私は幸せだと思う。素敵な旦那様との可愛い娘はいい子にすくすく成長しているし、誰もが一度は憧れた白金に住んでいる。まだ22なのに。いつものように広々としたアイランド型のキッチンで、私はハンバーグを焼いていた。時々顔を覗かせてソファに座って大人しくしている小藤のようすを確かめたりするのが癖になっている。テレビから聞こえてくる音は小藤のお気に入りのアニメで、誰に似たのかこれが終わるまではてこでも動かない。いつもテレビが終わる頃には聖さんも帰ってきて温かいご飯を食べられるようになっている。


「ママぁ、おなかへったね」


 そろそろ夕食を作り終えるかというところ、小藤がぴょこんとキッチンの前のテーブルに飛び乗った。テレビがCMなのかしらと思って正面のセンスのいいモノクロの時計を確認すると、小藤のテレビの終わる時間になっていた。いつもならテレビが終わるちょっと前に帰ってくるし、遅くなるならその前に連絡があるのに。まさかとは思うけど不安になってきて、私はまた時計に視線を移した。何度見ても時間が変わっているわけではないのは分かっているけれど、胸が締めつけられるような変な感じがする。聖さんに限ってないと思うけど、事故とか……。でも今日は電車で行ったし、ケータイも持ってるし医者の知り合いたくさんいるし。ものすごくお友達がたくさんいる聖さんがヤクザさんに目をつけられたとかはないと思う。だって聖さんのお友達も極道さんだもの。
 椅子の上で「おなかへった」と大きな声で言っている小藤に何故かイライラして、私はハンバーグをフライパンから皿に動かしながら口を開くとすこし怒った声になってしまった。


「パパが帰ってきたらご飯にするから、電話してみなさい」

「……はーい」


 私のイライラが伝わってしまったのだろう、子供って言うのはひどく敏感だ。小藤が物心つく頃に聖さんと喧嘩したことがあったけれどその時も小藤はわんわん泣いて私たちを困らせた。
 私が謝る前に小藤は椅子から飛び降りて広いリビングを裸足でペタペタ走ってキッチンからみて左端、ソファからみて玄関側においてある電話に手を伸ばした。けれど私たちサイズになっているので6歳の小藤には届かないようで辺りを見回して踏み台を持ってくるともう一度電話に手を伸ばした。聖さんの趣味で電話はアンティークのダイヤル式。短縮機能がついていないので、専らケータイを利用しているからあまり使っていない。小藤は番号を覚えているのか、すらすらとダイヤルを回した。数秒待って、小藤が嬉しそうに口を開く。


「もしもし、パパですか?」


 私からは会話が聞こえないけれど、小藤はしきりに頷いていた。何を言われているのか真剣に受話器に耳を傾けている。その光景をみながら私は、ハンバーグの皿を2つだけキッチンの前のテーブルに置いた。どうせ、聖さんは帰ってこない。そんな気がした。
 小藤が、電話が終わったのか「早く帰ってきてね」と語尾にハートでもついていそうな可愛い声で言ってから受話器を置いた。とてとてとこっちに寄ってきたので、盛ったご飯を渡すとそれをテーブルに持っていく。


「パパね、9時くらいに帰ってくるって」

「そう。小藤、手洗っておいで」

「はーい」


 ご飯を置いて、小藤は「ハンバーグ」と歌いながら洗面所に駆けていく。それを聞きながら私は無意識に溜め息を漏らした。たまに、聖さんは帰ってこないときがある。事前にホストクラブのバイトが入ったって言ってくれればいいのに、それをしないから困ったものだ。大学時代聖さんがホストのバイトで生活させてくれていたからあの時は文句を言わなかったけれど、今は教師のお給料が入ってくるのにたまにクラブに顔を出しているらしい。どうせ今度も明け方近くになって帰ってきて、女物の吐き気がするほど甘い香水の匂いをまとわりつかせたままベッドにもぐりこむのだろう。
 勘弁して欲しいと思ってまた溜め息を吐いて椅子に腰を下ろすと、戻ってきた小藤がきょとんと私を見て首を傾げた。何でもないよと言って、私は小藤と2人でご飯を食べた。










 9時少し前、小藤と一緒にお風呂に入ってそろそろ寝かせようと思っていたときだった。玄関のチャイムが鳴った。やっぱり高級マンションは普通のマンションと違いセキュリティが頑丈だ。私には必要ないんじゃないかと思えるようなことまでやっている。まず入り口で暗証番号を入力して入って来て、ガードマンの顔チェック。それからやっと階まで上がってきてエレベーターホールから階の廊下に続く暗証番号、自宅玄関の鍵。
 聖さんは鍵を持っているはずなのに鳴らすなんて、面倒くさい。自分の家なんだから自分で入ってくればいいじゃないかと思って無視してテレビを見ていると、小藤がぱっと顔を光らせて玄関に駆けて行った。


「パパ!」

「たっだいまー」


 玄関の方で聖さんの妙に明るい声が聞こえた。きっとお酒でも呑んでいるのだろうと思ったらムカついてきて、私は無視してテレビを見続ける。聖さんのゆっくりした足音と、小藤のととと、と小走りの足音が聞こえてきたかと思ったら、小藤が後ろから飛び掛ってきた。パパっ子の小藤が聖さんが帰ってきて私のところにくっついてくるのは珍しいと驚いて振り返ると、酔っているのか妙に色っぽい顔をした聖さんが微かに微笑んだ。


「パパ変なにおいするぅ」

「お酒の匂いでしょ?……おかえりなさい」

「ただいま、千草」


 完全に酔っているんだ。聖さんは小藤を私から引き剥がすとふわりと後ろから抱きしめた。完全に、酔っている。そう思いこまないと私は心臓が爆発しそうでしょうがない。もう結婚して6年にもなるのに、いつまでも私だけが聖さんを好きなまま。そんなこと、分かってる。
 聖さんは苦笑に似た笑みを浮かべて私の耳元で小さく謝罪の言葉を囁いた。こんなホスト技に騙されるもんかと思いながら無視を決め込んでテレビを睨んでいると、焼餅を妬いた小藤が私の前に回って足の上に座った。自然に体を支えるように抱きかかえると、聖さんが私の肩越しにしなやかな腕を伸ばして小藤の柔らかな頬を筋張った指でつついて笑う。


「さっき俺から逃げてった癖に」

「だってパパ変なにおいするもん」

「ほら、小藤はもう寝る時間でしょ。パパもご飯できてるから勝手にあっためたら?」


 そう言いながら聖さんの腕を振りほどいたとき、お酒のにおいの合間からほんの少し甘い匂いがした。煙草とは違う、澄んだ薫り。聖さんは苦笑して持っていた紙袋をテーブルの上に置くと、小藤を抱き上げた。一瞬驚いた後に笑い声を上げた小藤を担ぎ上げ、強制的に寝室の方に連れて行く。電話を置いてある棚のすぐ横の廊下からは寝室と小藤の部屋に続いているけれど、聖さんは私たちの寝室に行ったようだった。その間に私は聖さんの食事をあっためてやる。電子レンジでチンするのはとっても淋しいし、味が落ちるから出来ればしたくない。
 丁度ハンバーグをテーブルに戻してスープを温め終わったとき、聖さんが頭に手を差し入れてガシガシ掻きながら戻ってきた。部屋に充満した匂いに一度顔を上げて鼻を鳴らし、私がカップにスープを入れて持っていくと席について手を合わせているところだった。


「小藤は?」

「寝室に人形を一緒に寝かせた。後で俺が動かす」

「……少し酔ってるでしょ」


 私が言うと、聖さんはにっこりと微笑んだだけでハンバーグを口に運んだ。私と小藤はデミグラスだけど、聖さんのは好みに合わせて和風ソースになっていることを知っているだろうか。聖さんは奇麗な見た目からは想像できないほど豪快に食べる。体育会系だからだろうけれど、もう少し小口で食べれば『優艶』とか『優美』とかが似合うのにこのおかげで『格好良い』という形容詞がしっくり来るようになってしまう。遠慮を知っている吉野さんの方がまだ『美丈夫』が似合うだろう。


「昔の友達に呼び出されてさ、ちょっとだけな」

「昔の彼女じゃなくて?」


 私の質問に聖さんはあからさまに溜め息を吐いて肩を竦めた。けれど、ご飯を食べる手は止まらない。そんなしようがなさそうな顔をしているけれど、聖さんには前科があるのだから疑われる方が悪い。私の顔が不機嫌に歪んでたんだろう、聖さんが箸を銜えて私の頭を小藤にするように撫でた。いごこちが悪くて、私が無意識的に体を引くと聖さんは苦笑いを浮かべてスープのカップに手を伸ばす。


「信用ねぇなー、俺」

「だって聖さん、すぐに嘘吐くもん」

「それも愛のうちってことで」


 私のことなんて、愛してないくせに。そう呟くと聖さんは一瞬だけ悲しそうに瞳を翳らせた。でもこれは本当のことだから、どちらも傷つかない。
 聖さんはすぐに微笑を浮かべて一気にスープを飲み干した。「うまい」と呟いたけれど、それだけ。何となく沈黙が流れてしまって、聖さんの食事の音だけが聞こえていた。こんなだったらテレビをつけっぱなしにしておくんだったと思ってももう遅く、沈黙に耐えかねて話題がないながらも口を開いた時だった。


「学校終わったらさ、洋平から電話あって。緊急で出て来いっつーから行ったわけ」

「……洋平?」

「高等部んときのクラスメイト。今、調香師やってんだけど」


 そう言いながら聖さんは残りのご飯を掻きこんで「ごちそうさま」と手を合わせた。
 調香師っていうのは、香水とかを作る人。聖さんのお友達の野村洋平さんは、高等部で2、3年が同じクラスだったらしい。恋人の影響ではじめたアロマに興味を持って今ではカウンセラーの資格も取って香水専門店を経営しているらしい。聖さんのお友達って本当に大物が多い。


「俺の香水作ったから持ってけってさ。……ぎゅってしてやろうか?」


 少し考えてから聖さんがにやっと笑った。聖さんに似て寝つきがよい小藤は寝てしまったから起きてこない。軽く腕を広げた聖さんの胸に魅力を感じながら、抱きしめられたらなし崩し的に連絡をくれなかったこととかを許してしまうことになりそうだから、首を横に振った。


「お酒の匂いしかしないもん」

「それもそっか」


 笑って聖さんは立ち上がった。どこに行くのかと思いながら私がテーブルの上を片付け始めると、聖さんが「ちーちゃん」と私を呼ぶ。聖さんは私のことを色々な呼び名で呼ぶ。千草とかちーとか呼ぶけれど、『ちゃん』がつくとからかったり後ろめたいことがあったりするときだけだから私はあまり聞くのが好きじゃない。けれど聖さんが私を手招くので私は片付けを中断して聖さんが座っているソファまで行って隣に座ると、肩を抱き寄せられた。ふわりと舞った香水の匂いにクラクラしそう。


「これ、俺のイメージなんだと。『バタフライポット』」


 そう言いながら聖さんが小さな紙袋から深い青をした小瓶を取り出した。水晶のような形をしたそれは見た目は飴玉のようにキラキラしている。聖さんをイメージしたといったその香水を一度何もないところに吹きかけると、ふわりと甘い香りが私の鼻腔を擽った。甘くてとてもリラックスできるけれどどこか冷たい、拒絶でもしているような香りが奥からほんの一瞬だけ襲い掛かる。まるで聖さんそのもののような香りだった。うっかりうっとりして少し顔を上げると、聖さんが極上に甘い笑顔で私の頭を撫でてくれる。
 今日は浮気じゃなかったんだなと思ったらなんだかほっとして、この香りも私を安心させてくれた。


「なぁんでンな泣きそうな顔すんだよ」

「してない」


 私は泣きそうなんかじゃないのに聖さんは笑って私の頭を自分の胸に押しつける。お酒交じりの聖さんの匂いとか香水の甘い匂いとか全てが私を泣かせそうに作用して、聖さんが私の頭に軽く唇を落とした瞬間に涙が零れてしまった。だっていつも適当で浮気性で私のことなんて考えてない顔だけの自分勝手な男なのに、無駄に優しいから私は聖さんを嫌いになれない。愛してくれなくても、ずっとずっと好きでいる。
 私がボロボロ泣きながら聖さんのシャツに顔を押し付けて涙がつくのを無視すると、聖さんは文句も言わずに私の背をそっと撫でてくれた。


「泣き虫」

「…うる、さい」


 聖さんの胸の中でボロボロ泣いていると、廊下の方からぽてぽてと小藤が歩いてくる音が聞こえた。慌てて聖さんの服で涙を拭いて離れるけれど、私がちゃんと涙を隠す前に小藤がお気に入りのぬいぐるみを抱えて入ってきた。一度私たちの姿を探したのだろうきょろっと顔を回して、ソファの前で向き合っている私たちの姿に眠そうな顔で小首を傾げる。


「小藤、どうしたの?」

「ママ泣いてるの?」


 私の涙に気付いて小藤がととと、と駆けて私の顔を覗き込んだ。私は何でもないよと笑おうと思ったけれど、泣いたばかりだったので上手く笑えなかったようで小藤は不審そうな目で聖さんを睨みつける。これ以上小藤を見ていられなくて俯くと、聖さんのシャツは私の涙でぐちゃぐちゃだった。


「ママ泣かしたのパパでしょぉ」

「んー、どうして小藤はそう思うかな」

「だってママ怒ってたもん。パパが泣かせたのー。女の子には優しくしなきゃだめだよ!」


 ビシッと小藤に指を突きつけられて、聖さんは苦笑して立ち上がった。小藤を抱き上げて寝室に行くのかと思ったらなぜかキッチンの方に行く。パパっ子の小藤はさっき文句を言ってたくせにぬいぐるみを引きずって聖さんにくっついて行った。そのぬいぐるみも聖さんが作ったもので、もうずっと小藤のうさちゃん。


「寝る時間だろ、ママと寝ろよ」

「パパはぁ?」

「まだ風呂入ってねーもん。ほら、うさちゃんと一緒にママんとこ行ってこい」


 聖さんがしゃがみ込んで小藤に視線を合わせて言うと、小藤がこっちに戻ってきた。聖さんはテーブルの上を片付け始めていて、「あとはやっとくから寝れば」と言ってくれた。私は今日のことをまだ許していないけれど言葉に甘えて小藤と一緒に寝室に向かった。





-結ぶ-

たまにはほのぼの夫婦の話です。
こんな夫婦もたまにはいいかなと。