学校に辞書を忘れた。明日当たるから独逸語の予習は絶対しないといけないのに、忘れた。普段は学校におきっぱなしなのに先週に限って持って行って重いからと部室に置きっぱなしにして、うっかり忘れていた。独逸語…っていうか言語全般苦手だから絶対に予習しないといけないのに。けれど現在時刻は11時。ありがたいことに明日は朝練がないから体力的にも十分だ。机の反対側にある窓から背を逸らして隣の家の電気がついていることを確認して、俺はシャーペンを放り出して部屋を出て行った。
 もう寝ようとしている親には何も言わず、部屋着のままサンダルを突っかけて隣の家に。お隣は中井さん家。幼馴染の裕は同い年で同じ学校。クラスは違うけれど第2外国語は一緒だから、辞書を忘れた時とかよく貸し借りしている。玄関を捻ってみると、中井家は開いていた。なんて無用心なんだ。


「こんばんわ。圭太でーす」


 勝って知ったる幼馴染の家に上がりながら声をかけると、洗面所からおばさんが歯を磨きながら「あら圭太くん」と顔を出した。「裕は?」と訊く前に上を指差され、やっぱり部屋にいるんだと迷うことなく階段を上がる。後ろから「帰るときに鍵閉めてってね」と言われた。中井裕、竜田学園高等部2年D組つまり文系の独逸語選択。写真部に所属し副部長を務めていて、文化部内では裏クィンテットの一角に数えられている。裏クィンテットとは、例えば運動部の花形はバスケ部の俺が言うのも癪だがサッカーと野球だ。慣習的に部会とかで活躍することになっている。同様に文化部の花形は吹奏楽部だが、これは文化とはかけ離れているので文化部であって文化部ではない。うちの文化部で最も権力を持っているのが写真部、美術部、文芸部、漫研、映研の5つだ。各部の部長達が裏クィンテットの一角を担っている。その副部長となれば、時期クィンテット入りは確実なのだ。
 その中井裕の部屋にノックもなく入る。裕も俺の部屋に飛び込んで来る時にノックなんてしてくれないのでお互い様だ。


「裕、悪いけどドイ語の辞書貸して」


 俺に気づいた瞬間の裕の行動は早かった。眼にも止まらぬ速さで机の上の紙を引き出しの中に突っ込んで、インクとか筆ペンとか万年筆みたいなものは違う引き出しにザラザラと入れた。以前親が有名な漫画家の友達の家に言って見せてもらったものと同じものに見えたのは見間違いではないだろう。俺は動体視力が良い。
 裕は女の子みたいな顔をしている。白いし細いし、なにより人見知りででも親しい人にはいつもにこにこしている。そんな裕の机に近づいて、辞書に手を伸ばした。そのとき、裕が落として気づかなかったような一枚の紙を拾った。何気なく紙面に視線を走らせると、乱雑な絵と台詞が描かれていた。


「圭ちゃん。辞書、はい!」

「『ひ、聖先生……やめっ!』『お前、誰に向かって物言ってんだ?』」

「な、何読んでるの圭ちゃん!!」


 女みたいな悲鳴を上げる裕からひったくられたけれど、俺は呆然とその場に立ち尽くしてしまった。例えば、俺たちだって思春期なんだから正直言ってエロ本の貸し借りだってするし、そーゆービデオにだって興味がある。けれど今のは全くそういうものとかけ離れたものだったと思う。あの絵は、聖先生と知らない男子生徒。うちの制服を着ていたから絶対男子。の、生本番中の漫画?


「圭ちゃん!辞書貸したんだから今の忘れて出てってよ、ぼく忙しいんだから!!」


 あの噂は本当だったのかな。裏クィンテットとは実の所聖先生の非公式ファンクラブであり、写真部が隠し撮りで荒稼ぎ。美術部、文芸部、漫研がそれを元にしたりしなかったりで漫画や小説、絵を描く。映研に至ってはストーカーよろしく実録ルポ作り。いくらなんだって嘘だろうと思っていたけれど、まさか事実っぽいとは。そういえば、吉野先生は剣道部だけでなく写真部の顧問もやっている。しかも裕の部屋の本棚、ちらっとしか見てないけど同人誌とか言うものが並んでなかったか?俺は興味もないし知りたくもないけれど、ジャニーズ大好きな彼女がいくつか所持して嬉しそうに教えてくれたことがある。あの時はちょっと引いたけど、教えてくれてありがとう、絢子。
 さっきのが衝撃的過ぎて家に帰っても勉強する気にならずに結局そのまま布団にもぐりこんだ。もぐりこみはしたものの、頭の中はさっき見た聖先生の絵で一杯だった。でも、聖先生ならありかなってちょっと思った。










 昼ご飯は大体教室で食べることにしているのだけれど、今日は裕が誘ってきて保健室に来てしまった。だから絢子も誘ったけれど、友達と食べるからと断られた。裕はおばさんの弁当だけど、俺は栄養バッチリの学食でカツ丼をテイクアウト。温かいご飯を掻き込みながら、裕の困った顔を見ていた。


「圭ちゃん、お願いだから昨日のこと黙っててね?」

「昨日の?あぁ、あれか」


 折角忘れようとしていたのに思い出してしまってげんなり。毎日見ている顔だから、あんなものを見せられて平気でいられる訳がない。必死に頭の端に追いやったというのに、思い出させやがって。肉を一欠けら口に放り込みながら忘れようと頭を振った。けれどこの世は良くできている。噂をすれば影、だ。


「吉野、冷ピタとかくれ」

「どうしたんですか?」

「突き指?」


 聖先生が、珍しくスーツで保健室に入ってきた。その瞬間の裕は一瞬硬直したかと思ったら荷物からカメラを取り出して一部の隙もない行動で隠し撮りを開始した。そうか、写真部っていつもこういうことをしているのか。どうりで文化祭以外で作品を見ないと思った。吉野先生から冷ピタを受け取って指に巻いた教師と言うかホストみたいな格好をした聖先生は、俺たちに気づいたのか不思議そうに首を傾げて俺の隣に少しだけ間を空けて座った。……裕の顔が、すごいことになって「聖×吉野かぁ」とか呟いている。


「どした圭太。こんなとこで」

「昼ですよ。聖先生こそ大丈夫ですか?つーか何してたんですか」

「ちょっと友達と異種格闘戦」


 さらっと言って、聖先生は笑った。何で異種格闘戦が始まったかから訊かないといけないので俺はそれを訊くのをやめた。けれど吉野先生との会話で、聖先生が学生の時の生徒会近衛で当時のムエタイ部の部長が来たのでちょっとじゃれて遊んでいたらぺキッとなったそうだ。大人気ないにも程がある。けれど聖先生はそれだけなのかさっさと戻ってしまった。つーかあの人、あの格好で異種格闘戦したんだ?聖先生は運動神経抜群で、何をやらせても人並み以上に出来る。万能なので今まで数々の大会を総嘗めにしてもおかしくない。と裕がぶつぶつ呟いているけれど実際に聖先生はバスケ1本できている。格闘も喧嘩も得意らしいけれど、大会に出る気はないらしい。


「つーか裕さぁ、何で聖先生好きなわけ?」

「何で?うーん……一目惚れかな」


 頬を僅かに赤らめて、裕は乙女チックにそう言った。「段々惹かれていったんだぁ」とかどっかのラブソングの歌詞みたいなことを言っているけれど、相手が聖先生である以上「いいなぁ」とかは微塵も感じない。それどころか哀れみすら浮かんでしまう。裕は知らないんだ、聖先生がどれだけ悪人なのかを。


「いいなぁ、圭ちゃん聖先生の授業があって」

「だったらお前も理系にすればよかったじゃん」

「ぼく数学とか無理」


 パックのオレンジジュースを啜りながら裕はしれっと言った。2年になると理系と文系が分かれて、文系に科学の授業はないから裕は聖先生の授業を受けることが出来ないのだ。俺としては出来ない方がいいと思うけれど、本人は羨ましくてしょうがないらしい。


「圭ちゃん、今日部活?」

「そーだけど。何、用あんなら夜くれば?」

「……だって、夜行くと怒るじゃん」

「あんなことやりに来るから。まともな用だったら怒んねぇもん」

「圭ちゃんの為を思ってやってるのに」

「いるか!」


 小さな親切大きなお世話という言葉があるが、裕の場合小さな親切でもない。マジで迷惑しか運んでこないんだから怒鳴って追い返したくなるのは通りだと思う。うん、俺悪くない。けれど溜まってしまったようで裕は今日来るだろう。軽く憂鬱になりつつ、来る前に寝られたらいいなとか淡い希望を抱いてもみた。










 疲れきって、飯食って風呂入ってそのままベッドに倒れこんだ。もうすぐ大会が近いので、先輩たちはもちろん俺たちも必死だ。試合の前にはレギュラー決めの部内試合も控えている。現レギュラーの俺たちは最後に1試合するだけだけれど、絶対に負けられないので自然練習にも熱が入る。珍しく聖先生も付き合ってくれたので、家に帰ってきたの10時過ぎだった。なのに、なのに。どうしてこいつは俺よりも早く俺の部屋でくつろいでいるんだろう。


「この間、真坂先生に怒られてしゅんとしてた聖先生」


 そう言って裕は俺の部屋の真ん中に置いてある小さなテーブルでアルバムの整理を始めた。聖先生の隠し撮りが収められた写真を俺の部屋で整理するのはやめてくれといつも言っているのに、やめてくれない。学校では大人しい素直な子で通っているけれど、俺に言わせれば頑固でワガママ。でも幼馴染。
 寝そうになっている俺をベッドから引き釣り降ろして座らせて、次から次へと何時取ったのかわからない「授業中の聖先生」だとか「小テスト中に寝てた聖先生」とか「保健室で寝乱れた聖先生」とか「テスト採点後のグロッキーな聖先生」だとか「体育の授業での水着姿」とか「準備室でアンニュイに煙草吸ってる姿」とか「試合中のユニフォーム姿で腹チラ」とか「下着姿」とか「授業中の居眠り」だとか「生ラン」とか「生ジャー」など、教師としての素行を告発できるような写真やら犯罪の匂いのする写真を見せてはアルバムに貼っていく。全て貼り終わってから、満足そうに笑った。


「聖先生格好いいねぇ」

「顔だけだろ」

「ぼく、聖先生になら処女あげてもいい」

「一遍死ね」

「あぁん!圭ちゃんひどい!」


 うるさいなぁ。俺は疲れてるし裕の聖先生話は聞きたくないのに。裕のおかげで俺は聖先生マニアなんじゃないかってほど聖先生のことに詳しくなってしまった。出来ちゃった結婚で娘さんが今年6歳(そんなことはみんな知ってる)。大学時代はホストのバイトで凌いでいたけれど、すぐにナンバーワンになったらしい。そんなどうでもいいことから聖先生の趣味や好みまで、更にどうでもいいことまで。こんなことまで知って俺はどうするつもりなんだろう。


「何でお前そんな聖先生のこと詳しい訳?」

「これが裏クィンテットの実力だよ。あ、そろそろブログ更新しないと」


 何かご機嫌で、裕は自分の家に帰っていった。あいつブログなんてやってるんだ、と思った瞬間嫌な予想をしてしまって背筋が冷えた。いつだったか他校に練習試合の申し込みをしにいったときの事だ。俺は恥ずかしながら狭い校内にも拘らず迷子になり、そこの生徒に助けられた。ちなみに、今でもたまにメールしている。そのときにうちの、学校のしかも聖先生の写真ブログが存在することを知ったのだ。あの時は本当に、血の気が引いた。まさかそんなことはありえないと思いつつ確認しに行く勇気も持てず、考えているうちに眠ってしまった。










 部内試合の翌日は休みだ。久しぶりの休みなのに、俺は罰ゲームを敢行されていた。理由は、賭けに負けたから。試合で何点取れるかを賭けていて、見事に俺が負けたのだ。あんなことするんじゃなかったと思いながらけれど少しだけ楽しそうな気がしてノコノコ来たのだ。あのオタクで有名な本屋に。


「では圭太。今からここで女の子が好きらしい同人誌とやらを買って来い、ジャンルは問わない」

「…マジで俺一人で行くの?」

「いってらっしゃーい」


 一誠と康平が笑顔で手を振って俺を見送ってくれた。くっそ、覚えてろよ。ちなみに、智紀と恭弥は家庭の事情でいない。
 俺はしょうがなく店の中に単身入った。もっとじめじめしているかと思ったら意外に明るく、快適な気温だった。けれど何だか本を見ている人間が尋常じゃない表情をしているようにみえるのはどうしてだろう。強いて言うなら、獲物を狙う猫の顔……。俺ははずかしくて、兎に角恥ずかしくなって早く買ってしまおうと店内を歩き回った。こんなことならエロ本買ってくるでも良かった、正直言って。んで領収書切ってもらったほうが良かった。
 その中で、俺は見てはいけないものを見てしまった気がした。店で一番目立つ場所にあるショウウィンドウ。その中に「新刊」と派手なポップで飾られた『化学室の秘密の情事』というタイトルの薄い本。値段は妙に高い。作者名は、Y。そのタイトルに驚いたのでもイニシャルに驚いたのでもない。その表紙の絵に見覚えがあった。これ、この間裕の部屋で見た絵とそっくりだった。思わず凝視してしまい。


「お買い上げですかぁ?」

「はい」


 何答えてんだ俺!?でも返事は取り返せないらしく、どんなに「間違いでした」と言っても冗談にしか取られずに袋に詰められて妙に高い金を払わされた。後ろ指を差されているようで居た堪れないんですけど!足早に店を出ようとしたその瞬間だった。


「圭太?何やってるの?」

「……あ、絢子」


 彼女に、会いました。だからいやだったんだこんな罰ゲーム。絢子は怪訝そうな顔をして俺を見て、俺が持っているものを見て更に顔を歪めた。うん、不思議に思うって言うか怪しむ気持ちは良く分かる。でも何も訊かないでいてくれるとありがたいんです絢子さん。俺としては絢子がここにいるのもどうかと思うけど、それは言わないでおく。近づいてきた彼女に反射的に紙袋を背中に回し、誤魔化す為に笑ってみた。


「こんな所で何やってるの?それ、買ったの?」

「あの、罰ゲームで……」

「罰ゲーム?何買ったの?」


 何で絢子こんなに興味津々なんだよ!?これ如何わしい本だろ?詰め寄る絢子にどうしようもなくなって俺はとりあえず落ち着かせて店の外に連れ出した。どうしてこの子こんなに興奮してんだろ。自分の彼女のはずなのに分からない。
 外に出るとニヤニヤして待っていたらしい一誠と康平が少し驚いた顔をしたけれど、すぐに俺の不正を疑った。


「圭太!お前彼女に買わせるのは反則だろ!」

「偶然絢子がいたんだよ!自分で買ったっつの」

「何買って来た訳?」

「頑張った俺に労いの言葉は?」

「ない」


 笑う2人がムカついたけれど罰ゲームだからと諦めて、俺たちはファミレスに入った。そこで買ってきた品物大公開だ。俺の意志ではないけれど恥ずかしいことこの上ない。ドリンクバーを4つ注文してとりあえず飲みながら読むことにした。買ったからと読む辺り律儀と言うか好奇心旺盛と言うか。俺が買ってきた品物をオープンした瞬間の2人の興奮ぶりったらなかった。


「うわ、何これ!説明文すごいぞ、『聖×圭太』だって……お前じゃん?」

「なにぃ!?」


 何てことに気づいてくれたんだ一誠!俺が速攻奪って確認したけれど、登場人物は聖先生と思われる長髪美人と生徒と思われる男子学生。名前は『圭太』。そしてストーリーの展開上、その『圭太』は聖先生に襲われる。……なんてものを描いてんだあの馬鹿!俺が怒りに震えて本を睨みつけていると、いきなり隣から奪われた。反射的に目で追うと、絢子が嬉しそうな顔で読んでいる。


「……あ、絢子?」

「これ、うちの裏クイの本じゃない?」

「裏クイ?」

「裏クィンテット。ほら、あとがきにかいてあるもの」


 絢子がぴらっとめくって見せてくれた後書きのページには、確かに「裏クィンテット」の文字と、現部長たちのイニシャルが。何をやってるんだうちの文化部は!そして後書きで見えた言葉は写真部の副部長が書きました的な事が書かれていた。やっぱり裕かよ!つーことはあの時拾った絵は俺と聖先生!?


「ねぇ、これ頂戴」

「別に、欲しければあげるけど……俺、いらねーし」

「ありがと。買い集めよーっと」


 絢子はそれ、欲しいんだ?彼氏が襲われて犯されてる本が欲しいんだ?それってどうなの。でも絢子の顔は本当に嬉しそうで、その顔を見たら何も言えなくなってしまった。正面では一誠と康平が大爆笑しているけれど俺は凹んでいるだけで、怒鳴ることも出来なかった。


「あ、これバスケ部のレギュラー全員分あるみたい」


 絢子の言葉に目の前の二人が凍りついた。ざまぁみろ、俺はこれから帰ったら自分の家の前に裕の部屋に飛び込んで怒鳴りつけるだろう。それだ出来るだけ一誠達よりも恵まれていると思う。「今度一緒に買いに行こうか」と提案してくれた絢子に、どう返事すればいいのか分からずにコーラのストローを銜えた。





-結ぶ-

中井裕(なかいゆう)

まさかの結末。裕ちゃんというか、絢子ちゃんの話じゃん。