新宿区立の公立中学では、体育祭は九月の終わりに開催される。夏休み明けからは体育の時間は練習に当てられるし部活の時間も削られる。だから盛大に体育祭が終わった後はみんな屍のようになって一週間は使い物にならない。
   その一週間が過ぎた頃、リリの様子がおかしいことに最初に気づいたのは健二だった。学校を休みがちで食欲もなさそうなのに妙に嬉しそうな顔をしていて、時折何かを気遣うようなそぶりを見せている。いつも活発な彼女からは見たことがない行動だった。


「リリ」

「んー?」

「今夜ヒマ?カラオケ行かねぇ?」

「いかない」


 最も変だと思ったのは、誘っても乗ってこないことだ。中学に上がって悪い遊びを覚え、頻繁に馴染みのカラオケで性行為を繰り返す。健二たちの間でカラオケはそういことをする場だという認識で、リリも当然そうだ。今までは誘えばすぐに乗ってきたのに夏休みが終わってからは誘っても一度も乗ってこない。これまで一番の好色に見えた彼女だからこそ妙だった。


「何だよ健二、またリリに振られたのかよ」

「そー、最近釣れないよな。聖でも誘って遊び行くかぁ」


 健二が聖に出会ったのは幼稚園のときで、リリもタクもその頃からの友達だ。小学校でそこにしょーちゃんとヤスが加わった。リリが一人で女の子だということもあり中学に上がってからは学校でそんなに親しく口を利いていないけれど、それなりに会話はするし休みの日は昔と変わらずに一緒に遊びに行く。
 授業中に誘ってみたけれど今日もやっぱり断られて、残念すぎて健二が顔を歪めて突っ伏すと後ろからタクがつついてきた。だから身体を起こして背もたれに体重を預けて顔を寄せる。部活で再開してから聖も頻繁に誘うようになったけれど、お互いに時間があわずに実際に会った回数はそんなにない。


「聖は行かないよ」

「何でお前が分かるんだよ」

「私が誘っても聖、こないもん」

「そりゃお前だからだろ」

「健二には分からないよ」


 やけに自信満々にリリが言うからその理由を問うたけれど、答えてはくれなかった。ふんと顔を教科書に戻してしまって、その次の瞬間には健二たちが教員に怒られた。これを狙っていたのかと思ったらリリが憎らしい。これは今夜無理矢理にでも啼かせたい気になってくる。
 授業中には起こられたから大人しくしていたけれど、チャイムが鳴って給食の時間にまた彼女の不可解な行動に首を捻ることになる。給食にほとんど手をつけず、何だか青い顔をしている。周りの友達はそんなに気にしていないようだけれど健二から見てもタクから見ても彼女の顔色はおかしかった。


「リリ、顔色悪くないか?」

「大丈夫……」


 授業中の態度のおかげで健二もタクもリリに声をかけるのをやめたけれど、通りかかったしょーちゃんがそれに気づいて声をかけた。返したリリの声は具合が悪そうなものが明らかに見て取れる。それに気づいて二人が目を向けると、途端にリリは口元を押さえて教室を飛び出していってしまった。


「リリちゃん!?」


 それまでリリの隣で談笑していた女子が驚いた声を上げて彼女の後を追う。それが急な異変だったので、思わず健二とタクも後を追った。トイレに駆け込んだところは見えたけれどさすがに中まで入っていけずに、入り口で二人して立ち止まった。少し遅れてやってきたしょーちゃんにもそう言うと壁に瀬を預けて腕を組んで出てくるのを待つようだった。
 しばらく女子のリリを気遣う声が聞こえてきたけれど、水を流す音がしてリリの苦しそうな声が聞こえる。本人は大丈夫と行っているけれど、どこも大丈夫には見えない。


「具合悪いなら帰った方が……」

「大丈夫だよ。それに病気じゃあないし」

「でも、今」

「私ねぇ、赤ちゃんができたんだぁ」


 リリの言葉に、全員が耳を疑った。ただリリだけが嬉しそうに笑う。女子はもちろんそうだけれど、外にいた健二たちはそれ以上に背筋が冷えた。彼女と遊びの性行為を行うのは自分たち以外にいないから本当に孕んだのならば犯人は健二かタクのどちらかになる。この遊びにはしょーちゃんもヤスも参加していない。幼稚園からの幼馴染だけの内緒の遊びだった。
 顔を青くして見合わせた二人の様子がおかしかったからかしょーちゃんが何かを察して険しい眼を向けてくる。もうあっちが怖いのかこっちが怖いのか分からなくなるほどだった。


「お前ら、何か知ってるのか?」

「いや、いやいや?」

「俺たちじゃあないと思うけど現実はそうじゃない、みたいな?」


 ちゃんと避妊もしていたはずだし自分たちのはずがないと思うけれど、でも物理的には自分たちであるしかありえない。その妙な感じに言葉を重ねるけれど彼はわかってくれていないようで、不審そうな表情を深めてる。これを交わすこともできなそうなので、健二とタクは顔をつき合わせて己の可能性を囁きあった。最後にヤったのいつだっけ、どっちだっけ。ちゃんと避妊してたっけ。お互いに確認しても、いつも三人だから確認は無意味に終わった。


「リリちゃん、それ本当?」

「うん。私、絶対産むの」


 さーっと血の気が引いていく音というものが聞こえて、健二もタクも立ちくらみを起こしそうになった。トイレから一人女子が走り出してきたのを見送って、いっそ逃げたくなったけれど目の前にはしょーちゃんがいて逃げられない。彼は健二よりも更に高い身長で二人を見下ろして、不意に視線を外した。女子トイレに向かって声をかけるから、このまま逃げたくなった。


「リリ!」

「しょーちゃん?」

「どういうことか教えてくれないか?」


 口元を押さえてトイレから出てきたリリはしょーちゃんの問いかけとその後ろで怯えている健二とタクを見てクスリと笑った。その向こうからさっき飛び出していった友達が教師を連れて戻ってきていることに気づきながら、リリはにっこりと笑って自分の下腹部に手を当てた。


「赤ちゃんができたんだよ」

「誰の?」

「私と、聖の」


 そう言った瞬間に健二とタクの顔色が安堵に綻んだのをリリは見た。けれどすぐに二人は険しい表情になっている。教室から飛び出してきた担任にも聞こえたのか、二メートルばかり離れたところで固まってしまった。真剣な顔でしょーちゃんがどういうことか問うので、リリは夏休みの終わりにあったことを話した。
 話しているうちに健二もタクも表情を先ほど以上に強張らせる。けれど反対にリリの表情は柔らかくなっていった。すべて話し終えると、しょーちゃんは困った顔をして眉間を指で押さえる仕草をする。その後ろから、口を開きかけた担任を遮るようにしてタクが身体を乗り出した。


「ありえない!」

「でも事実だもん」

「お前と聖がホテル行ったとこまでは認めても、聖がんなヘマするとは思えないんだよ!」

「ヘマじゃないよ。私がゴムに穴開けたんだもん」

「おまっ!?」


 聖のことは小さい頃からよく知っている。そんなことをする奴じゃあないとタクが声を荒げるけれど、リリはそれを笑って交わした。まさか自分でそんな小細工までしているとは思っていなかったので、それを聴いた瞬間は言葉を失ってしまった。健二もタクも、自分たちのせいではなかったから良かったから聖がそんなことをするわけがないという方に意思が変わっていて後ろにいる教員にはまったく気づかなかった。


「だって聖のこと大好きなんだもん!聖が……どっか行っちゃいそうで怖かったんだもん!」


 急にそう叫んで泣き出してしまったリリの隣にいた女子はおろおろするばかりで、健二たちも唇を噛んで俯くしかなかった。確かに聖は自分たちの大切な幼馴染で、でも転校して環境が変わったらなんだか違う世界の住人のように見えてしまって。リリじゃなくても不安になった。健二が竜田学園の体育館で再会したとき聖が、まるでそれまでとは違う人間になったようにしていたから。
 それまで言葉を失っていた担任が言葉を搾り出したのは、この沈黙がきっかけだった。声を聞いて存在に気づいたのは健二とタクだけだったようで、二人の肩がビクっと震えた。


「貴方たち、一体どういうことなの?」

「どうもこうも、今聞いてましたよね」

「詳しく説明しなさい!」


 声を荒げたからかここで留まっていたからか見物人がちらほら出てきて、さすがにここでその話もまずいと思って全員が口をつぐんだ。聖のことを知っているのは半分もいないけれど、聖に変な噂がつくのが嫌だった。それは三人共に共通している。小さすぎることから一緒だから、考えていることなんてお見通しだ。
 担任に四人揃って指導室まで連れて行かれて、また詳しいことを一から話した。これは午後の授業に出られない気がする。話し終わると、担任は深く息を吐きだす。そして顔を少し青くしながら、聖を責めた。


「貴方たちはそんな子と付き合ってるの?」

「先生、何聞いてたんだよ!?聖は悪くない!」

「そうだよ、今回はリリが悪い!」

「悪いことなんてしてないわよ!私が誘ったんだもん!」


 聖が責められる筋合いはないと主張するけれど、聖を知らない担任は断固として聖が悪いといい連絡先まで聞いてきた。そんなものを教えるつもりはないし、今しなければならないのは本当にリリが妊娠してしまっているのかの確認のはずだ。担任の行動が場違いな気がして苛々するし、健二は声を荒げて担任を罵りたかったのをぐっと我慢して拳を握った。
 けれどその我慢をぶち壊したのは、それまで黙っていたしょーちゃんの冷静な声だった。


「どっちにしろ、聖が悪いんじゃねぇの」

「なんでだよ!?」

「リリが妊娠したにしろしてないにしろ、そう思わせたのは聖だろ」

「だから!それはリリの妄想だって!」


 健二もタクも、リリも幼稚園から一緒で聖のことを誰よりも理解している気でいる。でもしょーちゃんは小学校の三年くらいからの付き合いで、まだまだ聖のことを分かっていない。そんな人間に聖を愚弄されるのが嫌で、タクは思わず彼の胸倉を掴んで捻りあげた。


「聖のことよく知らねぇで吹いてんじゃねぇぞ」

「タク、落ち着けって!でもしょーちゃん、俺もそう思う」


 苦虫を噛み潰した顔をして、健二も低い声で唸った。ちらりとリリを見ると少し困った顔をしてタクとしょーちゃんを見比べている。担任が止める声もまったく無視して、健二は力任せに握り締めた拳を壁にたたきつけた。木造の壁が嫌な音を立てて凹んでしまったけれど気づかないふりをする。
 喉から無理矢理搾り出した声は掠れて、聖のことを思ったら涙が出そうになってしまった。


「聖はさ、今新しい仲間と楽しくやってんだよ」

「関係ないだろ。連絡先教えろよ、俺が連絡する」

「頼むから!巻き込まないでやってくんないかな。あの聖が、あんな顔して笑ってたから……」


 健二が聖と再会したときに思ったのは、人見知りが激しいくせに素直に笑っていた。それだけそちらに馴染んできたということだし、楽しそうで良かった。健二の中で金持ちのイメージは陰険で見栄っ張りで自我が強くて、才能で生きているような聖はすぐに爪弾きにされてしまうんじゃあないかと思った。けれど聖の仲間たちはそんな感情を微塵も見せずに聖のことを好いていてくれたから。あまりにもかけ離れた世界だったからそちらで上手く行っているのならば帰ってきて欲しくない。忘れられてもいいから、聖が笑っていてくれればいいと思っていた。リリもそれを分かっていたけれど我慢できなかったのだろう。男には友情があるけれど、女にはそれがないから。だからただリリを責めることもできない。


「お願いだから。聖には言わないでやって」

「なんだよ、お前。なんでそんなに聖のこと気にすんだよ」

「聖が幼馴染だからだよ!リリも、分かってるだろ」

「……うん」


 リリもそれは分かっていて、健二が問うと複雑そうな顔をして頷いた。聖の母を健二も当然知っているけれど、聖のことが大好きで奇麗な女の人だった。ただ躾には相当しっかりしていて、本人がぽやんとしているくせに聖がしっかりしていたのは反面教師だったのかもしれない。その人に、幼馴染を孕ませたなんて伝えたくなかった。ただでさえ、彼女は息子の幸せを願って手放したのだから。


「リリ、病院行けよ。ちゃんと調べて、もし妊娠してたら俺が責任取る」

「健二……」

「そ、そういうわけには行かないでしょう!」

「先生には関係ないだろ!これは俺たちの問題なんだよ!」


 まだ聖に文句をつけたいのか言葉を発した担任を怒鳴りつけて、健二は立ち上がった。もう付き合っていられないし授業を受ける気分でもないからもう今日はふけようと思って手ぶらで階段を下りていると、タクも小走りに追いかけてきて並んだ。二人は無言で、近所のゲーセンにまで歩いた。










 もうすぐテストだから部活がない。けれど家に帰るのも嫌なので聖は大抵専用体育館に足を向けた。仲間たちはもちろん勉強をするために帰宅するので、いつも大抵一人で行ってそこで勉強している先輩たちの邪魔をして直治先輩とバスケをしている。今日もそのつもりで正門を出たら、懐かしい人に声を掛けられた。一瞬その人物が誰かわからなかったのは予想外すぎたからだ。


「聖!」

「……しょーちゃん?」

「久しぶり。ちょっと時間あるか?」

「いいけど……」


 昔の友達が何の連絡もなく訪ねてくるなんてなかったから驚いた。だから少し躊躇いながらも近くのファーストフードに足を運んだ。少し怒っているような雰囲気に、本能が警戒を告げる。けれど友達だから無碍にはできなくてその雰囲気に何も言えなくて、席についてドリンクを飲むまでは重い空気に耐えた。


「健二たちには言うなって言われたんだけど、俺はお前にちゃんと言ったほうがいいと思って」

「何?」

「お前、リリに何したよ」

「リリちゃん?」


 ドリンクを飲みながら彼の言葉を聞き返した。何をしたといわれても一回一緒に遊びに行ったくらいしか思い出せないし、それが悪いことだとは思わない。けれど目の前の友人はまるで聖が悪事を働いたことを認めるのを待っているようにしかめっ面をしている。けれど思い当たることがなくて黙っていると、やがて溜息を吐き出した。


「リリが、聖の子を妊娠したって大騒ぎになった」

「は!?」

「まあ、想像妊娠だったんだけど」


 一瞬まさかと青くなったけれど、続いた言葉に安堵した。子供を作る行為だとわかっていても聖にとってはコミュニケーションの手段でしかない。ちゃんと避妊もしていたし、真坂と思うのは男の条件反射だと思う。けれどその反応すら気に入らなかったのか彼は眉間の皺を深くして聖をにらみつけた。


「そういうことを想像させるのは悪いことじゃねぇの?」

「それは……」

「健二たちがお前のこと甘やかすからいいに来ただけだから変に言い訳すんなよ」

「……ごめん」


 喉に言葉が張り付いたかのように謝罪の言葉しか出てこなかった。そんな大事になるとは思わなかったし、健二たちがそんな風に庇ってくれるとは思わなかった。もう友達じゃあなくなってしまったかと思っていたのに、何年経っても会わなくても、友達は友達だった。幼馴染だからかもしれないけれど、涙が出そうに嬉しい。
 謝罪の言葉だけを搾り出すと、不意にしょーちゃんが表情を和らげた。


「謝るならリリにだし、たぶん誰もそんな言葉待ってねぇよ」

「うん……」

「聖が元気そうにしててよかった。今度は俺とも遊ぼうな」


 にこっと笑った爽やかな笑みは昔から変わらないけれど、聖は彼と連絡を取ることはないのだろうなと漠然と感じた。きっとリリからも健二からも、連絡は来ないのだろう。それは彼らが聖のためを思ってくれているのだろうけれど聖からしてみたら寂しくて。
 寂しいけれどそれに対して言う言葉を持っていないから、聖はみんなで遊びに行こうな、しかいえなかった。用件が済めばそれだけだというようにしょーちゃんはドリンクを飲み干して席を立った。階段を下りていく背中を見送ってしばらくしてから聖もドリンクを飲み干し、店を出て専用体育館に向かった。少しだけ、今日は先輩たちに甘えさせてもらおうと思う。





−続−

聖さんの出番が少ない奇跡