自分の現状がどういうことになっているか全く自分でも把握できていない。なぜか真坂家の離れに寝るところがあり、しかも干渉されずにそこそこ心地がいい空間だ。おかげであれから三日ほど、部活が終われば少し遊んで帰ってきている。もちろん食事は一人だから淋しい気もするけれど、家に帰って兄を前に食べるなんていうのは息が詰まってしょうがないからまだマシだ。
けれどそんな生活を三日も続けてみた所で意味が分かるわけも状況がよくなるわけでもないので、結局睡眠なんてものは放棄して遊び歩く。だから状況は変わらない。
「……ひぃ坊」
「なーにー」
「そろそろ夏休みだろ」
「この間っから夏休み」
「そろそろコトも来るぞ」
カウンターに頬杖をついてぼーっと目の前を動く綾肴の行動を目で追っていると、唐突に言われた。どちらかというと妹に近い一つ下の幼馴染はまだ小学生だが、夏休みになるとこの店に夜中までいることが多くなる。それは聖が一緒にいるもっと幼い頃から続いていることで、だから今年も当たり前に行われる。
けれど聖は彼女には会いたくない。もちろん、一緒に来るだろう母親とも。会ってしまえば傷つかざるを得ないだろうから、会えない。息子の幸せを願って手放してくれた母にこんな、お世辞にも幸せと言えない姿を見せて悲しませたくはないし、淋しい思いをしながら送ってくれた彼女にも申し訳がない。彼女たちはただ信じてくれていればいい。聖が幸せだと、ただ思ってくれていればそれでいい。
「俺はお前が幸せだとは思っちゃいなかったがな」
「……思ってなかったのかよ」
「幸せってなんだ?定義なんてねぇだろ。結局はお前が幸せかどうか、だ」
椅子の短い背もたれに無理矢理背中を預けて、カウンターの上に出してあった煙草を一本取り出して指で挟んだまま咥える気にならずそのまま弄ぶ。綾肴とは銘柄が違うそれに彼はさも面白そうに笑ってグラスを持って何かを作り始めた。
「俺にはお前が燈と離れて幸せになれるなんて思えなかった。それだけだ、シスコン坊主」
「……あーちゃんには反論しない」
「正答だ」
正直、彼は正しい。聖にとっての幸せは母親と一緒にいることだったし、今が幸せだったらこんなところにいない。もちろん夜な夜な遊びまわって喧嘩することもない。それを綾肴も分かっていたのだろう。昔から彼は全てを知っているような顔をして笑う。彼が聖にとって憧れであって目標だった。それはきっと今も変わらない。けれど近しい関係だから甘えて縋る。
本当にそろそろ腹を決めて、しっかりしなければ。このままずるずるとダメになってしまうのは目に見えている。
「でもさ、じゃあ俺って幸せになれんのかな」
「無理だな」
カウンターに突っ伏して小さな、ごく小さな声で呟いてみた。あの頃が幸せの集大成だというのなら、今の現状から幸せになる方法なんてものが存在しているのか。しているようには思えないしもちろん慣れるとは思っていない。それを肯定するように綾肴の答えも即答で否だ。じゃあ一生幸せになんてなれないんじゃないのかと口を尖らせて見ると、彼はカウンターに出来上がったオレンジのカクテルを置いて馬鹿にしたように笑みを浮かべた。
「幸せってのはなれるんじゃねぇ。なるんだよ」
「……ムリっしょ」
「マジでお前馬鹿。幸せってのは一つじゃねーんだぞ」
「いらない」
「あん?」
「幸せなんて、いらない」
あの頃と違う幸せなんて要らない。だったらないほうがマシだ。期待して裏切られて落ち込むくらいなら始めから持っていないほうがいい。
吐き捨てるようにそういうと、綾肴はあからさまに溜め息を吐いて粗いものを始めようとしていた手を止めた。濡れた手を拭ってから聖の手から出しっぱなしの煙草を奪って、文句を交えた視線を送る前にケースの上に置いてあるライターで火を点けてしまった。
「あのな、例えば彼女Aと一緒にいるときの幸せとBと会うときの幸せってのは違うんだよ。ついでに言うと、元カノXと付き合ってたときの幸せとも違う」
「……何股かけてたわけ?」
「俺の話をしてんじゃねぇよ」
どうせ浮気してXさんと別れた話だろうとあえて話をまぜっかえすと、綾肴は不機嫌に紫煙を一緒に吐き出しながら唸った。
本当は分かっているし、最近の日々はひどく穏やかで逆に居心地が悪かった。部活が終わった後に茜とデートしたけれどそれすらも平穏でいっそぶち壊してしまいたくなるくらい平穏で。だからきっとこれは幸せになれないんじゃなくて、幸せになろうとしていない自分の姿を見たくないだけ。現実から目を逸らした結果、こうなっている。
「俺、幸せになっていいのかな……」
「だれが悪いっつったんだ?」
「…………」
「それに、ダメって言われたらお前やる気になんだろが」
一体誰が他人が幸せになる権利を犯せるというのか。主観で決定されるそれがどうして他人に制限されるのか。そしてなにより、どうして制限されることを認め受け入れあまつさえのぞんだのか。それは聖自身答えを知っている。あぁ、だから彼は頭を冷やせとそう言ったのか。
納得して胸の重石が全て胸の更に下まで落ちて言ったかのようにスッキリした。綾肴の作ったカクテルに手を伸ばして舌先で舐めるように浚うと、ピリリと舌を刺した。
「スティンガー?」
「ご名答」
舌を刺すミントの強さに眉を寄せながらちびちびと呑んでいると、綾肴はいやらしい顔をしてにやりと笑った。どうせ餓鬼の舌だとか思っているのだろう。どうせまだ十二だ。いや、もうすぐ十三になる。今日の日付をふと思い出して手元に視線を移せば、買ったばかりの時計が日付と時刻を教えてくれていた。二十七日二十三時五十九分。あと一分で、十三になる。
また綾肴が何かを作り出した。オレンジジュースが珍しくカウンター内に置いてある。
「お前の将来が薔薇色でありますように」
ことんと秒針が十二を刻んだ時、綾肴がカウンターに出来上がったばかりのカクテルグラスを置いた。オレンジ色のそれが妙に綺麗だ。幼い頃から彼の仕事を隣で見て名前も意味もよく知っているつもりだ。だからこそ、彼の選択が恥ずかしかった。目の前にあるのは、パラダイス。
「……クサい」
「文句言うなら呑まなくて良し」
「ないない、あーちゃん大好き」
さっきのスティンガーといいパラダイスといい、泣き出してしまいそうだ。
これから何か世界が変わったように見えればいい。否、きっと見える。なんとなくそんな確信をしながらカクテルを呑んだ。アプリコットとオレンジのスッキリした甘さと、僅かにジンの辛さが後から追ってくる……薄くない?
「あーちゃん、薄い」
「へこたれてる餓鬼に呑ませる酒はねぇ」
どれほど甘くなろうともその割合は一対一のはずなのに、どう考えても味わっても更にジンが少ない。たぶん四対一くらいの割合でジュースの方が多いのだろう、これじゃあ甘いジュースとなんら変わりがない。けれどそれはそれで文句はない。べたべたに甘やかされるのも、今日までだ。
「それから、ちょっと上来い」
珍しく綾肴が営業時間内にカウンターから離れるのはとても珍しい。一体何事かと珍事にカクテルを一気に飲み干して裏に回った。カウンターの裏から階段を上がると住居に繋がっていて、聖は幼い頃よくそこで過ごした。
勝手知ったる中に入ると、一ルームではあるが綺麗に掃除された部屋のテーブルの上にピアッサーが二つ、置いてあった。綾肴が何かを探すために棚の中をガサガサやっている間にベッドに腰掛、変わっていない室内を見回す。部屋に掛かっている大きなカレンダーには綾肴と店の予定のほかに赤いサインペンで寿、青のペンで燈と名前入りで予定が書き込んである。それも昔と一緒。違うのは緑がないこと。だって、聖がいなくなったから。
「耳出してみ」
「開けてくれんの?」
「これも誕生日ってことで」
言われるままに彼に顔を横に向けさせられた。少しぐりっと首が回ったが文句を言ったら中止されそうなので言わないで黙っている。
長い髪を掻き揚げて近くにあったピンで手馴れたふうに上に固定された。大人しく待っていると、耳たぶの部分にひんやりと何かが押し付けられた。ごつごつとした感触と痛いくらい冷たいそれは氷だろうか。耳を冷やす時には使うと良く聞くが本当にやられるのか。彼のことだから問答無用でぶち抜かれると思ってた。
「一ヶ月くらいは外すなよ。あと消毒もしろ」
「へーい」
「サボると膿むから気ぃつけろよ?」
再度頷くと、動くなと頭を殴られた。口から文句が小さく漏れたがそれっきりで、耳から違和感が消えたと思ったら抓られた。けれど痛くはない。それから、耳朶を挟むように何かが当てられた。流石に背筋がひやりとして思わず布団を掴んでしまい、後ろからそれを見た綾肴に笑われた。
「いくぞ」
声と衝撃はほぼ一緒だった。本当にバチンと耳元で音がして、痛みよりも衝撃が先に来る。がちゃがちゃとピアッサーを耳から取り外しているのだろう多少耳朶を引っ張られている間に滲むような痛みが襲ってきた。
「うわ、痛……」
「耳に穴が開いたくらいで文句言ってんじゃねぇ」
「耳に穴って大事じゃん」
「お前の怪我に比べたら大したことねぇんだよ」
口の端の痣をつつかれて、そちらの痛みにおもいきり顔を歪める。痣は地味に痛いし消えるまでに時間が掛かるから嫌いだ。
一通り構って満足したのか、綾肴は短く「右」と言って聖が動く前に首をぐりっとさっきより回した。真後ろまで視界に入るくらいに回されて、今度こそ首がぐきっといった。さっきと同じように氷の入った袋を当てられる。
「あーちゃん」
「んー?」
「産んでくれてありがとう……」
「産んだ覚えねぇぞ」
「母さんに言っといて」
「テメェで言えよ。そのが喜ぶ」
「会わないから」
はっきりとした聖の言葉と同時に右耳の近くでバチンとピアッサーが凶暴な音を出した。
なんとなくこのピアスが契機になってくれたようだが、もうここには来ないだろう。少なくとも大人になるまで、胸張って幸せだといえるまでは。それまでは甘えるんじゃなくて自分の力で乗り越えてみたいと思うから。自分の力を過信しているわけではないし無謀かもしれないけれど、ドロドロに甘やかされるのは今日で終わりだ。別に綾肴は甘やかすタイプの人間ではないしむしろ子供を谷に落とした上に岩を落すような人間だけど、この場所が聖にとっては逃げ場なのだから。
「これでピアスデビュー完了だな」
「あーちゃん……」
「ん?」
ごみを小さなコンビニの袋に詰めてから綾肴は一服つけた。聖が腰掛けているベッドに背中を合わせ、テーブルの上の灰皿を引き寄せてる。小さな部屋に充満するこの匂いは昔と変わらないから安心した。けれど、安心してばかりではいられない。
「ありがと」
「おう。俺、一服つけたら下戻るから。餓鬼は寝てろ」
「ベッド使っていい?」
「いいぜ。朝起きたら俺もいるけど」
聖が眠った後に一緒に寝る気らしい。確かに綾肴のベッドはセミダブルの大きいものだから小柄な聖と寝られないことはない。野郎二人はあまり歓迎したいものではないが。
けれど聖は「別にいい」と呟いてベッドに上体を倒した。しみこんだ煙草の匂いが心地よくて、そのままうとうとと目を閉じる。綾肴の「服皺になるぞ」という言葉が聞こえたけれど、無視して睡魔に意識を委ねた。どうせ、寝ているうちに脱がしてくれる。
−続−
耳に穴が二個