部室でのテスト勉強が当たり前になったのはいつからだろう。多分去年の三学期になってからだったと思うが、気が付いたらこの場所がひどく心地いいことに気づいた。ただやっぱり聖はテスト勉強をする気が起きなくて、部室で勉強している四人を尻目に先輩たちとバスケに興じていた。三年レギュラーになった先輩たちも勉強しなければならないはずだが、どうしてか彼らは聖とバスケをしている。


「亮悟、俺もバスケしたい!」

「な、少しだけ!ちょっとだけでいいから!!」

「聖が元気になって良かったねぇ」

「聞いてねぇし!」


 三年生は本体育館での部活が主だが、テスト期間に入ると部活が禁止されるために本体育館の出入りができなくなる。おかげで三年までが専用体育館にくる。もともとレギュラー専用の部室だし夏休みまでは一年も遠慮してこないだろうから状況的には今までと変わらないので誰も文句を言わないが、この空間の異様さは誰もが感じていた。レギュラー専用の部室で勉強しているのは聖を除く二年レギュラーと亮悟の前で半泣きになっている海人と庄司だけで、直治と護は聖と一緒にバスケに興じている。何だかカオスだ。


「やっぱり元気な聖が見ていて一番いいね」

「ちょっとは聞いて俺たちの話!ちょいと亮悟君!?」

「去年まではすっごい暗かったのに、これもみんなのおかげかな?」


 机に縛り付けられて喚いている海人と庄司を前に亮悟は全く聞く耳を持たずに、勝手に喋って二年レギュラーに笑みを向けた。どういうことか分からずに四人とも曖昧に微笑んでおいたけれどあまり意味が分かっていなかった。それを見て取ったのか、亮悟はギャーギャー騒ぐ海人と庄司を無視して二年に向きなおった。


「去年の今頃の聖って、何も信じてなかったでしょ。頑なに拒んで閉じこもってた」

「……もう一年か」

「君たちのおかげで聖がいい方向に変われた。ありがとう」


 三年レギュラーは一時期聖のことを本当に心配していた。けれど本当にいい仲間に出会えて、いい方向へと進んでいる。あのまま行っていたらどうなっていたかもしれないのに、彼らのおかげで真っ当に戻れた。それは外から聞えてくる声は昔から変わらないリラックスした声だけれど、聖がこの声を仲間の前で出せるようになっているのは喜ばしいことだった。
 ただ亮悟の突然の礼に誰も返事ができるわけでなく、返す言葉も見つからずに黙って俯いてしまった。ただ四人の胸に渦巻くのは、それが自分たちが引き出すことができたのかという疑問。四人とも何をした覚えもないし何が出来るとも思っていない。けれど聖が一年で変わったのも事実だから、否定も肯定もできない。


「亮悟って本当に父性持て余してるよな」

「とっとと婚約でも何でもすりゃあいいのにな」

「二人とも、うるさいよ」


 深く思い悩み始めた二年をよそに、海人と庄司が声を潜めて笑った。それを聞きとがめて亮悟はいつもの笑みで二人に向きなおると持っていたペンでトンと机を叩き、教科書を捲った。「早くここやっちゃって」という無言の圧力に二人揃って顔を引きつらせる。いつもの笑顔がこんなに怖いと思ったことは未だかつてなかった、今なら直治よりも怖いかもしれない。


「容赦なさすぎだっつの!」

「聖、おつかれ。はいお茶」

「亮悟先輩。ありがとッス」


 噂をすれば影と言うわけじゃあないけれど、聖が空気も読まず入ってきた。文句を言いながら汗を拭い、横柄にも思える態度でお茶を無言で所望する。しかし誰もがそれを差し出すのを躊躇った。どうして自分たちが勉強して苦しんでいるのに、どうして一人だけ遊んでいた奴に優しくしてやらなければならないんだ。そう思ったら手を出せなくなって、その間に亮悟がお茶とタオルを渡した。
 差し出されたそれらに聖は嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべて一気にお茶を飲みほした。そしてそれを置いて、空いているソファにドカッと体を投げ出す。なんだ、この横柄な態度は。


「聖も少しは勉強すればぁ?」

「いい。面倒くさいし、俺バスケしてる」

「その言い方がムカつくっつーの!こうなりゃ聖の順位抜いて土下座させてやる!」

「いや、寿季じゃ無理でしょ」

「晃が!」

「俺か」


 ぎゃんぎゃん騒ぎ出した寿季を聖は下らなそうに一瞥し、鼻で笑い飛ばした。その態度にまた寿季は「なぁんだよぉ!」と大騒ぎし、皆で揃って耳を塞いだ。
 誰もがいくら晃でも聖に勝つのは無理だよ、と思ったが強ちそうではない。多分それに気づいているのは聖だけだろう。それは外から見ている三年レギュラーにも少し分かるところがある。否、彼らにしか分からないものもある。聖が今の成績を守っていられるのは、その場所に留まっていなければならないからだ。他に誰にも分からないものだけれど、何かを守るためにそこに留まっている。だからきっと、聖からその柵がなくなればもっと脆く、そして輝けるはずだ。


「負けるわけねぇだろ。俺、負けるの大嫌い」


 そうにやりと笑った聖の顔はいつもと同じように見えたけれど、亮悟にだけはそれが違和感のあるものに思えてならなかった。けれど聖はそれ以上何も言わないだろうから、ただ目の前で赤点の数が二人揃えて全教科みたいになりそうな奴らをどうするかに意識を集中させた。










 深夜になっての散歩を聖はやめることができず、毎日のように聖はあの公園を煙草片手に歩いた。煙草片手と言いながらも別に吸う訳ではなく、ただ本当に持っているだけ。あの日に出逢ったあの少年とはあれから毎日あった。その度に出会いがしらに何も言わずに拳を交え、特に言葉を交わすことなく別れていたが最近では少し会話をするようになった。ただお互いに、まだ名前を名乗っていない。


「テスト前だなー……」

「じゃあ、こんなところで遊んでいないで大人しく家で勉強でもしてれば良いじゃないですか」

「つか、お前もじゃねぇの?いくつ?」

「中一」


 名前を名乗っていないが、背中合わせのベンチに端っこに分かれてでも座れるようになった。今は聖が煙草を銜えて、その斜め後ろに少年が缶ジュースを持って座っている。お互いに顔を見るわけではないのに、何となくこの位置が心地よかった。


「じゃあ中間もうすぐじゃねぇの」

「僕はいいんです、頭良いですから」

「すっげ自信」


 少年の言葉に聖は喉で笑い、紫煙を吐き出した。笑ってはいるけれど聖はまだ自分の胸の中に燻っている不安やら焦燥に対してはなにも解決を見つけていない。ただ確証もなくどう動けばいいのかすらも確かではなく、立っている場所はひどく不安定だ。不安定ではあるが少しずつそれもしっかりしてきたように思われる。気のせい、かもしれないが。


「だから、こんなになっちゃったのかもしれないですけどね」

「は?」

「いいえ、こっちの話です」


 不意に彼が零した言葉に聖は引っ掛かりを感じて顔をもたげた。ゆるゆると上に昇っていく紫煙に何気なく視線をやりながら、彼がもしかしたら自分とひどく似た人間なのではないかと思った。けれどそれを確かめる術もなく、質問を重ねることも許さない雰囲気に何も言えずに聖はそれ以上言葉を紡げない。
 ただ聖は、家に縛られない代わりに今の場所を守ると決めた。角倉の人間としての責務を果たす代わりに好きな事をする、という約束を違えないために今の位置に聖は立ち続けなければいけない。時々それが、ひどく辛く思えるときがある。どこにも拠りどころがなく己の力だけで立っていなければならないのはときにひどく不安で苦しいものだから。だからこの少年もそう思っているのではないかと、そう思った。


「なぁ」

「はい?」

「一つ訊いていいか」

「質問によります」

「お前は辛くねぇの?」

「……質問の意図を図りかねますが」

「じゃあいい。ナシナシ」


 確かにそうだと自分自身に苦笑して聖が首を横に振るが、背後では沈黙が降りている。多分聖の質問の意図を理解した上での答えだったのだろう。どんな言葉よりも雄弁に答えてくれている。彼も不安定な立ち位置にいて、同じように苦しんでいる。だから聖と同じように、こうして晴れぬ胸のうちの発露のように拳を交えた。
 やはりお互いに、良く似ているのかもしれない。ただそれを口にしないから、それ以上の言葉は生まれず沈黙だけが降りた。










 夜が更ける前に家に戻った聖は、今日も玄関ではなく自室の窓から部屋の中に転がり込んだ。いつもなら丑三つ時を過ぎてから帰宅しそのまま布団にもぐりこむのだけれど、テスト前だと言う妙な焦燥で滅多に開かない教科書を開いた。ただ何も書かれていない教科書をパラパラ捲っても何も興味が持てなかった。
 日付が変わるギリギリではあるけれどもうみんな寝ていると思ったし、物音もそんなに立てた覚えはない。けれど、どこで聞きつけてきたのか廊下から足音が聞えた。その音が部屋の前で止まったかと思ったら、襖の向こうから声がかけられる。


「聖さん……いらっしゃいますか?」

「美月さん?」

「よかった。失礼しても構いませんか?」

「どうぞ」


 夜中だというのに姉だった。夜中なのにとか一応男女なのにとか、そんな懸念は聖の中に全くないがそれでも彼女がこんな時間に訪れることには疑問を覚えた。もう寝ていると思っていたのに珍しい。もちろん聖は拒むことなく彼女を招き入れる。夜着の上に羽織をかけた状態で美月はすっと必要な分だけ開けて入ってきた。入り口にすっと腰を下ろすので、聖は軽く笑って手招く。そんなに遠慮する間柄じゃあないのに。


「そこ、寒いですよ?」

「……はい」

「どうしたんですか?俺に相談?」

「相談と言うほどじゃあないんです!」


 腰を浮かした状態で声を荒げた美月をみて相談だなと直感し、聖は机から美月に向きなおった。膝を付き合わせるようにすると、美月は俯いて何も言わなくなる。その状況から言い出しにくいけれど他の人間にはもっと相談できなくて、つまり聖にだけ相談できそうな内容。もともとこの家で相談事なんて中々できそうにはないけれど、美月には友達だっているはずだ。それでも駄目となると大分限られる。少し考えると、聖はいくつかの候補を見つけた。


「もしかして、海人先輩?」


 そういえば海人先輩が美月とクラスが違ってしまって大分落ち込んでいると護先輩から聞いた。それを聖を含めて三年レギュラー全員でからかったけれど、そういえば楽しんでいる訳ではなくて当人たちは切ない思いに駆られているのだろう。そういえば聖は茜とクラスが分かれても切なくなんてない。
 鎌をかけてみると、美月は面白いように顔を赤くして身を縮ませた。その反応に正解だと表情には出さずに笑い、美月に詰め寄った。


「クラスが分かれちゃったそうですね。淋しいですか?」

「そ、そんな……」

「海人先輩は淋しそうでしたよ?」

「えっ……」


 やっぱり正解らしく、美月は覗きこんだ聖と目を合わせないように顔を逸らす。そして、まだ小さい声で「紀仁さんのことです」と無茶な誤魔化しを試みた。確かに美月の婚約者は紀仁だし、彼とは今聖も将来義兄弟になるという点を全く考えずに親しくしている。あの性格なら、美月が海人を好きでいても笑って許せそうな雰囲気だから良いと思うのに。


「美月さん、海人先輩のこと大好きなんですね」

「…………」

「いいんじゃないですか。海人先輩もきっと美月さんのこと好きですよ」

「でも、大沢君はいつも意地悪で……」

「好きな子ほど虐めちゃうってやつですよ」

「聖さんは、いつも優しいですね……」

「……そんなこと、ないですよ」


 美月の言葉に聖は一瞬声を詰まらせた。優しいなんていわれるとは思っていなかったし、優しいつもりなんて一欠けらたりともない。いつだって誰かを傷つけることしかできない自分は、もしかしたら偽善なのかもしれない。
 結局その日はそのまま美月と他愛ない会話をして、気が付けば布団の上に二人揃って転がるようにして眠ってしまった。何だか胸の中に溜まったもやもやしたものは、増えることはなかろうとも減ることもなかった。





−続−

聖さんが好きなものは、実はあまり増えていないようです。