マラソン大会が終わったら、職業体験がある。中等部だけの行事だといってもひどく聖には憂鬱だった。しかも今年からレポート提出までさせるそうだ。だったら次男、三男はどうするんだ、女子はどうするんだと不必要にも懸念してしまったけれどどうやら一週間の日記のようなものを提出すればいいらしい。そんな簡単なことならもっと早く言え、と思ったけれど前日に言われたので何の対応もできなかった。でももともと予定ではこの休みを利用して服を新調しようと思っていたところだった。丁度冬服も買いに行きたかったし、背も伸びて去年までの服は似合わなくなってきたところだった。
 そう、思っていたのに。


「聖さん、明日のご予定は?」

「明日ですか?」


 明日から職業体験だという前日、翌日以降の予定をどうしようかとスケジュール帳とにらめっこしていたら襖を少しだけ開いて美月が顔を覗かせた。廊下にいさせるのも悪いだろうと部屋に入れて向き合うと、美月は真剣な顔で予定を聞いてくる。別にまだ予定は立てていないから素直に首を傾げた。一週間でやることは買い物と先輩たちとバスケをするくらいしかない。だから少し不安になりながらありません、と返した。


「買い物行こうかなって思ってたんですけど、なんですか?」

「明日ね、紀仁さんと会うお約束があるんです」

「それで?」

「一緒に行きませんか?」


 姉から思わぬデートに誘われた。確か何度か会っているはずだから今更恥かしいなんてないはずだ。何か理由があるのかと訊いても俯いてしどろもどろではっきりとは答えてくれない。海人とのデートならわかるけど、と聖が茶化そうとしたら美月がゆっくりと口を開いた。その声が震えていて、なんだか不安を煽った。


「お兄様が、今年は聖さんに角倉の仕事をお手伝いさせるとおっしゃってたので……」

「……初耳ですけど」

「聞いてしまったんです。だから、聖さんに予定ができればそれで……」

「ありがとうございます。お供します」


 ほぼ即決と言っていい勢いで聖は頷いた。角倉の仕事なんて真っ平だし、どうせ将来的にもやらせる気がないくせに。けれど聖が逆らえないことを知っているのか知らないのか兄は何も言わずに強要してくる。それがいやだから、美月からの要望ならば無理強いさせることもないだろうと思った。
 頭を下げると、美月は嬉しそうに微笑んでデートなのだと言った。デートに着いて言っていいのか本当に疑問だけれど、まあいいか。


「それで、予定は?」

「聖さんが決めてください」

「はい?」

「私、普通の女の子みたいなことがしてみたいんです」


 にこりと、そう大事な姉が言うから聖は一つ頷いた。美月はきっと、聖が思うような普通の女の子がやることをやったことがないだろう。プリクラを撮ってカラオケどころか電車に乗ったこともない気がする。大好きな姉が望んだことならば、と聖はそれじゃあ買い物に行こうか、と簡単に計画を立てた。なぜか、茜とデートしようと言っていたことを思い出した。
 美月と少し話してから一人になって、メールを打った。海人先輩に今回は遊びに行けないことを伝え、布団に寝転がったところでまた声をかけれた。今度は兄だったので、あわてて体を起こして乱れを直す。


「聖、少しいいかな」

「は、はい!」

「そんなに固くならなくていいよ。今年の職業体験はね、聖に参加してもらいたい」


 静かに部屋に入ってきた兄が珍しく腰を下ろして聖に向き合った。ボタンを二つ、三つ留めただけのシャツと上に羽織ったニットセーターには何も言わずにすっと部屋を見回して、ただそう言って静かに笑う。彼の真意は酌めないけれど、美月に言われて何をやらされるのかは知っていた。


「明日は、美月さんに付き合ってでかけるので……」

「そうか、あの子も余計な気を回す。それともただのヤキモチかな」

「あの……」

「それじゃあ明後日からだね。予定はないだろう?」

「……はい」


 よろしく頼むよ、と言って兄は出て行った。その目的も何もわからない。明後日からの六日間、おそらくは付き人のような形で仕事を任されるのだろう。現在の兄は角倉の実務を一切取り仕切っているほどに多忙なのだ。家でも余り会わないな、と思って見送っていると携帯が着信を告げた。










 翌日、横浜の駅に降りたのは美月と紀仁、聖と茜だった。どうせなら一緒にデートしようかと誘えば二つ返事で帰ってきた。茜は電車で出かけることもあるようだからよかったものの、美月と紀仁は初乗りだったようで説明が大変だった。おそらくこれからも大変だろうと聖は覚悟を決めた。


「ここが横浜ですね!」

「その通りです。美月さん初めてですか?」

「はい!」

「あ、紹介します。俺の彼女の小野寺茜」

「角倉美月と申します。聖さんがお世話になってます」


 まず駅で紹介をすると、美月は嬉しそうに自己紹介をして頭を下げた。茜も慌て頭を下げるがそのしぐさが面白い。茜の手をとって、紀仁には美月のことを頼んで特に目的があるわけではないけれど歩き出した。まず中華街にでも行こうか。時間的にはお昼を食べてもいい頃だ、と思う。
 歩きながら考えていると、隣で茜が笑った。なんだよ、と目線だけで語りかけると少し恥かしそうに顔を逸らした茜が周りを見ながら呟く。


「聖とデート、久しぶり」

「あー、ごめんな。いつも忙しくて」

「別にいいよ。でも嬉しいなって」

「そういうこと言うとムラムラすんだけど」

「やだ、やめてよ!」

「今日は無理、邪魔なの二人もいるから」

「邪魔とは何ですか!」

「だって美月さん、電車乗ったことない人たちは邪魔ですよ」


 茜と手を繋いだまま後ろを振り返ると、手も繋いでいない。紀仁が少し困った顔をしているのが笑えた。美月はぷっと頬を膨らましているし、なんだかこの普通の状況がおかしくて聖は笑った。茜は分かっていないようできょとんとしている。それもまた面白い。そんな風に笑いながら、聖は胸の奥にわだかまっているものが抜けなかった。明日からの不安が、常に胸の中にある。兄は一体なにを考えているのだろう。


「聖?」

「あ?なに?」

「私の話聞いてた?」

「わり、聞いてなかった」

「さっきから上の空だね」


 夕べからずっと考えていることをまた考えていると、不意に眼の前に茜が現れた。正確には顔を覗き込まれただけだけれど、そう感じた。不思議そうな顔になんでもないと言って続きを聞くと、お腹すいたと素直に言われた。じゃあ食事、と後ろに問えば頷かれて、適当に目に付いた店に入った。目に付いたと言っても聖の頭には中華街の地図も入っている。そこからおいしそうな店を選んで入った。
 茜と美月はまだ会話を交わすほど親しくなさそうだけれど、食事をしているうちに少しなれたようだ。そもそも茜にとっては美月は学校で言われるように角倉の姫で紀仁は皇族なんだから緊張しないほうがおかしいのかもしれない。


「それ美味そう」

「食べる?」

「一口でいい」


 食事中は主に美月と茜が自己紹介がてら聖の話で盛り上がっていて少し気にかかったけれど聖は明日の方が気になって、特に気にかけなかった。デザートを食べているときに茜の杏仁豆腐がおいしそうだったので声をかけると、ぱちくりと眼を瞬かせて聖を見た。一口寄越せといいながらスプーンを要求し、少し腰を浮かせて彼女の手をとった。美月が少し赤くなっているのが目に入っていたが、気にせずに一口彼女のスプーンから直接もらった。
 茜も慣れているから特に気にしていないようで、おいしい?と聞いてくる。


「ん、うまい」

「聖のゴマ団子も一口ちょうだい」

「ん」


 一口どころか一つゴマ団子を茜の口につっこんだ。舌が油を舐めとるのに色っぽさを感じて口付けたくなりながら、眼を逸らすことで回避した。さすがにここじゃあまずいのはわかるし、特に隣に初心なカップルがいるのだから。
 頬を染めた美月が眼で何かを訴えて来ているのを無視しようかと思ったけれど、大好きな姉を邪険にはできなかった。


「聖さんたちはいつもそういうことを……?」

「普通ですよ、このくらい」

「そうなんですか……」


 少し赤くなった美月は俯いてしまって、ちょっと失敗したかなと思った。けれどもう遅いし、茜とじゃなくてもよくやることだ。まあいいか、と自己完結して立ち上がった。どこに行くの、という茜に対して便所、という単語を答えて紀仁を誘った。そのときにさりげなく伝票を持って席を外した。
 女性陣にばれないように会計をさっと済ませ、二人揃ってトイレに入った。別に行きたかったわけじゃあないけど、この方がいろいろと便利だ。


「紀仁さぁ、美月さんとなにやってんの?」

「なにって?」

「だから、キスとかそれ以上とか。まだやってねぇの?」

「あのね聖、結婚してないのにできるわけないでしょ。聖こそ上の空でなにやってるの」

「俺、そんなに上の空?」

「すごくね。何かあった?」

「……ちょっと」


 何かはあったが、何も言えない。言いたくなかった。だから少し笑って濁し、席に戻った。いない間に仲良くなった女性陣と店を出て、適当にぶらついた。茜がアクセがこれが似合うだとか選んでくれて、代わりに聖も服を買ってやったりと普通のデートを楽しんだけれどやはり気は晴れなかった。
 日が暮れる頃に帰ったけれど、茜が時間があるというので駅に車を呼んで二人を乗せた後、茜と二人でホテルに入った。今までそれで霧散していた悩みは、彼女を抱いても頭のどこかにこびりついていた。










 デート翌日、聖はきっちりと着物を着て兄の後を着いて回った。回ったというよりも彼についてなぜかホテルに滞在している。仕事を見せられるのかと思ったのに、なぜ何もしないでホテルで二人で食事を取っているのかひどく不思議だった。そして、二人きりの状況はひどく不安だ。


「聖。一献どう?」

「……頂きます」


 未成年だから、という点を兄はどう考えているか分からないけれど、聖はとりあえず受けた。これが罠だったらどうしようかと思ったけれど、呑めないわけじゃあないどころか酒は強いほうなので文句を言われてもいいだろうと自己完結した。
 兄から一献受けて煽ると、久しぶりの酒が喉を焼いて少しむせ返りそうになった。今まで呑み慣れたのは洋酒だから、日本酒はダメなのかもしれない。


「何度も言っていると思うけどね、聖。私は聖に跡を継いでもらいたい」

「…………」

「父はそう思っていないようだけど僕は期待してる。今までは父が実務を行っていたけど、今は私が実権を頂いた」

「はい……」

「だからもう少し、打ち解けてもらおうかと思ってね」


 それが今回の目的なのか、と聖は少し合点がいった思いがした。常に怯える自分との距離を縮めようとしてくれた兄の優しさを、去年の夏のフラッシュバックのように思い出して少し泣きそうになった。まだぎこちないながらも打ち解けてみようかと思い、酒の力を借りて口を開いてみた。まだ心臓はドキドキしている。


「兄上。なんで俺にそんなに期待してるんですか?」

「聖は優秀な子だよ。知ってると思うけど私は体が弱いからね、早く一人前になって欲しい」

「俺、そんなに優秀じゃないです」

「優秀だよ。今はまだ緊張するかもしれないけど、いずれ誰にも何も言わせない。聖はそのままで大きくなりなさい」


 一つ一つ言葉を交わしていくうちに、兄の言葉の温度がおかしいことに気づいた。今までとは違う、オフの温度とでもいうのか暖かく柔らかい雰囲気を纏っている。少し話しやすくなって、酒を煽りながら美月のことを聞いてみた。どうしてあんなに辛く当たるのかと訊くと、今までは何も答えてくれなかったのに少し距離が縮まったのか微笑を浮かべて答えてくれた。悲しませる人は少なくていいと、そう言う。


「聖は美月と仲がいいね。ずっと仲良くしてあげてくれ」

「兄上が仲良くしてあげればいいですよ。美月さん、兄上のこと大好きなんですから」

「そうか、……嬉しいね」


 ふっと目を細めた兄の顔がとても美月に似ていて、聖は思わず吹き出した。兄は不思議そうな顔をしているけれど首を横に振ることで答え、聖は杯を進めた。
 実は仕事を調整して休みを取ったようで、六日間ずっと兄と一緒にいた。最終日になればもう冗談を飛ばすことはできなくても笑いかけることはできるようになっていて、聖は着物ではなく普段着を彼の前で着るようになった。デパートまで連れまわしたのだから当然かもしれないが、雑貨屋まで連れて行ったときにはさすがに少し嫌な顔をされた。
 明日からまた学校、という日の夜帰ってきて部屋でゴロゴロしていると、電話が着信を告げた。それは珍しく護からの電話だった。





−続−

なんか茜ちゃんとラブラブ