オレの働く私立竜田学園は少し変っている。幼等部からエスカレーター式のこの学校は名門子女が集まる国内どころか世界でもハイソサエティな学校であり、教師も大学部を卒業したか大学院に在籍していた過去がある人間でなければならない。オレは高校は都内でもレベルが高めの私立に通い、塾に通って大学部に合格した。特に目標があったわけでもないので、気づいたら高等部の教師になっていた訳だ。そしてこの学校は教師も変っている。同じ理科系教師の角倉聖先生の話をしたいと思う。
 竜田学園では週に一回、職員会議とは別に教員間で会議が行われている。それが科目会議というもので、生物を担当している俺は化学教師の角倉聖先生と物理教師で理科系科目の総主任である真坂光定先生と3人で話し合いをすることになる。ちなみに、この学校は理系と文系は教員も教える内容も違う。毎週金曜日に科目会議が行われるけれど、金曜の6、7限はLHRなのでその間にやってしまうことが多い。


「……椎野先生」

「…………はい」


 真坂先生は、怖い。40を超えたところだろう渋くて良い先生なのだけれど威圧感があり庶民のオレとしては萎縮してしまうのだ。けれど凄いのは彼の視線の先で平気にしている角倉先生だと思う。科目会議は総合準備室の真ん中に据え置かれている大き目の机に座ってやる。3人なのでオレのとなりに角倉先生、正面に真坂先生。そして今問題の角倉先生は、奇麗な顔ですやすや眠っている。


「その馬鹿をたたき起こしてください」

「か、角倉先生!起きてください!!」


 真坂先生は、怖い。低く唸るような声にオレの方が萎縮してしまった。慌てて隣の角倉先生の肩を揺するけれど僅かに眉間を寄せただけで起きる気配は見せなかった。いや、見せなかったじゃまずい。何となく起こせなかったらオレまで怒らせそうな気がして、必死に肩を揺さぶった。奇麗な顔をしているくせに体はしっかり、それこそスポーツマンなのだと思わせるそれだ。噂では体脂肪が2%らしいが本当だろうか。


「角倉先生会議中ですよ!」

「…ん……あきほ?」

「誰ですか!?オレ、椎野ですけど!」


 抜けた息で甘く囁く声に思わず背筋が粟立った。男の色香に惑わされる所だったけれど口から出てきた女の名前を否定すると、角倉先生は不機嫌な顔で薄く目を開き「あー」と抜けた声を漏らす。ゆっくりと体を起こして顔に掛かる髪を掻き揚げて、前にいる真坂先生に気づいて初めて「やっちまった」みたいな顔になった。
 真坂先生は角倉先生を睨んでいたけれど、誤魔化すような笑顔を見たら気分を害したような顔で手元のノートに視線を落とした。


「椎野君、授業の進行状況は」

「はい。3Aの女子クラスが少し遅れていますので、プリントなどで補いながら進めたいと思ってます」

「そうか」


 オレが言ったことをさらさらとまとめて、彼はちらりと角倉先生を見た。その顔に角倉先生もヤバイと思ったのだろう慌てて自分のノートをめくり授業の進行具合を確認している。普通、それは会議の前にやっておくことだと思う。数秒そのページを見て考えていた先生はばつが悪いのだろう机の上に出しっぱなしにしてあった煙草に手を伸ばして1本引き出すと指で遊び始めた。


「3Eが遅れ気味なんで、個別に対処しつつEに授業をあわせよーかな。あと2Bも遅れがちなんで、こっちはスピード上げてく感じで」

「来週中の仕事はまとめて置いておくから確認してくれ」


 角倉先生の話を聞いていたのかいなかったのか真坂先生は顔色を変えずにノートに視線を落としたまま言った。教員の仕事はなにも授業だけじゃない。小テストの採点やら授業の資料作り、これはうちの学校だけかもしれないけれど学会に発表する研究の手伝い。とにかくやる事が多く、総教諭の真坂先生が会議の際に翌週にやる仕事を書き出して置いてくれる。オレたち新人2人が暇を見つけてはやっているのだが、今週もまだ終わっていない。


「それから、今週の分は終わっているのか?」

「………」


 オレは、半分終わらせた。終わっていないのは角倉先生の分だと言い訳していいだろうか。26歳のオレと24歳の角倉先生は同期で入った。だから大体仕事は2人でこなしているし、暗黙の了解で自分の仕事は与えられたもの半分早い者勝ちだった。けれど今週は角倉先生の分が終わっていない。別に彼が悪いと言っている訳でもないのだ。忘れていただけ、お互いに。
 オレたちの沈黙を反省と捉えて、真坂先生は角倉先生だけを睨みつけた。こういうとき普段の行いがものを言うと思う。角倉先生は不良教師代表みたいな人で、今日も「バスケの天才」と書かれたTシャツを着ている。


「聖、今日中に終わらせろ。急げよ」

「へーい」

「以上だ」


 そう言って真坂先生はノートを閉じた。この総合準備室は3人兼用の部屋だけれど実際使っているのはオレと角倉先生だけで、真坂先生はご自分の準備室にいることが多い。彼はきっとこれから文系の理科系科目会議に出てそのあと主任会議にも参加するのだろう、大変だ。
 真坂先生が出て行ってから角倉先生はずっと遊ばせていた煙草を銜えてライターで火を点ける。紫煙を吐き出してから、心底面倒くさそうに顔を歪めた。こんなところで火を使うなんてどうかしていると思うけれど、警報機は壊れているし危ない薬品も置いていないのであまり問題はない。


「よーせーんせ」

「……何ですか?」

「手伝ってください」


 煙草を右手に挟んで、角倉先生は爽やかににかりと笑った。奇麗な顔でこんな笑顔を浮かべるなんて、この人は質が悪い。相手は男、しかも自分よりもガタイが良くてもてるのに、ドキッとしてしまうのはおかしいと自分に言い聞かせて、連帯責任なので当たり前に頷いた。
 角倉先生が「良かった」と笑ったところでノックも何もなしに準備室のドアが開いて男子生徒が飛び込んできた。


「聖先生!助けて!」

「何だよ、どうした?」


 飛び込んできたのは角倉先生のクラスの前原一誠君だった。バスケ部でレギュラーの彼はジャージとTシャツに着替えていてまだ授業中なのにどうしたのだろうと思ったら角倉先生が「うちのロング今野球やってるんです」と教えてくれた。ちなみにバスケ部は1年から3年まで学年別でレギュラーチームがあるらしい。


「今度の中間で赤点1つでもあったら謹慎だって義久先輩が!」

「そりゃ無理だろお前。義久もえげつねぇな」


 角倉先生は笑うけれど、前原君は笑い事じゃないとばかりに角倉先生のシャツにすがり付いて喚き散らした。そもそもそういう事を決めるのは教師側だと思うけれど、バスケ部は自主自立をモットーにしているらしくあまり口を出さないらしい。前原君の成績はオレが担当している生物は2よりの3。3回に1回は小テストでも0点をとる強者だ。


「諦めろ」

「無理無理無理だって!勉強教えてください!」

「寿季にでも教われば?」

「兄ちゃん教えてくれねぇし、絶対笑われて終わりだし!」

「あー、そーかも」

「おーしーえーてー!」

「まぁ、お前がいなくても勝てると思……冗談だ、教えてやるから泣くな」


 角倉先生がニヤニヤしていると、前原君は今にも泣きそうな顔をしていた。さすがにそれ以上からかうことが出来なくて、多少あきれたような顔で前原君の頭を小突くと「テスト前になったらな」とへらりと笑った。それを信じて前原君は「失礼しました」と準備室を飛び出していった。角倉先生は面倒くさいとぼやくけれど、正直オレはうらやましい。生徒に親しく話しかけられることも信頼して頼まれることもそうないから。


「さってセンセ、俺たちも仕事しましょっか」


 そう言って角倉先生は短くなった煙草をポケットから出したケータイ灰皿で揉み消して立ち上がった。残す仕事は資料のコピーだ。量的には少ないけれど、まとめたりするのがとても面倒くさく、どうしてこれを忘れてくれたのかとちょっとムカついた。
 原稿をとりに職員室へ行く間、オレはずっと考えていた。こんなに適当でだらしなくて不良教師代表が顔だけの理由ではなく生徒に慕われるのか、どうしてオレはこの不真面目な人間を嫌いになれないのか。きっと強烈に憧れているのだ。自由に生きて、絶対の強さを持つこの角倉聖と言う人間に。ある種のカリスマ性と呼ばれるそれに惹きつけられて嵌っていく。職員室について真坂先生の机から揃えられた原稿の入っている封筒を借りて印刷機に向かう角倉先生は、どう見たってだらしないだけなのに。


「あ、静子せんせ。今晩ヒマですか?呑み行きません?」


 女子バレー部顧問で政経教師の菅沼静子先生を見つけて、角倉先生は印刷機に原稿をセットしながら笑った。菅沼先生は角倉先生曰く現在32歳らしい。結構綺麗な人だけれど真面目で、角倉先生の奇行にいつも眉を寄せている。けれど角倉先生は菅沼先生に好意を寄せているようだった。


「ね、いいっしょ?奢りますから」

「行きません!他の方を誘ったらどうですか?貴方を好きな若い方がいるでしょう」

「静子ちゃんと行きたいから誘ってんだけど?」

「馴れ馴れしく呼ばないでください」


 ビシッと言われて、角倉先生は去っていく菅沼先生の背中を見ながら少しだけ淋しそうに「つれねぇなぁ」と呟いた。その声が少しだけ哀愁漂っていたものだからドキッとしてしまった。と思ったら、周りの聞いていた女性の先生達が集まってきて「聖先生、私と行く?」「一緒に呑みましょ、楽しく」とか慰められていた。……ときめいて損してしまったと思う。けれど角倉先生はそれら全ての誘いを断って笑った。


「葉先生と呑むから今回は遠慮ってことで」


 角倉先生が「ね?」と同意を求めてきたけれど、オレは行くなんて一言も言っていない。けれど断るのも忍びなかったので頷いてしまった。女性の恨みがましい視線とか妙に熱の篭った視線を感じるのは何故か分からないけれど、角倉先生は満足そうな顔をして笑っていた。










 資料作りを6時には終わらせて居酒屋に行き、あれよあれよという間に飲まされて得意でもないのにジョッキを3つもあけてしまった。呑みすぎだと思ったけれど角倉先生は瓶ビールをあけた挙句に日本酒に手を出していたのでそんな事はなかったようだ。もうベロンベロンで、けれど意識だけはしっかりしていた。


「菅沼先生のこと好きなんですか?」

「好き好き、もう7年もかけてんのに落ちねぇ」

「7年もですか」

「そー。俺って魅力ない?」

「角倉先生に魅力がなかったら世界から魅力と言う言葉は消え去ってますよ」

「だよなー」

「ところで角倉先生、NBAからスカウト来たって本当ですか?」

「誰に聞いたんですか、それ」


 透明な酒の入ったグラスを空けながら角倉先生は僅かに首を傾げてこちらを見た。けれど否定はしないので本当らしい。確かに角倉先生が学生だった時は4年連続全国優勝を果たしたとかいう話を聞いた事がある。顔も良いし人気も才能もあって何でも出来る人が羨ましくてしょうがない。自分が凡人だから。才能がある人に嫉妬するのは普通だけれど、角倉先生は何となく別格な感じがするので嫉妬ではなく憧れを感じた。


「断りましたけどね、日本にいたかったし」

「あー、先生良い匂いしますね」

「香水つけてるんで」


 角倉先生はそう言ってパタパタとシャツの胸元を扇いだ。甘い香りが飛んできて、引き寄せられそうになる。十分酔っているのだということを理解しながら、理解しているからこそ口が止まらなかった。この人は、自分と余りにも違いすぎるから。


「先生って結婚してるんですよね?」

「してますよー。だから俺のこと好きになっても無駄ですよ」


 彼も相当酔っている。聞いた話によると娘さんは今年6歳になるのだとか。ということは出来たのは18のときくらいだろう。奥さんも年下だと聞いたし、出来ちゃった結婚だとか。高校生の分際でそんなことをしているなんて、信じられなかった。けれど目の前の奇麗な男ならもしかしたらありえるのかとも思う。


「どうして結婚したんですか?」

「ガキできちゃったから。俺、そのとき自分って物に興味がなかったから」

「荒んだ10代ですねー」


 いっそ羨ましいと呟いてしまったら、角倉先生はにやにや笑いながらグラスを傾けた。いやらしい顔だ、これで何人の女を落としてきたのだろう。恋人がいない自分には分からないことだけれど、確かに分かることならば自分が女なら確実に落ちていた。そんなオレを見て、角倉先生が笑った。


「葉先生って童貞ですか?」

「悪かったですねーっだ!」


 「酔ってんなぁ」と聖先生が笑った。自分の方が呑んでるくせに、サワー5杯くらいのオレを馬鹿にするな。そう思ってグラスを空けたので記録は6杯に更新された。クックッと笑いながら煙草に火を点けた角倉先生が年下の癖に生意気で、酔った口は面白い言葉を口にしていた。


「じゃあ角倉先生がオレの処女貰ってください」


 色々間違ってるオレ!けれど酔った口といえど紡いだ言葉は消えない。ポカンとしている角倉先生を上目遣いに見ると、オレを凝視してから火が点いたように笑い始めた。酔っているので笑うと早く、げらげらと目に涙すら溜めて笑った。


「いいですけど、後悔しないでくださいよ?」


 この反応も間違っていると思うけれど、酔っているのでそのときは気づかなかった。覚えているのはここまでで、そこから先正直に言うと記憶にない。ただ、朝目が醒めたら角倉先生の家で、隣に彼の奇麗な顔があった。頭も体も痛いけれど、もしかして……。けれど角倉先生はにやにや笑っているだけで真実は失われたままだった。知らない間に間違った意味で大人になっていたらどうしよう、それしか頭にない。





-結ぶ-

椎野葉(しいのよう)

予想外の展開でした。