しょーちゃんに会ってから、頭から離れないことがある。けれどそれは誰にも相談できなくて、聖はただ悶々と過ごした。夜の公園に出かけても、あの少年とは出会わない。
 日に日に落ち込んで来て、十月に入ったころにはもうレギュラー陣と顔を合わせるのもしんどくなった。その理由を考えるほど余裕はないから考えないようにしているが、先輩たちに聞いたら教えてもらえるかもしれない。それに生憎雨が重なって、聖は動くのすら億劫になっていた。


「紀仁、飯一緒に食お」

「いいけど……。いつもバスケ部の人と一緒でしょ、いいの?」

「今日はそんな気分じゃねぇ。雨も降ってるし」

「雨って関係あるの?」

「いいじゃん、腹減った」


 遅刻ついでに学食で買ってきたサンドウィッチと飲み物を取り出す。紀仁の机の前の椅子を引いてひっくり返し、彼の机にそれらを置いた。竜田学園の学食は栄養バランスも考慮されたもので種類も豊富だ。毎日食べても飽きが来ないから最近は専ら学食を利用している。その袋を乱暴に破いてあけて、パクついた。いい材料を使っているだけあって美味い。


「あれ、光る君は?」

「鈴原君はいつも他の子と食べてるよ」

「なんだ、いつも一緒に食ってるのかと思ってた。紀仁、いつも誰と食ってんの?」


 ふと疑問に思って聖が問いかけても、紀仁はにこりと笑っただけだった。その笑みを聖は知っている。すべてを隠して誤魔化そうとする笑みだ。かつては聖も浮かべていた。そういえば、そんな笑みを自覚しなくなったのはいつごろのことだっただろう。もうずいぶん前のような気がするし、そうではない気もする。その寂しげな笑みに、やはりと思った自分もどこかにいた。


「……紀仁の飯っていつも弁当?」


 なにか声をかけようかと思ったけれど、口から飛び出したのは全く関係ない話題だった。
 紀仁がクラスに溶け込めていないのは正直分かっていた。去年までの自分とは違うけれど彼も周りから線を引かれる。皇族だからという理由で、彼はクラスの輪に入れない。特別視と言う名の差別だと気づいている人間はきっとこの学校にはいない。今のところ紀仁がトウトイ人と思っているだけなのだから、きっと彼らにも悪気はないのだろう。紀仁も分かっているのか何も言わない。分かっていて、微笑んでいるのか。


「お弁当だよ。聖は毎日学食なの?」

「栄養バランスいいからいいじゃねぇかよ。美味いし」

「そうだね」

「一口食う?」


 問いかけても、紀仁は首を横に振った。もともと予想していたので適当に頷いてもそもそとサンドウィッチを食べたけれど、少しだけ彼の表情が気になった。嬉しいような鬱陶しいような、どちらとも取れる表情だった。聖は紀仁にとって将来義弟になる。それゆえの気遣いなのか慣れていないだけなのか、聖にも判別はできなかった。
 サンドウィッチを食べ終わって袋を丸めてゴミ箱代わりのビニール袋に突っ込んでもう一つ、今度はジャムパンを取り出す。封を破いてかぶりつくと、酸味の効いた木苺ジャムがたっぷり入っていた。


「聖!聖だ!」


 秋限定の『柿』ジュースを飲もうとストローに口をつけたところで後ろからひどく興奮した様子で名前を呼ばれた。一体なんだと振り返ればどこからか帰ってきた俊哉が突撃してきた。聖の後ろから声をかけたおかげで紀仁の姿が見えなかったのか、途中で一度足を止める。それを怪訝な顔で見たら、何某かの覚悟を決めたのか俊哉は聖を後ろから羽交い絞めにした。


「ゴキゲンヨウ、常陸宮君」

「御機嫌よう、日尾君」

「放せ馬鹿!」


 なぜ首を絞められてるのか分からないけれど、分からないから聖は小さく舌打ちをした。次の刹那には身体を捻って拘束から抜け出し、更に彼の腕を逆に曲げてやる。こういう技術なら誰にも負けない自信があった。痛いと悲鳴を上げる俊哉を紀仁が見ている。その苦笑いには、一体どんな意味が込められているのか聖には計りかねた。


「後ろからなんだよ、いきなり」

「痛い痛い!宿題を見せてくださいお願いします!」

「やってねぇ、以上」

「やっぱりかー。お騒がせしました」


 聖が冷たくあしらって手を離してやると、半分以上予想していたらしい俊哉は早々に諦めたようだ。ぺこりと頭をおそらくは紀仁に対して下げて、教室中に「宿題ー!」と声を張って助けを求めていた。もちろん聖もやっていないから同様にするべきなのは分かっているが、面倒だったので彼に便乗させてもらおう。そう思って彼の動向を窺っていたら、視界の端で紀仁がクスリと笑った。


「聖も宿題やってないの?」

「完全に忘れてた。何、紀仁やってあんの?」

「当たり前でしょう。見る?」

「サーンキュ。俊哉!宿題あった!」


 俊哉の宿題忘れはいつものことで、もう貸してやろうと思うやつは少ない。一回くらい怒られろとみんな思っている。自分がやってあったら聖もそうだっただろうけれど、これはいい機会だった。紀仁がクラスに溶け込めないのならそのきっかけになればいい。そう思って、クラスでも騒がしく友達の多い俊哉を呼んだ。
 一目散にやってきた彼は、その宿題が紀仁のだと気づくと一瞬たじろいだけれど、すぐににぱっと人懐っこい笑みを浮かべた。










 別に理由があったわけじゃあない。護先輩が聖のことを誘ってくるのはいつものことで、いつもは乗らないだけ。ただ今日は、彼の言葉に乗った。いつも相談するのは亮悟先輩か海人先輩。でも今回ばかりはそうは行かない。幼馴染が想像妊娠した、なんて先輩たちには言えない。きっとだから、護先輩の言葉に乗って家に来た。
 彼の家は他の先輩たちに比べれば狭いけれど一般から見ればずいぶんと豪勢に暮らしている。いわゆる高級住宅地のマンションの最上階に母親と一緒に暮らしている。まだ何度も来たことのないマンションに少しの遠慮を持って入れば、綺麗な女性が出迎えてくれた。


「おかえりなさい、護。あら、聖くんだったかしら」

「いきなりすいません。お邪魔します」

「遠慮すんなよ聖。今日泊まっていくから」

「じゃあお布団用意するわね」


 彼の母親はずいぶんと優しそうだった。儚いと言うか、男の補助なしには生きていけそうにない。男に愛されて幸せな家庭を築ければとても幸せになれただろう。護先輩の部屋に向かいながら自分の母親を彼女に重ねて、あまりの不一致さに口元が歪んでしまった。聖の母親は強い人だった。いつも笑っていて、おっちょこちょいでよく怒られていたけれど笑顔だけは絶やさなかった。けれどあの女性からは笑顔よりも涙のイメージが付きまとう。


「入れよ聖、たっぷり可愛がってやるから」

「…………帰る」

「嘘!嘘嘘、なんか相談あったんだろ?」


 また阿呆なことを言うから、付き合ってられなくて踵を返した。けれど後ろには護先輩がいて、笑うのを我慢しているような顔で肩を押して部屋に押し込まれる。勝手にベッドに腰掛けて、先輩の部屋を観察した。物の少ない部屋は聖に似ている。けれど彼と聖は絶対的にどこかが違う。それは初めからわかってた。


「お袋見て、なんか思った?」

「……母さんと違うなって」

「弱い人だから」


 いつものからかい混じりの声じゃあなくて、護先輩の声が一段低くなった。ここは彼の父親の持っているマンションだと言う。それを愛人のために用意し、生活費も必要以上にもらえる。その代わり、必要なとき以外会いには来ないそうだ。護は月に一度程度本邸の夕食に招待されるけれど、その日は母はここに置き去りらしい。その日に護が笑顔で送り出されたことはない。


「護先輩、俺の話内緒にしてくれる?」

「嫌だ」

「じゃあなんでもない」

「はいはい、する。そんな拗ねんなよ」


 せっかく真面目に聞いたのに彼は少し茶化した。だから聖がそっぽを向くと、苦笑してベッドに腰掛ける。ひどく年上のような仕草と表情で聖のすぐ隣に座って足を組む。その上に頬杖をついて顔を覗き込むから、思わず顔を逸らした。クツクツ笑って頬をつついてくるから、思わずその手を払った。彼はそれでも笑っている。


「俺にしか言えないことなんだろ?」


 全て分かっていると言う顔をしているのは直治先輩だけで十分だ。聖の顔が苦々しい表情になっているのもお構いなしに、護先輩は肩を抱いて来る。勝手にさせていたら彼の胸に抱きしめられているような形になった。聖だって背が伸びて、それなりに成長している。それなのに、この人は昔から変わらずに子ども扱いしてばかりだ。でも、今日は自分が子どもってことをしっかりと理解している。それでも彼の胸に手をついて拒絶した。


「言えないことだけど!ガキ扱いすんなよ」

「だってガキじゃん。いいからお兄さんに話してみろよ」


 話してみろよと言われて素直に話すのも抵抗がいったけれど、今日は元々そのつもりだったし変に誤魔化されたくもなかった。だから素直に、口火を切る。
 リリが想像妊娠してしまったことと、それを友人たちが庇ってくれたこと。それはどうしたって聖に何某かの不安を呼んだ。原因が分かっている不安じゃあないし、友達にも誰にも知られたくなかった。むしろ友達だからこそ知られたくない。でも護先輩なら、この気持ちを解決してくれるんじゃあないかと甘えた。


「何で俺、こんなこと思ってんだろ」

「そりゃお前、男のプライド。でもさ、ちっと違くねぇか?」


 からからっと笑って、護先輩に頭をぽんぽんと撫でられた。その意味が分からなくて逸らしていた顔を向けると、急に肩をつかまれた。そのままベッドに押し倒されて、反応する前に全体重をかけられる。上から口付けられて、心底驚いた。固まっていたのは恐らく一瞬。彼が離れてから、やっと事態を飲み込んだ。手の甲で思い切り唇を擦って笑っている護先輩を睨みつけるけれど、言葉が上手く出てこない。


「なにっ」

「これ、お前誰に言う?先輩に唇奪われちゃったーなんて、みっともねぇぞ」

「……亮悟先輩に言い付ける」

「ちょっと待とうか、聖」


 唇をしつこく拭いながら聖は携帯に手を伸ばした。それを本気と取った瞬間に護先輩は少し顔色を青くして聖の両腕を掴む。そんなに本気でチクろうと思っていなかったから、大人しくしていたら十秒程度で手を離してくれた。でも目はまだ疑っているから、聖はわざとにこっと微笑んだ。彼の表情に、後悔の色が浮かぶ。


「だから、俺が言いたいのはそれチームメイトに言うかってこと」

「言わねぇ」

「だろ?みっともねぇよな。でもさっきの問題は少し違う」

「同じだろ」

「本当に分かってねぇの?心底馬鹿だな、お前」

「なんでっ!」

「心配かけたくないんだろ、周りに。もちろんプライドってのもあるけど、どっちかってーとこっちの色合いの方が濃い」


 急に真面目な顔になった護先輩に突きつけられた言葉は、聖の心をやすやすと抉った。少し細められた彼の目が確実に頑丈な壁の隙間を縫って攻撃してくる、そんな錯覚すら生まれる。
 確かに、怖い。阿呆なことをして呆れられるのも嫌われるのも、嫌だ。あいつらに見切られるのが怖い。そんなふうに思うようになったのはいつからだっただろう。その前はそんなこと絶対に思わなかった。けれど、そのときはきっと誰にも媚びず寄りかからず、必死に立っていた。少しだけ気を抜けるのが、先輩たちのところだっただけで。


「先輩の胸で泣け。なんだったら慰めてやるぞ」

「いらない」

「いいからいいから」


 少し泣きそうになっていたのは本当で、泣くまいと必死に唇を噛んでいた。伸びてきた護先輩の腕が頭を包んで胸に押し付ける。吸い込んだ空気は少しだけ汗の匂いがしたけれど、それがどうしてか落ち着いた。彼の胸の中で絶対に泣くもんかと歯を食いしばりながら、彼らに自分の本当を預けようとしている自分に気づく。幼いころ屈託なく笑えていたのは、絶対的な愛情を注いでくれる母とその幼馴染がいたから。けれど、あの日からそれは失われた。一気に支えをなくして一人で立ち竦むしかなかったから、寄りかかっていた頃を思い出せなかった。


「……なんか、むかつく」

「可愛い憎まれ口だなぁ。無駄口叩けないように、その口塞いでやろうか?」


 頭をグリグリなでられて、不意によかったなぁと吐息のような声が落ちてきた。その言葉の真意を窺おうと顔をあげたけれど彼は珍しく優しく笑っていた。結局首を傾げただけでその理由は聞けない。深く何度か深呼吸をして、泣きそうになるのをどうにか堪えた。
 しばらく続いた沈黙を破ったのは、リビングから聞こえた「ご飯よ」の声だった。





−続−

護先輩はホモじゃないよ!