テスト期間はあっけなく終わってしまった。部活がない間に遊びに行こうと思ったのにだれも遊んでくれないどころかだいぶ邪険にされて、結局主に直治先輩が遊んでくれた。あとは結果を待つばかりだとテストが終わった瞬間には、誰の頭からもついさっきまで使っていた数式などがぽろっと零れおちて遠足のことに絞られている。
 今年もそんな時期か、と何となく聖は思っただけだった。どこに行くとか誰と行くとかそんなことは全く気にならなかったけれど、前日に龍巳の家に泊まりこんでそのまま一緒に運んでもらったので龍巳に文句を言われたくらいで全く問題はなかった。


「水族館」

「遅ぇ」


 到着した場所が水族館だったことに聖は素直に驚いた。もちろん知っていて然るべきことなので龍巳が不機嫌な声で突っ込んでくるが、気にしない。遠足だから貸切のようで周りに一般人の姿はない。今日ばかりは制服でなくていいから聖は簡単に腰に紫陽花の刺繍の入った七部袖のカットソーの上にジャケットを羽織っている。アクセは自分で買ったシルバーのチョーカーが一つと、あのプラダの腕時計。
 去年同様に遠足はクラスで作った班で動けと言われたが、やはり去年同様に聖は一人でぶらぶらするんじゃあないかと何となく思っていた。やっぱり一人でいる癖が抜けないのかもしれないと自分自身に苦笑を禁じ得ないけれど、結局集まってくるのはいつもと同じメンバーなのだろう。


「いたいた聖!」

「寿季うるせぇ。魚逃げんじゃん」

「いや、逃げないから」


 水族館の入り口で駆け寄ってきた寿季に対して向けた聖の言葉にはやや本気の色が見て取れた。思わずつっこんだけれど、初めに口にした本人は全くなかったことにして早速中に入って行ってしまった。慌てて追いかけるけれど、聖は全く意に介していなかった。


「あれ、龍巳たちの取り巻きは?」

「取り巻き?……あぁ、誠なら別行動だ」

「へぇ、珍しい。って、あれ?聖は?」


 まるで子供のように先に行ってしまった聖はどうせ館内のことだからと放置してしまったけれど、ふと目をやるともういなかった。慌てて周りを見回してもどこにもいない。龍巳もそのことに気付いていなかったようで、眉間に皺を寄せて見回している。隣にいた葵も晃も気付かなかったようだ。
 ただ中にいるのは決まっているので、ゆっくりと見物しながら進んでいくことにした。そうは言っても別に興味なんてあまりない。魚を見てもどれが何だか分からないし、寿季に分かるのはせいぜいタコとか蟹とか、そんなものくらいだ。だからきゃっきゃっと騒いでいる女子軍団をひょいひょい避けて先に進んだそのおかげで聖を見つけるのは割りと早かったのだろう。


「あ、聖見っけ」


 最初に見つけたのは葵だった。じーっとクラゲの水槽に見入っている。ただ半透明の物体が水の流れに沿って浮遊しているだけのように見えるのだが、聖の目は食入るようにそれを見つめていた。何となく、聖が好きなものを一つ知ったような気がした。近づいて声をかけるのも憚られて、思わず遠くから眺めてしまった。まるで子供のような無垢な表情で、クラゲだけをじっと見ている。


「聖って、クラゲ好きなの?」

「……ん?なんだ、茜か」


 聖に近寄った影があったかと思ったら、現在の聖の彼女ポジションに納まっている彼女だった。クラゲから僅かに離れた聖の目が水槽の硝子越しに彼女の姿を確認している。どうやら今は彼女よりもクラゲの方に興味があるようで、寿季は少し驚いた。
 聖はすぐに視線をクラゲに戻して、再び半透明の浮遊物を眺め始めた。その隣で茜が少し呆れたような顔をして、おずおずと聖の手に指で触れる。そうしてやっと、聖は水槽から顔を逸らすと彼女を両の目で捉えた。


「どした?」

「……手、繋いでいい?」

「そんな事一々訊くなよ。繋げば?」


 ほら、と聖はやや乱暴に茜の手を引っ張ると指を絡めて軽く握りこんだ。なんだか慣れている仕草に茜は恥ずかしくなってしまったのか一歩聖から離れた。けれど聖は全く意に介さずに少し名残惜しそうにしながらクラゲの水槽から離れた。それを寿季たちも出刃亀よろしく追っていく。なんていってもお年頃、友人の恋愛は非常に気になるのはしょうがない。
 ゆっくりと水槽の前を移動しながら他愛のない「あの魚は何?」「ヒラメだろ」「本当?」「嘘」「もー!」などという和気藹々とした会話を聞いていて少しイラッとしたけれど聖らしく、にも拘らずどこかに違和感を感じた。


「あの、さ……聖」

「ん?どした?」


 水族館の出口まで来て土産コーナーでぬいぐるみを真剣に見ていた聖は、思いのほか重い声を開けられて後ろを振り返った。多分これからシリアスな展開になるだろうとは思っているのだろうが、クラゲのぬいぐるみを抱えていたら台無しだと思う。けれど、寿季たちは全員で聖にクラゲの抱き枕を買ってあげることにした。少し早い誕生日のプレゼントだ。


「そういえば龍巳もプレゼント欲しい?」

「いるか」

「じゃあ何か気が向いたらな」


 龍巳のプレゼントなんて聖のと違って真剣に探さないと捨てられそうなので容易に渡せない。聖は良く使う持ち物自体は値が張るけれど、それ以外にも何でもありな気がするからあげやすい。なんだか缶ジュース一本でも良いようなそんな感じだ。
 寿季たちが近くにいるのに聖も気付いているのだろうが完全に無視で、真面目な顔をしている彼女を見て僅かに首を傾げた。


「どした?」

「聖はさ、どうして私と付き合って良いって思ったの?」


 あれはもう半年くらい前のことだっただろうか聖が三股掛けているのがばれた時、茜だけが傍にいさせて欲しいといった。多分彼女の中には常にあった不安だろうけれど、それを蒸し返してくるとは当事者ではない寿季たちの方が驚いてしまった。
 けれど聖は驚いた風もなく少し考えるように宙を仰いだ後、手元のぬいぐるみの抱き心地を確かめるようにぎゅっと抱きしめて微かに笑った。


「お前だけが利害関係なかったから」


 さくらも美鈴も聖が角倉の人間だからと言う理由で近づいた節がある。その中で茜だけがきっと、そんな利害も関係なく聖自身に惹かれて始めて傍に寄ったのだろう。それを聡く感じ取った聖は、だから彼女に安堵した。良く考えたら、一番一緒にいた時間が長いのは性格も手伝ってだんとつに茜だったかもしれない。
 けれど聖の言葉に茜は喜ぶのではなく不安な表情を浮かべた。聖の目はそれを捉えずにぬいぐるみの色を比べていたが、多分体で感じ取ったではないだろうか。彼の体がほんの一瞬だけ強張ったのに寿季は気付いた。


「もし私が……町谷さんみたいに聖のバックに興味があるって言ったら、どうする?」

「……。別にどうもしねぇよ」


 僅かな沈黙が何を意味していたのか聖にしか分からない。寿季には到底理解できないであろう沈黙の後、聖は表情を変えずにぬいぐるみを選びながら冷たいとも取れる声音で言い放った。それを聴いた瞬間の茜の顔には不安と安堵が綯い交ぜになった表情が浮かび、聖は青いクラゲのぬいぐるみが気に入ったのか一度抱きしめてからレジへ向かった。
 ただどうにもしないのは、何もしないという意味とそのまま斬り捨てるという意味が含まれていることに、聖は気付いているだろうか。










 昼過ぎに茜と分かれて、聖は今度こそレギュラーで揃って外のベンチで他愛のない話をしていた。聖はもう一度戻ってクラゲを見ていたかったけれど、何故かクラゲの抱き枕を貰ったので何となく逆らいにくかった。
 特に意味のある会話ではないけれどそれこそいつも通りの下らない会話は、今日ばかりは少しずれていた。今朝の新聞の一面にデカデカと記されていたそれを聖も知っている。


「宮小路の滅亡ってあったじゃん。あれ、生き残りいるらしいぜ」

「あの状況でいるわけねぇだろ」

「いや、いるよ。星が一つ輝いたから」

「葵はもうちょっと具体的に言って!?」


 角倉と双極をなすとまで謳われた名門の宮小路財閥が、一族使用人に至るまで全員が殺されるという事件が起きた。それを知ったのは新聞ではなく、周りの噂だった。新聞よりも先に流れてきた噂が信憑性を持ったのは三年に在籍していた宮小路の長男が学校に来なくなったからだ。何が原因かは分かっていないけれど、それは宮小路は制裁を受けたのではないかと言われている。または、階級間での企業争いの発展。もっとも疑わしいのは角倉だといわれているが今のところ聖はなにも聞かされていない。


「角倉がやったって噂あるけど。あれマジ?」

「知らね」

「だろうな」

「じゃあこういうの知ってる?過去最高の点で入って来た新入生!」


 話題はころころと変わっていく。寿季が一番の情報通なのだが、一体どこがソースなんだろう。寿季の話では、過去最高の点数をたたき出して中等部に編入してきた少年がいるそうだ。なんでも有名な華道の家元の老夫婦が道楽で引き取った少年が入学して来たと言う。もともとその家は旧家で子供もいたけれど、みんな成人してしまった。跡継ぎも育っている。けれど引退して暇を持て余した老夫婦は慈善事業だと懇意にしている孤児院から一人の少年を引き取ったそうだ。


「あんま興味ねぇな」

「聖はそうだろうね。筧吉野って言うんだって、あの筧だよ?」


 あの筧と言われても分からないけれど、聖は曖昧に返事を返しただけで空を見上げた。なんだか空がとても綺麗だ。もうすぐ夏休みだなと思いながら、耳のピアスに触れる。これをあけて、もうすぐ一年になる。


「噂をすれば、だ」

「何が?」

「あれが例の筧の才子」


 晃が低い声でそちらを指し示すので、全員でそちらに目を向けてしまった。そうして、聖だけが目を見開いて思わずベンチから立ち上がる。無意識のうちに、抱きしめていたぬいぐるみを寿季に押しやるとジャケットを脱いでこれは葵に押し付けた。
 視線に気付いたのだろう、その少年がゆっくりと視線を巡らせて聖を見た。そうして、ゆっくりと妙に嬉しそうに唇を引き上げる。地面を蹴ったのは、二人同時だった。


「聖!?何、どしたの!?」


 それはいつもと同じ邂逅のはずだった。だからお互いに何も言わずにお互いに向かって拳を絡ませる。同時に突き出した右ストレートはお互いに顔を背けることで回避した。聖のほうが一瞬早く腕を引いて、腰を落とすと同時に右足を伸ばして払いをかける。それをジャンプで交わされて、次の瞬間には飛んでくる拳を予測して腕でガードを出した。今日もまた、引き分けだ。


「明るい所ではハジメマシテ、筧吉野クン」

「初めまして、角倉聖先輩?」


 きっとお互いに相手のことは薄々気付いていたのではないだろうか。けれど確かめないからあえて言葉に出していなかった。だから、話を聞いてしっくりきたのだろう。この少年は、自分と同じだと。聖と吉野はお互いにゆっくりと拳を戻すと少し乱れた髪を戻しながらお互いを具に監察した。先に口を開いたのは聖だ。


「俺の名前知ってんのかよ」

「有名ですからね。そちらこそ僕の名前知ってたじゃないですか」

「俺は今知ったんだよ」


 軽く口の端を引き上げて、聖は笑った。詳らかになったお互いの正体に何となく別れるタイミングを失ってしまった。それは相手も同じだろうが、吉野は友達と歩いていたわけではなかった。一人でどこかに行く予定だったのだろうか。
 不意に、喧嘩だと叫びながら走ってくる声が聞こえた。反射で辺りを見回すと首からIDカードを提げた大学生と思われる青年たちがかけてくる。これはヤバイと聖は早くも逃げ出そうとしている吉野に向かってさっき自分が買ったぬいぐるみを投げつけた。


「やるよ、それ」


 不可解な顔をした吉野は、けれど近づいてくる見張り番から逃げるのが先決だと判断したのか踵を返すと人ごみにすぐ紛れてしまった。それを悠長に見送っていたら、後ろから晃に腕を引かれて思わずよろけた。


「何すんだよ!?」

「俺たちも逃げるぞ」

「あ、そっか」


 追われているのは吉野だけではなくて自分もだと思い当たって、聖は軽く笑うと葵からジャケットを受け取って一目散に逃げ出した。人ごみの中で逃げるのは得意だし、これだけ多ければ簡単だろう。それにしても、チクった奴は誰だったのだろうか。
 五人でバラバラに逃げたけれど、何故か聖だけが海人先輩にとっ捕まって亮悟先輩の前に引き釣り出され説教を喰らった。本当に、最初に騒ぎ出した奴を見つけて殴ろうかと思った。





−続−

吉野さんが出てきた