あの夜以降またあの少年に会ってみたくて聖は毎晩あの公園を散歩したけれど結局遭えなかった。それが桜の季節で、気が着けば桜は全て散り落ちて代わりに瑞々しい葉色が芽吹いている。それを通学しながら見上げるのが聖は好きで、専体から本校舎までの短い道のりで遅刻の回数が非常に増えて光る君にその度に文句を言われているが大分慣れた。
 爽やかな太陽を見上げて目を細め、聖は欠伸を噛み殺しながらだらだらと体育着の列に並んだ。春といえど普段はレギュラージャージを着ているおかげで半袖の体育着は肌寒い。


「聖、本気で走ってる?」

「そこそこ。あんまり手ぇ抜くと先輩に文句言われるし、本気でやるのたるいし」


 スポーツテストという行事がどうして毎年あるのか分からないが、今年もその季節らしい。体育の授業でこなす分楽ではあるが、単純な運動を繰り返すのはあまり好きじゃあない。一度短距離を走った聖が列に戻ると一緒に並んだ光る君が少し遅れて戻ってきた。去年のクラス記録のぶっちぎりが聖なことを知っているので彼は当然聖がトップだと思っている。もちろん今走ったチームでは聖がだんとつで一意だった。
 聖がだるそうに並びながら答えると、光る君は「今聖が一番だよ」とあまり興味のない情報を教えてくれた。途端にゴールの方から歓声に近い悲鳴が上がった。


「な、何?」

「さーな。あーあ、腹減った」

「聖朝食べてないの?」

「食ったけど、もう十時じゃん?」

「まだ減るには早いよ」


 グラウンドから見える校舎の時計を見上げて聖が腹に手を当てると、光る君は呆れたように笑った。
 今走った紀仁が小走りで戻ってきて、息を切らせながら聖の姿を探して視線を彷徨わせた。そしてすぐに去年よりも男らしくなった人外の美貌を発見すると駆け寄ってくる。見ていただけでも一番遅かった紀仁が走ってくるなんてどうしたのだろうと思ったが、言葉にする前に彼は口を開いた。


「聖より、早い……ゴールっ」

「は?ちょっと落ち着けよ」

「ご、ごめ……。聖よりも早くゴールした人がいる」

「えぇっ!?」

「いや、そりゃいるだろ」


 息を切らせてあまり驚くようなことじゃあないことを言われたが、聞いた光る君は驚くような声を上げた。聖は別に万能人間じゃあないから自分よりも早く走る人間がいたって当たり前だと思うのだが、彼らはそうは思っていないらしい。光る君なんて聖が手を抜くからだ、と怒り始めた。理不尽な言葉に物言いた気に口を歪めたが、聖は結局何も言わずに空を仰いだ。


「ねーね、鈴原君。走る順番代わってくんない?」

「え?」

「俺、角倉君と走ってみたいんだ」

「ど、どうぞ」


 聖は普段クラスでは光る君と紀仁と一緒にいる。学生というのはグループを作る生き物らしく、他にもいくつか自然に集まってしまうグループがある。それでもこの雰囲気に学年中が順応してきたのか、このクラスは去年よりも馴染みやすかった。
 にかっと晴れやかな夏の空のように笑った少年に光る君は素直に場所を譲った。状況から何となく聖は彼がクラストップを塗り替えたのだろうと思う。その少年は、聖を見てニカッと笑った。


「俺、バスケ部に負ける気ないから」

「……光る君、誰だっけ?」

「目の前で失礼でしょうが!もう一ヵ月もクラスメイトやってるのに!」


 いままでならば聖が黙っていればすっと優一が寄って来て教えてくれたのに、今年はそんなことが許されない。それを数回実感しているにも拘らず思わず後ろの光る君に訊くと間髪いれずに怒られた。そのやり取りに目の前の少年が笑って手を差し出す。


「陸上部所属の日尾俊哉でっす!よろしく角倉聖クン」

「聖でいい。けど、何で俺に突っかかってくんの?」

「俺が走るのが好きで聖と友達になりたかったから」


 しれっと差し出された手を聖は一瞬警戒したがすぐに握った。握手などに対して警戒してしまうのは昔からの癖で、そのまま投げ飛ばされたことが過去に何度かあるので条件反射に近いものがある。それに気づいたのは紀仁だけで、光る君も俊哉も気づかなかった。
 しばらく話しながら待っていると列が進んで、聖たちの番になった。クラスメイトたちは気づいていたのか、行ったチームがゴールから帰ってこない。そのうち教員が掛け声をかけてピストルを鳴らした。その瞬間には聖の目が本気になって、隣の気配を読みつつ目を前方へのみ向けていた。本気で走るのは好きじゃあないが、売られた喧嘩は高値買取だ。


「聖!」


 隣の気配が自分よりも前なのか後ろなのか分からないうちに五十メートルのゴールを超えていた。十メートルばかり走りすぎてターンすると、次が自分の番のはずなのに待っていた光る君が駆け寄ってきた。周りを見回してみれば、もうスポーツテストというよりもただのレースになっている。光る君の「聖、残念」と俊哉の「ぃやっほう!」という奇声が響いたのはほぼ同時だった。


「俺の勝ち!」

「陸部がバスケ部に勝って嬉しいのかよ?」

「うわ、もしかして聖ってツンデレ?」


 にこにこと笑った俊哉が意外そうな顔をした。その言い方が気に食わなくて聖は絶対にデレてなどやるものかと思って奥歯を噛み締めたが、その表情を察したのか光る君が俊哉に対して言い訳していた。それを聞きながら俊哉は笑っていて、最後には聖に手を差し出した。今度はそれを、一欠けらも警戒せずに握り返した。
 聖と俊哉のタイムの差は、一秒ほどだった。










 日曜日、妙な熱気に溢れかえった専用体育館で適当にアップしていた聖と龍巳は、舞依に呼ばれて二階から降りた。三年に進級した海人たちは本体育館にいるので若干つまらない。今まで聖達が使っていた一階は新入生が使っている。二階では二年のレギュラー決めをしていて、それを眺めるのもつまらないので端でパス練習していたところだった。


「何、どうした?」

「龍巳君にお客さんが来てるんですけど……」

「客?」


 戸惑ったようなというか泣きそうな舞依に聖と龍巳は思わず顔を見合わせた。人一倍気が強い舞依がこんなに不安そうな顔をしているのを一年間一緒にいてみたことがない。去年はどうにか舞依の肝を引きずり出してやろうとしたものだが、今年はもう諦めた。
 閉まっている体育館の扉を開けると、制服を着た少年が立っていた。もともと生徒数の覆い竜田学園で見覚えのある顔と言うのはそうあるわけではないので聖にとっては完全に見覚えのない顔で、けれど龍巳はどこかで見たことがあるのか苦々しく顔を歪めた。それを横目で見て取って、聖は一歩下がった。


「津田河原の倅が何の用だ」

「ちょっと、九条院の若頭にご挨拶を。もちろん、手土産も持参で」


 龍巳が睨みつけるのも構わず、少年が両手を広げるとどこに潜んでいたのか柄シャツの男がたくさん出てきて並んだ。ざっと見たところ二十人くらいだろうか、相当場数を踏んでいそうだ。見るからに極道と主張する格好にいっそ笑いがこみ上げてくる。
 一つ舌を打ち鳴らすと、龍巳は聖に視線を一度送った。それに軽く頷いて聖は外に出た龍巳を締め出すように体育館の扉を閉めた。舞依が驚いた顔をしているが、騒ぎを聞きつけた部員たちも集まっている手前大声で聖を非難することをやめたようだった。


「何今の!龍巳君は大丈夫なの!?」

「葵、津田河原って誰?」

「関東の極道で、確か九条院の傘下じゃなかったかな」

「へぇ、ムカつく上の若頭にちょっかいかけてくる小物ってことか。オッケ、全員何でもねぇから中戻って試合続き!」

「ちょっと聖くん!龍巳君が一人であの人数に勝てるわけないじゃない!なかったことにするの!?」

「舞依、お前俺が出たら速攻で扉閉めろよ?で、誰が来てもあけるな」

「聖く……」


 声を荒げる舞依の肩に一度手を置いて、聖は薄く笑った。久しぶりの喧嘩に胸が逸る。どこかわくわくして来て聖はすっと鉄製の扉を開けた。舞依の言葉が終わる前に体育館から出ると、更に舞依の言葉が追ってくるが耳に届く前に葵が締めたようだった。
 目の前ではまだ二十人と龍巳が睨み合っていた。以前九条院組の若い衆に囲まれたときもこのくらいの人数だった。あの時は聖一人だったが、今日は龍巳がいる。一年が過ぎて、移ろったのだとこんなときに実感した。


「加勢に来てやったぜ」

「余計な手ぇだすんじゃねぇぞ」

「好きで出してんだよ!」


 言葉が終わるか終わらないかのうちに聖は拳を握って足を踏み出した。それと相手からの号令がかかるのは同時で、一気に動いた柄シャツの男たちに聖は久しぶりの緊張感に口許を緩ませた。バスケをするのも楽しいけれど、やっぱり喧嘩の緊張感は別物だ。
 殴りかかってくる男の腕をひょいと交わし、空いた顎に肘を打ち込んで叩き上げそのまま踏み込んで後頭部から肘で叩き落した。簡単に一人の意識を奪って、更にその奥にいる一人に向かって今度は蹴りを繰り出す。鳩尾に一発ぶち込んでそのままステップで脇腹に回し蹴りを喰らわせた。半分ほど減らしたとき、一度龍巳の背にぶつけて聖は唇を歪めた。


「雑魚俺担当、お前頭担当でどうだ?」

「借りとは思わねぇぞ」

「上等っ」


 話を付けて、そうはいかせるかと殴りかかってくる男たちを聖が相手に立ち回った。大人数対の戦いにも慣れているから、ひょいひょいと攻撃を掻い潜って的確に男たちを一人ずつ沈めていった。その間に龍巳は完全に組員たちを無視して、九条院の貫禄のまま津田河原とかいう少年に歩み寄った。


「何のつもりだ」

「別に何でもない。学園内は下克上可能だろ?」

「俺が九条院の若頭と知ってか、いいだろう。後悔するなよ」


 一度体を低くして聖はあらゆる攻撃を避け、伸びきった手を一本捕まえるとそのまま放り投げる。それが一人を巻き込んで倒れ、後ろから気配を感じて振り返りざまに肘を頬に抉りこませた。その間に龍巳を見れば、相手を一発で殴り飛ばした所だった。勢いを殺すついでに距離を取った少年にすぐに追いついてもう一発顔面に拳を叩き込む。猛烈に顔を狙っている。威力がありそうなあれを顔に喰らいたくはないなと聖は正直に思いながら自分の分を捌いていると、反応が遅れて顔面に一発喰らった。距離を取られる前にイラッとして下から股間を力いっぱい蹴り上げる。反則技だが今日は気にしない。


「九条院に手を出すたぁどういうことか、その身に刻め。小物が」


 龍巳が同学年だろうと思われる少年をボコボコにしている図と言うのはなかなか想像できないが、実際に目にしてしまえばそれはそれでありだと思う。自分も数発喰らいながら全員を地に落して、聖は一度深く息を吐き出した。口内を切ったようで血の味がする。溜まった血を唾と一緒に誰かの顔に吐き出して龍巳を見ると、顔面を踏みつけている所だった。ゆっくりと近づきながら、あの力なら歯が折れてんだろうなと軽く思う。


「こっち、終わった」

「そうか。こっちもじきに終わる」

「じきに、な」


 薄く笑ってさえいる龍巳はしゃがみ込むと少年の口に手を突っ込んで、その中から血まみれの奥歯を取り出した。汚いもののように血と唾液を少年の誇りまみれの制服で脱ぐって彼に見せ付けるように目の前に突きつけた。


「貰っとくぜ」


 それをポケットに仕舞いながら龍巳は立ち上がり、聖に目だけで行くぞと言うと血まみれで半死の少年に一瞥もくれずにスタスタと体育館に戻った。少しやりすぎなんじゃあないかと聖は思うが、聖が手加減しているから救急車くらいは呼べるだろう。
 体育館に戻ると、舞依が寄って来て試合だよと伝えてくれた。今までのを何も見ていないふりをして彼女は微笑むが、それが処世術なのだろう。少し感心しながら二階に上がり、拳を冷やしてジャージを洗濯籠に放り込んだ。
 それから一般部員の一位になった向井たちのチームと試合をした。去年と同じく勝利し、五人は無言で手を合せてレギュラー死守を称えあい再び自分たちのものとなったレギュラー専用部室にシャワーを浴びに行った。





−続−

予想外に龍巳さんが鬼畜