔しそうに顔を歪める。聖にはそう、自分たちだけが同情していれば良い。それは簡単で餓鬼染みた独占欲かもしれないが構わない。どうせ自分たちは餓鬼なんだ。
「もうすぐテストなのに大丈夫なのか?」
「聖は頭いいし、余裕じゃん?」
「聖じゃなくて寿季」
「それを言うなよ!」
テストまで数日に迫っている。その焦燥もあるし聖が来ないことが気がかりで、どちらも中途半端だった。九条院はありがたいことに成績なんてクソ喰らえな家だから多少は問題ないが、葵も晃も生粋のお坊ちゃんなので結構問題ではないだろうか。
「おー、一年。全員揃ってんな」
団体さんで勝手に教室に入って来て注目を浴びたのは、バスケ部二年レギュラー陣だった。頻繁に教室に来る為、クラスメイトたちは一度見ただけですぐに自分たちの話題に戻ってしまう。それはそれでありがたいことなので無視して、龍巳はぞろぞろ入ってきた先輩たちを順番に見てから舞依に視線を移した。こちらを気にしているが何をするべきか戸惑っているようだった。自然な仕草で片手を上げて彼女を制止し、龍巳は代表して口を開いた。
「どうしたんですか?」
「聖から何か連絡あった?」
「ありませんけど……」
「だろうな。聖、携帯没収されたらしいから」
自分たちが知らない情報を知っている彼らに龍巳は思わず険しい視線を向けた。それは龍巳だけでなく、ここにいる四人が同じ表情をしていた。どうしてそんなことを知っているのか、そして彼らが自分たちの知らない何を知っているのか。予想も想像もできなくてただ猜疑心だけは積もる。聖はやはり自分たちには何も言ってくれないんじゃないかと、そんな裏切りのような感情が芽生えるのを止められない。
それを見て取ったのか、護が軽く笑って海人の携帯を取り上げて机の上に置いた。
「海人のクラスには聖のお姉さんがいるから、そこからの情報。監禁されて家どころか部屋からも出られないらしいよ」
「……それで?」
「助けてくれってさ」
「聖は助けるほど弱くないです」
護が僅かに笑った。それを見て言葉を紡ごうと思ったが、その前に葵がはっきりと言い切った。確かに聖は助けられるほど弱くない。こっちが油断すると勝手にどこかに行ってしまいそうな、そんな奴だから。
けれど二年陣には認識が違うのか、彼らはお互いに顔を見合わせて笑っている。
「弱くない、ねぇ……」
「聖は弱いよな。さながら生まれたての仔馬みたいな感じ?」
「例えが微妙」
彼らが何を言わんとしているのか分からなかったけれど、自分たちが馬鹿にされていることだけは分かった。仲間なのに聖のことを分かっていないと、そう言いたいのだろう。どうせ出会ってからまだ数ヶ月でお互いに何も理解していない。けれど、仲間だ。
一しきりボケて突っ込んでから、二年を代表して直治が漸く口を開いた。引き上げられた口角が何かを企んでいるようだった。
「じゃあ言い方を変えよう。聖を捕獲して欲しい」
「捕獲……」
「海人もね、姫と約束しちゃった手前破れないんだよ。好きな子には格好つけたいものだから」
「直治!お前言い過ぎだっつの!!」
聖を捕獲とはなんとも含みのある言い方だった。全てを見下して見切っているかの言い方だ。けれど少なくとも聖のことに関しては任せてくれるようなので、そこはありがたくその権利をいただこう。
二年の漫才が始まったところで予鈴が鳴り、彼らは嵐のように去っていった。ここが龍巳のクラスなので、他のメンバーも各々片付けを始める。教室を出て行こうとしたところで、葵が不意に止まった。
「今夜、時間が動き出すよ」
「葵?」
「龍巳、組員さんたちは健在?」
葵の思わせぶりな台詞にチャイムが被さり、そのことばの真意を聞く前に彼らは教室から出て行ってしまった。
確かに少し前、九条院組の若い組員の半数以上がボコボコにされるという事件があった。それは聖に怪我が増えた時期と一致し、更に組員たちが言うにはそれは竜田学園の生徒だったという。「若と同じ制服をお召しで」というので確かだろう。けれどそれが聖だという確証もないし、全てが信じられない。九条院組の若い連中だって相当な手練なのだ。龍巳だってそう簡単にあしらえない。それを聖があしらえるとは思えなかった。
深夜、聖は黙って家を出た。着物なんかじゃなくて動きやすいジーンズにシャツで、荷物はポケットに突っ込んだ煙草とライターだけ。携帯も机の上に置いてきた。灰皿は惜しいことをしたと思うけれど、しょうがない。きっと美月が保護してくれると希望してそのままにしてきた。
行く所がないけれど今行った所で綾肴に追い返される気がして、終電が行ってしまうまで時間を潰そうと新宿の駅周辺をぶらぶらしていた。そして少し脇道に入ると、柄の悪い人たちがたくさんたむろしている。
「お前!あの時のガキ!」
「は?」
煙草を吸いながらどこかの店に入って時間を潰そうかと考えていると、柄の悪い兄さんたちのうち一人が指を指して来た。いきなりの指名に相手の顔が思い出せなくてぽけっと見ていると、何故かいきなり殴りかかってきた。一体いつ相手した誰だろう。相手の顔なんて見て喧嘩しているわけではないので記憶に残っていない。
とりあえず向かってくる拳を避けながら、どうでもよくなって考えるのをやめた。誰でも構わない。殴られるから殴る。それだけだ。
「ガキが付け上がってんじゃねぇ!」
「弱いんだから向かってくんなよ。それとも特訓でもしたってか?」
「囲んでやっちまえ!」
「うっわ、汚ぇ」
そこにいた三十人程度の人間みんな仲間だったようで、一気に囲まれた。口の中で小さく呟いて聖は言葉とは裏腹に口の端を引き上げる。この環境が心地いい。殴られると痛いし、殴っても拳が痛い。この痛みが自分が生きているのだと教えてくれる。流れ出す血が、まだ生きて血の通った人間なのだと教えてくれる。生きている紙一重を教えてくれるこの緊張感が、心地いい。
ケリがつくには少々時間が掛かった。三十人も相手にしていれば無傷と言うわけには行かず、聖も数箇所負傷している。骨は折れていないようだが、体中が痛いし内臓は鈍痛を生み出して頭にまで響いてくる。口の中に溜まった血を吐き出すと、そういえばいつの間には煙草をどこかにやってしまったことに気づいた。そうだ、初めの方に吐き出してしまったんだ。
「……まだ吸い始めたばっかりだったのに」
ちょっとイラッと来て、倒れてる男の顔をそのままゴリッと踏みつけて新しい煙草をポケットから引っ張りだした。火を点けてから、倒れている男のポケットを漁って財布を取り出した。中を確認して、その下らなさに馬鹿らしくなってそれを投げ捨てる。
遠くからサイレンの音が聞こえてきている。それには気づいていた。けれど逃げるには怪我を負いすぎた。少し休憩してからではないと動けないと、煙草一本分の休憩を求めてその場に座り込み、そのまま吹かす。まだ半分にも満たない間にサイレンの音は大きくなり赤い色が目に鮮やかに飛び込んでくるようになった。吸い終わる頃には、警官が数人駆けつけた。
「君、大丈夫かい!?」
「どうにか」
煙草を後ろ手にコンクリに押し付けて消している間に若い警官に訪ねられた。被害者と思われているのだろう。けれどここに倒れているあっち側の人間と思われる大人と怪我だらけの少年。少し考えると関係は見えてくる。
若い警官の後ろから来た鄙びた感じの刑事が聖の姿をじっとりと睨めけ、低い声で若い警官に車に連れて行くように促した。
「連れてけ」
「えぇ!?でも……」
「いいから、さっさとしろ。ヤーさん相手によくやるじゃねぇか、坊主」
「教育の賜物って奴じゃねぇの」
体中軋む。動くたびに内臓が熱い。けれど平気な顔をして聖は自分の足でパトカーに乗り込んだ。
パトカーになんて乗るのは初めての経験だが別に楽しくもなんともない。ただ両脇に警官がいて、一人はしきりに怪我を心配してくるし一人は無口だし。会話も面倒くさいので目を閉じて寝たふりをすると、漸く若い警官も黙った。ここから警察まではそんなに時間が掛からないはずだ。煙草一本分だろうか。そのくらいならもしかしたら会話に付き合ってやってもよかったかもしれないが、話題を聖は持っていなかった。
「あいつらは九条院組の若い衆だ。お前一人か?」
「………」
「目をつけられるまえに表通りを通るんだな」
刑事の忠告は聖には何の意味もない。けれどたった一つの単語だけ聖の胸に届く。九条院組、つまり龍巳の家の若い衆。いずれ龍巳のものになるであろう男たち。それは少し悪い事をした。
彼の言葉を深く考える前にパトカーは止まり、警察署の中に案内された。内部は深夜だからだろうか、人が救いなくシンとしていた。この様子ではカツ丼もとってもらえるか分からない。
「……その前に店やってないのか」
「何か言ったかい?」
「別に」
呟いた言葉を聞きとがめられ、聖は無愛想に視線を逸らした。案内されたのは取調室だ。雑然とした感の否めない部屋はぼんやりと薄暗く、まるでウォッカのグラス越しに世界を見ているような、紫煙の立ち込めた部屋のようだった。こんな雰囲気は決して嫌いではない。
目の前に中年の刑事が腰を下ろし、聖の姿をまじまじと見た。彼の後ろには若い警官も控えている。
「まず名前を言ってもらおうか」
「黙秘」
「始めっからだんまりか」
刑事は面白そうに口の端を引き上げた。簡素なパイプ椅子に体重を預け、聖は背筋を軽く伸ばした。肩が軽く鳴る。刑事はしばし無言だったが、その間若い警官が一度出て行って缶ジュースを買ってきた。リンゴジュースだった。
「歳は。その位言えるだろ」
「十二」
「確認しとくが、性別は……男、だよな?」
「男だよ」
一体それ以外に何に見えるのか。聖が憮然と答えると、後ろの警官は少し驚いた顔をしていたので女に思われていたのだと悟る。確かに顔は母親似で体格も小柄だし髪も長い。これなら間違われてもしょうがないかと自分で納得してみる。
「未成年は身柄引受人が必要でな。ここから出たかったら保護者の名前を言え」
「……酒井綾肴」
どうして彼の名前を出したのだろう。でもどうしても角倉の名前を出したくはなかった。だとしたらこれは甘えだ。昔から彼は何とかしてくれた。どうにもならなそうなことを小手先だけで何とかしてくれたから、甘えてる。けれど自分が甘えられるのはやっぱり彼しかいなくて、だからどうして彼が本当の父親じゃないんだろうと久しぶりに思った。
聖の口から紡がれた名前に、刑事は一度目を開いて聖を凝視した。まるで何かと重ねるようにじっくりと全身を眺め回し、それから僅かに体を乗り出した。
「お前、もしかしてひー坊か?」
「……たぶん、そう」
「何だ、酒井が親父ならしょうがねぇ」
「あーちゃんは親父じゃない」と言おうかと思ったけれどやめた。勘違いして簡単に出してもらえるなら願ったり叶ったりだ。どうせ行こうと思っていたから迎えに来てくれるとありがたい。彼はその場で電話を掛け始め、聖はそれを待っていた。ひー坊と聖のことを呼ぶのは綾肴以外にいないから新鮮な感じだが、よく考えたら彼についていろんな所にいっているからもしかしたら彼にもあっているのかもしれない。
「すぐ来るってよ。ここからなら十分も掛かるまい」
「じゃあカツ丼も食べられないじゃん」
「言うじゃねぇか。それにしても九条院の若いのやっちまうとはなぁ、見上げたガキだ」
「ども。あーちゃん仕込だし」
話してみると分かる人のようで、ぽつりぽつりとだけれど話は弾んだ。それは五分か十分かわからない。特に身のある話をしていたわけじゃない。けれど不思議と退屈しなかった。綾肴の武勇伝やらを聞かせてもらっているうちだった。
勢い良く取調室の扉が開いて、綾肴が肩を怒らせて入ってきた。聖の姿を見て刑事の姿を確かめ、手を上げた刑事を無視して思いっきり聖の頭に拳を振り下ろした。
「こンの馬鹿!」
「いってぇ!」
「おいおい、手加減してやれよ。怪我してんだから」
「馬鹿にゃぁキツイ灸が必要っすよ」
「お前にそっくりじゃねぇか」
刑事の言葉に綾肴は僅かに顔を歪め、頭を抑えている聖の腕を取って大股で歩き出した。引っ張られる形で聖は前のめりになりながら小走りに彼の歩調を合わせる。ここまで来る羽目になったことを怒っているのか刑事の言葉に怒っているのかは判断できない。
「……あーちゃん?」
「何だ馬鹿」
「ごめんね?」
「疑問系で謝んな。帰るぞ」
「ん」
綾肴の足は速い。聖も速い方だがコンパスの差だろう。ずきずきする体を無視して小走りに警察庁をでると、空気が夏だというのに冷たく感じた。
こんな夜中に人の気配などするはずがないのに人の気配がいくつかあって、聖は思わず目を眇める。それと同時に綾肴が足を止めて聖は思い切り彼にぶつかって足を止めた。綾肴の視線が不審でそちらに視線を移すと、暗がりから人が現れた。止められていたのは黒塗りのベンツで、こんなところにあるには悪趣味だった。
「悪いが、角倉聖の身柄を引き渡してもらう」
「おたくは?」
「九条院組次期棟梁、九条院龍巳」
「龍巳!?」
どうして夜中に龍巳が出てくるのか分からないけれど、聖の目は確かに着流しの龍巳の姿を捉えた。さっきの喧嘩の報復かあるいは、と思ったが後ろから思いきり背中を押されて思わずつんのめってステップから降りた。慌てて振り返ると、綾肴が薄く笑っていた。
「テメェのケツはテメェで拭えって教えたろ?」
さっさと帰ってしまおうとする綾肴に聖は舌を打ち鳴らして、けれど拒絶する理由もないので龍巳と一緒に車に乗った。いくら聖とて、この怪我で十人以上の男と喧嘩する力は残っていない。
さっさと帰ってしまったと思った綾肴は、聖が車に乗って尚、駐車場から消えることはなかった。ただ煙草を吸っていたからかもしれなかったけれど、聖には彼が何を考えているのか分からなかった。
−続−
あーちゃんも昔はお世話になりました。