夏休みが終わる前に関東大会は終わる。無事に二年レギュラーは例年のことではあるけれど無事に全国大会出場を決めた。そうしてまだ暑い中二学期は始まる。二学期の頭に今年も実力テストをやって、それが終わると文化祭の準備に取り掛かる。去年とは違い今年は聖はこの行事が少し楽しみだった。
 去年と同じ時間にクラスの出し物を決める話し合いが行われた。聖は後ろの紀仁の席に向きながら黒板をなんとはなしに見やる。近くでは俊哉が友達と喋っているのが見えた。時折こちらに向けてくる視線が気になる。


「クラスの出し物でやりたいものがある人は挙手してください」

「アンティークカフェがいいです!」

「アンティークカフェ?」


 まず始めに俊哉が勢いよく挙手をしてなぜか聖を見てにやりと笑った。アンティークカフェなんて確か去年やった気がする。去年は豪奢なドレスを着て座っていただけだけれど、それはそれで面倒くさかった。それを思い出して、ゾクッとした。まさか再びあの格好をしろとでも言うのだろうか。去年はひっきりなしに人が来て写真をバシャバシャ撮られた記憶しかない。
 実際に聖が僅かに体を起こして強張らせていると、俊哉はすうっと唇を引き上げた。絶対にその顔は狙っている。


「だって去年の聖、超可愛かったじゃん」

「てめっ!」

「もう一回見たいなぁ」


 顔をニヤニヤさせた俊哉が、机の中から何から数枚の紙を取り出した。それが何かと目を少し細めると、去年の文化祭の写真だった。聖が澄まし顔でいる写真だった。あまりにも撮られすぎて飽きて無表情になっていたときの写真だ。無表情にしていても色っぽいと自分のことながら他人事のように思った。というか、女みたいだ。


「聖やっぱり可愛いね」

「嬉しくねぇし、もう着ねぇよ!」


 紀仁は朗らかに笑っていうが、笑い事じゃあない。そもそも去年よりも背が伸びて身体の線もだいぶ筋肉がついて男らしくなった。紀仁がまだ大丈夫だよというけれど何が大丈夫なのか教えて欲しい。クラスでも大半が聖の女装を知っていたようで、なんだか急に賛同の声が増えてしまった。それに困惑しているのは聖と光る君だけだ。光る君はこの話をまとめないといけないからという理由だから、本当に企画に危機感を覚えているのは聖だけのようだ。


「つーか俺、今年はクラスそんなに参加しねぇからな」

「なんで?」

「今年は部活出るから」

「バスケ部、今年も賭けバスケだっけ。そんなのよりもクラス企画のほうがいいと思うけど」

「そりゃ内容によるだろ」


 バスケ部は毎年恒例の賭けバスケをする。そのためと全国大会の調整を兼ねた実力測定が近々行われる。去年は参加させてもらえなかったので今年はできればフルで参加したかった。多少ならクラス企画に付き合ってもいいと思えるようになったのは去年に比べて大きな変化かもしれない。
 俊哉が聖の女装がもう一度見たいと一人で大騒ぎして、それを光る君がいろいろと冷静に反対している。ただ彼の反対は論理的な可能性の否定であって聖を擁護するものじゃあない。なんだか教室が聖の女装、みたいな雰囲気になっている中すっと手が上がった。あれは確か、誰だったか。


「芝居か何かにすればいいんじゃないかな」


 その少年はちらりと聖を見ると、部活の方にも出れるし女装もやろうと思えばできると提案してくれた。それはありがたいことのようなありがたくないことのような。確かに部活の時間は作れるけれど、それでは女装が決定ではないか。それもそれで嫌だと思ったら彼は妙に爽やかな笑みを浮かべていた。


「どうせやるならみんな見てもらったほうがいいだろ!」

「…………」

「聖、目が据わってる!!」


 味方かと思ったらこいつも敵か、と聖は目を眇めた。どいつもこいつも人のことを見世物みたいに扱いやがって。一発分殴りたくなって腰を浮かしたけれど、その前に紀仁に腕を掴んで止められた。何よりも人に扱われるのが嫌いな聖のことを知っているのか彼はにまにま笑っている。一体何のつもりだと唾を吐き出したくなりながらも席に座りなおすと、紀仁が顔を寄せてきて教えてくれた。彼はムエタイ部のエースだよ、と。世界最強の格闘技といわれるムエタイは部活動ではなく格闘技部の一種目である。けれどそこでエースでは聖は勝てないかもしれない。そう思う周りは正しいけれど、聖はそうは思わない。喧嘩だったら負けない自身は常にある。


「じゃ、ステージで出し物で決定で」


 二年になれば部活を優先する生徒が当然去年よりも多くなるからこの選択は間違っていなかった。それからすぐに準備に入り、その指揮はなぜか紀仁と光る君が執った。光る君は学級委員という役柄当然だとしても、紀仁はただのおべっかだろう。何となく聖はまだ彼がクラスに馴染んでいないような気がして、教室で作業している間に何気なく見ていた。










 文化祭当日、今年もまた聖をからかうためにだめステージを見に来た三年レギュラーは周りから聞いた話だけで実際に聖がどんなことをするのか全く知らなかった。知っている情報といえば聖が女装することとクラス一丸で舞台を作ったことだろうか。聖に訊いたところで何をやるとか頑なに言わなかったから、これは相当出番が多いのだろうと思っていい席を取るために時間の前から並んでしまった。
 やがて開演を知らせるベルが鳴った。次第に暗くなってくる講堂内に妙な緊張感が生まれる。クラス企画のタイトルだって酷くぼかしてあったのだから。そうしてゆっくりと舞台の幕は上がる。照明が暗かった舞台の上を柔らかい光で包んだ。


「春や いくとせ おしまるる」


 照明に照らされた女は、綺麗な着物をまとい顔を薄物で隠している。ちらりと見えた赤い唇から零れたのは肉声であるはずなのに講堂を包み込んだ。その澄んだ声音は少女のものよりも幾分も低い。唄にあわせて聞こえる三味線の音はまるで邪魔をしないかのように控えめに響いていた。


「身に相応しき 振りの袖 包むにあまる 色や草」


 声と共に動くたびに着物の裾が、顔を隠す薄物が揺れる。細い指が何かを探すようにすっと伸び、けれど何も掴まずに切なげに下ろされた。足の運びも声も完璧なのに顔を見せない姿が目を惹きつけた。
 姿を見て、声を聞いて。所作を追って。胸が締め付けられるほど切なくなった。


「うつつなき 桜の色に戯れて 東風は 心に流れ来る」


 彼女が伸ばした指先に桜の花びらが見えた気がして、海人は目を擦った。けれど当然のようにそんな季節はずれのものはない。けれど目の前にはそれが確かに見えた。
 ふわりと足を踏んだ彼女の薄物がはらりと目元までを曝け出す。真っ白い肌は白粉でも塗ってあるのだろうか、照明に当たったところで異常な白さだった。指と色が違うからなのか照明が僅かに青みがかっているからなのか分からない。けれど、うっすらと笑った口元は少女のようでもあり女のようでもあった。


「空さえ夢の 銀砂子」


 この舞を以前見たことがあるのは五人の中で護だけのようで、四人が舞台に釘付けになっていた。たぶんまだみんな気づいていないけれど、あの少女のような舞娘は聖だ。顔を隠しているから仕方ないかもしれないだろうし、護も見たことがなければ気づかなかっただろう。幼いころに一度だけ見た少女を護は思い出した。その少女も昔、同じように舞をずいぶんと儚げな姿で舞っていた。


「燃ゆる思いを陽炎に たゆたいよれば いつしかに とけて吹かるる緋鹿の子の 手絡に顔も 染め模様」


 この声も聖のもので間違いない。高く澄んではいるけれど相当無理しているだろう。もう声変わりも済んでいるのにこんな声が出るわけがない。そういえば文化祭の練習が始まってから口数が減ったのはこれが原因か。喉にいい飴でも持っていってあげようか。
 それにしても聖がこんな企画に参加するとは思わなかったから少し驚いた。どうせ多少は抵抗したんだろうけれど、ここまで見事な舞を見せるとは。だとしたら角倉の人間が見に来ているのかと視線をそっと巡らせたけれど、その姿は見つけられなかった。


「たなびきわたる静けさを 身にしみじみと入相の 鐘を数えて恨むなり 忍べばまして偲ばるる その足取りの浅みどり」


 なんと切ない姿で舞うのだろう。それが聖だと分かっていながら護は涙が零れそうになった。聖の境遇に同情しているわけではない。境遇で言うのならば聖よりも護の方が格段に同情される余地を持つ。けれどそれを超えて聖は悲しそうだった。けれどその理由は舞と同様に物言わずに内包している。
 ふわりと薄物が落ちた。初めて聖の顔があらわになり、その美しさに会場が息を呑んだのがわかった。


「春や まぼろし まぼろしの 春の調べを君に贈らん」


 最後に聖が微笑んで、照明が消えた。その笑みは少女と女の狭間の表情であり、その年代特有の戸惑いと背伸びが見て取れる。次第に明るくなっていく室内には、人々の鼻をすする音が響いた。それを特に感情のない目で見下ろして護の口元が歪む。まったく、なんて奴だ。こんなことならば先に食べてしまえばよかったものを。


「……すげぇな」

「聖、だったね」

「なんか、言葉もない」


 呆然とした声で呟くチームメイトたちをよそに護は緩ませた口元を隠しもせずに凝りをほぐすように腕を回した。バキバキと骨が鳴る。きっと聖は幕の中で自分がやらかしたことに対して激しく後悔していることだろう。なにせこんなにも大勢の前であの舞を披露してしまった。日舞部からはスカウトがくるだろうしみんなが去年よりも盛大に聖に好奇の目を向けるだろう。自分から目立つ馬鹿な後輩に、護は部の方に戻ってきたら盛大にからかってやろうと決めた。










 体育館内がすごいことになっている。午前中はそうでもなかったのに、午後にクラスの出し物を終えて戻ってみると入りきれない生徒が外にまで溢れかえっていた。みんながみんな聖を探していると龍巳から事前にメールを貰ったので、正面から入ることを諦めて聖は裏から中に入った。


「もう今日、お前出れないな」

「もういい。午前中に超動いたし」


 隠れるように用具入れで昼食にパンを咀嚼しながら聖は不機嫌な声で恨みがましそうにコートの方に視線をやった。実際に午前中は聖と海人のタッグで二対五の試合をしたりして出ずっぱりだったから、休憩と思ってもいいかもしれない。けれどこれだけ人が集まるとも思っていなかったのも事実だった。やはり最後にベールを落としたのがまずかったのだろう。とっさに演技を続けてしまったが、あれがあれば顔まではばれなかっただろうに。


「でも聖、すっげぇ奇麗だったよ」

「……どーも」

「女の子かと思ってたけどね」

「護先輩は早くから気づいていたようだが」

「マジか」


 護が気づいていたといわれても聖は特に驚かなかった。いろいろと聡いところがあるからあの人ならば気づいてもおかしくない。それにしても本当に父も兄も来ていなくて良かった。と安心する。パックの『梨』ジュースでパンを飲み下し、もう一袋今度はアンパンを開けた。それにかじりつきながら、こんなところに燻っている仲間たちと会話を続ける。


「聖が日舞できるなんて思わなかったな」

「あー。俺、昔それなりにやってたんだ」

「日舞を?他にはどんなことできるの?」

「奏と三味と、あとピアノも一応」

「さすが聖。まるで芸者さんじゃん」

「護先輩。試合は?」


 急に会話に混じりこんできた護に向けた問いかけは、もう終わったという一言で片付けられた。何をしに来たのかと思えば、何も言わずににやにや笑っているだけで気持ちが悪い。こんなだったら何か言ってくれたほうがいいのに、護は何も言わなかった。結局口を開いたのは聖の方。


「何ですか?」

「いや、俺の初恋の子にそっくりだったから」

「初恋?」

「そ。俺も昔日舞見たことが会ってさ、俺が始めてお嫁さんにしたいって思ったのってたぶん聖だな」

「亮悟せんぱーい!護先輩が気持ち悪い上に口説いてくる!」


 何を言っているか分からないから、追っ払いがてら亮悟に声をかけた。すっ飛んできた亮悟が護を引きずって行くの見送って、行き成り寿季が初恋の話題なんかを持ち上げてくる。いつだったと順番に問いかけてくるからまだだと言えなくて、聖は適当な女の名前を答えた。明確な恋なんてしたことがない。いつだって適当に流されているだけだ。


「龍巳は?」

「……小等部入学祝いの座敷に来た女」


 寿季だってもともとはっきりと答えて欲しかったわけじゃあないだろうに、龍巳は珍しく話す気があるような声を出した。
 小等部入学祝に座敷を設け、そのときに呼んだ芸者崩れの女と共に来た同年代ていどの少女に淡い恋心を抱いたなどという話を龍巳の口から聞き、その際に勝手に一方的に結婚の約束までして唇を奪ったそうだ。話だけを聞くと酷く傍若無人で寿季も葵も騒いでいるけれど、聖は黙り込んだ。そうして自分の中の記憶を手繰る。まだ角倉に引き取られる前、母と一緒に座敷に出たことがある。


「それ、俺かも」

「は?」

「龍巳の初恋相手、俺だ」


 思い出した過去に聖は苦笑いを浮かべたけれど龍巳は固まっているし他のメンバーも言葉を失っていた。その中で聖がゆっくりと思い出した記憶の欠片を言葉にして並べていく。
 母は夜の仕事をしていた。そちらの関係でいろいろな知り合いもいたから聖もいろいろな習い事をすることができたのだが、仕事を頼まれることもあった。その日は確か抱えの芸者が熱を出して寝込んでしまったために替わりに座敷に出てくれないかといわれた。母も大抵のことはできたのでお互い様だと了承し、聖と同い年の子もいるからと息子を連れて行った。そこで確かに一方的に結婚の約束をされて唇まで奪われた。ファーストキスじゃあなかったけれど。
 思い出のあらましを語ると、黙っていた龍巳がゆらりと聖の前に立って拳を握った。


「ちょっ待てよ!悪いの勘違いしたお前だろ!」

「うるせぇ」

「理不尽だ!」


 さすがに殴られてたまるものかと聖は身体を翻す。途端に狭い用具入れが始まり、物があることをいいことにあっちへ飛んだりしていた。お互いに譲らずに軽く汗をかいてきたころ、呼びに来た舞依が中の光景に驚いていた。まだ聖と舞依の関係は、ぎこちない。
 そうして文化祭は無事に過ぎ去ったけれど、それから一月ばかり聖はいろいろな人から追い掛け回されて見世物のようだった。





−続−

惜しむ春っていう長唄を引用しています