チャイムの余韻まで消え去り、廊下からの声も聞こえなくなった。毛布をすっぽりと被ってしまった聖を見下ろして、海人と亮悟は顔を見合わせた。どちらも苦笑に似た表情を浮かべているものの、亮悟からは心配そうな色が、海人からは呆れたような色が窺い知れる。
 亮悟がベッドに浅く腰掛けたことを聖は軋みで気づいただろうが、全く反応をしない。ガキが拗ねたような状況だと彼は笑うが、海人はそんなに気が長いほうではないので無理矢理聖の被っている防壁を引っぺがした。多少抵抗されてもそこは腕力の差で取っ払って投げた。


「ガキか」

「ガキなんだからもうちょっと手加減してあげてよ」

「亮悟、甘やかしすぎ」


 吐き出すような海人の言葉に亮悟が答えるが、言葉のひどさはあまり変わらないだろう。聖はベッドの端で丸くなっている。こうしてみれば可憐な少女なのに、こうなる前を見てしまっているから同情の余地なんて一遍たりとも在りえなかった。ここに海人と亮悟が残っているので、他の三人は方々のフォローに回っているのだろう。ご苦労なことだ。海人としては自分で美月のフォローをしたかったが、そうも行っていられない。


「聖、ここには僕たちしかいないから顔上げて」

「………」

「いい加減に拗ねんのやめろよ」


 亮悟の手がそっと聖の頭に触れた。一目で染めていると分かる長い髪に触れてゆっくりと指で梳くと、しばらくして聖がのろのろと顔を上げた。今にも泣きそうな顔をして、縋るものを探している。同情している訳ではないが、ひどく弱い顔だった。こんな顔は聖には似合わないと思った瞬間、こちらが負けたのかもしれない。


「拗ねてねぇもん」

「そうだね。結論が出ちゃうことは分かってたよね」


 亮悟の言葉はとても優しい。きっと聖を甘やかしてしまう。結局のところ、分かっているのにこの優しさに甘えて逃げているだけなのだ。今まで逃げる場所を知らず発露する場所は暴力か女でしかなかった聖にとっては明確に分かる逃げる場所は必要であっただろうけれど、今はもういらない。代わりのものをたくさん、きっと本人にも気づかないほどたくさん手にしている。


「聖、龍巳は好き?」

「……うん」

「寿季は?晃も葵も、好き?」

「……ん」


 子供を甘やかす母親みたいに優しい顔をして、亮悟は聖の頭を撫でた。彼が母親ポジションなら海人は父親ポジションに徹すれば良いかと一瞬思ったけれど、そんな必要性は全くないとすぐに思い当たって向かいのベッドに腰を下ろす。
 いつの間にか聖にはたくさん大切なものが出来た。だから好きだと自覚すればバランスが取れるのだ。今までは好きかと訊いても分からないだの知らないだのと返って来て、唯一肯定したのは自分たち五人だけだったのだから相当の進歩だ。


「クラスは?学校楽しい?」

「……楽しいと、思う」

「それじゃあもう、寂しくないよね?」

「う、ん……?」


 聖の根本には、寂しさがあったと思っている。幼い頃から誰にも甘えなかったと聞いているし、角倉に引き取られたらそれはもう甘えなんてものとは無縁の生活だっただろう。それに加えて、あの頃の聖は何も信頼しないと眼がはっきり言っていた。だから構ってほしいというよりは寂しくてたまらなかったのだろう。満たされない感情に対価を求めても、残るのは空しさだけだ。その空しさをまた還元して、結局空虚だけが溜まっていく。


「よし、解決」

「えっ……は?」

「亮悟、まだ解決じゃねーだろ。可愛い聖にゃもう一つ解決することあんぞ」

「え?だって、角倉はもう聖を自由にさせてるよ?」

「女の呪縛は怖ぇって父ちゃん言ってたぞ」


 すっかり解決した気でいる亮悟は、まだ聖の頭を撫でていた。聖は心地良さそうに目を細めてうとうとしているので、海人は隣のベッドから足を伸ばして聖の足を蹴っ飛ばした。何自分だけ楽しようとしているんだと蹴ったのに、なんだか亮悟と聖の二人に睨まれるなんておかしいと思う。


「女の呪縛?」

「そうだよ、この三股野郎」

「……それか」

「ま、婚約は解消したんだろ?ほぼ解決だけどな」

「俺、最低じゃん」

「知ってる。知ってるけど、そんなしょうがない奴が俺たちは好きなんだぜ」

「…………」


 まだ一つ。聖は自分の価値を認めていない。本人にしてみたら自分なんて物はマジックテープよりも役に立たないものだと思っているだろう。訊けばミジンコ以下だとか言ってくれそうだ。しかしそれも間違っている。これは本人の自覚が必要だけど自覚のさせ方が分からない。誰かの中で知っていかなければならないことだ。きっと、人はそうやって自己の存在を確認しながら生きている。聖はただ、それが今までできなかっただけだ。


「聖は今日、罰として買出しな」

「は?それマネージャーの仕事じゃん」

「そのマネージャー困らせてたのは誰だ?たまには女の子に重い荷物持たせんの悪いとか思え!」

「……だったら先輩行けばいいじゃん」

「罰だっつってんだろうが」


 海人がもう一度蹴ると、今度は亮悟から不満の眼で見られた。どんだけこいつは父性を持て余しているのか疑問が残る所だが、兄弟がわらわらいる海人に対して亮悟は末っ子なので年下が可愛くてしょうがないのだろう。聖は外見は可愛いくせに中身が可愛くないから海人が可愛がれないだけかもしれない。
 話はついたし、これ以上辛気臭い話をしているのも面白くないし逆に気が滅入りそうだ。海人は聖を無理矢理起こすと専体に連れて行って一時間、二人で勝負した。ずっと応援していた亮悟はやっぱり母性を持て余しているのかもしれないと思った。










 放課後部室に行くと追い出されて、本当に買い物に行かされた。しかも不思議なことに、バスケ部とは全く関係ないはずの美鈴がいた。舞依は相変わらず落ち込んだくらい顔をしていて、美鈴はぶすっと沈黙を貫いている。とても居心地が悪いが、自分が蒔いた種だと思ったので我慢を選んだ。


「……美鈴ちゃん、なんでいんの?」

「付き合ってくれないかって、言われたから」


 硬質な声で返って来た答えから聖は犯人にあたりをつけた。たぶん、海人先輩か直治先輩かあのあたりだろう。ありがたいんだかありがたくないんだか分からないことをしてくれるものだと思いながら、近くのスポーツ用品店に向かって歩いた。運動部は大抵ここで事足りるという竜田学園贔屓の店で、聞いた話によると生徒の親が経営しているらしい。


「こんな風に言うの、卑怯かもしんねぇけど。俺、美鈴ちゃんのこと嫌いじゃねんだよ」

「だったら何で……!」

「でも俺、立場弱いじゃん?だから、俺なんかといたって美鈴ちゃんは幸せになれない。結婚だって、兄上に従うしかないんだし」


 誰がなんと言おうと、聖はこの言葉を反故にする気はない。例えば真実を告げればいいのかといえば全てが全てそうではないと思う。たとえ嘘でも、傷つかないほうがいいことだってある。今回は絶対にそう だと聖は自分の中で反芻して確信した。ここで好きじゃないとか好きだとか、そんな観念みたいなものは必要ないのだ。必要なのは事実で、美鈴に必要なのは逆らえない不可抗力と言うやつだけ。だから聖は、笑顔で嘘を吐いた。


「だから、美鈴ちゃんとは一緒にいられない」

「…………」

「あと舞依のことなんか誤解してるみたいだけど、舞依は友達だから」


 一番大切なことは、巻き込んだ形の舞依に笑ってもらうことだ。これは寿季だって他のメンバーだって気にしていることで、今までは龍巳がフォローを入れていたが聖の責任だということになり、半分正しいので今こんなことになっている。
 いきなり上がった自分の話題に舞依は目を大きく見開いているが、聖は舞依なんて無視して美鈴をじっと見て困ったように眉を寄せた。


「だって、こんな奴女には見えねぇだろ?」

「……う、ん?」

「いや、二人して失礼じゃない?」


 無理矢理にでも納得させて聖は内心ほくそ笑んだが、それを見透かしたように舞依が冷たい声を浴びせてくる。余計なことしやがってとか邪魔すんなとかそんな意味をこめて振り返れば、予想に反して舞依ははにかむように笑みを浮かべていた。どこか恥ずかしそうに眼が合うと離してしまったので、照れているだけだろう。


「何だよ、俺の優しさに惚れそう?」

「馬鹿じゃないの、あんた。あんたなんかよりよっぽど直治先輩の方が惚れそうよ」

「えー、あんなに腹の中真っ黒なのに?」

「それは失礼でしょ。あんな権力持ってる人に向かって」

「権力持ってんのお前の兄貴だろ」

「あれはだめ、有効活用できない馬鹿だから」


 舞依は笑って、「ねぇ、美鈴」と話を振った。それに対し美鈴はどこかぎこちない表情で首肯する。この二人はまだぎこちないものの友達に戻れるだろう。むしろ雨降って地固まる的な展開になると聖も肩身の狭い思いをしなくてすみそうなのでありがたいが、そう上手くいくかは分からない。


「美鈴ちゃん、勝春先輩知ってんの?」

「うん。舞依ちゃんのお兄ちゃんでしょ?舞依ちゃんのこと大好きだよね」

「鬱陶しいって言うの、あーゆーのは!」

「……あー、俺先輩に帰ってくるまでに舞依のこと如何にかしとけって言われた」


 美鈴と舞依が揃って聖を見たが、聖はどちらも見ずに空を見上げた。
 修学旅行に赴く前、勝春先輩からメールが来て舞依の様子がおかしいのは聖のせいだから、旅行から帰ってくるまでに元に戻して置くようにと言われたのだ。戻すこと自体は今完了したようだが、問題は条件が厳しいのだ。元々していなかったような、お兄ちゃんが恋しくて泣いている状況に戻せとか一体何年前に戻すつもりだ。


「舞依、とりあえずお前先輩帰ってきたら寂しかったって言って抱きついて」

「はぁ!?」

「だって先輩がそういうんだもん。俺が逆らえるはずねぇじゃん」

「いつも庄司先輩とかには逆らってるじゃん!やだよ絶対」

「頼むよぉ」

「いーやー」


 嫌と言われてもこっちだって譲れない。しかしやっぱり普段から舞依がそんなことをしている訳はないので、ここはこちらから折れるしかないだろう。
 話に置いていかれかけていた美鈴が、思い出したように手を打って「聖くん」とやけに軽快な声を掛けてきた。今まで聞いたようなヒステリックな声ではないので、凄い変化だ。


「三年生帰ってきたらテスト期間に入るね」

「あ、テスト」

「聖前回確か白紙提出でしょ?今回は頑張りなよ」

「舐めんなよ、俺休み明けのテスト俺トップ」

「……嘘」

「マジ」


 言いながら、そうかテストかと落ち込んできた。テスト期間は部活がないので強制帰宅を強いられる。テスト前の期間をいれると約二週間も家に帰らなきゃならないなんて、拷問に近い。それが終わって何か利点があるわけでもないし、けれどあーちゃんのところに行く訳にはいけないので先輩たちの家に転がり込もうかと考えた。










 深夜に近い時間、バスケ部二年レギュラーは制服のままで新宿までやってきた。表通りではなく狭い裏道を地図も見ずに直治を先頭に歩いて、ある店の前で立ち止まった。埃にまみれたガラスから中の様子を窺うことはできないから、もしかしたら掃除をサボったのではなくただこういう趣向なのかと考えてしまうが、周りの風景と見比べてやはりここは汚いだけだ。やっているのか分からない店のドアを開けるとカランとドアベルが鳴った。


「……お坊ちゃんが来るところじゃねぇぞ」

「酒井綾肴さんですか?僕たち竜田学園中等部バスケ部の者です」


 表の看板にSodomと書かれたこの店に聖が来なくなって二月近く経つだろうか、今更のように思えるが、レギュラーは揃ってこの店を訪れた。ヒゲをまばらに生やした男が眉間に皺を寄せてこちらを見ている。学校名にも心当たりがあるのだろう。カウンター席に座っている女性が、こちらを見て軽く首を傾げた。


「角倉聖は、ご存知ですよね」

「生憎、そんな偉そうな名前しらねぇな」

「なら、高野聖と言い換えましょうか」


 直治が落ち着いた口調でそういうと、男ではなく女性の方が驚いたように目を大きく見開いた。小さな口が僅かな動きで「ひーちゃん」と動いたのを海人は見逃さなかった。彼女は、聖に良く似ていた。きっと聖を女にして成長させたらこういう風になるのだろう。これが、聖の母親か。
 男は口の端を引き上げて笑ったが何も言わなかった。ただ女性の方が興奮して「あーちゃん!」と小声で彼に言っている。きっとこの男は何もかもお見通しなのだろう。さすが、聖の育ての親だけのことはある。


「あいつならもう来ねぇよ?」

「別に、聖を探してる訳ではないです」

「あ、あの……ひーちゃんを知っているの?」


 直治が鞄の中から一束の書類を出して男に渡した。男はそれを余り興味が無さそうにぺらぺらと捲る。その間に、妙にそわそわした女性が不安そうな眼で問いかけてきた。直治の調べでは、彼女は高野燈、二十八才。聖の母親だ。


「聖は部活の後輩です」

「あ、あの子……あの子、ちゃんと幸せ?ちゃんとご飯食べて、それで……」

「燈」

「あっ……ごめんなさい」


 今にも泣き出しそうな顔は、聖のそれに良く似ていた。男に窘められて彼女は謝って口を閉ざすが、眼がまだ何か言い足そうだった。それは、五年も会っていない息子のことを思うのならば当然かもしれない。
 聖はここで、この二人に育てられた。角倉が初め認知すらしていなかったおかげの幸福だったかもしれない。けれど、聖が十のときに澄春の体調が思わしくなくそれまで無視し続けてきた聖を引き取った。それまでの生活も聖にとってはいい環境とは言えなかっただろう。母親は水商売で夜は家におらず、父代わりの男もこうして夜の仕事をしている。幼い頃から、枯渇していたのかもしれない。けれど、聖はここで幸せだった。


「聖は幸せですよ。酒井さん、こちらの書類に間違いはありませんか?」

「概ねな」

「今日はこれを確認しにきただけですので、失礼します」


 直治は彼から書類を受け取ると、五人一緒に店を出た。まだ彼女の視線が背中に刺さっている。それほど聖のことが気になるのだろうが、そういうわけには行かない。
 迎えには、庄司の家から車が来ていた。五人で乗り込んで、この土地を離れるまでしばし沈黙する。それほど直治が調べた事実は重かった。燈は十二で所謂児童ポルノ系のAV女優になり、十五で聖を産んだ。それからはソープ嬢となり、聖が角倉に引き取られてからはまたAV女優に返り咲いた。読んだ当初はひどい母親を想像していたのに、会ってみたらその想像は簡単に崩れ去った。


「聖、幸せだったんだね」


 亮悟に言葉に、誰も意を唱えない。自分と似た境遇だからだろうか、護は目を閉じて沈黙している。けれど幸せだったからこそ阻止しなければならないこともある。本当は、あそこが粗悪な場所だったらば聖を戻してもいいと思っていた。けれど、それはひどい勘違いだったようだ。


「あそこに、聖を近づけたらダメだ」

「帰って来れなくなる。絶対に」


 数ヶ月は聖自身で我慢していたものが、いつ何の拍子に崩れ去るとも知れない。あの母親を見る限り、ここで過ごした聖の記憶はずっと心の奥底に沈んでいるのだろう。だからこそ、ここに聖を戻してはいけない。
 五人は顔を見合わせて、けれどお互いに言葉もなく車に揺られた。





−続−

彼女編、ひとまず終了です。長かった……。