朝練がない平和な水曜日。珍しく予鈴が鳴る前に教室に行った俺は、クラスメイトと他愛のない話をしていた。その話の流れで、ドアに黒板消しを仕掛けようという事になった。どんな流れだったかはよく覚えていないが、まぁ学生の会話なんてそんなもんだ。ガキみたいな事だと心の端で思うが、一度はやってみたいと思うのが人間だろう。
 だから俺は椅子に乗って、今黒板消しを前のドアの間に挟んでいる。先生はいつも時間ギリギリに来るから、予鈴が鳴ってからやっても大丈夫なくらいだ。


「一誠!聖先生来る!」


 大丈夫だと、思っていたんだ。外でやってくるクラスメイトに「後ろから入って」と言っていた奴が後ろから入って来て叫んだけれど、まず頭に浮かんだのは何故。だって聖先生はよくSHRに遅刻してきて、代わりに吉野先生がSHRやったり、授業に遅刻して真坂先生に説教喰らってたりするのに。
 しかし俺がそいつの言葉に反応して物を隠す前に、聖先生の無駄に色気のある低音が耳に飛び込んできた。これぞ正に、絶体絶命。


「何してんだ、一誠?」

「先生おはよ」


 語尾にハートマークでも付きそうな笑顔を浮かべて言って、自分で正直気持ち悪いと思った。ばれないように極力さり気なさを装って椅子から降りて黒板消しを後ろ手に隠したけれど、聖先生は人外に綺麗な顔で笑ってもう一度俺の名前を呼んだ。


「一誠?」

「ごめんなさいー!」


 この凶悪なまでの美貌に低い声で名前を呼ばれて、最後まで口を噤んでいられるツンデレさんはいるだろうか、いやいまい。俺が素直に泣き出さんばかりの勢いで叫んで黒板消しを投げると、それを上手く隆志がキャッチして黒板に戻した。おいおい、みんな連帯責任だろ。なに、知りません全て一誠が悪いですみたいな顔してんだよ!


「黒板消しかー。俺の頭に落ちてきたら面白いな?」

「……そうですね」

「そっか、どうして欲しい?」


 あぁぁぁぁ!ごめんなさい!!
 泣きそうになって聖先生を見ると、先生は楽しそうにニマニマ笑って俺を見下ろしていた。一体どうしたら許してくれるんだよ、こういう顔をしている聖先生が怖いことなんて百も承知だから俺も必死になる。俺が先生と無言で見詰め合っていると、安斉が楽しそうに手を上げた。お前!さっきまでやる気満々で俺の椅子押さえてただろ!?


「先生珍しいですね、こんな時間に来るなんて」

「職員会議早く終わってさ。あ、そうだ」


 何か思いついたように聖先生はいやらしい笑みを口の端に浮かべて俺を見た。もしかして、罰として朝っぱらから晒しモン!?それとも保健室で慰みものに!?大抵の場合冗談になるが、聖先生の場合冗談にならないから怖い。彼は女が好きだけど男だって嫌いじゃない。来るもの拒まず去るもの追わず(性別関係なし)とは聖先生を如実に表している言葉だと思う。最早イコールで繋いでいいと思う。
 そんな聖先生は時計を確認してまだ予鈴すらならないことをいい事に、ポケットから煙草とライターを取り出して椅子に腰掛けこうのたまった。


「何か面白い話したら許してやる」


 この言葉に俺は死に物狂いで頭の中から聖先生を楽しませるような面白いネタを引っ張り出そうと普段使わない頭を振る動員させはじめた。










 これは、俺たちが中3の時の話です。圭太に彼女がいることは知ってますか?いるんですよ、えっとテニス部で副部長やってるC組の松本絢子さん。そう、ポニーテールが可愛いですよねー。
 2人の付き合いだしたキッカケの話なんですけどね、圭太と松本さんて1年からずっと委員会が一緒だったんです。たしか、美化委員だったかな。クラスは違っても委員会って結構仲良くなるじゃないですか。それに2人とも苦労性というか真面目って言うかだからよく2人で残って仕事してたんですよ。そのうちに恋、しちゃったんですね。
 卒業式の日に、体育館裏に松本さん呼び出したんですよ。あの圭太が!……ちょっと、先生笑うの早いですよ!?
 中等部の体育館って中等部の部室棟の隣であんまり人気ないじゃないですか。逆隣は講堂と学食だし。しかも壁に沿って植わってる桜満開で。で、圭太が呼び出したわけですよ、式の後に。だーかーらー先生笑うの早いって!


『あ、あの…松本さん』

『話って、何?』

『えっと、委員会、お疲れ様』

『そうだね、おつかれさま』

『じゃなくて!あの、す……っ』

『す?』

『……雀って可愛いよね!?』

『そう、だね?』


 まじでこんなボケかます奴いたんだって感じじゃないですか!雀ってどっからでてきたんだよ。俺はこのときほど圭太が可哀想な奴に見えたことはなかったです。でも圭太も頑張ったんですよ。ほら、圭太って見た目に寄らず照れ屋で奥手だし。


『あの、えっと…雀も関係なくって……』

『うん』

『………………………………好き、です』


 このときの圭太の顔ったらなかったね、ユデダコみたいに真っ赤にして。好きですってだからなんだっての。……先生、涙出てますよ。


『……えっと、本当に?』


 ほんのりと赤くなった松本さんが恥ずかしいのか口元を手で覆って呟くと、圭太はこくりと頷いて真っ直ぐに松本さんを見つめました。もう目とか潤んでるし超必死。頷いた圭太は緊張から喉が渇いているのか喉を嚥下させてからまた口を開いた。


『ずっと、好きだったんだけど……、俺と付き合ってください!』

『私なんかで、良かったら』

『……ありがとう』


 松本さんの答えを聞いて、圭太は心底ほっとしたように息を吐き出しました。その声に乗って出た感謝の言葉の意味が分からず2人は真っ赤な顔を見合わせて笑いました。俺たちは木の陰で腹抱えて笑ってましたが声を抑えるのは大変でした。










 俺が話し終わると、話の途中で椅子から落ちて笑い転げていた聖先生は目に浮かんだ涙を拭って椅子に座りなおした。途中どころか話の序盤で笑って落とした煙草は隆志が無言で処理したので安全だ。まだ笑いの発作はおさまらないのか時々痙攣したように笑っている。告白のシーンでここまで笑えるってある意味すげーな。


「先生、あんまり笑ったら圭太が可哀相ですよ」

「だって漫画みたいで……っ」


 そう言った聖先生はまた笑いがぶりっかえしてきたのか再び腹を抱えて笑い始める。現場を見ていた俺と康平は笑いまくっている聖先生を見て肩を竦めるけれど、話を聞いていたクラスの半分くらいが肩を震わせている。
 漸く聖先生が笑い終わったくらいに予鈴がなり、俺はこれで終わりかと思った。先生これだけ大爆笑したら俺の犯した罪も忘れてそうだしな。しかしそれは甘かったんだ。この角倉聖というドSキングの前では何が自分の首を絞めるか分からない。


「他にねぇの?」

「面白い話ですか?圭太の話ですか?」

「圭太の話」


 躊躇いなく言い切ったよ、この人。まぁまだチャイム鳴るまで時間はあるし、いい時間つぶしだし。そう思って俺はまた一つ聖先生が好みそうな話を記憶の底から引っ張り出した。










 圭太と松本さんが付き合いだして半年もしない、夏休みの事です。え、先生何ですか?猥談じゃないですよ。
 部活もないし、2人で夏祭りに行こうってことになったんです。圭太は普段着だったけど松本さんは浴衣でした。いつものポニーテールじゃなくてかんざしで長い髪を留めて、可愛らしい草履はいて。それを見た圭太はまた赤くなって、俯きました。


『浴衣、可愛いね』

『あ、ありがとう』


 だから!先生笑うの早いですって。
 で、照れながらも2人は歩き出したわけですよ。何かこう、若いカップル特有の微妙な感覚をあけて歩いているんです。人ごみの中ですから松本さんも結構大変だったと思いますよ。歩きなれてない草履だし浴衣だし。一応圭太は松本さんに歩調合せてたんですけどね。
 いや、だから慣れてない人には浴衣って動きづらいでしょ?聖先生は一年の半分くらいは浴衣とか着てるじゃないですか。それは慣れですって。もう、話の腰折んないでください。ともかく、人ごみだったわけです。だいぶ躊躇ってから、圭太は手を差し出したんです。


『……迷子になるから……』

『……うん……』


 告白の時と同じで顔を真っ赤にして圭太が差し出した手に、松本さんは可愛らしく頬染めてそっと自分の手を重ねました。ぎゅっと手を握って、それから2人は照れているのか無言で歩き続けて神社の境内についてしまいました。そこで休む事にして座っていると、松本さんがしきりに足を気にしてるんです。しばらくして圭太が気付いて、松本さんの足を見て問いかけました。ちなみに、境内に付いた時点でもう手は離れてます。


『足、どうかした?痛い?』

『ごめん、ちょっと靴擦れみたい』

『歩けそう?』

『少し休めば大丈夫だよ。ごめんね』


 松本さんの足は赤く擦り剥けていて、圭太はじっとそれを見ていました。恥ずかしかったんでしょうね、松本さんが隠すように足を折ると圭太は境内から飛び降りて「ちょっと待ってて」と行って祭の喧騒の中に戻っていってしまいました。よりにもよって人気のない暗がりに女の子を置いて。実際は俺たちがいたんですけど、何かあったらどうするつもりだったんでしょうね。
 松本さんは圭太に本当に悪いと思っていたのかしきりに謝罪の言葉を述べていました。しばらくして戻ってきた圭太は、ビーチサンダルを持っていました。


『大きいけど俺の靴履いた方がいいんじゃないかと思って。鼻緒のところ摺れてるから』

『でも、それじゃあ荻原くんに悪いから……』

『気にしないで。帰ろう、家まで送るよ』

『……ごめんね、まだ来たばかりなのに』

『足が痛かったら楽しめないでしょ?あ、歩ける?おぶろうか?』

『大丈夫、ありがとう』


 そんな訳で圭太達は8時という早い時間に帰りました。圭太はビーサンで松本さんは圭太の大きい靴でした。帰りは人通りもそんなにないからか手は離したまんま。でも松本さんに合わせて歩調はずっとゆっくりでした。ちなみに、そのまま松本さんの家で普通に別れて圭太は家に帰りました。先生が期待してるような展開にはなりませんでした。以上。










 夏の思い出を話すと、聖先生は隣のクラスから苦情が来そうな勢いで笑っていた……。何か、圭太に悪い事したかもしんない。
 聖先生は一しきり笑い終わると涙を色っぽく拭いながら、真面目な顔をして俺を見つめた。やべ、俺への罰を思い出したか?でも俺は知っている。先生も学生の時に黒板消しを仕掛けて真坂先生から説教喰らってた。うちの兄ちゃんと一緒に。


「一つ訊くけど、どこまで進展すんの?」

「これ以上進展してません」


 そう言うと、聖先生は切れ長の目を見開いてまた笑い出した。そのときチャイムが鳴り、聖先生は笑いながら教卓に立つ。号令を掛ける声も心なしか震えているのは気のせいだろうか。週番は、康平だ。絶対思い出し笑いしてるし。
 聖先生の笑いというかあの話はクラス中に伝染してしまったらしく、なんとなく一触即発の雰囲気だ。聖先生が震える呼吸を割れている腹筋で見事に押さえ、点呼を取り始めた。うちのクラスの遅刻は、聖先生に名前を呼ばれるまで。聖先生はランダムに呼ぶ上に、最後に「呼ばれてない奴」とか言って3人くらいが手を上げるはめになる。
 今日は遅刻が多いらしく、席がポツポツ空いている。電車でも止まったのだろうか。点呼を取りながら聖先生の手が、一瞬止まった。震える声でその名前を紡ぎだした瞬間、教室の後ろのドアが開いた。


「圭太」

「はい!」


 息を切らした圭太が、肩で息をしながら立っていた。その姿に俺たちはさっきの話を思い出してしまい、驚く事にクラス全員が同じタイミングで吹き出した。一度笑ってしまうと中々止まらないのが爆笑の怖いところで、みんな半分酸欠状態で笑っている。圭太は訳が分からずその場に立ちすくしていた。
 笑いが収まったのは、偶然通りかかった真坂先生に怒鳴り込まれたときだった。でもきっと、いくら問題ありまくりの聖先生のクラスだからといってまさかクラス全員が腹を抱えてのた打ち回っているカオスな空間になっているとは思っていなかっただろう。固まった真坂先生はすぐに教室のドアを閉めた。
 この日、うちのクラスは3、4限の聖先生の化学の授業があったのだが、聖先生が圭太を見て笑い出すしそれにつられてみんなも笑い出すしで授業どころじゃなかった。こんな事になった圭太は可哀相だけど、俺の罪はなくなったから良しとするか。





-結ぶ-

書いていて恥ずかしくなる告白の台詞は初めてです。