原宿は竹下通りから一本入った裏道の、こじんまりとした店。箱は小さいけれど昼間は女子高生たちがわんさか入ってくる、結構稼ぎはいい店。俺はその店でバイトを始めて、十年が経とうとしていた。気が付けば十年で、来年には社員になれるという話もある。今はアルバイトのスタッフリーダーで副店長のようなものだから、きっと社員になっても生活は変わらないのだろう。
「白石サン、今日から新しいバイト入るんですよね!」
「新しいっていうか、五年くらい前に働いてた子。お前なんかより可愛いぞ」
「あ、ひっどい。それセクハラですよ〜」
先週教えられたのだけれど、五、六年前に急にやめてしまったバイトの子がまた来るらしい。当時女子高生だったから今は大学生かもしれない、もしかしたら社会人。あのときからバイトの中で一番可愛かったから、今なら大人の色気も相まっていい女になっているかもしれない。そんな予想が楽しみでしょうがない。特に、彼女がいた頃のスタッフはもう俺くらいしかいないから。
「お疲れさまでーす」
「あ、来た」
スタッフルームに明るい声が響いた。それはその頃から変わらない明るい声だった。背を向けていたドアを振り返れば、少し背が高くなったような気がする橋本千草ちゃんが立っていた。あの頃よりも少しぽっちゃりしているかもしれない。でももともとが細かったからいい感じの肉付きになったというか。
彼女は入り口で名乗ってからよろしくお願いします、と頭を下げた。
「久しぶりだね、千草ちゃん」
「白石さん!まだやってたんですね」
「あっはは、その言い草ひどくない?」
相変わらず千草ちゃんはものごとを口にはっきり出す子だった。それは今も変わらず、でも変わらないその口調が嬉しかった。千草ちゃんが店にいたのは二年くらいだったけれど、覚えも早いし日数が入っていたから仕事はだいぶできる。正直、最近入ってきたバイトの子なんかよりも全然できると思う。スタッフルームにいたバイトの愛ちゃんが、早速彼女に興味を持ったようで荷物を置いている彼女に声をかけている。
「私、愛って言います。千草さんておいくつですか?」
「二十二。えっと、愛ちゃんはいくつ?」
「十九です」
「いいなぁ、若くて」
「何言ってんの千草ちゃん。俺に比べりゃまだ若いっしょ。はい、これ名札」
「あ、ありがとうございます。わー、昔使ってたやつだ」
今バイトで一番可愛い愛ちゃんでも千草ちゃんの方が、惚れた弱みも手伝って千草ちゃんの方が可愛い。俺は、彼女が高校生のバイトをしているときから彼女が好きだった。誰にでも素直で少し言葉が悪いけれどその分思っていることを臆さずに口に出せる子。はっきりしている彼女が、俺はとんでもなく好きになった。急に、理由も言わずにバイトをやめたときはどれだけ後悔しただろう。告白しておけばよかった、と俺はここ数年何年も思っていた。
千草ちゃんに以前使っていた名札を渡すと、嬉しそうにそれを見てエプロンにつけた。
「昔のバイト仲間とは連絡とってるの?」
「とってますよ。由子とかは今でも出かけますし」
「そうなんだ。相変わらず仲良しだな」
「仲良しですよ。他の子も名札とってあるんですか?」
「まぁね。みんなの分とってあるよ」
そんなことを話しながらフロアへ出る。なんだか昔みたいで楽しいな。今日は一応千草ちゃんが初めてってことになるから研修から。愛ちゃんには自由に接客をしておいて貰おうと思う。と言ってもやっぱり千草ちゃんの方が頼りになる気もするけれど。
「千草ちゃんさ、レジの打ち方とか覚えてるよな?」
「ばっちり大丈夫ですー」
「教えることないんだけど。変わったこともないし、やっぱり愛ちゃんと組んで仕事してて」
「はーい。愛ちゃーん、一緒にやれだって、よろしく」
てきぱきと動く彼女に感心しながら、俺はフロアから裏に入って在庫の確認。彼女たちは近くにいるのか声がしっかりと聞こえてくる、会話を聞きながらちょっと仕事。女の子の会話って、結構グロかったりするんだけどそれを聞いてても楽しい。それに俺が訊くよりも女の子同士の方が他意がなくて情報交換してくれるから。千草ちゃんに彼氏がいないって話も、昔こういう風にして知った。
「千草さん、今夜暇ですか?仕事終わったら呑みにいきません?」
「いいね。あ、でも家に電話してからかな」
「実家なんですか?ていうか、千草さんどこ住んでるんです?」
「実家って言うか……えへ。今は白金台。もうすぐ引っ越そうかって言ってるんだけどね」
誰と住んでるという部分をぼかして、千草ちゃんは新宿あたりに引っ越そうかと思ってるんだ、と言った。彼女は確か渋谷に両親と住んでいたはずだけどあとで調べよう。だったら一人暮らしなのか、今流行のシェアルームってやつなのか。ただ彼女が言葉を濁すなんて珍しいなと、正直に思った。
レジに人が来たようで、千草ちゃんがレジを打っている声がする。対応もテキパキしているし、やっぱりしっかりしている。しっかりしている加減も、また更にって感じ。空白の五年で、彼女は大人になったようでだいぶしっかりしている。
「ありがとうございましたー!」
「千草さんてすごいですね」
「え、そう?」
「ところで、彼氏とかいるんですか?」
「え?……内緒」
「えー、気になる!でも美人だし絶対いますよねー」
「彼氏、は、いないよ」
彼氏はいないと言った彼女は、何かを隠しているようだった。けれどそれが何かもその理由もまったく見当がつかない。確かに千草ちゃんは可愛いし、はきはきしているから男女共に人気があってただのアルバイターで顔がそこそこいい俺になびくわけがないし、きっとそれならしっかりした年上の彼氏がいそうだけれど。でも、そうしたら彼女もはっきり言うような気がする。彼女が口を濁す理由が分からない。
女の子の会話はどこかに行ってしまって、俺が考えているうちになぜか美味しいプリンの話になっていた。
仕事が終わったのが十時半。そこから他のバイトメンバーも誘って近くの居酒屋に呑みに行った。千草ちゃんがいたときはまだ高校生で呑みに連れて行けなかったから、なんだか新鮮だった。彼女は呑める子らしく、カクテル系をガンガン呑んでいる。これで帰り大丈夫かってくらいだ。
「千草ちゃん、呑むなぁ」
「羽目外すときは一気に外すんですー」
「帰り大丈夫か?」
「大丈夫ですよぉ」
へろんと笑いながら、千草ちゃんはまた酒を煽ってグラスを空けた。そのとき電話が鳴って、ごそごそと携帯を取り出した千草ちゃんが緩慢な動作で筐体を耳に当てる。小さなストラップがついた思っていたよりもシンプルな携帯だった。なんとなく、彼女の成長を感じたりして。何度かしきりに頷いて、誰と話しているのか謝ってみんなでお酒を呑んでいると言って。
「帰りはね、十二時半くらいの予定」
何を話しているか分からないけれど、確かに呑み放題の時間がそのくらいで終わるから、一次会はそこで終わり。二次会をやらないのなら朝帰りだけれど彼女は帰る予定らしい。でもその時間てもう終電ないよな。タクシーでも使うのかと思ったけれど深夜割増しだし白金台は結構遠いし。
けれど電話の相手が迎えにくるのか、駅前にいるとか言っていて。やっぱり彼氏かな、なんて不安になる。さっき彼女ははっきりと彼氏はいないと言っていたしご両親とか兄弟とかかもしれないのに。
「おやすみね」
ひどく優しい声でそう言って、千草ちゃんは電話を切った。そうしてまたグラスを傾けて。そういえば高校生のころ隠れて吸っていた煙草はやめたのだろうか。ごくごくと飲み干す千草ちゃんは、もう初めて会ったはずのメンバーと打ち解けて楽しそうに笑って話をしている。そういえば彼女は短期のヘルプで来てくれたんだよな、なんて酒で回らない頭で考えた。
「千草ちゃんさぁ、煙草は?」
「もうやめました。身体に悪いし、いろいろと良くないから」
「へぇ?ところでさ、今付き合ってる男いる?」
「彼氏はいないです」
「じゃあ何がいるわけ」
「内緒」
誤魔化すように千草ちゃんは笑って酒を煽って。そうして考えすぎかもしれないけれど俺を避けるように席を立って他の奴らのところに行ってしまった。俺の気持ちばれたかな、もしかしてそれで避けられたかな。でも俺は彼女に会えたのは運命だと思うし、彼女はスタッフが減ってヘルプに来てくれたようなものだからいついなくなるかまた分からないから今度は気持ちを伝えておきたいのに。
一人で悶々と考えていると、愛ちゃんが寄ってきた。俺の隣の千草ちゃんがいたところに腰を下ろして、何か面白いものを見るようにして笑う。
「白石さーん。白石さんて千草さんのこと好きなんですか?」
「何でわかんの」
「見ててばればれです。でもやめたほうがいいですよ」
「なんで」
「あれ、もしかして知らないんですか?」
「何を」
「知らないなら私が言わないほうがいいです」
なんだか意味深なことを彼女も言ってそれ以上口を閉ざしてしまった。一体何なんだ。俺に何を言いたいんだ。問い詰めても答えてくれないから、俺は一人で考えるしかなくて酒を呑みながら千草ちゃんのことばかり考えた。聞いてもはぐらかされたんだからこれ以上は詮索するなと思っているんだろうけれど、好きな子のことは知りたい。
考え続けて気が付けば時間は十二時を回っていて、丁度呑み放題も終わったからと一度解散になった。自転車で来ている子もいるから、帰れる子は帰る、帰れない子はカラオケ避難になるはずなんだけど千草ちゃんは帰るといっていたし。一度みんなで駅まで行ってタクシーを拾うやつは拾って帰っていく。
「じゃあみなさん、お疲れ様でした!」
「お疲れ様です、また呑みましょうね!」
今日は急だったからか家が近い子ばかりが集まったから、みんな自転車や歩きで帰っていった。残ったのは俺と千草ちゃんで、変な沈黙が降りてしまう。千草ちゃんはそんなに酔っていないのか、足取りはしっかりしていた。ガードレールに寄りかかって迎えの車でも待っているのか、黙っている。もう終電も過ぎた時間に女の子が、誰を待っているんだろう。
「千草ちゃん、俺タクシー使うけど送っていこうか?」
「大丈夫ですよー」
大丈夫と笑ったようだけれど、たぶん大丈夫じゃあない。千草ちゃんはさっきから携帯からどこかに電話して、けれど繋がらないようで少し残念そうな顔で空を仰いでいる。一緒に帰ろうといっても大丈夫だと何かを信じている彼女に倣って俺もガードレールに浅く腰掛けた。
「俺、千草ちゃんに言っておきたいことがあるんだ」
「何ですか?」
「君が戻ってきてくれて本当に嬉しかったよ。なんだか運命みたいなものも感じた」
場所も悪いと、俺は座ったばかりだけれど立ち上がって彼女をそこから逃がさないようにすぐ前に立った。困ったように視線を泳がせた彼女は、反射的にガードレールを横にするように場所を変えて携帯を胸の前でぎゅっと握った。窺うような目には警戒の色が宿っている。僅かながらの困惑に、少し安堵した。怯えられたわけじゃあない。
「俺、前から君が好きだったんだ」
「こ、困ります!」
「付き合っている男もいない、何が困るんだ?」
俺は酔っ払っている。それを言い訳にしたらいけないのは分かっているけれど、ただ俺を拒んだ彼女に少し腹が立った。拒まれる理由なんて見つからなかったし、何となく彼女が笑いかけてくれたから少しは望みがあるんじゃあないかと思っていた。けれど今の彼女は完全に俺を拒絶した。それでも、これまでの俺の想いはそんな一言では彼女を諦め切れなくて。せめて、最後に一度だけでいいから彼女に男として触れたかった。
「一回だけ、ホテル行こうぜ。時間もあるし」
「行きません!白石さん酔ってるでしょ、早くタクシーでも拾って帰ってください」
「千草ちゃん置いて帰れない。誰か知らないけど連絡つかないんだろ?」
「私のことは放って置いてくださいよ……」
心底困ったような顔を見て、なんだか酔いが冷めてきた。どうしてか分からないけれど彼女は俺を受け入れてくれないらしい。それでもその理由がどうしても知りたい俺は、なんだかもう迫るように彼女の肩を掴んだ。車の通りがまばらになった道をたまに車が走りぬけ、ライトが俺たちを揃って少しの時間だけ明るく照らす。
「放っておけないよ。女の子がこんなところで何かあったらどうする気」
「何もないですよ!」
「ていうか、千草ちゃん昔は来るもの拒まずだったじゃん。何で俺がだめなの」
俺たちを一定時間照らすはずのライトは、予想よりも俺たちを長く照らした。速度いのかと思ったけれど、その車はスーッと滑り込んできて俺たちが立っているすぐ傍に停車した。こんな時間に一体誰だ、とちらりと視線を向けると黒いフェラーリが止まっている。ゆっくりと開いた窓の向こう側からのぞいたのは、ものすごい美形だった。その形のいい唇が開かれて、少し不機嫌な美声を漏らす。
「千草」
「聖さん……電話繋がらなかったのに」
傾国の美形に、千草ちゃんは驚いたように言った。どうやら彼が彼女の待ち人だったらしい。やっぱり恋人がいるんじゃあないかと落胆。しかもこんな美形じゃあ勝ち目もない。彼は携帯を置き忘れてきたと言い訳をして、俺の方を見た。驚くほどの力のある視線が俺を射抜き、なぜだか心臓をつかまれたような気がした。
慌てて千草ちゃんが俺を紹介してくれたけれど、その美形が誰か聞く前の助手席から子供の声がして、運転席の男性の腹の上にでも乗ったのだろう可愛い子供が顔を出した。この時間に起きていることにもびっくりだけれど、この子も可愛い。
「ママ!」
「小藤!?」
「丁度迎えにいこうとしたときに起きて一緒に行くってきかねぇから」
「ちゃんといい子に寝ないとだめだよ。ママとお約束したでしょ」
「パパとママだけずるいの!」
まさかと思うけれど、それは彼女の子供のようだった。確かに彼女の面影があるような気もする。女の子は千草ちゃんが出した手を握ってぶんぶん振り回して、美形の男性に低い声で窘められていた。あぁ、だから彼女は煙草を吸わなくなったんだなと納得した。子供がいたらそれは吸わなくなるだろう。それにしても小学生くらいの子だから、もしかしたらやめたのは妊娠が原因だったりして。もしかしなくても、この男が彼女を孕ませたのか。
一旦千草ちゃんは彼らを俺に紹介してくれた。まだ彼氏ですといわれたほうがダメージは少なかっただろうに。
「えっと、旦那様と娘の小藤です。小藤、こんばんは、は?」
「こんばんわ!」
「聖さん、こちらバイトリーダーの白石さん」
「ども。うちのがお世話になります」
これで旦那が嫌な男だったらここまで落ち込むこともなかっただろうに。彼は爽やかな顔で俺を見て軽く頭を下げた。うちの、と言い切ってしまえるあたりなんだか夫婦の余裕を感じた。俺は頭を下げるので精一杯で何も言えなかった。その間に娘さんが千草ちゃんを急かして早く帰ろうと言い出す。二人乗りの車にどうやって乗るのかと思ったら、たぶん子供を膝の上に乗せるのだろう。
「ママお酒くさーい」
「だって呑んだもん。車の中で寝ちゃいなね、ママ抱っこしててあげるから」
「うん」
ちゃんと千草ちゃんは母親なんだ。だからあんなにしっかりしていたのかと何となく安心。今は角倉って言うんですと言った彼女は、バイトのときだけだからと旧姓で名乗っていたようだ。店長は知っていると言ったから、やっぱりバイトよりも社員の方がいいようだ。
おやすみなさい、と頭を下げた彼女に力なく手を振ると、車の窓が上がって少しすると車が発進してすぐに小さくなった。
愛ちゃんはこのことを言っていたのか。だから教えてくれなかったのか。明日会ったら聞いてみよう。なんだか一人で寂しくなって、寂しいついでに一人で飲みなおすために近くの飲み屋に入った。
−終−
たまには夫婦の話