警察に補導された。警察にお世話になりそうな事態に遭遇したのはだいぶ久しぶりだったから逃げ遅れてしまって、取調室にぶち込まれた。強いて言えばウォッカのグラス越しに世界を見ているような、そんな世界で2時間質問漬けにされたあとやっと釈放された。釈放と言っても身柄受取人が迎えに来てくれただけ。
 その人を見た瞬間、僕は何故だか。胸が締め付けられた。


「とりあえず入れ」


 僕を迎えに来てくれた角倉聖さんはそう言って、笑顔で僕を自宅に迎え入れてくれた。迎えって言うのはおかしいかも知れないけれど、そんな感じ。
 聖さんは、僕の学校の不良教師。見たこともないくらい綺麗な顔をしていて、それでも僕の知っているなかれもしかしたら一番人間らしい人間かもしれない。なんとなく、そう思う。そして聖さんは、僕の後見みたいな、そんな人。僕の家だった『宮小路』、は一族みんなが惨殺された。でも僕だけはその前に母の親友だと言う神代の家に預けられた。だから僕は今、神代夏芽。高校生になった今年、僕は宮小路を復興させようと思って、角倉の家に行った。宮小路と角倉は、はるか昔から交流があったから。角倉は快く僕の支援をしてくれると言い、角倉の末息子の聖さんが僕の世話をする、という事になった。もちろん、誰にも頼らないようにしたいとは思うけど。


「あの、聖さん」

「んー?」

「ごめんなさい」


 迷惑を掛けてごめんなさい。本当は、迷惑を掛けるつもりじゃなかった。そう言うと、聖さんは苦笑して僕の頭をくしゃっと撫でた。子供が悪戯をしたのをしょうがないなと言っている、そんな表情だった。
 聖さんに促されて家に上がると、正面の多分リビングから小さい子供が飛び出してきて聖さんに飛びついた。


「パパ!おかえりなさい!」

「ただいま小藤。いい子にしてたか?」


 6歳くらいの、女の子だった。飛びついてきたその子を抱き上げると、聖さんは当たり前のようにぎゅーっと抱きしめる。女の子はきゃっきゃと笑いながら聖さんの首にしがみ付いた。それから聖さんは僕を促すようにリビングに歩いていく。その短い間にも女の子は一生懸命聖さんの気を引くように話しかけていて、その度に聖さんは適当に相槌を打っていた。
 リビングに通されてまず思ったのは、広い家。聖さんの実家は日本有数の『角倉』本家。その家が広いのは当たり前なんだけど、聖さん自体は勘当同然の扱いをされているらしい。そもそも聖さんは愛人の子で、角倉にとっていてもいなくてもいいようなお荷物だったと、本人が笑って言った事があった。
 ともかく、確かに白金に住んでいるいわゆるシロガネーゼ?って奴で、このマンション…というか、億ション?は広い。広いバルコニーがついていて、壁一面がガラス張り。アイランド型のキッチンがあり、その前にはちょっと高めのテーブル。そして白い革張りのソファが2つ向かい合い、その間に綺麗なガラス張りのテーブルが置いてあり、大きなプラズマテレビが左側のソファから見やすいように鎮座していた。


「悪かったな、吉野」

「構いませんよ。そちらは……」


 テーブルの上のコップを片付けてはじめていたらしい青年に聖先生が声をかけると、彼は微笑んで僕を見た。彼は僕を知らないようだけれど、僕は彼を知っている。今年から竜田学園高等部の保健医に就任した筧吉野先生だ。聖先生は軽く思案顔をして、女の子を抱いたままソファに腰を下ろした。筧先生がその向かいに座り、一瞬戸惑った僕は聖さんに隣を指されて素直にそこに座る。


「今年1年の神代夏芽」

「1年D組の神代夏芽です」

「保健医の筧吉野です」


 僕がちょこんと頭を下げると、筧先生は一瞬思い出すように視線を上に向け、すぐに微笑んだ。その笑顔に僕が一瞬返せずにいると、聖さんは笑って「それから」と言って僕と反対側に座って聖さんの気を引こうとピョコピョコ跳ねている女の子を自分の膝の上に座らせた。


「小藤ちゃんです。俺の娘な。小藤、ごあいさつは?」


 聖さんが小藤ちゃんの手を持って自己紹介というか他者紹介をすると、小藤ちゃんは恥ずかしいのかいやいやと体を捻って聖さんの胸に顔を埋めてしまった。その姿に苦笑して、聖さんはポンポンと小さな頭を撫でる。それから僕に笑いかけた。


「悪いな、人見知りで」


 そんな事はないと思って首を振ると、聖さんはまた笑って小藤ちゃんを引きはがした。すると簡単に剥がれ、しかし僕には恥ずかしいのか筧先生の座っているソファとテレビの間の陰に隠れてしまった。その姿に聖さんと筧先生が同時に苦笑する。なんだか、この空気は居心地が悪かった。僕が住んでいる世界とは全く違う世界のような、そんな気がする。


「とりあえず飯作るか。小藤、近くでテレビ見んなよ」

「あぁ、僕もう帰りますよ」

「いいって。ナツもいるし今日千草帰ってこねぇし」


 立ち上がりかけた筧先生を制止して、聖さんはそう言った。千草って誰だろうと一瞬思ったけれど、多分聖さんの奥さん。高校の頃に出会って、出来ちゃった結婚したと聞いた。そう言って聖さんがキッチンに入っていく。ソファに座っていてもつまらないので僕はキッチンの前のテーブルに移動した。キッチンの中を覗くと、聖さんが冷蔵庫の前にしゃがんでいた。そこに、小藤ちゃんが走って聖さんの背中に飛び乗った。


「パパー!」


 突然飛びかかれて、不安定な体勢だった聖さんは「うおっ」と漏らして一瞬バランスを崩しかけた。しかしどうにか尻餅をつくことは免れて視線を背中に向けた。ニコニコ笑顔でじゃれ付いてくる少女に溜め息を吐いてそのままひき肉とかを出して立ち上がった。小藤ちゃんは何が楽しいのか聖さんと良く似た笑顔で楽しそうに笑っている。


「小藤、重いからあっち行ってろよ」

「やー」

「ナツ、何か食えないもんある?」

「小藤お野菜やだ」

「野菜も食うの。ナツ?」

「別に、ないです」


 娘さんの世話をしながら、訊いてくるわりにすでに料理を開始していた。背中にくっついていた小藤ちゃんは疲れてしまったのか、降りて足の周りをちょこちょこしている。若干邪魔そうにしながらも聖さんは慣れた手つきで料理をしていた。途中でお風呂を入れたりしながら。
 黙ってみていると筧先生がお茶を出してくれた。それを啜っていると、キッチンから聖さんに呼ばれた。


「ナツさ、寮入んねぇの?」


 その質問に、僕は迷って聖さんからは見えないかもしれないのに首を横に振った。高等部には、寮がある。自治性の強いその寮は束縛される事も干渉される事もなく生活できる。人との接触が嫌いな僕には確かにあっているけれど、家を出来る気にはなれなかった。今まで僕を嫌がらずに育ててくれた神代の家族に悪い気がしたから。


「ま、いいけど。でもナツ、少しは迷惑掛けろよ?」


 「別に迷惑じゃないから」と笑った聖さんに吉野さんは苦笑して「貴方はもう少し他人の迷惑考えた方がいいですよ」と言った。聖さんは心外そうに眉を顰め、3人分の皿を持ってこっちに来た。その後ろから小藤ちゃんが小さな皿を持ってついてくる。おいしそうなミートソースが目の前に置かれて、僕は思わず聖さんを見た。器用な人だとは思っていたけれど、匂ってきたミートソースはとてもいい匂いがした。


「悪いな、簡単なので」

「あ、りがとう…ございます」


 普段人にお礼を言う事も親切にされる事にもなれていなかった僕は、小さな声でそれだけ言って俯いた。一瞬黙った聖さんは苦笑して「どうしたしまして」と言った。なんだか妙な気がしていると、小藤ちゃんが元気に聖さんのとなりで手を合わせて「いただきます」と言った。僕もおなかが減っていたので、手を合わせて「いただきます」と呟く。


「ナツ、今日泊まってくか?部屋もあるし、明日日曜だし」

「でも、迷惑じゃ……」

「言ったろ?ちっとは迷惑掛けろ」


 そう言った聖さんの顔は優しくて、不意に泣きたくなった僕は俯いてミートソースのスパゲティを食べていた。










 食事が終わって筧先生が帰ると、聖さんは小藤ちゃんとお風呂に入ってしまった。さっきからたまに、小藤ちゃんの笑い声が聞こえてくるから、楽しんでいるんだろ。ほんの少し、羨ましくなった。だって僕には父親にあんなふうに愛してもらった事はないから。幼い頃、宮小路の父は仕事が忙しく余り家に寄り付かなかった。神代の父には僕のほうから素直に甘える事が出来ず、妙な距離が生まれてしまったから。
 僕がぬるくなってしまったコーヒーを啜りながら興味のないバラエティー番組に視線を移すと、バスルームの方から聖さんの怒鳴り声が聞こえた。


「小藤!髪!」


 何だと思ってそちらに視線を移せば、可愛らしいうさぎのきぐるみパジャマを着た小藤ちゃんがパタパタと駆けてきて、僕が座っているソファーの影にしゃがみ込んだ。食事の後、少し慣れたのか小藤ちゃんは僕に怯えずに近づいてくれるようになった。どうしたのかと思って小藤ちゃんを覗き込むと、小藤ちゃんはしーっと口元に指を当てた。ややあって、聖さんが上裸でドライヤー片手に入ってくる。


「髪乾かさないと風邪引くだろ」


 聖さんはさっさと小藤ちゃんを捕まえると向かいのソファに腰を下ろし、小藤ちゃんを自分の足の間に座らせた。バスタオルで小藤ちゃんの髪を拭きながら文句を言っているけれど、聖さん自体が人の事を言えない格好をしていた。下は高等部のバスケ部のレギュラージャージだし、上裸。長い髪からぽたぽた垂れる雫をそのままにしているので、むき出しの胸や背に水の這った後が出来ている。
 器用に座ったままコンセントに指を伸ばして、小藤ちゃんの髪を乾かし始めた。手をしっかり動かしながら、僕を見て苦笑する。


「聖さん?」

「いや、ナツが補導されるなんて思わなかったから」

「ちょっと、相手がしつこくて」


 いつもの奴等と違っていたから、逃げるのに手間取ってしまい警察に見つかってしまった。そういうと、聖さんはしょうがないなと言うように笑った。こんなことを言ったら見放されるかと思っていた。心のどこかで、それを望んでいたのかもしれない。しかし聖さんは全てを享受するように笑った。何故だか僕には、聖さんはもしかしたらこの世界から一番遠い所に住んでいるんじゃないかと思ってしまった。


「なんか、お前似てる」


 誰にですか、と訊こうと思った。けれど、訊けなかった。何となく訊いてはいけないような気がして。聖さんは時々、人間らしい。そして、人間ではないような表情を浮かべる。一番世界を愛しているかのような顔をしながら世界を憎んでいるようなことを言う。足をしっかりついているように見せて、ふわふわ飛んでいるように見える。そんな、人だと思う。


「ママ帰ってきた!」


 聖さんが「終わり」と呟いた瞬間、小藤ちゃんがソファから飛び降りてテッテと玄関に向かって走っていった。その後姿を呆れたように見ながら、聖さんは「今日は帰ってこねぇって」と呟いて立ち上がり、自分の頭をタオルでガシガシと乱暴に拭きながらキッチンに向かう。


「ビールしかないんだけど、ナツ呑む?」

「あ、呑みます」


 僕、洋酒派なんだけど。でもアルコールに溺れたい気分だった。未成年だなんて突っ込まれないから言わない。
 聖さんは缶ビールを2本持ってくると僕に1本投げ、僕が受け取ったのを見るとにやりと笑ってソファに腰を下ろした。プシュッとプルトップを開けて冷たいアルコールを流し込むと、妙に頭がスッキリした。その時、小藤ちゃんと女性が仲良く入ってきた。聖さんが気づいて微かに目を開く。


「帰ってきたんだ?」

「なんかみんなデートとか仕事で呼び出されて」


 多分、聖さんの奥さん。小藤ちゃんと良く似た女性は僕のほうをちらりとみて、聖さんに視線だけで問いかけた。聖さんも僕を見て薄く笑んで奥さんを手招く。自分の隣に座らせると小藤ちゃんが回りこんで聖さんの隣に座った。


「ちょっと訳ありでさ、神代夏芽。性別は男。今日泊まってくから」

「妻の千草です。小藤はごあいさつした?」

「一応した」


 僕の性別を聞いてにこりと微笑んだ千草さんに、僕は頭を下げる。僕は、母親にだからよく女の子と間違えられる。だからだろう一瞬警戒した千草さんはすぐに小藤ちゃんの事を気にして聖さんに問いかけていた。聖さんは頷きながら小藤ちゃんを抱き上げ、僕を見た。


「ナツ、風呂入ってくるか?着替え俺のでいいだろ」

「だいぶサイズ違うんですけど……」


 「寝るときにサイズなんて関係ないだろ」と笑った聖さんはやっぱりどこの世界に住んでいる人間かよく分からない顔をしていて、その顔になんだか妙に安心した。角倉聖という人間はきっと底なんてなくて、だから僕みたいな人間も許してくれるんだと思うと何故だか泣きたくなった。





-結ぶ-

神代夏芽(かみしろ なつめ)
千草(ちぐさ) 小藤(こふじ)
面白みがねぇ……!やっぱり夏芽はローテーションですね。