夏休みのその日、暇を持て余して聖さんの家に行った。ちょっと夏休みの宿題に行き詰ったから意見を聞こうと思ったのが本当の所で、紙袋にノートを一冊入れて行った。白金台のマンションに入って、インターフォンを押す。聖さんは僕だと分かるとすぐに開けてくれた。
全てのセキュリティを突破して、玄関に到着。そこで改めてチャイムを鳴らすと、しばらくして玄関の扉が開いて聖さんではなく一人娘の小藤ちゃんが出てきた。僕を見ると、にっこりと笑う。
「なっちゃん、いらっしゃぁい」
「小藤ちゃん、パパは?」
「パパ、お部屋にいるよ」
早く早くと手を引かれて、家の中に入れられた。周りのセキュリティが強固なおかげで、この家はチェーンをかけないらしい。小藤ちゃんが鍵だけ閉めて僕の手を握り、リビングへと引っ張っていく。初めて会ったときは恥ずかしそうにしていたのに、いつのまにか慣れてくれて今では一緒にお昼寝も出来るし内緒話もする。
僕がリビングに行くと、丁度聖さんが寝室から出てくるのが見えた。僕を見ると苦笑いみたいな笑顔を浮かべる。
「悪いな。千草が熱出しててさ、小藤もつまんないみてぇで……」
「パパ!」
駆け出した小藤ちゃんを待つように聖さんは言葉を切った。そして、飛び掛ってくる娘を抱きとめる。きゃっきゃと笑う小藤ちゃんを抱き上げてソファに座り、漸く一息と言った感じで息を深く吐き出した。指がローテーブルの上を滑り、煙草のケースを探りあてる。聖さんが煙草を口に銜えるまでに、小藤ちゃんがぴょんと立ち上がってキッチンに向かって走っていった。
「小藤、ナツにもなんか入れてやって」
「はぁーい!」
小藤ちゃんは、二つのコップにオレンジジュースを注いで慎重に歩いてくる。抜き足差し足みたいな歩き方がとても可愛かった。ゆっくりゆっくり歩いてくると、テーブルにコップを置いて満足そうに一息吐き出して笑う。
「なっちゃん、どーぞ」
「あ、ありがと」
「ナツ、何か用事あった?」
「別に、大したことじゃないです」
聖さんが紫煙を燻らせながら僕に訊いた。小藤ちゃんが「おやつは?」と横から聖さんの服を引っ張り、聖さんは少し鬱陶しそうに「冷蔵庫になんか入ってんだろ」と言い捨てる。小藤ちゃんは半分ほど飲んだコップをテーブルに置くとまたパタパタと駆けてキッチンへ消えた。
その隙にというわけではないだろうけれど、聖さんは足を組んで一際大きく紫煙を吸い込んだ。聖さんにつられて僕も吸おうとポケットから煙草を出すと、ケースの中身は殻だった。悔し紛れにクシャッと聖さんが笑って煙草を差し出してくれた。でも、聖さんの煙草は強いから好きじゃない。
「吸う?」
「聖さんの美味しくないです」
「あそ。悪いんだけどさ、今日は小藤鬱陶しいくらいうるせぇから」
「何でですか?」
「構ってくれる人がいねーの。千草は寝込んでるし俺は看病だし、んで友達もみんな予定があった」
「聖さんが構ってあげればいいじゃないですか」
「看病だって言ってんだろ?そんな訳で、暇ならよろしく」
「僕、ですか?」
「他に誰がいんだよ。それともなんか大事な用あったのか?」
「別に……宿題くらいです」
そして僕は聖さんの命により小藤ちゃんの遊び相手に決定されたらしい。でも、僕でいいのかな。こんな、人としていろいろ間違っている僕なんかで。でもそんな僕も、聖さん曰く『昔の俺』だから問題ないのかもしれない。でもそこが問題ではなくて、何をして遊んであげればいいかなんて皆目見当もつかない。今までそんな経験がないから。
僕の表情は憮然としていたかもしれない。聖さんが笑って煙草を灰皿に押しつけて消した。
「パパ。おやつないよ」
「プリンかなんかねぇ?」
「なーい」
小藤ちゃんが文句を言いながら戻ってきた。ぷくっと詰まらなそうに頬を膨らませてリスみたいだ。コリスちゃんは、聖さんの手を引っ張って立たせ、証拠を見せたいのか「だってないもん」とその手を引いた。聖さんの背は高いので、小藤ちゃんと手を繋ぎにくい。だから小藤ちゃんの手を振り払って聖さんは大股でキッチンの中に消えた。小藤ちゃんがさっきまで聖さんが座っていた席にちょこんと座り、不満顔で足をブラブラしている。
「本当だ、ねぇな」
「ないでしょー」
「しょうがねぇな、買ってくるか。小藤、お前ナツの言うこと聞いていい子にしてろよ」
「えぇー!小藤もパパと一緒に行く!」
本当に何もないとぶつくさ文句を言いながら、聖さんが小藤ちゃんを指差した。人を指差しちゃいけないんだ。小藤ちゃんはその指に怯むことなく、顔を不満で一杯にして聖さんに駆け寄った。財布を取りに行くつもりで寝室に行こうとしていた聖さんの足にタックルを食らわせるものだから、聖さんは軽くよろめいた。僕はどっちでもいいから煙草が吸いたかった。
「小藤も行く!」
「留守番」
「やだ!」
「ナツ一人に留守番させるのも変な話だろ」
「だってパパ、小藤になんにも買ってくれないもん!」
「お前のおやつ買いに行くんだろが」
「一緒に行くぅ」
最後は小藤ちゃんが涙声になった。大好きなパパと一緒にいたいのか、聖さんのパンツにしがみ付いてローライズジーンズがずるずると下がってきている。腰パンここに極まれり、って感じ。聖さんが片手でジーンズを引っ張りながら反対の手で括っていない長い髪をかき回した。どうやら休日だからベルトはしていないらしい。
「分かった、んじゃあナツと行ってこい」
「パパは行かない?」
「行かない」
小藤ちゃんが聖さんから手を離して考えるように頬に手を当てている。しばらくジーッと床に視線を落として考えている間に、聖さんはジーンズをほどほどに上げて僕を見、軽く手を翳して口パクで頼むなと言った。でもこれで煙草を買ってこられるので、少し嬉しい。ただ問題は、コンビニが売ってくれるかどうかってこと。
考えていた小藤ちゃんが不意に顔を上げると、僕の方に駆けてきた。座っている僕の手をとって、にっこりと満面の笑顔を向ける。
「行こ、なっちゃん!」
「ナツ、コンビニの場所知ってっか?」
畳み掛けるように聖さんがコンビニの場所を聞いてきた。ここにくるまでにコンビニは駅前に一軒しかなかったけれど、聞くところによると駅と反対方面にはいくつかあるらしい。僕は見た事がなかったので首を横に振ったが、小藤ちゃんが知っていると笑って僕をせかした。
聖さんは小藤ちゃんに買って来るのはおやつ一つだけだと二度良い、僕についでにアイスを二つ買ってくるように言って財布を渡してくれた。
「煙草はおやつにはいりますか?」
「入らねぇよ。じゃあついでに俺のも買ってきて、ラーク」
言外に買ってきても良いといわれて、僕は大きく頷いた。小藤ちゃんと手を繋いで玄関を出ようとすると、聖さんが小藤ちゃんに「ナツの言うことちゃんときいて、一つだけだぞ」と一つだけを強調していた。小藤ちゃんはその度に大きく頷いていた。
コンビニは本当に目と鼻の先といった程度だった。徒歩五百メートルくらいを小藤ちゃんと手を繋いで歩いて、すぐにつく距離。近くに他のコンビニがあったけれど、小藤ちゃんはどうやらここがよかったらしい。こんなに小さいのにコンビニの違いが分かるとか凄い。
小藤ちゃんは嬉しそうにデザートのケースを覗きこんで、聖さんに良く似た難しい顔で悩んでいる。聖さんと一緒で、悩んでいる時は唇が少し尖るようだ。こういうのをみて、親子なんだなって思う。プリンとシュークリームを見比べて、偶に僕をちらりと見る。僕は、聖さんに煙草はおやつじゃないといわれたけれど煙草を買うつもりなので、それでいい。
「なっちゃん、小藤りょうほう食べたいな」
「ダメだって言われたじゃん」
「なっちゃんはおやつ食べない?小藤とはんぶんこしよ!」
ね?と首を傾げる小藤ちゃんは可愛かった。半分こなら良いかなと思って僕は頷いた。僕がシュークリームで小藤ちゃんがプリン、あとでそれを半分子。あと買うものは何だっけと小藤ちゃんに聞けば、アイスと元気に答えた。商品を入れたカゴ片手に二人でアイスのケース前に移動して、並んだ物を見た。確か、バニラアイスとシャーベット。
「うーん……」
「小藤ちゃん、どうしたの?」
「小藤、アイスも食べたい」
「プリンは?」
「食べたぁい」
小藤ちゃんは食べたいのがいっぱいあるらしい。僕は頼まれたバニラアイスと柑橘系のシャーベットを適当に選んで、カゴに放り込む。選んでいる間にも小藤ちゃんは食べたいなぁとぼやいて買えないのに選んでいる。確かに今日は暑いからアイスを食べたいのは分かるけど。
おねだりするみたいに小藤ちゃんに見られると、どうにも買ってあげたくなる。だって、可愛いから。聖さんはきっと毎日大変なんだろうな。それとも聖さんくらい奇麗だったら、別に気にならないのかな。
「ねーなっちゃん。今日あついね」
「……内緒で食べる?」
「やったぁ!」
「その代わり半分こだよ」
「うん!なっちゃん大好きぃ」
にこにこ笑って、小藤ちゃんは僕の腕にぶら下がろうとした。聖さんと同じようにしたのだろうけれど、残念ながら僕は非力な日陰者。軽くよろけてしまった。小藤ちゃんがきゃらきゃら笑って僕から離れ、二つに別けられるカルピス味のパピコをカゴの中に放り込む。
買うものを選んだら今度は食べたくなったのか、早く早くと僕を急かしてレジに向かう。レジには、人の良さそうなおばさんが立っていた。小藤ちゃんを見て、ニッコリと笑う。
「いらっしゃいませ」
「これください!」
僕は小藤ちゃんに聖さんから預かった財布を渡した。中に入ってないからと一万円札が入っている財布を渡されたときはどうしようかと思ったけれど、聖さん的には小藤ちゃんにお遣いをやらせたかったらしい。だったら初めから二人で来れば良いのにと正直思った。
おばさんはにこにこ笑って、レジに打ち込んでいる。小藤ちゃんが言わないので、僕はその場で追加注文。
「あとラーク一カートンとマルボロ赤ハードで一箱」
その瞬間、おばさんの手が止まった。じとりと僕を見て、明らかに不審そうな表情になる。小藤ちゃんと僕を見比べて何度か顔を行ったり来たりさせるので、僕らは思わず顔を見合わせた。多分、兄妹には見えないだろうな。
「悪いんだけど大人を連れてきてくれるかな」
「パパのお遣いなの!」
「でも決まりだから、ごめんねお嬢ちゃん」
冷たく言って、おばさんは「九八三円です」と言った。煙草は売ってくれないつもりらしい。小藤ちゃんがいてもダメだったかと思う反面、駄目と言われると無性に吸いたくなる。しかも聖さんも煙草がなくなりかけてたようだった。いつもは綾さんが偽造してくれたタスポを使って買うけど、ソフトよりハードが好み。
僕はその場で携帯から聖さんに電話を掛けた。小藤ちゃんが不満そうな顔で僕のシャツの裾を引くけれど、頭を撫でてあげるだけで精一杯だった。せっかく自分で買い物しようと思ったのに失敗したら、落ち込むだろう。だから、小藤ちゃんのせいじゃないよって言ってあげたかった。
『おー、どした?』
「煙草、売ってくれなかったです」
『マジで?小藤でもダメ?』
「だめ」
『んー、じゃあ俺今から行くからちょい待ってな』
短い会話をして電話を切ると、小藤ちゃんが頬をぷっくりと膨らませて僕を見上げた。あれ、こんなに怒らせるようなことしたかな。でも小藤ちゃんは僕から顔を逸らしただけでシャツから手は離さなかった。
「小藤ちゃん?」
「パパ来たらアイス食べられない」
不満の原因は、聖さんが来たらおやつは一つの約束でアイスが食べられなくなることだそうだ。たかがアイスでそんなに膨らんでいたのかと思う反面、そのくらいのことで怒れてとても可愛らしい。聖さんに頼んであげるというと、小藤ちゃんは僕に嬉しそうに笑ってくれた。
しばらく待って聖さんが入ってくると、小藤ちゃんは一目散に駆け出して聖さんの胸に飛び込んだ。それを抱きとめて困惑気味の聖さんにアイスを買ってあげるように頼んだら、渋々ながらも了承してくれた。ただ相当苦い顔をしている。会計を済ませて、三人並んで手を繋いで帰った。僕と小藤ちゃんはパピコを半分、聖さんは煙草を吹かしていた。
−結ぶ−
パピコといえばカルピス