「一体どうすりゃ良いってんだよ!」


 朝っぱらから、教室に入ってくるなり苛立たし気に圭太は指定鞄を机に叩きつけるように置いた。周りで驚いているクラスメイトを無視して、圭太は鞄の中からケータイを取り出す。隣の席で俺とそれを見ていた一誠が、圭太の方に顔を出した。


「圭太?大丈夫?」

「全然」


 不機嫌に返ってきた声に一誠が怯えたように顔を俺のほうに戻す。そして小声で「もう1週間くらい経つのに……」と呟いた。
 いつもは明るい荻原圭太だが、ここのところ機嫌がすこぶる悪い。正確には、日曜日からだから6日目だろうか。原因は、なんともくだらない事だけれど彼女との喧嘩。なんでも、土曜日のデートを圭太が寝過ごしたらしい。まぁ忘れる圭太も圭太だけど、それから全く連絡を入れていないというのだから彼女だって切れるだろう。


「だいたいさ、謝ってんじゃん!」

「う、うん……そうだね?」

「これ以上どうしろってんだ!?」


 突っかかられた一誠が可哀相かもしれないと思いながら、俺は椅子の後ろに体重を掛けて前後に揺らしながらウィダーイン。やっぱり朝飯はこれに限るよなとか、このままいったら椅子ごと倒れそうだなとか思いながらうんざりしている一誠を見ていると、恨みがましい目で見られた。俺も圭太の愚痴に付き合ってやれって事かもしれないが、気付かない振りして完全に無視。だって、面倒くさいし。


「ちなみに、具体的にどう怒ってんの?」

「さっき教室に謝りに行っても完全無視!メールも電話もすべて無視!」

「………ご愁傷様」

「聞いてももらえないのにどうやって許してもらうんだよ!つーか絢子もしつこい!!」


 こうして話はいつも同じ所を回っている。圭太が一誠に喚きちらし一誠が慰め、いつのまにか彼女の松本絢子ちゃんの愚痴になる。絢子ちゃん可愛いししっかりしているしいい子だと思うけどな。初めは聞いてて楽しかったけど、1週間も経つと鬱陶しくなる訳ですよ。いい加減に煩いし、新キャプテンになった圭太が機嫌が悪いと部活の空気も悪くなる。副部長としては気にかかる訳。
 絢子ちゃんに怒りを向けるところまで話が進んでいるのを聞きながら、飲み終わったウィダーの袋を膨らましていると、一誠が何か言ってくれ的な視線を向けてきた。俺はゴミを握って絞りながら、相変わらずカッカと怒っている圭太を見た。


「つーかさ、絢子ちゃん消滅狙ってんじゃないの?」


 この瞬間の圭太の顔ってばなかった。金槌でガーンとあたまを殴られた顔って言うのはこういうのだろう。1つ勉強になった。赤かった顔が見る間に真っ青になり、圭太よりも一誠が慌てだした。え、俺悪くないっしょ?


「なんてこと言うんだよ康平!圭太、大丈夫だって。松本さんちょっと怒ってるだけだって!」

「……でも、口聞いてくれないし」

「拗ねてるんだって!明日デートで全額奢りとかなんか買ってあげたら許してくれるよ」

「……でも、口聞いてくれないし」

「うちの兄ちゃんはそれで仲直りした!」

「……でも、口聞いてくれないし」


 さっきから同じ事しか言っていない圭太に一誠は慌てだした。お前の兄ちゃんが成功しようが、圭太が成功するとは限らないと思う。それにしても絢子ちゃんは今回はだいぶ怒っているようだ。
 机に突っ伏して圭太がぶつぶつと「口を聞いてくれない」と繰り返し始めた時、さすがに不憫に思ったのかクラスメイトがみんな寄ってきた。おいおい、圭太一人にみんな同情しすぎ。その時、チャイムが鳴った。予鈴かと思ったがいつの間にか鳴り終わっていたのか時計は本鈴の時間を指している。今日も今日とて面倒くさそうに教室に入ってきた聖先生は、教室に入った瞬間微かに眉を寄せ、圭太に視線を移すと珍しく物言いたげに瞳を眇めた。










 これ以上部内の雰囲気を悪くする訳にもいかず聖先生に相談した所、昼休みに化学準備室に呼び出された。俺だけではなく圭太と絢子ちゃんも。小さな机を挟んで聖先生の向かいに圭太と絢子ちゃんが並んでいる。俺は、何気ない振りをして聖先生に頼まれた雑用をこなしている。まぁ俺が先生に面倒な相談をしたんだから、このくらいは手伝っても良いと思う。


「で?」


 テーブルの上に灰皿を引き寄せて、聖先生は不機嫌にそう言った。昼休みに食事時間を10分とってすぐに来たので、聖先生は満足に休めていないのだろう。俺が先生に頼まれた書類の分類をしながらちらりと視線を上げると、圭太が居心地悪そうに身じろぎ絢子ちゃんは怒ったように視線を圭太の反対側の床に落としている。
 埒があかないとそうそうに判断したのか、聖先生はさっそく俺に視線を落とした。その視線に俺は頷いて圭太を窺いながら口を開く。


「圭太がデート忘れて寝こけて、絢子ちゃんが許してくれない事にへこんでます」


 「大変鬱陶しいです」と簡潔な説明を閉じると、聖先生は呆れたような顔で圭太と絢子ちゃんに視線を移す。出しっぱなしの煙草を口の端で引っ張り出してここが化学準備室だという事を無視して火を点ける。俺の説明に文句を言おうとした圭太だが、聖先生の不機嫌な瞳に体を竦めて押し黙った。紫煙を吐き出しながら、聖先生が2人を見る。


「まず、圭太はなんでこんなに大事になってるか分かるか?」

「………いいえ」


 口惜しそうに唇を噛んで俯いて、圭太がゆっくりと首を横に振った。まあ確かに本人は自分の事で精一杯だと思うしそれはしょうがない事だとは思うけど、やっぱりね。周りに迷惑を掛けるのは悪い事なんだよ、特に部長だし。もう直ぐ3年の最後の大会も控えてる訳だから、部の士気は勝敗に関わってくる。
 圭太の答えに聖先生は不服そうに目を細め、俺の整理していた書類の中から1枚の紙を引っ張り出した。先週くらいに決まった、大会の対戦表だ。


「迷惑なんだよ、お前」

「すみません……」


 俺、聖先生がまともな教師っていうか大人らしいことをしている所を初めて見たかもしれない。うわ、こうやってると格好良い。いつもの適当で怒られまくりで飄々と笑っている姿からは想像もできないアンニュイというか、陰な感じ。ファンクラブなら涎物だ。
 深く頭を垂れた圭太に満足したのか、今度はその隣の絢子ちゃんに視線を移した。彼女はこの場の空気に当てられたのか、既に泣きそうだ。


「絢子は何でそんなに怒ってんだ?」


 聖先生はいつから圭太の彼女を呼び捨てにしているんだろう。この子C組で文系だから関わりなんて全くと言っていいほどないはずなんだけど。
 俺の疑問はもちろんこんな空気の中で発せられるものではないので後で聞こうと思って黙っている。聖先生にはあらかじめ説明していたので事情が分かっているはずだから、この質問は確認だろう。不意に優しくなった聖先生の瞳に、絢子ちゃんは少し安心したように細く息を吐き出した。聖先生は、フェミニストだ。


「私ずっと待ってたのに、連絡もくれないし……」

「だから謝っただろ!?」

「月曜日にね!それにあれ、謝ったつもり!?」


 イラッとしたのか絢子ちゃんが声を荒げ、その言葉に圭太が押し黙った。おいおい、一体圭太はどんな謝り方したんだよ。大体、デートの予定は土曜日なのに月曜日に謝るってのは最低だろ。
 聖先生はガキの痴話喧嘩に興味がないのか、面倒くさそうに書類をペイッと投げて灰皿に灰を落とした。あぁ、紙が混ざった!折角分類したのに。


「それだけか?」


 ただ謝る事が遅かっただけなのにそんなに怒っていたのかと聖先生が呆れ混じりに問いかける。その言葉に絢子ちゃんは首を横に振り、言い辛そうにちらりと視線を圭太に移した。その視線の意味が分からずに、圭太が首を捻る。聖先生が促すように微かに微笑むと、彼女は意を決したように口を開いた。



「月曜日に、圭太が謝りに来て……でも、首筋にキスマークついてて……」


 言いながらよほどショックだったのだろう絢子ちゃんの声が震えた。数秒天井を見上げていた聖先生は、あからさまに笑顔を貼り付けて俺を見るが、俺が知る訳ないじゃん。圭太も冤罪に驚いていたけれど驚きすぎていたようで口をパクパクさせていた。
 誰も何も言えない妙な沈黙が生まれてしまった。それもそうだ。圭太は謝るのが遅くなっただけで絢子ちゃんが許してくれないと思っていて、絢子ちゃんは圭太が自分とのデートを忘れて浮気していたと思っているのだから。そして、その原因は我等が聖先生にある。


「……絢子は、圭太がキスマークつけてたから怒ってんだな?」

「大まかな所は」

「細かな所ってどこだよ」


 細かい所は他にあるようだが、絢子ちゃんが頷いた。その隣で、原因がハッキリして安心したのか圭太が小さな声で突っ込む。絢子ちゃんも相当ストレスが溜まっていたのだろう、圭太の言葉にすっと目を据わらせた。俺は喉が渇いたので、勝手にコーヒーを飲むことにして聖先生が作っていたビーカーのコーヒーをそのままミルクと砂糖を入れて飲む。


「圭太ってばいつも無神経!」

「どこら辺がだよ!?いっつも気を使ってんのは俺のほうだろ!」


 突如言い争いを始めたカップルを鬱陶しそうな目で見ている聖先生に気を利かしてコーヒーを持っていくと、ブラックが良かったと文句を言われた。でも俺は聖先生の愛人でもないので無視。俺が資料をまとめ終わったのを見て聖先生は短くなった煙草を灰皿に押し付けて、1束に手を伸ばす。テーブルに頬杖をついてなんとなく痴話喧嘩を眺めながら俺が「止めないんですか?」と訊いたら、「面白いものが聞けるかもしれねぇだろ」と奇麗な笑顔で言われた。そうしているうちにも争いは激しくなる一方だ。


「お昼に一緒にお弁当食べるとかしたことないし!」

「絢子だって友達と食べたいって言ってるじゃんか!それに、部活の時迎えに行ってるだろ!?」

「部活が被った時だけじゃない!デートしたってバスケの事ばっかり話してるし!!」

「猥談する一誠よりいいじゃんか!」

「そういう問題じゃない!」


 絢子ちゃんの言う事には一理あるが、一誠は問題外だと思う。こいつらの生活が赤裸々に叫ばれて、何となく俺は居心地の悪い気がする。普通の高校生カップルって言うと一緒にお弁当食べたり「今日お弁当作ってきたの」とか、制服デートとかなのかな。俺にはそんな相手いないけど。
 完全にあきてしまってボーっと見ていると、聖先生が耳元で「そろそろ来るぞ」と言った。吉野先生でも出るのかと思ったが、聖先生は顎で圭太達を指した。それに従って俺も視線を戻すと、絢子ちゃんが決定的な台詞を叫んだ。


「圭太は私と聖先生どっちが大事なのよ!?」


 ここは、『私』と『バスケ』を比較するべきじゃないか?
 絢子ちゃんもどこかずれているというか……。まぁドコが間違っているとは言いがたいけれど、圭太にとって聖先生は好きなものランキングで絢子ちゃんよりも、というか寧ろ近所の犬よりも下に位置していると思う。圭太も一瞬固まったあと、完全否定するようにぶんぶん首を振っている。聖先生がニヤニヤ笑いながら「傷付くなー」とか言っていたけど、みんなで無視。


「そんなの!聖先生な訳ないだろ!?」


 でも「絢子の方が大切だ」って言わないんだ?いくら圭太が照れ屋で奥手で俺たちがいつも出歯亀して笑いの種にしていても、それくらいはちゃんと言った方がいいと思う。
 まさか日常で聞けると思っていなかった「私と仕事どっちが大事」発言に聖先生は声を殺して笑っていたけれど、また喧嘩になりそうな気配に顔を上げた。まだキスマークの件も残ってるしね。先生の目にうっすら涙が浮いているのは、きっと気のせいじゃない。


「ちょっと落ち着け。これで原因はっきりしたな?」

「でも先生!」

「圭太は俺より絢子が好き。文句ねぇだろ?」


 何か言いたそうな絢子ちゃんに聖先生が微笑めば、何も言えずに俯いてしまう。聖先生が満足してコーヒーをすするので、俺は聖先生の白衣の袖を引いて顔を寄せた。どうみてもこの人は解決したと思っている。


「先生、まだキスマークの説明してません」

「……面倒くせぇな」


 聖先生が自分で面倒にしてるんじゃないですか。聖先生は溜息を吐きながら、圭太と絢子ちゃんに視線を移した。どう説明しようかと言葉を探すように天井に視線を泳がせる。
 先にネタばらしをしてしまうと我がバスケ部では遥か昔から、試合の時にチェンジした選手が代わった相手に激励の意を込めてキスマークを付ける習慣があった。最近ではそんな事はなくなっていたが、日曜日の部活の時に聖先生の先輩の代だから8こ上だろうか、レギュラーだった人たちが遊びに来た。ちなみに、貴人先輩のお兄さん達だ。そして面白半分に聖先生はレギュラー全員にキスマークを付け、聖先生自身も先輩たちに付けられていた。


「絢子、心配しなくてもキスマークつけたの俺だから」

「やっぱり聖先生のほうが大事なんだ……!」


 絢子ちゃんは聖先生の足りなすぎる説明に顔を真っ青にして圭太を見て、同じく真っ青になった圭太が止める間もなく準備室から走り去ってしまった。さすがテニス部副部長、足が速い。すぐに見えなくなってしまったその姿に圭太は呆然としていて、聖先生は引きつった笑顔のまま誤魔化すようにコーヒーに口を付けた。


「……ものすごく、誤解された」

「とっとと追いかければ?……あ、予鈴なった」


 俺の言葉に頷いて絢子ちゃんを追いかけようとしていた圭太だが、その後すぐに鳴ったチャイムにこの時間に誤解を解くのが不可能だという事実に絶望したように目を見開いて、テーブルに突っ伏した。たぶん教室に戻った絢子ちゃんは友達に圭太と聖先生がラブラブだとか言いふらすんだろうなと思ったら、俺はまだ当分彼女なんて要らないと思えた。





-結ぶ-

松本絢子(まつもと あやこ)

きっとこの後、圭太愛人説がでて職員会議で問題になります。