職業体験と称して、竜田学園では中等部では自宅研修が一週間行われる。生徒の大半が良家の子女であり将来は実家の家業を継ぐことになるから早いうちに経験を継がせようと言うことらしいが、継がない者やそれ以外の身分の奴はどうする時期かといえばそれは各家に任せられている。
 伊藤優一もその例に漏れず、角倉傘下の企業で雇われ社長の父に末の若君のお手伝いをと申し付けられた。初めは父に言われて取り入っただけの角倉聖と言う人間に優一は段々と惹かれていた。そして気が付けば、父に言われるまでもなく彼を支えていきたいとそう思うようになった。だから、研修一日目に優一は角倉本家を訪れた。


「父より聖坊ちゃんの付き人を仰せつかってまいりました、伊藤優一でございます」


 取次ぎの初老の女性にそういうと、奥に連絡を取ってくれてすぐに招き入れてくれた。聖の部屋は玄関に程近いところにある。優一は一度も入ったことがないが、通されたのは家の一番東南にある端の部屋だった。声を掛けずに戻ってしまった女性に礼を言って、襖の外から声を掛けた。


「坊ちゃん、伊藤です」

「は?」

「失礼します」


 なかからポカンとした声が聞こえたので、優一は目で確認してもらおうと襖を開けた。そして、飛び込んできた状況に言葉を失う。だらけきった様子で婀娜っぽく着流しを着崩し、彼の腹違いの姉である美月の膝に頭を乗せている。一体何時代に迷い込んだのかと思った。
 まるで時代劇の置屋の中で部屋の主は何度か優一を見て目を瞬かせ、ごろりと美月の膝から転がり降りた。


「優一じゃん。何、どした?」

「父より坊ちゃんの付き人を言い付かりました」

「いい、いらない」

「坊ちゃん!」

「つか、その坊ちゃんてやめろよ。気持ち悪ぃ」


 よいしょ、と言いながら聖は漸く体を起こした。膝で這って文机の上の携帯に手を伸ばしながら優一を部屋に招き入れる。聖の部屋を見て、優一は驚いた。
 角倉本家に十四畳の部屋は似つかわしくないと思ったが、その部屋に荷物が所狭しと並んでいる。文机の上には参考書が積まれ、雑誌が開きっぱなしになって占領している。机の横には学校の指定鞄とボールが転がっていて、更に隣には本棚がある。あまり本は入っていないようだが代わりにアクセサリーが男女物問わず並んでいたし、部屋の隅には姿見があった。入って左側の桐箪笥が部屋を圧迫しているのかと思ったが、それよりもそれと対をなすように置かれた着物掛けに数枚の着物と制服が適当に掛けられている。更にその隣には箪笥があった。物が多い部屋だと、一瞬にして思えた。


「美月さん、俺これから遊びに行きますけど一緒に行きますか?」

「ご一緒していいんですか?」

「海人先輩とですけど、それでよければ」

「聖さんがいいのでしたら、ぜひ」


 ぱっと顔を輝かせた美月に笑って、聖は優一を置いてきぼりにして電話を掛け始めた。電話をしている間に美月に丁寧に自己紹介をしていると、さっさと電話を切った聖がはらりと着流しを脱いで洋服に着替え始めた。
 長い髪を簪で括り上げて、だぼだぼのローライズジーンズを穿く。タンクトップを一度手にしたが、外を見て聖は胸倉が大きく開いたブイカットのカットソーの上からざっくりと毛糸で編まれたロング丈のカーディガンを羽織る。開いた胸元に数点のシルバーアクセサリーを付け、そして携帯をポケットに捻じ込んだ。


「お前は?」

「はい?」

「一緒に行くかって訊いてんだけど」

「はい!お供させていただきます!」


 スタスタと部屋を出て行った聖を優一は慌てて追いかけた。
 始めて会ったときに頑なに自分の周りから人を排除していた少年は、いつしか人を惹きつけて笑いかけるようになった。優一は自分が彼のテリトリーの中に足を踏みいれられたことが無性に嬉しかった。










 普段出かけるときに近場ならいざ知らず少し歩くようなら車を使う優一にとって、電車に乗るという経験はものすごく珍しいことだった。それをいとも簡単にこなす聖がやはり流石だと感動したし、初めて歩く道に普段は車で通っているからどうということもないのに少し緊張した。
 聖が向かったのはバスケ部の専用体育館だった。休日なので鍵が掛かっているはずだが、聖は鍵を使わず鍵が掛かっているとも思わずに扉を開く。鍵の掛かっていなかった扉は、いとも簡単に開いた。中からダンダンとボールを打ちつける音と靴が床を擦る甲高い音が響いていた。


「やーっぱりいた」

「聖、おっせぇよ!」


 体育館にいたのは、大沢海人と松林護だった。優一の調べでは海人はスポーツ一家の次男坊で、護は医療関係を扱っている大手企業の妾腹だ。だから職業体験など関係ないのだろう。
 聖に気づいた二人が動きを止めて、ボールを投げてきた。それを片手でキャッチして、聖は着替えてくるから待っててと部室に消えていってしまう。残された優一はついていこうかどうか迷ったけれど、待っていろと言われた手前待たねばならないかとその場で硬直した。


「姫じゃん!姫どうしたん?」

「あの、聖さんが誘ってくれたので……迷惑だったら帰りますけど……」

「男臭いトコだけどそれでよかったら見てってよ。あ、海人、椅子出してあげれば?」

「護が俺の台詞取った!亮悟に言いつけてやる!」

「残念だけど亮悟は俺の味方だと思うぜぇ?」

「つか、亮悟先輩俺の味方だから。はい美月さん、ここどーぞ」


 美月を前に騒ぎ出した彼らに、優一は思わず彼女と顔を見合わせてしまった。とりあえず追い出されはしないらしい。しばらく黙っていると、聖が呆れたような声を出して戻ってきた。ジャージとTシャツに着替えている。大き目の椅子を持ってきて、それを置いて美月に進めた。
 それをみて出番がどうのうとか騒ぎ出した二年にまた呆れたように肩を竦め、そしてボールを至近距離から投げつける。


「行動が遅ぇんだよ、先輩たちは」

「な、何だと!?」

「バスケしよーよ」


 からかうように笑って、聖はコートに駆け出した。チッと舌を打ち鳴らした海人がその後を追い、けれど護は後を追わなかった。美月の隣にを降ろして足を投げ出し、汗臭かったらゴメンと笑う。優一は何も言わずにただ立っていた。
 少し遠くで、聖と海人が楽しそうにコートの中でボールを奪い合っている。優一は聖の真剣で楽しそうな顔を初めて見たが、それはまだ教室などで見たことはなかった。


「聖、変わったよな」

「……そう、ですか」

「見ててわかんない?すげぇ素直になった」


 護がコート上の聖に視線を向けたまま小さく美月に問いかける。彼女は前からとても優しかったですと返したけれど、きっとそういうことではないのだ。聖が外に向ける全ての部位で柔らかくなっている。少なくとも優一はそう思っているし、そうでなくては教室での態度に説明がつかない気がした。


「松林君は、どうしてそんなに聖さんのことを……」

「気にするのかって?そうだな、俺に似てるからかも」

「似てるん、ですか?」

「境遇がさ、俺も妾の子って奴だし。まあ聖とはちょっと違うからそっくり同じって訳じゃないんだけど」


 軽く笑って、護は両腕ごと体を伸ばした。聖は引き取られるまでは父親の存在を知らされずに育ち、いきなりそれまでの生活と切り離されて角倉になった。それでも跡取になるではなく、ただの予備の駒として暮らしている。否、初めは跡取にと言うことだったのに、持ち直した長子のおかげで中途半端なのだ。
 対して護は生まれたときから父親も分かり妾の子とはいえ跡を継げるかもしれないと言われてきた。母親と共にそれなりに贅沢な暮らしをしているし、それは今も変わっていない。
 聖は環境が変わりすぎたのだ。だから突然日常からつれ攫われた子供はいつまでも異世界で彷徨っている。


「姫さ、内緒話できる?」

「……はい」

「できなそうな顔してるけどなぁ」


 喉でからからと笑って、護はそれでもゆっくりと語り始めた。その目はいつの間にか聖ではなく天井で発行しているナトリウムランプに向けられている。
 聖は十まで新宿で母親とその幼馴染に育てられた。その頃は金もなかったが今よりも幸せだっただろう。食事の支度も掃除も洗濯も全て聖が小学校に上がる頃からやっていた。同居していた一つ下の幼馴染は公立の小学校に通って今でもその環境で聖だけを欠いたまま暮らしている。欲しいものがすぐ手に入るわけもなく友達と遊ぶ時間が家事に削られても聖は笑っていた。今よりもずっと、幸せそうに。


「あの頃と同じってのは無理だけど、聖が笑えるようになっただけで俺はあいつらに感謝してるけどね」

「あいつら?」

「一年レギュラーのあいつら。それから姫」


 護は笑うと立ち上がって何度か体を解すように動かした。それから大声で勝負に熱中している二人に声を掛ける。海人と交替して聖をへばらせると笑い、軽く数歩走り出してから足を止めて振り返った。そして、美月に笑いかける。


「海人と仲良くしてやって」


 驚いた顔をしている美月の顔なんて見ずに、彼はボールを付いてつまらなそうな聖の元に軽く駆け出した。戻ってくる海人と手を打ち合わせて、ついでに文句も言われて聖からボールを奪うために手を伸ばす。
 優一はずっと聖を目で追いながら、護の言葉がずっと頭を回っていた。あれ以上に聖の幸せそうな顔は想像できないけれど、いつかその笑顔を見せてくれたら嬉しい。そんなことを思った。










 夜になって聖は先輩たちと別れて美月と共に家に戻った。美月が当たり前のように車を呼んだので車で帰ったが、優一は別に車を呼んで自宅に戻った。家に帰って汗を流し、再び着流してゴロゴロしていると携帯が鳴った。ピカピカ光りながら机の上で鈍い音を出しながら振動する携帯に手を伸ばして、布団の上で開いた雑誌に再び視線を落としながら通話ボタンを押した。


「もしもし?」

『もっしー!聖元気ぃ?』

「健二?うわ、久しぶり」

『電話してこないんだもん。こっちから電話しちゃった』

「悪い悪い、忘れてた」


 笑いながら聖は体を起こした。意味もなく机の上の雑誌を整理してみたりしながら懐かしい幼馴染の声に耳を傾ける。他愛のない会話を久しぶりに楽しみながら、机の上を綺麗にし終わってついでに見つけた日程表にげんなりする。この職業体験というなの自由時間が終われば十二月に入って、そうしたらこの間中間が終わったと思ったのにもう期末だ。学生に本当に休みなんてあるのか。


『部活結構忙しい?』

「そこそこ。なんで?」

『また遊びに行かない?それとも……迷惑?』

「や、全然いいけど」

『やった!やっぱ聖がいないと楽しくないしさ。クリスマスって開いてる?』

「ちょい待って、予定表見る」


 予定表の欄を辿ってみると、部活はなかった。しかし補習の文字が午前中にしっかりと印刷されている。そういえば夏前にもあったが一度も出たことがない。だったら今度も出なくていいかと簡単に結論付けて、了承の返事を返す。


「ん、大丈夫。何時?」

『いつもと一緒』

「分かった。あ」

『何?』

「彼女とデートかも」

『はぁ!?何、聖ってば彼女いんの!?連れて来いよ、可愛い?つかムカつくー』

「結構可愛い」

『じゃあさ、聖女連れてきてよ人数分。んで合コンにしよ』

「いいけど、お前お嬢様とか大好きなわけ?超固ぇよ」

『でも聖は付き合ってんだろー?もっと普通の子いねぇの?』

「普通の子を俺は捕まえたの」

『じゃあ普通の子連れてきて!』

「彼女が一緒だったらな」


 布団に寝転がってそれからしばらく話をして、電話を切った。久しぶりに楽しかったと深く息を吐き出す。龍巳たちと一緒にいる時とは違う楽しさで、これはこれで楽しい。ただ何となくあいつらに会いたくなった。
 明日は何をしようか、そういえば寿季が来いと言っていたから行ってみようか。そんなことを考えながら、昼間の疲れが出たのか眠りに落ちた。





−続−

マセガキめ!