よく晴れた土曜日の午後二時。普通ならばこれからだっていう時間帯に、私は家に帰ってきた。新宿から帰ってくる道すがら、空は晴れているのに私の心はどんより曇って今にも雨が降り出しそうな、そんな感じだった。
白金台のマンションに私は一人で暮らしている。大学教授のパパにお願いして自由気侭な毎日を送っているけれど、気侭すぎて淋しくなることもある。今日なんかは、一人になりたくない。けれど一緒に過してくれる人もいなくなってしまったので、お昼ご飯を食べなければならないと思いながら結局なにも買ってこなかった。
とぼとぼとマンションに帰ると、いつも人影のない一階のロビーに二つの影があった。一つは濃紺の制服を着たガードさん。ここは家賃が世間から見れば非常に高いけれどセキュリティも万全なマンションなので、いつも二人以上のガードマンさんがいる。そしてもう一人は、少女だった。
「小藤ちゃん?」
「みうちゃんだ」
「有川様、お帰りなさいませ」
ガードマンさんが立ち上がって、頭を下げた。ガードマンさんと言ってもドアマンみたいなもので、住人の顔は覚えているし言動も礼儀正しい。彼は困っているようで眉間に皺がよっている。
そのガードマンさんを困らせているのは、お隣に住んでいる角倉さんの小藤ちゃんだった。柔らかそうな頬を膨らませて、手を後ろに組んで俯いている。子供が一人で出てきたからガードマンさんが止めたのだろう。いつも奥さんが旦那さんと一緒にいるのに、とても珍しいと思う。
「どうしたんですか?」
「いえ、お嬢さんがお父様をここでお待ちになると仰るので……」
すっかり困ってしまったのか、ガードさんはサラッと理由を教えてくれた。小藤ちゃんは理由も何も言わずに黙っている。理由を問おうと小藤ちゃんの前にしゃがみこんで声をかけようとして気づいたけれど、赤くなった頬に涙の走った跡がある。
「小藤ちゃん、お家帰ろう?」
「……ここでパパ待ってるの」
帰りたくないのか、小藤ちゃんはプルプルと首を横に振って小さく呟いた。どうやら角倉さんは出かけていて、それを待っていたいようだ。奥さんに怒られでもしたのかな。それで拗ねて、助けてくれるであろうパパを待っている。私も幼い頃に同じことをしただけに少し微笑ましかった。
「じゃあさ、お姉ちゃんも一緒に待っててもいい?」
「みうちゃんも?」
「お姉ちゃんも」
子供が一人だから問題なら、私が一緒にいたら問題がないはず。そうガードさんに言うと、初めは困惑していた彼も仕事が減ると判断したのか自分の手に負えないと思ったのか了承の意を示してくれた。ここにいたら他の住人に会ってばつも悪いので、私は小藤ちゃんと一緒にロビーから出て玄関の外で待つことにした。
「今日はパパお出掛けなの?」
「パパね、今日はほこうびだから学校行ったの。だから小藤はパパ待ってるんだよ」
「補講日か、そっか」
私も竜田学園大学部に在学中で、もちろん高等部には通っていたので小藤ちゃんの言っていることはすぐに分かった。竜田学園は自主性というものを伸ばしたいらしく、生徒のために教師を縛っているそうだ。平日の午後と土日どちらかの午前は授業の質問等のために教師は自分の準備室を解放していなければいけない。けれど角倉さんは結構土曜日小藤ちゃんと遊んでいる姿だったり遊びに行く姿を目撃しているので日曜日に解放しているのだと思っていた。
「明日は部活がないから今日学校行くんだって」
「じゃあ明日はパパと遊べるね」
「今日は小藤と遊んでくれるお約束してたのに」
ぷぅと頬を膨らませた小藤ちゃんは、詰まらなそうに大理石の手触りのいい柱に背中を預けて右足をぶらつかせた。パパが約束破ったのに待っているなんて可愛い。角倉さんの家は仲良しだから、小藤ちゃんの拗ねている姿すら微笑ましく見えた。
「みうちゃんは?」
「え?」
「みうちゃんはどうして小藤と一緒にパパ待ってるの?」
「うーん、お姉ちゃんもお家に帰りたくないからかな」
小藤ちゃんがとても不思議そうに私の顔を見た。本当は誰にも言いたくなかったんだけど、どうしてか小藤ちゃんにはすらりと言葉が出てきた。まだほんの子供で、言ったところで分からないから人形に語りかけているような気分にでもなったのだろうか。
彼氏とデートの約束をしていたのに、約束は十時だったのに何度連絡しても返事をくれなかった。それどころか、一時過ぎに彼が知らない女と歩いているのを見てしまった。私といる時には見せない表情で、彼はその女の隣にいた。問い詰めることも声をかけることもできずに、私は帰ってきた。捨てられたんだ、私。きっと遊びだった。本当に私には男運がないのだ。
「みうちゃん元気出して!」
「ありがと」
小藤ちゃんが元気付けてくれたので、私は笑った。私は本当に男運がなくて、今まで付き合った男はみんな碌な奴じゃなかった。いっそ角倉さんと不倫でもしちゃおうかなって思うくらいに。だって角倉さんって凄い奇麗だしまだ若いし。奥さんなんて私の二つ上だもん。
「パパ!」
不意に小藤ちゃんが叫んで駆け出した。どこにと思えば、煙草を銜えて角倉さんが一つ向こうの角を曲がってきていた。切れ長の目を大きく見開いて駆け寄ってくる娘を捉えて、驚きながらも屈んで小藤ちゃんを抱きとめる。いいな、何だか幸せそうで。角倉さんの胸に縋りついた小藤ちゃんは泣いているようだった。呆れ気味な角倉さんが小藤ちゃんを抱き上げて、こっちに歩いてくる。私に気づいて、煙草の火を消した。
「こんにちは」
「ちは、小藤が迷惑掛けたみたいで悪いな」
「いいえ、そんな。私も暇ですから」
「休みの日だしデートとかあるだろ?」
角倉さんの言葉が胸にグサッと突き刺さった。微笑むことができずに思わず俯くと、角倉さんは何か気づいたのか笑って私の頭をなでてくれた。大きな手に、少し安心した。何となく、奥さんが羨ましい。角倉さんと付き合えたら私はきっとこんなに辛い思いはしなくてすんだだろう。
「昼飯食った?まだだったら家来ねぇ?」
「え……、いいんですか?」
「一人で飯食うんじゃつまんねーだろ」
誘ってくれたのがありがたく、私はコクコクと頷いた。ご飯なんて買ってこなくて、よかったと少しほっとした。
角倉さんは小藤ちゃんを抱き上げたまま、マンションに入る。小藤ちゃんは抱かれて安心したのか、しゃっくり上げてながら泣いている。よくあることなのか角倉さんは特に気にしていないようだった。角倉さんの暗証番号で中に入って、エレベータで三階へ。角倉さんはその間ずっと小藤ちゃんを抱いて理由を訊こうとしたけど、小藤ちゃんは「ママが怒った」しか言わなかった。
角倉さんは玄関のチャイムを鳴らすことなく、鍵でドアを開けて中に入った。その後に私は入れてもらって、最後に小藤ちゃん。
「ただいまー。千草ぁ?」
「小藤ちゃん?」
大きな目にいっぱい涙を溜めて、小藤ちゃんは私のスカートの裾を掴んだ。どうしたのかと思って問いかけるけれど、小藤ちゃんはやっぱり何も言わなかった。そんなにひどく怒られたのだろうか。角倉さんが呼ぶので、うちと同じ構造のリビングに行くと、奥さんはソファで丸まって眠っていた。小藤ちゃんが私の後ろに隠れたのを見て、角倉さんは少し呆れた顔をする。
「千草、おい。こんな昼間っから何寝てんだよ」
「ん……聖さん?」
「何だよ、泣いてたのか?」
顔を上げた奥さんに角倉さんは少し驚いた顔をした。角倉さんだってただ奥さんが小藤ちゃんを酷く叱ったくらいにしか思っていなかったのだろう。なのに当の奥さんは泣き疲れて寝てしまったのだ。奥さんもまだ若いから、こういうこともあるのかもしれない。
少し驚いた顔をした奥さんは、寝ぼけているのか角倉さんにしがみ付いてまた泣きだした。
「何だよ、泣いててもわかんねーだろ?小藤だって泣いてたし」
「だって、だって小藤が!」
「お前、小藤が玄関ホールで待ってたの気づかなかっただろ。ビックリしたっつの」
文句を言いながらも角倉さんはソファに座って奥さんの背を撫で落ち着かせようとしていた。それを見ていた小藤ちゃんもまた泣き出すので、こっちは私が頭をなでてあげてどうにか宥めてみる。
「だってね、小藤が私の口紅……っ」
「口紅?」
「口紅、玩具にして折っちゃうんだもん!」
小藤ちゃんのしゃっくり上げる間から角倉さんの盛大な溜め息が聞こえた。「そんなことかよ」という呟きも聞こえたけれど、それは奥さんが「そんなことじゃない!」と反論する。確かに女にとって口紅っていうのはそんな事で済まないものがある。私も自分で折って凹んだことがある。
「買ってやるからさ、頼むからそんなことくらいで叱るなよ。玩具にした小藤も悪いけど何もそこまで怒んなくてもいいだろ?」
「だってあれ高かったのにぃ」
「いくら」
「二万」
奥さんの台詞に角倉さんは固まった。背を撫でている手も止まっている。二万の口紅かぁ。流石にいい物を使っている。少し黙ったけれど、角倉さんは男前に「買ってやるから」と言い切った。二万をぽんと出すなんて素敵な旦那さんだ。
奥さんを慰めて、角倉さんは今度は小藤ちゃんを慰めるためにこっちに来た。ぐしゅぐしゅ泣きじゃくっている小藤ちゃんの頭にぽんと手を置いて、優しく笑う。
「小藤、小藤も悪いよな?」
「……うん」
「何が悪い?」
「ママのくちべに折っちゃった」
「謝った?」
「……ごめんなさぁい」
また泣き出した小藤ちゃんを今度はそっと抱きしめて、角倉さんはよしよしと背を撫でた。小藤ちゃんを宥めながら、苦笑を浮かべながら角倉さんは私を見上て申し訳無さそうに眉間に皺を寄せる。それから「ごたついててごめんな」と言った。
「呼んどいて悪いんだけどさ、飯出来てないから食いに行こうと思うんだけど一緒に行くか?」
「ご一緒していいんですか?」
「迷惑じゃなきゃ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「そんときは美羽を慰めてやるからな」
角倉さんはきっと何でもお見通しなんだろう。私を見て笑った。素敵と思う前にぞわっとして私は思わず「よろしくお願いします」と言ってしまった。言ってから意味が分からないと自分で焦る。けれど角倉さんはただ笑っていた。
何となく、彼氏の浮気の痛みとかを忘れてしまえたような気がした。
−結ぶ−
これから口紅を買いに行きます。