こんな気分が、もうずいぶんと長く続いている。校外研修の前に聖に買ってもらったヘアクリップはあれからつけられないまま、舞依の机の上においてある。あの日どうして泣き出したのかも分からないし、それ以降聖の顔を見て気まずいというのも自分のことながらどうしてこうなったのか分からない。
 ただ部活中に気がつけば聖の姿を追ってしまう自分がいる。いつも一緒にいるから必然的に龍巳も目に入る。聖とはよく目が合うけれどすっと逸らしてしまい、けれど龍巳とは全く視線がぶつからなかった。


「亮悟先輩、これあげる」

「ありがとう」


 その日、部活が始まる前に聖が亮悟に小さな袋を手渡した。普段の部活は三年レギュラーが本体育館を使うけれど、今日は休日の部活だからみんなで専用体育館を使用する。珍しく二、三年レギュラーが同じ部室で着替えていた。みんな奥で着替えを済ませていていつでも部活は始められそうだった。
 亮悟が聖が出した小さな袋を見て笑い、礼を言ってあける。三年レギュラーはみんな興味深々に彼の手元を覗き込んでいて、舞依もちらりとそちらに視線を移した。丁度亮悟の手のひらに転がり出たのは、センスのいいシルバーのチョーカーだった。


「亮悟先輩に似合うと思って」

「聖、俺には?」

「この間あげたじゃん。今日は亮悟先輩に似合うのみつけたから」

「ほんっと聖は亮悟に貢ぐよな」

「貢いでねぇよ。あと舞依!」


 先輩たちに囲まれる聖と目が合った瞬間に、舞依から視線を逸らした。部活の準備を始めるふりをして溜息を一つ吐き出す。また挙動不審な動きだったかな、と思ったけれどその瞬間には聖の声をかけられていた。少しは不審になるかと思ったけれど聖の方を向けば、普通の反応ができて内心ほっとした。


「これ、やる」


 綺麗な放物線を描いて飛んできた亮悟と同じ小さな包みを受け取って、不審そうに舞依は聖を見やる。けれど彼は笑っていて、一体なんだと開けてみる。舞依の手のひらに転がり出てきたのは、赤い花のついたストラップだった。それを目の前にかざしてみると、舞依の趣味にぴったり合っていた。ただもらう意味が分からなくて首を傾げて視線をやれば、彼の後ろで呆れてたような顔をしている龍巳がいた。


「何これ」

「やるよ。お前、そういうの好きだろ」

「好きだけど……」

「それで機嫌直せ!」

「聖、素直にこの間は悪かったって言ってやれ」

「俺は悪くねぇよ!」


 どうしてストラップなのかと問えば、先輩たちから聖は人に似合いそうなものをあげるのが好きだからと言われた。特に他意はなく先輩たちもいろいろともらっているらしい。確かに聖の見立てはいつだって正確だ。ただ晃のいう「この間」の意味が分からなくて舞依は首を捻る。どのこの間なのかと思って会話が続くのを待っていたけれど聖が一蹴してコートに出て行ってしまったので結局分からずじまいだった。ただ、代わりに葵が「この間」にあたるヘアクリップの話を思い出させてくれた。


「校外研修の前の髪飾り、反省してたよ」

「……反省は嘘でしょ」

「うん。でも言い過ぎたとは思ってる」

「そっか。うん、水に流す」


 本当はこれっぽっちも怒っていないけれど、舞依はあえてそれを声に出した。そうすることで誰かが満足するならそれでいいし、自身にとっても分かりやすいけじめだ。もともと聖に対して他意があったわけじゃあないのだし、元の関係に戻れると思う。部活が始まる前にもらったストラップを携帯に付けてみたら、ばっちり合って逆に聖が怖かった。










 部活が終わった後、聖は舞依を夕食に誘った。晃や葵がいれば気を使うけれど彼らは用があるとかで先に帰ったので、聖と寿季と舞依という妙な組み合わせだった。ただお互いに部活の仲間だという意識があるから気まずくはない。
 聖おすすめのパスタ屋は値段も手ごろだし、こいつは本当に金持ちの子なのかと舞依は何度も聞きそうになったことを今日も聞きたくなった。舞依の家は輸入を扱う小さな家だから社長令嬢なんて正直おこがましいのだ。だから聖だとかといると少し安心できるのかもしれない。


「舞依さぁ、俺のこと避けてただろ」

「フォークを人に向けない」

「何で避けんだよ。俺、お前のこと大好きなのに」

「そういう言い方するからあらぬ誤解を招くのよ」


 聖を正面でじっと見ても、今は気まずくもないし顔を逸らそうとも思わなかった。綺麗な顔をしているとは思うけれど見慣れてしまえばそれまでというか。フォークを突きつけて絡むように声を上げる聖を睨んで、舞依はドリンクのストローを口に運んだ。少し拗ねたような顔で聖が「大好きなのに」というけれど、彼の言葉に他意はない。八方美人なのだ、この男は。それをようやく理解した。ついこの間までは浮気男だとか最低男だと思っていたから、まだマシな解釈といえる。


「なんか、聖のこと直視出来なかったんだよね」

「今、ガン見してんじゃねーか」

「うん、そう。今は平気」

「それって仲直りしたからじゃないの?」


 黙っていた寿季が口を挟むけれど、舞依は首を捻るしかできなかった。仲直りとは少し違う気がする。舞依が一人で騒いで一人で気まずくなっていただけなのだから、少なくとも聖のたたずまいは変わっていない。だから他に原因があるはずなのに全く思い当たらなかった。
 舞依が首を捻ると寿季もつられて首を捻るけれど答えが見つかるわけがない。こればかりは三人揃って文殊の知恵が浮かぶとは思えなかった。けれど聖はフォークを銜えたまま一人だけ天井を見上げて、何かを考えるように目を細めた。やがて真剣な顔を舞依に向ける。切れ長の瞳に、さすがに舞依もドキッとした。


「お前さ、龍巳となんかあった?」

「えぇっ!?」

「俺じゃなくて龍巳見てたんじゃねぇの」


 舞依の脳裏に、校外研修で彼の胸に縋って泣いたことを思い出した。それもこれも聖のせいだけれど今は当たっている場合じゃあない。思い出して頬が勝手に赤くなり、慌ててそれを誤魔化すように下を向いた。けれど聖は気づいたのか喉でクツクツ笑う。寿季は気づいていなかったようで「何々」と興味津々な声を出しながらストローを銜えた。興味があるのかないのかはっきりして欲しい。


「龍巳のこと好きなんじゃねぇの?」

「そっ……んな、こと……」

「ねぇの?」


 急に言われると動揺して、思わず舞依はむせた。げほげほやっているのを聖は楽しそうに笑って口の端をいやらしく歪める。そうして舞依の方が気づいた。自分は聖ではなく龍巳の方を目で追っていたのだ、と。だから聖と目を合わせてもなんでもないのか。聖と龍巳は一緒にいることが多いから、どちらを見ているかなんて意識していなかった。
 黙っていると、聖はにやりと口の端を歪めてまた笑って、ストローを指で挟んでクルクルと回した。氷がカラカラと冷たい紅茶の中で涼しい音を立てるけれど、季節は冬に向かっているところだった。


「いつの間龍巳に惚れたんだよ」

「う、うるさいわね!いつだっていいじゃない!」

「湊ってあんなのがいいの!?うわ、意外」

「前原君までうるさい!」


 龍巳のどこがいいんだとまで言う寿季を怒鳴って黙らせて、舞依はあとで聖を殴ってやろうと思った。それでも、聖にとっては変な感情はもうない。たとえ八方美人でも人としてどうかと思っても、舞と聖は仲間内だった。友情でも愛情でもないこの繋がりは、一体なんと表したらいいのだろう。










 マラソン大会があると知ったのは、その前日だった。体育でやけに走っているなと思ってはいたけれど、まさかマラソン大会だとは思わなかった。けれど確かに去年はこんな時期にマラソン大会をしたかもしれない。確か去年は、適当に走って怒られたのだったか。
 そんなことを思いながら、聖はぼんやりと空を見上げた。もともと長距離走は飽きるから好きじゃあない。短距離なら本気で走ってもいいけれど、とちらりと隣で念入りにウォームアップをしている俊哉を見る。彼は聖の視線に気づいてニカッと笑うとなぜかブイサインを向けてきた。


「俺優勝しちゃうから」

「あっそ」

「あれ。何聖ってば興味なし?」

「全くねぇな」

「つまんねーの」


 つまらないと言いながらも俊哉の目は本気だった。競技者特有の鋭い目でスタートを待っている。正直聖は興味がない。三学年すべての男子が一度に走るので人数がひたすら多いと思うけれど、コースが皇居の内部なので問題ないらしい。竜田学園らしいと思うけれど、やはりそれ以上の感情は湧かなかった。
 そうしていると、スタートの乾いた音が響く。人が一気に走り出し、俊哉に連れられて最前列にいた聖は少し慌ててその列から避け出た。先頭集団の外側を走ってペースを落とし最後尾に着くのがベストだろうと走る気がないので思ってるが、当然のように先頭にいる海人先輩に見つかって「真面目にやれ」と怒鳴られた。それを聞く気はないけれど。


「あれ、久しぶり」

「どうも」


 ゆっくりすぎるペースで走っていると、最後尾で久しぶりに吉野に会った。最近聖が公園の散歩をしていないので会うのはいつ以来だろう。吉野は完全に走る気がないようで、ゆっくりと風景を見回していた。東京のど真ん中にいればこんなに自然と触れ合うこともないから確かにいい機会かもしれないけれど。


「真面目に走れよ、一年」

「貴方こそ、運動部でしょう」

「俺はいいんだよ」

「僕もです」


 お互いにお互いが理解できていないような理屈を建て並べて、それでいておぼろげに理解ができる。そんなに珍しくもない形をしている建物を眺めやりながら、青と白のコントラストに目を眇める。こんなにいい天気の日はバスケでもしていたいのに残念なことに今日は一日を費やしての散歩になりそうだった。
 吉野と交わす話題なんて持ち合わせていない。今更近況報告もする気がないし、それこそしっくりこない。だからこそ、ぼんやりと二人で並んで歩いた。


「そういえばご存知ですか?」

「何を?」

「今年の職業体験、レポート出すらしいですよ」

「……あったなぁ、そんな行事」

「迷惑な行事ですよね」


 そういえばもうすぐそんな行事も控えていた。全員が参加するわけでもないのにレポートなんてどうするのだろう。特に参加する気はないけれど少し気になる。少し重くなった気を紛らわすために深く息を吐き出してポケットの中に手を突っ込むけれど、場所が場所なのでさすがに諦めて煙草ではなく飴玉を取り出して口に放り込んだ。吉野にも差し出してみたけれど断られたのでそのままポケットに戻る。そうして、吉野がそういえばついでに今思い出したように聖をまじまじと見つめた。


「何だよ」

「いえ。本当に角倉のご子息なのかと思いまして」

「お前、俺のこと知らねぇの?」

「いいえ。少し安心しました、貴方がそんな風で」

「……意味分かんねぇんだけど」

「なんとなくです」

「なんだそれ」


 彼の言葉の意味が分からなくて、聖は喉で笑った。それにつられたのか吉野も軽く笑い、結局二人で意味もなく笑いながら歩く。
 歩きながら、今日も亮悟先輩が参加していないことを思って聖は顔を歪めた。最近体育の授業も休みがちらしいし、体調の方は大丈夫だろうか。最近は心配をかけていないはずだからそんなに心配をしているわけじゃあないけれど少し不安だった。


「しんどくねぇか?」


 特に他意が合ったわけじゃあないけれど、聖は聞いてみた。自分はこの学校がものすごく重かったから。中等部で仲間たちに会ってようやく楽しいと思えたけれど、きっと彼らがいなかったらまだ先輩たちに依存して一人では立てなかったに違いない。吉野は、大丈夫なのだろうか。
 けれど聖の質問の意図を理解して尚吉野は穏やかに微笑んだ。穏やか過ぎる、笑みで。


「貴方はしんどかったんですか?」

「まぁ……」


 それが虚構だということを隠す気のない笑みを向けられ、それにかける言葉が見つからない。そこまで開き直っている人間に今更慰めなんて必要ない。やはり似ていると思っていたのは間違いだったのかもしれない、と聖は真剣に思った。その瞬間、吉野の顔にほんの僅かだけ切ない色が浮かぶ。それを見逃すほど、聖は甘くない。
 やはりこいつもしんどいのか、と何となく安心した。


「いい天気だな」

「本当に」


 それでも聖がかけるべき言葉は見つからないし、吉野もそれを求めていないのだろう。お互いに似たような傷を見て見ぬふりをして過ごすこの関係は、一体何なんだろう。誰が答えを知っているのか知らないけれど、名づけすらままならない。けれどそれが何なのかは、漠然と分かっていた。
 結局最後尾でゴールした聖は先輩たちにしこたま絡まれ怒鳴られたけれど、ひたすら天気がよかったからと言い訳をした。





−続−

聖さん亮悟先輩好きすぎやしないか