校外研修なんていってもやることはただの旅行だ。有名な場所をクラスで回ってそこそこ楽しかった。もともと好奇心は強いほうだし、来てしまえばそれなりに楽しめるようだ。けれど、聖の胸は重かった。宿泊する予定になっているホテルは角倉が経営している。もともとは役員の保養所として作られた施設だから日本人なら満足できるはずだけれど、だからこそ聖の気は進まない。


「全体的にすげぇね!」


 温泉から帰ってきて聖はベッドに倒れ、俊哉の改めた感想を聞かされた。確かに何でもあるし温泉はどこからか引いてきたものだった。日本にいてもこんなに豪遊できないと思われるが、なにもこんなところまで来てこんな思いはしたくなかった。ここは兄も利用している施設で、眼が光っている。何を報告されたものか分からないのである意味監獄に等しい。もしかして、それを狙ったのかもしれないが。
 聖が、ここが角倉の経営するホテルだと知ったのは飛行機の中でだった。紀仁に世間話のついでにされてものすごく驚きやはり来るんじゃあなかったと心底思った。昼間はテンションがあがったから気にしていなかったけれど、夜になるとテンションも下がるのでその分後悔も襲ってくる。


「バスケ部は練習しなくていいの?大会もうすぐっしょ?」

「うちは関東まで俺らの出番ねぇから大丈夫」

「へぇ、さすが。あ、俺土産とか見てくるけど聖どうする?」

「俺は……」


 鞄の中から財布を見つけ出した俊哉がまだベッドに濡れた髪のまま寝転がってる聖に問いかける。土産で思い出したけれど先輩たちに買ってこいと言われた。ただ滞在日数はまだあるな、と思考が一瞬にして駆け巡り言葉を選んでいると、部屋がノックされた。誰かが呼びに来たのかと思ったけれど入ってくる気配もないので、会話はここが切れて二人で顔を見合わせた。
 ドアに比較的近い俊哉が出てみると、茜が立っていた。それをベッドの上から見て聖は眉間に皺を寄せる。なぜ昼間は笑っていたのにこんなにも泣きそうな顔をしているのか分からない。ただここにくるということは聖が原因のようだ。茜はそういう子だ。


「茜、どした?」

「…………」

「悪い俊哉、ちょっと」

「俺買い物行ってくるから。戻るときメールするし」

「悪いな」


 呼びかけても俯いただけで返事のない茜の様子は明らかにおかしい。聖は少し待ってから俊哉に目を配った。空気で何かを察したのか俊哉は何事もないように軽く手を上げて財布と携帯だけを持って出て行ってしまう。たぶん戻ってくるときにメールなんてしないだろう。聖からの収拾がついたとメールを待つような気がする。この部屋は俊哉の部屋でもあるので多少申し訳ないと思いながら、すぐ済むだろうと楽観していた。
 俊哉が部屋を出て行ってから聖は、茜をベッドに座らせた。その隣に座ってどうして煙草を持ってこなかったのかと後悔した。


「茜、どうした?」

「…………」

「何か飲むか?水しかねぇけど」

「……聖」


 声をかけても口を開く気配がなかったので、聖はベッドから降りて水を出そうと冷蔵庫へ近づいた。けれど開ける前に泣きそうに震えた声に呼ばれる。冷蔵庫からペットボトルを出してから振り返ると、茜は俯いたままだったけれどその手は膝の上で白くなるくらい強く握り固められていた。
 何かあったなと、しかもそれが自分に関することだとはすぐに分かった。でもあれから茜以外の女の子とデートした覚えも遊んだ記憶もない。やましいところはないはずだ。


「聖、さ……。私のこと邪魔になったら、すぐに言って」

「……どういう意味だよ」

「私、聖の傍にいたいって言ったけど……聖が他に好きな子いるなら、いいから」

「意味分わかんねぇんだけど。何があったんだよ、俺お前以外の子となんかした記憶ねぇんだけど」


 たどたどしい茜の言葉は辛いからだということは分かっている。けれど原因もはっきり言わないから思わず聖の声も苛立ちを交えた。彼女にはきつかったと思ったのは口に出してからで、もう取り返しがつかない。何か言い繕うとする前に、茜の目から涙が零れた。一粒零れたそれは次々に握り締められた拳の上に落ちるけれど、髪が邪魔して聖からは彼女の顔を窺うことはできなかった。
 一つ深呼吸して、茜のとなりに腰を下ろす。ペットボトルはサイドラックの上において、茜の手を上から包むように握った。彼女の涙が、手の甲に落ちる。


「傷つけるようなことしてねぇからさ」

「……湊さん」

「舞依?」

「湊さんに、クリップ買ってあげたんでしょ」

「あぁ……」


 あれか、と聖は合点した。まさか舞依が着けるとは思っていなかったからその可能性は完全にないものと思っていた。確かに彼女以外の女にものを買ってやるのは軽率だった。茜には食事を奢ったことはあっても形の残るものを贈ったことはない。残るものは重いと勝手に思っていた。だから舞依に買ってあげられたのはそれだけ彼女が友達であるということなのだが。


「前も言ったけど、舞依は女じゃなくて友達。龍巳とかと同じ感じな訳。んで今回あんまりにも頑固だから俺が買ったってだけ」

「…………」

「信じろよ。キスしたいって思うの、茜だけだぜ?」


 事情を詳しく説明したけれど茜は黙ったままで、聖はそっと肩を抱き寄せてみた。もう涙は止まっているようなので今度は怒ってでもいるのだろうか。こういうときは物を買い与えるのが一番だと聞いたけれど、どうしてもそういう気にはなれなかった。物は重いと、どうしても躊躇する。特に未だに信じられない愛だとかそういうものを前提にしたものは。
 ただ自分の言葉ながら信じられないな、と内心で呆れながらもう言うこともなくて黙っていると、茜はぽつりと聞き取れないくらいの小さい声で何かを呟いた。


「…………て……」

「あ?」

「……抱いて……」

「……本気か?」


 聞き取れた言葉に本当かどうかたずねると、茜はゆっくりと一つ頷いた。確かに今までも聖がそういうことを言ったことはあったけれど、そのたびに心の準備ができていないといい続けていた。きっとまだできていないだろうに、茜は赤く充血した目を聖に向けてお願い、と口走った。


「私を、聖のものにして欲しい」

「言っとくけど、体あげるから捨てないでとか言うなよ」

「言わないよ!私の……私の独りよがりだから」

「俺の気持ちとか丸無視か」

「だ、だって!」

「いい、覚悟だけで十分。優しくしてやるから、これで仲直り」


 体と引き換えに心を欲する女なんて腐るほど見てきたし、ずたぼろにした記憶もある。けれどこれだけ必死な茜を見たらそれも満更じゃあないのかもしれないと思った。けれどどうしても聖にとってはそれはコミュニケーションの手段でしかない。だからきっと、仲直りなんて言葉も上っ面だけのものだった。
 校外研修は、予定通り無事に終わった。あの日は俊哉は幼馴染の部屋に泊まったらしく、詳しく事情を話せとせがまれた。けれど何となく、聖は誰にも口を割らなかった。










 大会の合間の研修でどうなることかと思ったけれど、無事に関東大会を勝ち抜いて先輩にバトンを渡すことができた。そういえばこの大会が終わると実質二年主導で部活が回っていくんだなと思うと変な気持ちだった。卒業してもそのまま高等部へ進むから離れてしまうわけではないはずなのに、何となく寂しい。
 大会もまだ関東大会が終わった時期に、聖は幼馴染から連絡を貰って久々に遊びに出た。校外研修の土産も買ったから、ついでに渡してしまおうと思って五つ分持ってきたのに集合場所にいたのは一人の少女だった。


「聖!」

「あれ、まだリリちゃんだけ?」

「うん、ごめんね」


 話では久しぶりに六人全員揃うと聞いていたのに時間ぴったりのくせにまだリリだけかと聖が眉根を寄せると、リリはにっこりと笑って腕を伸ばしてきた。そして甘えるように絡み付いてくるその仕草がなんだか媚を売っているメス猫のように見えてしまって聖は一歩引いた。


「みんなは?」

「ごめんね、今日は二人でデートしよ」

「デート?」

「だって聖、そう言ったら来なかったでしょ?相談もあるし。いいじゃん、幼馴染なんだから」


 ね、と笑ったリリの顔は幼い頃から知っている屈託のない顔で、聖は少し安心して一歩またリリに近づいた。そして思い出して、鞄から五つ分の小さなチョコの包みを取り出した。これ土産だから渡してというと笑顔で受け取ってくれる。それからどこに行こうというのか分からないけれど歩き出した彼女に従って歩き出す。


「どこ行くんだ?」

「聖さ、まだ彼女と続いてるの?」

「ん?まぁ」

「うわ、意外。聖って飽きっぽいからもう別れてると思ってた」


 どこに行くのかという質問を無視してリリは聖に笑いかけた。そういえばリリと手をつないで歩いたのはいつ振りだろうと聖は繋がった手を見て思い出した。幼稚園のときくらいが最後だったと思うけれど、リリはそういえば健二とは手をつなごうとはしなかった。昔から聖だけだった。


「私ね、聖にお願いがあるんだ」

「何?マジな話すんならどっか入るか」

「うん。話はホテル入ってからね」

「は?」


 不意にリリが足を止めた。お願いがあるといって笑った顔はどこか女を匂わせる。気がつけば場所は歓楽街から僅かだけ離れた裏道で、ここは今にもつぶれそうなラブホテルが並んでいる。昔はそういう意味で栄えていたそうだが、にぎわう場所が変わったようだ。聖も昔この辺で遊んでいて怒られたことがある。そのことを思い出させるからかなんとなく居心地が悪くて踵を返そうとするが、リリに手を引かれて色あせた建物に連れ込まれた。真面目な話で人に聞かれたくないのかそれ以外に目的があるのかすら聞けない状況でリリが手際よくキーを受け取り、あれよあれよというまに聖は大きなベッドに座っていた。


「聖、ホテル初めて?」

「や……何回か来たことあるけど」

「そうなんだ。年上のお姉さん仕込って言ってたもんね」

「リリ?お前、まさか……」

「覚えてるでしょ?クリスマスのときにデートしようって言ったの。私、あのときの聖が忘れられなくてね」


 幼馴染に誘惑されるのも悪くないなと思わせるほど、リリの成長は早い。先日茜と寝たせいかなんとなく聖の中の価値観が変わりつつあるような感覚があり、聖はそれを振り払うように一度目を閉じた。ゆっくりと開くと、ごく近くでリリが誘うように笑っている。


「健二たちとヤル時も、ずっと聖のこと想像してたんだぁ」

「お前ら、まだそんなことしてたのかよ」

「ん。だってきもちいーもん」


 きっとリリと茜は違う。それは環境とかのせいではないと思うけれど、やはり聖はこちら側の人間だ。まるで茜との夜を否定するように聖はリリの腰に腕を回した。あんなにお綺麗な世界にばかり沈んでいたらいつか自分が自分ではなくなるような気がして、いつの間にか馴染んでいた世界に自分で身震いした。





−続−

ドロドロだな