期末試験が終わると補講期間に入る。テストの採点待ちの時間だから授業なんてしなくてもいいと思うが学校側はそうは思っていないようだ。けれど自由参加と言う名目を取っていて、雰囲気的に強制だが出席は取らない。だから聖は朝からずっと専用体育館に篭ってバスケをしていた。午前中は補講があるから誰もいないコートで一人ボール遊びに興じ、午後になると部活が始まる。最近は家に帰らないし先輩たちの家に泊まるでもなくSodomに行くか始発まで遊びまわって始発で学校に来て体育館で仮眠をとるかしている。
「聖、お前ちょっとくらい補習出た方がいいぞ」
「なんでテスト終わっても授業受けねぇといけねんだよ」
「まぁまぁ晃。聖、頭いいからいいんじゃない?それよりも夏休みどうするの?」
夏休みまで数日に迫った日の午後、部活の合間に晃に言われた。けれど完全に参加する気のない聖はボールを手元で遊ばせながら適当に答える。今日で補講も最後だったので何か言われでもしたのかと疑ったが、言われるのならクラスが違う晃じゃなくて同じクラスの龍巳だろうからただ気にしているだけだと解釈する。それはそれで完結して、葵の問いに答えるべく思考を回す。夏休みが迫っているが今のところ特に予定はない。もちろん、寝るところの予定も。
それを偶然耳にしたのか、二年レギュラーが揃って寄って来た。いつものことながら地獄耳だ。
「聖、もうすぐ誕生日じゃん。何か欲しいもんある?」
「別にない。いらない」
「何、聖誕生日いつ?」
「二十八」
いきなりやってきていきなり訳の分からない話題を振ってきた先輩たちにばれないように溜め息を吐いて、聖はボールを上に放った。綺麗な放物線を描いてゴールに吸い込まれたそれは、落下して聖の元には帰ってこない。
誕生日なんて聞かれなければ言わないから別に黙っていた訳ではないが、寿季に「ちゃんと教えろよ」と文句を言われた。更に「俺は十一月十一日だから!」と主張しているが興味がないのできっと当日までには忘れているだろう。
『中等部一年角倉聖君、至急職員室までお越しください』
全館の設定で放送が入った。以前の小学校ならいざ知らず、竜田に転校してから呼び出しと言うものを聞いたことがないので思わず上を見る。もう一度繰り返された妙に丁寧なそれはやっぱり聖の名を発音していた。
呼び出された聖本人は焦るどころかとうとう来ちゃったか程度にしか思っていないのだが、周りが聖の予想を遥かに凌ぐ大騒ぎを始めた。
「聖!何したの!?」
「俺たちの顔に泥ぬんなよぉ?」
顔を青くしている亮悟先輩を前に予想していることを言っていいか迷い、即座に否と言う答えを打ち出す。卒倒したら堪ったもんじゃない。どうせテストを白紙で出したことが問題なのだろう。ここ半月家に帰っていないことが問題な訳がない。喫煙も見つかってないし。
「とりあえず行ってくる」
「聖、家はいつでも泊まれるからね」
「葵ずりぃよ!俺も俺も」
踵を返して尚騒がしい仲間たちに苦笑して、聖はジャージのまま校舎までの道のりを一人テクテクと歩いた。たった五分の道は仲間たちと歩くには短いが、一人で歩くには十分に長かった。
校舎を上がって二階の職員室に行くと、担任を始め各教科担当が揃って奇妙に緊張した雰囲気を醸しだしていた。一瞬踵を返してなかったことにして逃げ出したかったが、その前に気づいた担任が険しい顔のまま手招きし、それから隣の指導室に移動した。移動したにも拘らず職員室にいた半数以上の教員が移動してきたので、だったらどうして場所を変えたのか疑問が残る所だ。
指導室の椅子に座らされ、周りには教師陣が囲うようにして並ぶものだからある種の拷問めいた雰囲気になった。始めに担任の市町が一枚の紙を差し出してきた。それを受け取って、けれど見る必要はないのでそのまま半分に折る。
「再試を実施することにした。何か訳があるんだろう?でもこんな馬鹿なことはやめるんだ」
「はぁ……」
人よりも早く帰ってきたテスト結果は見なくても分かる。全てが零点だ。だって解答を一つも書いてないんだから点が取れるはずがない。別に何の間違いと言うわけでもないし、やめるにしても何をやめればいいのだろうか。全教科の解答を放棄したが学校側はそれをなかったことにしたいらしい。特別な措置を取ってまですることなのかと正直呆れてしまう。
「これから実施しても角倉なら大丈夫だろう」
「受けません」
別にまた白紙で出してもいいけれど、その分時間を取られるのはごめんだ。今日は折角人とバスケができるのにその時間を消費することはない。だったらはっきりと口にしてやる。けれどその言葉を聞いて市町は瞠目して信じられないものでも見たような顔をした。
そんな顔をしても受けたくないものは受けたくない。我儘だと受け取られても構わない。精一杯の抵抗だ。逃げ出して卑怯かもしれないがそれが精一杯の抵抗。
「すいません、高等部の真坂です」
声をかけられてスッと戸が開いた。思わずそちらを見ると、白衣姿の光定が入ってくる。あれ以降会っていない年上の従兄の姿に聖は僅かに警戒の色を浮かべ彼を見やるが、彼は薄く笑んだだけで聖からスッと視線を外してしまった。戸惑っている中等部の教師陣を見回して、再度聖を見て口元を歪める。先ほどは見下すような笑みだったのに、何故か今度は少し得意げな目だった。
「こいつの身柄を任せていただけますか」
「真坂先生に?高等部には関係がないと思いますが……」
「成績自体は関係ないんですけどね、言った手前守らなければならないことがありまして」
意味あり気な視線を向けてくるが意味が分からなかったので聖は首をただ捻った。それを見て光定がまた笑うが心当たりがないので俯いて視線から逃げた。
聖のテストが問題になっていることは高等部まで流れた訳ではなく光定が独自に入手した情報らしい。それはそうだ、中等部としては隠し通したい情報のはずだ。だから裏でなかったことにしようと工作をしているのだから。
「こいつの頭が悪い訳ではないのは普段の授業から分かるでしょう。それでどうにかお願いします」
「それはそうですが……」
「こいつはただ要領が悪いだけなんですよ」
さらっと光定が言ってくれたが、流石に聖はむっとして思わず表情を歪めた。それが餓鬼くさい行動だと自分でも分かっているがたった一瞬でも変わった表情を見られてしまいもう取り返しがつかない。
「そういう訳だ聖、部活が終わったら高等部の専体に来い」
聖が頷いてもいないのに光定はそれだけ言うとさっさと出て行ってしまった。意味が分からないも聖が何も言わずに黙っていると、周りで教師陣が憤慨なのか驚愕なのか分からないが声を上げて騒ぎ始めた。それを他人事のように見て、光定の去ったドアに視線を向ける。何となく行ってしまうんだろうなと自分のことながら漠然と思った。
「どうするんですかテストの順位は!」
「このまま載せるわけにもいかないし……やっぱり再試をしましょう」
「やりません。俺、部活の途中なんで」
自己保身しか考えないのは人間として当然のことだとは思う。思うけれど何となく気分が悪くなって、吐き捨てるように言うと席を立ち光定の通った道をなぞるようにして指導室を出た。後ろから騒ぎが聞こえたけれど聞こえないふりをして、専体に戻る。
たった五分の道のりを重いと思っていた行きとも違い、逸る気持ちが道を長く感じさせた。
部活が終わると、聖は初めからそう決められていたように高等部バスケ部の専体へ向かった。部活中にずっと行くか行くまいか悩んでいたが、結局来てしまった自分に疑問が浮かんでくるが、どうせ行く場所もやる事もないからだろうと結論付ける。自分のことなのにひどく曖昧なのはもうしょうがない。興味がない事を深く追求する癖はないから。
「……どこ行くんですか?」
「家だ。お前は来たことがなかったか」
光定の運転する車の助手席に座られて連れて行かれるところは真坂本家だと。彼の意図も意味も全く分からず、けれどどこに行こうと時間を潰すにはもってこいなので特に深く考えない。考えることすら放棄すれば、こんなにも楽になれる事を知ってからは無駄な努力はしない。考えないことは楽で、とても滑稽だから。
光定も聖も口数が少ないので車内はほぼ無言だが、嫌な沈黙ではなかった。むしろ自然な沈黙で辛くはない。
「お前も澄春殿も、少し頭を冷やした方がいい」
「俺、別に冷静ですけど」
「冷静にテスト放棄か?それこそ餓鬼の短絡思考だ」
なんと言われようとも聖は折れる気はない。冷静だし大人から見て間違っていようと正しいと信じている。これしか思いつかなかった、これしかないと思った。だからそのときの自分は肯定してやらなければ可哀相だ。そうしなければ自分すらも信用できないようなそんな気がして、やっていられない。
「やはり血は濃いな。二人して頑固者ときている」
「……血なんて」
「ああみえて美月も頑固だろう?血は馬鹿にできたものじゃない」
聖は自身の血だって認めてない。あの父と、兄と同じ血が半分でも流れているなんて考えるだけでも寒気がする。それほどまでに血というものを信じられない。竜田学園ではその血の濃さを強制的に見せられて、更に信じたくなくなった。けれどそれを否定するだけの材料も持っていない。だから答える言葉を持ち合わせてはいなかった。
「着いた。降りろ、当分のお前のねぐらだ」
車が入ったのは角倉家と似たような門のあるしっかりとした構えの邸宅だった。離れがいくつかあるが、それも離れとは思えないほどに大きい。さすが日本でも指折りの名家だ。特に荷物がないのでボールと小物の入ったショルダーだけ持って降りると、本宅ではなく入り口に程近い離れの方に案内された。
本宅との距離はあまりないにも関わらず完全に遮断されたような雰囲気を持っているそこは一間の部屋だった。東京とは思えないほど静かなのは角倉も同様だが、あの家のようにぴんと張った緊張があるわけではなく夏独特の雰囲気がまとわりついている。この雰囲気は嫌いじゃない。
「角倉に帰っていないそうだな。どこで寝ているか知らないが、よければここを使え」
中に入って周りを見回して数少ない家具の数を数えるが文机だけしかなかった。代わりに襖が壁の一面を占め、その中に収納スペースがある。部屋を横切って縁側に出てみると、中庭の景色が良く見えた。春だったら心地いいだろうが夏の今出ていたくはない。
「風呂は本宅のを使え、あとで案内しよう。トイレはそこだ。それから、ほら」
「……金?」
縁側から回って裏側にトイレが付いていた。それを確認して戻ると、畳の上にぽいと札束を投げ出された。そんなに分厚くないので拾い上げて数えてみると、十万だった。もらう意味が分からないので突き返そうかと思ったが彼の手はすでにポケットの中だった。
「それで当分の生活費は賄えるだろう。食事は出ないからそこから食え」
「……なんで俺にこんなにしてくれるんですか?」
「約束したからだ」
簡単な数式の答えを出すように光定はふっと笑みを浮かべた。けれど聖には約束の覚えがない。ならば兄とでも約束したのだろうか。だったらここにいたくもない。兄の手の上で踊らされ操り人形を演じるのはもう飽きた。
「以前言っただろう。逃げたくなったらいつでも来いと」
「逃げてませんてば」
「ならそういうことにして置いてやろう。ただ協力者としては少しくらい協力せんとな」
過去の記憶を引っ張り出して、会話を辿る。確かに五月頃に彼に会い話をした記憶がある。あのときは絶対に逃げないと思っていた。けれど状況が流れるに連れて何が逃げることなのか何が逃げないことなのか分からなくなった。結果、逃げ出すことになる。
「なに、ただの暇つぶしだ。澄春殿には私から連絡しておこう。少し頭を冷やせ」
あの時と同じことを言って去って行った光定の背中を見送りもせず、聖は荷物を投げ出すとその場に寝転がった。畳の匂いが鼻腔を擽り、思わず深呼吸してからポケットを漁って煙草を引っ張りだす。でも吸う気になれなくてそのままいつまでも掌の中でいじっていた。
−続−
そろそろ亮悟先輩の胃に穴が開くのではなかろうか。