春はあまり好きな季節ではない。もともと聖が好きな季節はとても少ないから特別と言うわけではない。昔は春も夏も好きだった。色々なことに対して興味をなくし好きだと感じられなくなったのは、いつだろう。
 新学期は特に、楽しいとは思えない。竜田学園は生徒数が多いためにクラス替えは葉書での発表になる。各家庭に届けられる葉書には自分のクラスしか書かれておらず、だから各々が友人と連絡を取り合って情報を交換する。聖は今回誰とも同じクラスになれず、だから学校に行くのが少々億劫に思えた。龍巳ともクラスは違い知っている人はいない。また今までと同じように一年間つまらない思いをするのだろうか。せっかく学校が楽しくなってきたと思ったのに。


「聖、おはよう。今年も同じクラス、よろしく」

「光る君!マジで!?」


 溜め息を吐きながら教室に入ると、後ろから肩を叩かれた。一体誰だと言われる前にその声の主が分かり、聖はぱっと顔を光らせて振り返った。立っている光る君の姿にようやく安堵を覚え、聖は無愛想だった顔を僅かに綻ばせる。光る君がいるのなら少し安心できるし、楽しくなるような気がした。
 教室に入るたびに向けられる視線が気にならなくなり、聖は黒板に視線を移すと自分の席を確認して荷物を置き、光る君の机に浅く腰掛けた。


「マジで嬉しいんだけど、光る君と一緒」

「今年も聖に振り回されるかと思うと、こっちはあんまり歓迎できないけどね」

「ひっでぇなー」


 向けられる言葉に棘は感じるが悪意を全く感じられず、聖はからからと笑った。これだけで楽しいので、きっとすぐに新しいクラスにもなれるだろうと思えた。
 どういう人がいるのだろうと興味本位に聖は辺りを見回した。もしも小等部で同じ人クラスになったことがあった人間でもいれば、それは少し楽しくない。ちらりと見るだけだが、見回して確認していると見知った顔があって聖は机から飛び降りた。


「紀仁」

「聖、クラス同じだったんだ。一年間クラスメイトとしてよろしくね」

「おう」


 見つけたのは美月の婚約者である常陸宮紀仁その人で、今はまだれっきとした皇族だ。美月との婚姻を気に皇族から下ることになるがまだ学校内でも最高位の人間で、彼の人柄もあり教員を含めた周囲からの人望が厚い。その紀仁と聖は将来的に義兄弟になる。それを知っている人間は少ないのか、彼が聖に握手を求めたのを見てクラス中がざわめいた。けれど聖はそれを気にせずに握手し、笑った。


「さってと、俺部活行こうかな」

「まだ来たばっかじゃん!何言ってんの!?」

「だってつまんねぇもん」

「つまんなくても参加しなさい!」


 今日は本当は部活が全面禁止なのだが、別に体育館が閉まっているわけじゃあない。本体育館は入学式があるけれど、専用体育館はなにもない。だから行っても良いかと思ったが、光る君に止められた。腕を掴まれて強制的に自分の席に座らされた。
 ぶつぶつ文句を言われている状況がいつも通りで、聖はそれがすごく安心した。










 放課後は部活が全面禁止されていたため珍しく部活がなかった。代わりに二年レギュラーになった聖達は龍巳の家に集まって夕食までご馳走になった。春休みの間、三日に一度は誰かの家に集まって遊んだ。葵の家も晃の家も何度か遊びに行ったけれど一番多かったのはやはり龍巳の家だ。特に聖は今まで逃げ場所にしていた女性の家ももう使えずあーちゃんのところにも行かないと決めたおかげで、龍巳の家によくお邪魔した。
 今日も特に目的があったわけではないけれど集まって、ただ無為に時間を過した。何をする訳でもないけれど、一緒にいるのが心地良いと思えるここが聖にとって今一番大切だ。


「聖、背が伸びたか?」

「は?」

「いつのまにか相当伸びてないか?立って寿季と並んでみろ」


 唐突に晃が本から顔を上げた。寝転がって葵のゲームを覗き込んでいた聖は顔をあげて目を瞬かせる。しかしゲームをセーブした葵が晃に同調したので、寿季がそういえばと立ち上がった。腕を引っ張られて経たされるので、聖は嫌々ながら立ち上がる。であった当初は聖が一番小さかった。一センチの差だが寿季の方が大きく、今までその一センチが今までとても大きかった。けれど最近それを感じなくなったことにはなんとなく気づいていた。
 立ち上がって並んでみると、確かに聖の方が大きかった。しかも今まで近かったはずの視線は寿季と目を合わせるために少し落としている。自分でも成長スピードに驚いた。


「五センチくらいかな?聖の方が高い」

「だー!抜かれた!!」

「春休みに入って急に伸びたんじゃあないか?」

「もう龍巳と同じくらいかもね」


 聖に抜かれたと大騒ぎしている寿季に龍巳は鬱陶しそうに目を眇めていたが、自分の名前を出されてピクリと顔を上げた。無言で立ち上がって聖の隣に並ぶので、一番高い晃が手を乗せて高さを比べた。適当な計り方だが、ほぼ同じだろう。晃がそういうと、龍巳は不機嫌な顔に更に眉間の皺を深くした。


「背伸びでもしてんじゃねぇのか」

「おれもそう思う!」

「する訳ねーだろ!何なら裸足でやってやろうか!?」

「身長ぐらいで騒ぐな、煩い」

「煩いって悪いのは龍巳だろ!」

「お前がにょきにょき伸びるからだろうがっ!縮め」

「ンな無茶な!」


 どかっと腰を下ろした龍巳に従って聖も座ろうと思ったが、寿季が背伸び説を有力視して靴下を脱げと主張した。そういわれたら聖も引くに引けず靴下を脱いで再度寿季と並ぶが、身長差は変わらずに聖は寿季を見下した。動きようのない現実に顔いっぱいに驚愕を現した寿季を聖は全力で見下して笑ってやると、寿季が崩れ落ちた。


「聖が……聖が成長した」

「どんどん格好良くなるよね、聖は」

「そういや制服きついかも。久しぶりに着たからよくわかんないけどさ」

「きついといえば、晃も絶対背伸びたでしょ」


 話がそんなに遠くに飛んでいくわけではないけれど、わいわいと意味のない話をして夜を過した。聖は帰るのが億劫になったので泊めてもらう事に勝手に決めているが他の奴等はどうするのだろう。ただそんな真面目な思考は、一瞬の馬鹿話で消え去っていく。
 一瞬意識を反らしたらいつの間にか話が先日の練習試合の話になっていた。高等部へと進級していった三年との卒業前に試合をした。やはり三年レギュラーは強く、聖たち歯が立たなかったが海人たち当時の二年レギュラーは今まで負けていたのは芝居だとでも言うように勝ちを収めた。三年はひどく悔しがっていたが、海人を含め五人全員がニヤニヤ笑っていたので聖は改めてこの五人は一筋縄では行かないと思った。


「俺たちももうすぐ先輩だな!」

「そんなことよりもレギュラー死守しないと」

「大丈夫だろう。俺たちは今のところぶっちぎりだ」

「でも可愛いマネージャー入ってこないかな。俺も彼女欲しい!」


 聖が欠伸を一つしている間に寿季がどんどん話を進め、いつの間にか彼女の話になっていた。聖は春休みに何度か茜とデートした。それは本当に一緒に遊びに行くだけのことだったけれど、年頃の男子中学生から見ればもっと甘美なイメージが含まれているようだ。ちらりと時計を確認して、聖はこれから話が下の方向に進んでいくのがわかったので億劫になった。


「聖、彼女とはもうやった!?」

「龍巳、もう寝ようぜ。何か貸して」

「そこら辺にあるだろ。布団くらいは自分で敷けよ」

「ん」

「聞いて!聖俺の話聞いて!」


 完全に放棄して別の話にしようとしていた聖に寿季が縋りつくように腕を伸ばしてきたが届く前に払い落とした。そして勝って知ったる龍巳の部屋の押入れを開けると布団を出す。いつもなら組員の人がやってくれるはずなのにと思ったけれど別に布団の一つ二つは文句を言わず敷こう。昔は毎日やっていたことなのだから。
 そういえば自分が昔と変わってしまったところが増えてきたようで、聖はふと手を止めて息を吐き出した。身長も体つきもあの頃よりも大人になった。それでも心は、まだあの頃のままだ。










 変わったことを厭うている訳じゃあない。ただ戸惑いは隠せず、聖は慣れてしまった夜の散歩に出た。
 今日の身体測定で、身長は確かに寿季を越して龍巳と一緒だった。体重もそれ相応に増え、体に筋肉もついた。どんどん成長していく体はあの日に止めておこうとしていた自分を否定して進んでいく。あの日、ピアスを開けてもらった日に誓ったのは進むことだったけれど、だから今感じているのはきっと淋しさなのだろう。


「……煙草の量も、減ったし」


 一時期、一日一箱消費していた煙草が、今は一日に三本吸えば満足できるようになった。あまり煙草を吸いたいとは思わずに日中を過しているが、それでも夜、一人になってしまうと急に恋しくなる。紫煙の匂いが恋しいのなら母親の匂いが恋しい子供と一緒だが、聖にとって煙草の匂いはそんなに甘く優しい思い出じゃあない。ただ、帰りたい日の記憶ではある。
 深く吸い込んだ紫煙を真っ黒い空に吐き出すと、まるで冬のように息が白くなった。それを吐ききって、ぶらぶらと目的もなく夜の公園に足を踏み入れた。暗いけれどこの黒さが聖の中に巣食う黒い感情全てを呑みこんでくれるようで、だから夜が好きだった。


「……人?」


 短くなった煙草を未練がましく後一口などと思いながら吸い込み、やっと地面に吐き出して踵で踏み消していると、正面から人がやってくるのが見えた。年のころは同じくらいだろうか、そう背も高くない。こちらに近づいてくるその人影の目は、その容貌から浮き出すようにギラギラと光っていた。


「何見てるんですか」


 特に凝視していたつもりはないが低い声で言われ、聖は別に、と呟いて吸殻を拾い上げるために腰を折った。その瞬間に殺気を感じて一歩後ろに飛び退く。沈んだ顔を跳ね上げるように、聖が下がった僅か刹那後にその場所を影の膝が切り裂いていった。いきなりの攻撃に聖が呆然としていると、その人影はチッと舌を打ち鳴らして拳を構えた。


「見物料、金がなければ体で払ってもらっても構いませんが」

「へぇ、俺と喧嘩しようって?」


 久しぶりに己に向けられた純粋な殺気に聖の背が粟立った。恨みだとか仇だとかそういうごちゃごちゃしたことではなくてただ眼の前にあった故に向けられる殺気。きっと去年までの聖はそれを放っていたし、自分以外に聖はそれを出す人間を知らなかった。目の前の少年が自分と似ているのかどうかは知らない。けれど、聖も当てられるように目を眇めて拳を持ち上げて構えた。
 自慢じゃあないが喧嘩は負けなしだ。こんなところでであった人間に簡単に負けるわけがない。拾い上げた吸殻を後ろに投げ捨てて、間合いを詰めてきた影の顔面を狙って聖はストレートに拳を打ち込んだ。しかしそれは顔をずらして避けられ、前のめりになったところに足払いが掛かった。引っかった力を利用して手をついて跳ね上がり体勢を立て直す。強いと、素直に感じた。二人でにらみ合って、先に間合いを詰めたのは相手だった。強い相手には奇策を張るか純粋に力をぶつけるかしかないけれど、聖は小細工をやめた。目の前の少年を相手にしたら、通用しない気がした。


「ざーんねーんでーしたっ」


 繰り出された右ストレートをわざと喰らって、聖はにやりと口の端を引き上げると無防備になった腹部へ拳を抉りこんだ。鳩尾から内臓を抉るように拳を捻ると、少年は苦しそうに顔を歪めて膝を折った。経った一発の攻防だった。
 苦しげに咳をする少年に聖が手を差し出すが、それはパシッと渇いた音を立てて払われた。眼鏡の奥のギラギラとした色は変わらず睨みつけられ、いささか不思議な思いがして聖は目を瞬かせた。何も頼らないで、何かに抑圧されていて、もがいている。そんな姿が少年から見て取れた。彼は聖が声を掛ける前に走り去ってしまったのでどこの誰かとは分からなかったけれど、聖は何となくまた会える気がした。





−続−

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