朝錬中に舞依の姿はなく、聖は一人溜め息を吐いた。昨日の今日だから欠席かもしれない。しかしそれも決まり悪く、自分のせいなのではないかと言う罪悪感に押しつぶされそうになる。そうでなくとも、昨夜メールで婚約の旨を伝えたら美鈴は一しきり喚き散らしたのに。
 朝錬を終えて教室に行くまでの道すがら、聡く感ずいたというか葵の予言で不審がったチームメイトに事のあらましを語った。葵は感心したが寿季などは理解できないという風だ。ついでにさくらと茜とのダブルデートのことも語ったが、こちらは自業自得だと晃に一蹴された。未だに聖は、その件に関しては予定が合わないと逃げ続けている。教室の前で別れて自分の教室に入ると、その瞬間に甲高い声が耳をついた。


「聖くん!」


 思わず眉を顰めた聖の隣で龍巳が「早速来たか」と無責任に呟いた。聖が教室に行けば寄ってくるのは優一だったのだが、その彼は今少し離れた所から事の成り行きを見ているし、龍巳に寄って行った誠は何事かと目を見開いて固まっている。美鈴の大声にクラス中の視線が集まっているようだ。


「婚約できないってどうして!?」

「美鈴ちゃん、俺昨日その話はあとでって言ったじゃん。なんで教室でするわけ?」

「どこだって良いじゃない!」


 癇癪を起こして甲高い声で喚き続ける美鈴に聖はもはや何の感情も感じられなくなった。可愛いとか構ってやりたいとかいつかはちゃんと思ったはずなのに、今はただ鬱陶しい。そういえば前にあーちゃんもそんなことを言っていたなとどうでも良い事を思い出しながら、聖はどうしようもなくて結局無視して自分の席に荷物を置いた。


「ひ、聖……おはよう」

「おはよ。光る君、どした?」

「……あんまり目立つことしないでよ」

「俺のせいかよ」


 学級委員と言う立場上かそうでないのか、前の席の光る君こと鈴原源二は聖の奇行になど慣れたとでも言いたげに重く溜め息を吐き出した。もともと目立つので聖が何をしても注目は集まる。夏休みを境にクラスメイト気さくにと接するようになった聖は更に目立つ存在となったのだから、こんなスキャンダル染みた事件は起こさないで欲しいというところだろう。聖が何もしていないと言うなら、この存在が罪だ。


「ところで光る君、社会のレポートやった?」

「やったけど聖、さっきから大石さんと小野寺さんが怖い顔してるんだけど」

「……あ」


 光る君に言われてそちらを向くと、さくらと茜が確かに怖い顔をして立っていた。さくらは泣きそうな顔で、茜は怒ったような顔だ。まあ教室で騒げばこうなるのは当たり前で、もともとクラスメイトと付き合うなどこんな危険な橋を渡っていたのだと思い知らされる。否、美鈴がいなければもう少しうまく立ち回れただろうか。何を言っても結局結果は代わりはしないのだろうが、言い訳が思いつかなすぎてただ微笑むことしかできなかった。BGMは美鈴の悲鳴だ。


「聖……説明、してくれる?」

「場所変えねぇ?」

「ここでしてよ!ねぇ聖くん、私何を信じればいいの!?」


 気丈に立っている茜と違い、さくらは涙声で俯いている。クラス中が証人である中で言質をとる気か、ここではっきりさせろと言われても現状を取り繕うことも出来なければもうすぐHRも始まるだろう。ばつが悪いどころの話ではなくなり、家にも連絡が行って角倉の人間として云々とまた長い説教をかまされる。前半はいいとしても後半は避けたい。折角昨日自由を得たばかりだというのに。


「どうして大石さんと小野寺さんが聖くんと話すのよ!」


 ヒステリックな美鈴の声に、二人は同時に振り返った。浮気相手同時にカミングアウトとか、笑えない。美鈴がさくらと茜の間に割って入り、聖の胸にすがりつく。さくらの家は角倉傘下のホテル支配人で、茜の家は電器メーカー。どちらも聖には釣りあわないと甲高い声で二人を罵倒し、そして自分こそ聖に相応しいと叫んだ。
 これ以上はもう我慢できないと聖も美鈴の肩に手を置いて引き剥がしたそのとき、鋭い声が教室の何処かから飛んできた。


「いい加減になされよ!ご自分が角倉に相応しいとお思いか!?」

「な、何よ……」

「ただの成金の娘がよく言う!小野寺の方がまだマシと言うもの。それに加えて坊ちゃんへの狼藉、万死に値する!」


 高らかとそう締めくくったのは、優一だった。美鈴の家は確かに戦後間もなくでてきた所謂成金の一つで、角倉は愚か家柄では中級以下だと扱われている。角倉傘下の家のほうがまだ見上げられるものだ。
 己の家を馬鹿にされたからか事実を指摘されたからか分からないが、美鈴は標的を優一に替えた。自分こそ角倉の傘下でしかないではないかと甲高い声で罵るが、優一は毅然とした表情を崩さなかった。


「聖、説明してくれないの?」

「悪い、二人とも。昼休みでいい?もう授業始まるし。昼休みに保健室で」

「……分かった。私もまだ混乱してるし、昼休みに」

「聖くん、私信じてるから」


 今にも涙を零しそうな目でさくらは聖を縋るように見た。その視線を直視できないで思わず逸らすと、彼女は悲しそうに笑んで茜と一緒に自分の席に戻る。ようやく静かになったかと思ったら、美鈴が教室を飛び出したらしかった。
 教室中の白い視線を浴びながら聖が肩で息を吐き出すと、後ろから龍巳が笑みを称えた声で「自業自得の極みだな」とさも楽しそうに行った。










 どこかずれているのか初めから世間の型にはまっていないのか、どちらかは判別できない。少なくとも分かるのは、三人の誰にも恋なんてしていなかった。ただ告白されたから付き合うというだけで、惰性だ。だからだれが好きだとか嫌いだとかそんな感情論は二の次で、だから説明には時間がかかるのだろう。存在するはずの愛は、聖の中では完全に欠如している。
 昼休みに約束通りに聖は龍巳を伴って保健室に行った。どこで聞きつけてきたのか知らないが2年レギュラー陣までもが集まってきた。おかげで大人数になってしまい、茜もさくらも不可解な顔をしている。


「何で先輩たちがいるんだよ」

「俺たちはあれ、野次馬」

「うわ、超はっきり言った」


 いなくなる気配もなくお昼を広げ始めてしまった先輩に対して何を言っても無駄なのは短くない付き合いからわかるので、聖は溜息を一つ吐き出してポケットの中でライターを転がした。本当は一本吸って気を落ち着けたいところだが、どうにもこれでは眼が多すぎるし亮悟にものすごい怒られそうなのでやめた。
 目の前には不安げに顔を歪ませた茜と泣きそうになっているさくらがいる。さて、どう説明したものか。考えたところで事実は変えられないし説明なんてあってないようなものかもしれないが。


「なんか妙に人数いるんだけどさ、これで俺の言質は完璧に取られるってことだから。何から聞きたい?」


 ちらりと先輩たちを見れば我関せずの体で昼食を食べているし、龍巳はお前の味方なんかしてやるもんかとでも言いたげに口をへの字に曲げて黙している。完全にここに味方はいない。先輩たちなんてどうせ聴き耳たてていても聖が悪いと思っているのだからもう敵扱いでもいい。周りを一通り見回して彼女たちもそう感じたのか、茜がゆっくりと口を開いた。


「町谷さんと婚約の話があったっていうのは本当なの?」

「それは本当。でも速攻断った」

「二人が付き合ってるっていうのも?」

「一応、本当」


 やや躊躇いながらも聖が出した答えにさくらは耐えかねて泣き出した。顔を両手で覆って嗚咽をかみ殺すその姿は可哀想だとか同情だとか、そのくらいの感情は浮かぶのに愛おしいという感情に変換することはどうしてもできなかった。だから、同級生なんて億劫なんだと心のどこかで思っているのかもしれない。さくらの肩に、海人が優しく手を置いた。彼の意図が理解できなかったけれど笑って続きを促されたので、視線を落として続きを語ろうと思ったが続きなんてなかった。


「他には?」

「どうして、私が告白したらオーケーしてくれたの?なんで彼女がいるの期待させたの!?」

「告って来たから」


 真実をありのまま伝えても、時としてそれは伝わらないものらしい。茜は大きく目を見開いて聖を凝視した。それは本当のことだったし弁解の余地はない。本当にそれだけだった。好きだから付き合うとかそんなものはなくて、付き合ってみて好きになるのが正しい形だと漠然と思っている。だから茜の可愛いところもさくらのいいところも好きかと言われれば好きだと答える。
 茜は気丈にも泣かなかった。元来気が強いのか、深呼吸を一つだけしてきっと聖を睨みつけるような視線を向ける。


「私が他の子と付き合わないでって言ったら、付き合わないでいてくれた?」

「たぶんな。でも言わないだろ?」

「言わない、けど……。だって聖がそんな人だと思わなかったもん!」


 もしそう言われたらと想像しても、どうしても想像はリアルにならなかった。きっと言われたとしてもその場で変わってしまうのだろう。その時の気分で返事なんて変わる。もし今だったら誰に告白されても断る気がする。こんな面倒事はもう十分だ。
 茜の隣で嗚咽をかみ殺して泣いていたさくらが顔をあげた。涙にぬれた頬に貼りついた髪を海人の指がそっと撫でて拭う。本当にこの人は何をやっているのだろう。嗚咽交じりの吐息のような声が、小さく響いた。


「聖くんは、本当は誰が好きなの?」

「誰って、言われても……」

「私、二番目はいやなの」

「……悪いけど、誰も一番じゃない。嫌いじゃないけど、そういう……好きじゃない」


 心の底からの真実だと思う。ここでだれかを選ぶことは簡単だけど、けれどそれではきっと納得してくれない。ここでさくらを選んでも茜を選んでも何かを失う代価に聖を得るなんて馬鹿げている。自分に何かを失ってまで手にする価値などないと思っているから、だから聖は自分を切り捨てさせようとしたのかもしれない。
 さくらはゆっくりと頷くと涙を拭ってごめんなさい、と小さな声で謝った。聖が言葉の意味を理解して声をかける前に立ち上がると、スカートを翻して飛び出して行ってしまった。だれも止めることができなかったしその真意を聞くことすらできなかった。逃げるようなその態度は、喪失感に似ていた。


「謝んの、俺の方じゃん……」


 思わず聖の口から洩れた言葉は、後悔に満ち溢れていた。痛々しいまでに沈痛さを纏い、けれど同情の余地なしと判断した二年は何も言わずに黙っている。くっついてきた優一だけが「坊ちゃん」と気遣わしげに呟いたが、聖だって自業自得だと思っている。だから自分が傷つくだけならなんともない。


「聖……」

「お前は?殴りたきゃ殴っていいぜ」


 別に投げやりになったわけではないが、どうにもやりきれない気分だった。結局ポケットから煙草とライターを引っ張り出して、けれど亮悟先輩に睨みつけられたので一本引き出して火も点けずに手の中で転がした。茜はしばし黙って言葉を選んでいたようだが、ゆっくりと口を開くころには迷いはその眼からなくなっていた。ただ、不安そうではある。


「聖は私のこと、嫌いじゃないんだよね?」

「あぁ」

「私、二番目でもいいの。聖と一緒にいたい」

「……俺が相当酷い奴だって知ってんのに、そういうこと言うかぁ?」

「言うよ。聖のこと、好きだもん。傍にいていいなら傍に居させてほしい」


 はっきりと向けられた好意は、けれどやっぱり今まで慣れ親しんできた戯言ではない。あまりに場違いなそれは自分には不釣合いな気がして上手く言葉を咀嚼できなかった。二番目でいいのなら一番目は誰だろう。そう思った瞬間に背筋に悪寒が走った。


「考えさせて」


 口から出たのは、ひどく気の弱い一言だった。何について考えるのかも分からぬくせに考えさせてくれも何もないだろう。しかしどうにも深刻な顔をしていたらしく、まだ怖々とした表情のままの茜が「そうだよね」と表情に無理矢理笑み浮かべて立ち上がった。タイミングを計っていたのか、言葉が切れた瞬間にそろそろチャイムが鳴る時間だと直治先輩が言うので、それをきっかけにぞろぞろと皆教室に戻る。聖だけがそこから動かなかった。


「聖?」

「……俺、もうちょっとしてから行きます。龍巳、頼むな」

「あぁ」


 気遣わしげに亮悟が眉根を寄せたが、聖は微笑を浮かべることによってそれから逃げ出す。龍巳にノートを頼んでどこを見るわけでもなくただぼんやりとテーブルの上を眺める。茜の言葉もさくらの姿もぐるぐると目の前を回っていた。


「海人、ちょっと」

「ん」


 亮悟が思わせぶりな声を海人にかけると、意を汲み取ったのか彼は軽く頷いて立ち止まった。午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴ったとき、保健室には三人の姿が残っていた。保健医の先生は何も言わずに座っているだけなので黙認してくれるのだろう。
 正面に座った先輩たちにいたたまれず、聖は立ち上がってもそもそとベッドに潜りこんだ。





−続−

光る君が好きです