一月末に三年生が引退した。そのおかげで二月には部内試合が行われて再びレギュラー決めがあったが、龍巳をキャプテンに据えたレギュラーチームは無事にその地位を死守した。部内試合が終わるとすぐに学期末のテストが行われるため部活は休みになる。最後のテストが重要だというのは分かっているけれど、最後のテストは即ち学年で最後のイベントだ。このクラスで最後だからと、クラス全員で集まってテスト勉強する事にした。場所は教室なのがあまりイベントという感じがしないが、その方がそれらしいだろう。


「なんか、一年てすごい早いと思わない?」

「思う思う、早いよな。……って何笑ってんのさ、光る君」

「いや、聖は変わったなと思って」


 教室で思い思いグループを作って勉強しているクラスメイトを見ながら、聖は光る君と並んでパックのコーヒーを飲みつつ眼を細めた。天を仰げばまだ見慣れない教室の天井が見える。小奇麗なそれから更に背を反らせて視線を投げると、四角の向こうに真っ青な空が見えた。
 そんな聖の様子を見ながら光る君は顔を綻ばせた。クラス委員を仰せつかった彼にとって、角倉聖という人物は当初は得体の知れない存在だった。角倉と違い父が起業に成功したおかげで竜田学園に入学を許された身である光る君は旧家の繋がりをよく理解していない。それでも小等部で聖が何と言われているかを知っていた。彼自身は分け隔てなく接しようと思っていたが、頑ななその態度と奇麗な顔に近づきがたいものを感じた。今思えばそれはただの憧れだったのかもしれない。


「……まぁ、いろんなことがあったしな」

「初めはすっごい美人だなーって思ったんだけど、今はもう小憎たらしいよね」

「小憎たらしいって……」

「だって問題起こすのは聖だし、その度に尻拭いしてたのは僕だし」

「あーへいへい。すいませんね」

「誰も責めてないよ」


 頑なだった聖の態度が軟化したのはいつごろだっただろうか。光る君は夏ごろだったと記憶している。そうだ、夏休み明けだ。二学期になったら聖は何かを吹っ切れた顔をしていて、会話にも応じてくれたし気さくに話しかけて来てもくれた。そして話をする分だけ聖に惹かれていった。
 初めはクラスに馴染まずに進級すると思っていたが、気が着けば聖のもう一人の問題児である九条院龍巳もクラスの和の中心にいる。それが委員長としての光る君にも嬉しいことだった。


「聖、英語教えて」

「ん、どこ?」

「あ、私も私も!」


 茜に声をかけられて聖は視線を彼女に戻した。聖と茜が付き合いだしたのはとても衝撃だった。聖に思いを寄せていた女生徒は意外に多かったらしくバレンタイン以降一週間ほど呼び出されまくっていた。休み時間ごとに来るものだから、聖が隠れて代わりにいないと光る君が行かされた。
 まだその余韻なのか、茜の言葉にさくらが集まり、他の女生徒も集まって来た。あっという間に囲まれてしまい、聖が肩を竦ませて「教科書」と言うと優一が自分のそれを差し出した。この美人は自分のを持って来ていないらしい。


「じゃあみんな黒板見る!範囲の初めからおさらいな」


 結局聖が黒板の前に立ち、みんなの注目を集めながら教科書を開いた。けれど範囲もはっきりしていないのかパラパラと不審そうにめくっている。あまりにゆっくりめくっているので優一が「九十八ページです」とこそっと教えた。
 聖の教師役を見ながら聖が食べたままにしたゼリーのカップをコンビニの小さな袋に入れる。自分の席で誠と二人で勉強していた龍巳が一息つくためか今まで聖が座っていたところに腰を落ち着け、残していったコーヒーを飲みきってパックを握りつぶして放った。それを誠がキャッチしてゴミ箱に投げ入れた。見事な連携プレーだ。この二人はいつ見てもいいコンビだと光る君は思う。


「あーあ、龍巳。聖の全部飲んじゃうと怒るよ」

「誠、リンゴジュース買ってこい」

「はい若!」

「聖リンゴ飲まないと思うけど?」

「その方が面白いだろ」

「悪い奴だねぇ」


 九条院龍巳も光る君から見れば聖と同じで初めは怖い存在だった。特に関東最大のヤクザの跡継ぎだといわれれば敬遠したくもなる。聖と一緒に居たことも近づきがたかった理由かもしれない。けれど聖といたからこそ彼がクラスに馴染めるきっかけになったのだろうとも思う。にやりと笑った凶悪な笑みも見慣れればその中で濃淡を見分けることもできるので最近では面白かった。


「もう一年か……」

「龍巳も淋しい?」

「別に今生の別れでもあるまいし、淋しくはねぇよ」

「そっか」

「ただ、このクラスは居心地がよかった。ありがとうな」

「あ、りがとう……?」


 急なお礼に光る君は混乱して思わず礼を述べた。龍巳が変な顔をしていたが、やがてふっと吹き出したように笑う。喉で噛み殺すような笑い方をされて光る君まで笑いたくなって、思わず分けも分からずに笑ってしまった。
 少しすると誠がリンゴジュースを買ってきたが、龍巳はそれも飲み干してしまいそれに気づいた聖が優一にオレンジジュースを買いに行かせた。その光景がひどくほのぼのとしていて光る君も笑った。このクラスでよかったと、きっと皆が思っている。










 バレンタインにデートしようと約束したにも関わらず部活だテストだと忙しく半月が経ってしまった。テストが数日前に迫ってしまったが、おかげで部活もないのでテスト勉強の名目で茜は聖を勉強デートに誘った。家は仕事の関係で日中は家に使用人以外いなくなるから気兼ねは要らないと言えば断る理由もないだろうと思ったら、しぶしぶながら聖は頷いてくれた。
 当日、自室に聖を招きいれてから茜はひどく緊張した。汚い部屋ではないけれど、本当の意味で二人きりになるのだ。学校で二人きりになるのではなく家で二人きりでしかも使用人には入ってくるなと言ってある。ひどく緊張し、手に汗を掻いてきた。


「女の子の部屋入るの初めてかも。うわ、超女の子っぽい」

「は、初めてなの?」

「同年代の女の子は初めて」


 聖は楽しそうに言いながら部屋中を見回し、ぽすんとベッドに座った。整えられたベッドには甘い香が焚き染められている。それに聖も気づいたのか口先で「カモミール?」と呟いた。正解を言い当てられたことにドキリと必要以上に心臓が跳ねた。それを誤魔化すために茜は机の上の教科書を、部屋の真ん中に置いた小ぶりの机の上に置いて聖のために椅子を引いた。


「こ、こっち座って。ごめんね、テスト前は聖だって勉強したいのに」

「良いって、俺別に勉強しねぇし」

「じゃ、じゃあ数学教えて」

「おっけ」


 ドキドキしながら教科書を開くと、聖が机に頬杖をついて視線を落とした。括った髪の後れ毛が隣に座った横顔を隠そうとするけれどはらりと落ちたそれを聖が自分で耳に掛ける。改めて近くで凝視すると、聖の顔が整っていることを改めて思い知らされた。長い睫毛も透き通るよう肌も通った鼻筋も、聖を姿作る全てが奇麗だと思う。
 思わず見惚れていると、聖がふっと笑って教科書を指差した。恥ずかしくて慌ててその先に視線を向ければ、練習問題が並んでいる。


「とりあえずこのページやってみろよ。正解したらキス一つだから頑張れよ?」

「う、うん!」

「やってる間に部屋見てていい?」

「う、うん。でも恥ずかしいからあんまり見ないでね」


 興味深そうに聖が部屋を眺め回すので、思わず頷いてしまった。けれど部屋を見られるのは意外に恥ずかしいので慌てて言葉を続ける。聖は軽く頷いただけで問題を爪で叩くと、すっと立ち上がってしまった。どこへ行くか気が気でないながらも問題を解こうとシャーペンを握る。けれど、集中なんてできなかった。


「雑誌、やっぱこういうの読んでるんだ」

「え?あ、うん……」

「今度私服でデートしような」

「うん!」

「じゃあちゃっちゃかやって」

「はい……」


 茜の沈んだ声に聖は笑い、ペラペラと雑誌をめくる。ベッドに座ってそのまま読み始めた聖に緊張しながら問題を解いていると、その手は震えていた。
 こうして笑いかけてくれる聖を見られるようになったのはいつのころだっただろうかと茜は思った。聖は初めから笑っていたけれどその笑みは日の打ち所のないものだった。つまりは偽物だ。それがいつから変わったかはよく分からないけれど、いつのまにか茜を特別な存在にしてくれた。それが嬉しかった。
 小等部の時は聖の悪い噂はたくさん聞いたし雰囲気も近づきにくかった。けれどとても奇麗でそのころから気にはなっていたし、中等部になってほんの少し雰囲気が和らいだ。だから声を掛けられた。そして今では、彼に全てを捧げても構わないとすら思い始めている。茜はそんな自分がひどく滑稽に思えた。


「ね、聖。今日は何時まで大丈夫?」

「俺は別に何時まででも大丈夫だけど。親御さんいつ帰ってくんの?」

「うちはね八時くらい」

「そっか。じゃあその前に帰るか。早くやっちまえって」

「う、うん」


 聖に言われて再び課題に向かったけれど、どうにも手が進まなかった。頭に数式が全然入ってこないし、手も動かない。チンプンカンプンではないはずなのに、頭は全然回らない。段々訳が分からなくなってきて泣きそうになり、結局シャーペンから手を離した。


「どした?」

「……なんか、分かんない」

「えー、どこ?」

「ここ……」

「頭じゃん。しょうがねぇな」


 頭がヒートして爆発しそうだった。泣きそうになりながらそういうと、聖は笑って雑誌を置く。茜の隣に腰掛けて手元を覗き込まれ、茜の頬がぼっと上気した。今まで近づいてもこんなことにはならなかったのに、今日はおかしい。聖の髪から甘い匂いがして、目の前がクラクラした。
 聖の悪い噂は昔と変わらず今も流れている。それは聖が女子に人気があるからだと茜は思っているけれど真偽は分からない。ただ噂では聖が何人もの女性と関係を結んでいるだとか人の婚約者を寝取ったとか、いかにも中学生がすきそうな話だったから信じてはいないけれど、こういうときにはそれは本当なんじゃあないかと思う。


「茜、聞いてるか?」

「あっ、ごめん……」

「なぁんか上の空だな。何かあった?」

「な、何でもないよ?」

「嘘吐け。もういい、ちょっとこっち見てみろ」


 シャーペンから手を離すのと頤を浚われるのとはほぼ同時だった。くいっと顔を上げられて至近距離に奇麗な顔がある。視線を逸らそうにも顔を固定されているのでそれ叶わず、爆発しそうな心臓の音だけが妙に耳についた。ふわりと体が中に浮いたと思ったら、そのままベッドに背中から倒れこむ。それに気づいたときには聖に両手を拘束されていた。
 抵抗する力も体にわかず、茜はそのまま固まった。その眼を奇麗な瞳が覗き込んでくる。


「何かあったかって俺、訊いてんだけど」

「……あ、の……」

「今日は何もしないから。だからマジで頼むよ……」


 何もしないのではなくて何もできないのだと、聖の言葉からそれが伝わってきた。茜の中に拒絶する意思が僅かでもあったのは本当のことだし、それを聖が聡く感じ取ったのかもしれない。ただその台詞がひどく悲しくて、顔を逸らしたまま体を硬くして喘ぐようにしてせめてもの言葉を紡いだ。


「はじめて、は、聖に……聖にあげたいと思ってるから……」

「ん。待ってる」


 至近距離で聖はにこりと笑って茜を離した。その仕草はとても丁寧だったけれど、茜にはそれは大事にされているわけではなく彼が自分自身を守っているようなそんな気がしてならなかった。何を聖が守っているのか分からないけれど、茜はいつまでも一緒にいたいと思っていたし聖の支えになれるのならばそれで嬉しかった。
 数学だけは聖に教えてもらって、それから他愛のない話をして聖は六時頃に帰った。親に言っていなかったはずなのに使用人に何かを言われたのだろう両親に知れ、しかし文句を言われるどころか褒められた。来年も同じクラスになれれば良いと、茜は素直に思った。





−続−

やっと…やっと一年が終わりそうだ