文化祭が終わったら、学校内は一気に静かになった。学校中が燃え尽きたというものあるだろうが、三年が修学旅行に行っているという理由もあるかもしれない。三年のいない部室を雑誌から顔を上げて見回しそんなことを思いながら、けれど三年は本体育館を使うことが多く別行動なのでやっぱり関係ないか。


「おっすー……ってなんでこんな空気重いんだよ?」


 部室にテンション高めに入ってきた寿季は、見回して不可解そうに顔を歪めた。三年がいない今部活の主導権は二年が握っている。そのおかげで二年レギュラー陣は専体ではなく本体で特別行動だ。気が楽なような、空気が重いような。やはり彼らがいるといないでは違うのだろうか。


「何これ、どうゆう状況?」

「さぁ?」

「さぁって聖、もうちょい考えろよ」

「興味ねぇ」

「仲間のことだろ!雑誌没収!」


 荷物をロッカーに放り込んで、寿季は聖が目を落としていた雑誌を取り上げた。不機嫌に見上げるが、寿季の方が目を吊り上げているので言葉の代わりに溜め息を吐き出して体勢を崩した。ソファの上で抱えていた膝を下ろして、改めて室内を見回す。舞依が端に座って溜め息を吐いていて、葵が興味無さそうにゲームをしている。ちらりと隣を見ると、寿季が教師が意見を伺うような偉そうな顔をしている。


「龍巳と晃がいねぇ」

「何見てんだお前は!明らかに湊のテンションが低いだろうが!」

「葵は何やってんだよ」

「FF」

「あの噂の?」

「話を逸らしてんなよ!俺も気になるけど」


 葵がやっているのはファイナルフラッシュという名の最近話題に上がっているRPGで、まだ発売前だがすでに予約は相当な数になっているそうだ。どこかのコネで葵は手に入れたのだろう。興味を引かれて覗きに行こうとしたら、寿季に後ろから髪を掴まれた。「いてぇよ」と文句を言いながら振り返れば、寿季は顎で舞依を指している。舞依はこちらの騒ぎに気づいていないようだった。


「舞依」

「えっ?」

「ちょっとこっち来て」


 どこか気落ちしているように見える舞依を手招いて、聖は呼んでどうするのか少し悩んだ。別に話を聞いてやる必要なんてないかもしれないし、相談なんてしたくないかもしれない。そこまで立ち入れる場所に自分は立っていないと思う。なのに、聞くことはあるのだろうか。
 呼んだは良いがそれ以上口を開かないでいると、寿季が必要以上に明るい声を上げた。こいつはこいつなりに彼女が心配のようだ。


「なんか悩みでもある?俺たちがどうにかできることなら言ってほしいんだけど」

「え……何で?」

「テンション低いじゃん。見てれば分かるって」


 ロッカーの中で携帯が振動した。鉄に微細音がしたので、立ち上がってロッカーからストラップを引っ掛けて携帯を引っ張り出す。この間までついていなかったが、この間ふと雑貨屋で見つけた蝶のストラップが気に入って買ってしまった。こんな些細な部分でも変わったと、自分でも素直に思う。
 携帯を開きながら視線を上げると、舞依と目があった。なんだかこちらを責めるような視線の意味が分からず、放って置いてディスプレイに視線を落とす。美鈴からのメールだったので、画面を戻してそのまま携帯をロッカーに放りこんだ。


「何か俺に文句?」

「そういう訳じゃないわよ」

「だって見てんじゃん。なんだよ」

「……別に」


 ソファに座らず、葵の隣に座ってゲームの画面を覗き込んだ。そのままの体勢で舞依を見ずに低い声で問いかければ、彼女が不機嫌な声で答える。寿季が慌てて諫める声を送ってくるが、そんなものは全て無視した。
 本当は薄々気づいているのだけれど、別に自分のせいではないと信じたかったのかもしれない。信じるというより慰めに近いかもしれないが。


「なあ、湊。話せば楽になることもあるじゃん?俺たちお前の味方だし」

「……味、方?」

「おう。だって仲間だろ」


 寿季が舞依の肩に手を置くのと目から涙が零れるのは、ほぼ同時だった。ぽとりと涙が零れるとそれからは堰を切ったようにぼろぼろと大粒の涙が黒めがちの瞳から睫毛を伝って零れて彼女の握り締めた拳を濡らした。


「え、え、えぇ!?」

「寿季が泣かせた」

「うっそ、俺のせい!?つーか葵はゲームしてたくせに変なところで野次いれんな!」


 目の前で少女が泣いているという状況に出会うことは稀である。寿季は完全に混乱して右往左往し、最終的に聖に縋るような視線を向けた。その様を葵が僅かにゲームから顔を上げてみるけれど、一言呟いただけでまたゲームに視線を戻してしまった。
 聖も無視を決め込もうと思っていたが、寿季に「聖どうしよう」と名指しされるまででその決意は崩れ去る。結局立ち上がって、舞依の隣に座り直した。


「舞依?言わねぇとどうにもできねぇよ?」

「……文化祭から、美鈴の様子がおかしくて……」


 たどたどしいながら、舞依は素直に語ってくれた。文化祭の間から美鈴の様子が余所余所しく、終わってからは口を聞いてくれなくなった。メールをしても返って来ないのは当たり前で、無視されていると言い換えられる。聖は昼休みになれば屋上か保健室か、教室ではないどこかにいたから全然気づかなかった。
 きっと人は、自分が幸せになればそれで充足して周りが見えなくなるのかもしれない。


「……それってさ、もしかして俺のせい?」


 多少自覚があった分、口に出すのは簡単だった。ただ、少しだけ胸が痛む。けれど自分の為に誰かが傷つくのなんて慣れている。あの人以上に傷つく人なんていないというのは、驕りだろうか。
 声に出して問うと、大丈夫だと思っていたのに声は僅かに上ずった。舞依は俯いた首を横に振って否定するけれど、そんなことはないのだろう。髪に隠された横顔が何を物語っているかは想像でしかないがそう思っているに違いない。そう思わせる要素は、たくさんあった。


「悪い」

「別に!聖が悪いなんて、言ってない」

「でも悪いの俺じゃん。俺がどうにかしてやるから……許せ」


 嗚咽を噛み殺したような低い声は、強そうなのにどこか弱々しかった。親友だと思っていた友達が急変して戸惑って怖くなるのは当たり前だ。その原因は聖にあると、確信を持って言える。だからこれは自分が如何にかしなければならないことなんだと聖は舞依の首に腕を回して無理矢理自分の胸に閉じ込めた。せめて、思い切り泣けば良い。
 しばらく戸惑っていた舞依は、結局聖のシャツを掴んで肩を震わせた。その小さな背を撫でながら、自分の存在そのものに押しつぶされそうになる。身から出た錆、自業自得。それは分かっているけれど、どうにもしっくり来なかった。ただ、諸悪の根源ではある。聖と舞依の仲を妬んだ美鈴の嫉妬。言葉にすればとても簡単に見えるけれど、それほどに鬱陶しいものを聖は知らない。










 どうにかと言ったところで、どうする術もなく聖は九時過ぎに帰宅した。いつもと比べて早いくらいだろうか、日も短くなってきたことを含めると変わらないのか。
 帰宅したことに気づいた使用人が食事を訊いてきたので食べてきたとだけ答えて、聖は自室に真っ直ぐに足を向けた。帰り道でもずっと考えていたことだが、どうにもならないのが現状だった。聖が美鈴に連絡をつければすぐに解決する問題かもしれないが、それも気が進まない。


「聖さん、お帰りですか」

「……はい?」


 不意に外から声を掛けられた。それもいつもは美月であるはずのその声はもっと年嵩の、聖にとっては継母ということになるのだろうかその人だった。聖を忌避しているという訳ではないがあまり表に出てくることをしない彼女の訪問に、思わず思考が全部ぶっ飛ぶ。
 慌てて髪を軽く手櫛で整えて襖を開けると、上品に着物を着た彼女は少し困ったような顔をしていた。彼女の瞳に映る己の姿に、未だ着替えていないことが困惑の理由だと即座に読み取る。


「お疲れの所申し訳ありませんが、ちょっとこちらへ」

「はぁ……」


 理由は分からないけれど、彼女は何も告げずにただ聖を促した。着替えなくて良いのかとか気になることはあったけれど、とりあえず従うべきだと直感して着崩した制服をどうにか見られるように直しながら彼女の後に続く。だらしなく出したシャツをセーターの中に押し込み、開けすぎたボタンを止める。衣替え期間だがまだ夏服のおかげで、学ランのボタンだとかの鬱陶しさはない。
 着いた部屋は、当主の部屋だった。いつも呼ばれる兄の部屋ではなく、まだ片手で足りるほどしか来たことのない父の部屋だ。


「聖さんをお連れしました。失礼致します」


 すっと彼女は部屋の戸を開けて聖を中に招き入れた。一歩入っただけで押しつぶされそうな重い雰囲気は、空間そのものが聖を嫌っているような雰囲気ですらある。部屋の主の意思を明確に反映しているのだろうが、だったら引き取らなければよかったと聖はいつも思う。
 部屋の中には、父だけでなく兄も姉もいた。父も兄も無表情だが、美月だけは沈痛な面持ちで座している。聖は、父の前に促された。無表情を貼り付けて、座に着く。


「お前に縁談だ」

「聖、クラスで親しくしている方がいるそうだね。町谷の当主から正式に申し入れがあった」


 短く言った父の言葉を足すように澄春が細かく説明してくれた。美鈴と聖が付き合っているのを承知し、ならば不確定な形ではなくしっかりとしたいと正式に婚約の申し入れが来たそうだ。相手はもちろん了承すると思っているようだが、目の前の権力者たちは苦い顔をしている。


「少し調べたけど、町谷なんてそんな大した家じゃない。聖には悪いけど、断る」

「別に悪くないです。むしろ断ってください」


 初めからこの反応は予想できていた。角倉と娶うならば美月のように皇族ですら対等になる。つまりその程度の家柄でなければ認められるものではない。事実兄の婚約者は若垣という日本の政界に通じている大物の令嬢だ。聖は立場上どうなるか分からないし文句も言えないが、今回ばかりは立場に感謝した。それと同時に、そこまでの手段に出る美鈴に嫌気が差す。


「断ってしまって良いんだね?町谷のお嬢さんとお付き合いしているのは本当なのか?」

「断ってくださいお願いします。確かに美鈴ちゃんと付き合ってるって言えなくもないですけど、もうそろそろ終わりです」


 終わりは見えていると言うと、澄春はそうかとだけ言って僅かに口元を引き上げた。しかし父の表情は変わらない。厳しい眉間に皺が寄ったくらいの変化は変化とは言いたくないので、聖は変化なしと受け取る。その顔から視線を逸らすと、美月が不安そうな顔をしてた。
 兄が確認を取るように再度本当に良いんだねと訊いてくるが、だったら嫌だといったら許してくれたのかと問いたくなる。どうせ、許してくれないくせに。


「本当に後悔しないね?」

「しようがないです。そもそもそんな真面目な付き合いじゃねぇし」

「聖」


 思わず口を吐いた言葉に、澄春は鋭く弟を睨みつけて諫める口調で名を呼んだ。肩を竦めてうつむいた聖に溜め息を一つ零し、好きにすると良いと言い放つ。自己責任の下、角倉の矜持を傷つけないという義務のみを負い好きにしろと言った。
 その言葉を受けて、聖は座を辞した。父に一瞥だけをくれて、けれどそれ以上何も言わずに部屋を出る。自室に戻る為に足を踏み出したけれど、手を美月に掴まれた。


「聖さん……」

「美月さん?」

「本当に良いんですか?」


 振り返って見た美月は泣きそうに顔を歪めていた。聖の手を握る力も弱い。彼女は多分、今の状況を自分に置き換えているのだろう。角倉と言う枷に縛られて自由な恋愛を押し殺し皇族と婚約した彼女は、婚約を家柄で断る聖の現状に素直に悲しんでいる。彼女が海人を想っていることは、明らかだった。
 けれど聖は彼女の期待にこたえてあげることは出来そうにない。美月と自分は違いすぎると、確信する。


「いいんです。どうせもうすぐ終わりですし、良い形で終われると思いますし」

「……終わり、なんですか?」

「終わりですよ」


 愛情なんて冷める。それは聖にとっては当たり前のことだ。今まで、冷める様を幾度も見てきた。それは常に他人事でありそこから学んだことなのだけれど、それを実感したとてなんら感傷めいたものはない。ただやっと終わるのかと言う倦怠感が体に付き纏った。


「悲しい、ですね……」

「……そうですね」


 美月が何に悲しんでいるのかは聖は想像しか出来ない。きっと自分に置き換えて、海人と結ばれないことを指しているのだろう。けれど聖とって悲しいのは、何の感情も湧かないことだった。これが正しいことなのか間違った感情なのか正解を教えてくれる人間は、今はもういない。自分から、置いてきた。
 ただ終わることは確かなようで、聖はようやく周りに動かされる形であろうとも美鈴に連絡をするために携帯に手を伸ばした。





−続−

恋愛感もあーちゃん仕込。