行カナイデ 僕ヲオイテ 逝カナイデ




























僕にはもう還る場所なんてないから、一体何処へ行ったら良いのだろうか。


ぼんやりと考えながら仰ぐ空は俯いて還り路を探している僕を嘲うかのように蒼く、何処までも蒼く。

何処まで行っても空は蒼いんだろうか。
僕の手が死ぬまで真紅で在るのと同じように?




誰も僕を振り替えらない。
それは当たり前だけど。だって、僕を知っているわけではないから。
僕はただの逃亡者。自分が怖くて逃げ出した、脱獄兵。還る場所を持つ、何処にも還る事が出来ない哀れな―――。












永い事放浪してると、たくさんの事を知る。知らなくても良いことまで、しる。

例えば、僕のこと。

何となく理由も無しにふらりと立ち寄った町で、其れは気まぐれではなく何かに引き合わされたかのように出逢った。
金も無く、如何しようかと考えついでに立ち寄った町の賭場。
どうやら僕は有名だったらしい。



「シスイ……?」



自分の名だと思い出すのに幾分時間が掛かった。だって、この名を呼んでくれる女はもういないのだから。

当たり前と言えば当たり前なのだが振り返ってみても女の顔に見覚えはなく、それでも女は僕を知っている風に近寄ってくる。
派手な格好をした女だった。艶やかな黒髪を流してとても、彼女に似ていた。



「シスイでしょう?」



僕は何も云えずに黙っていた。だって、其れが本当の名かどうか解らなかったから。それでも、その名は僕の物であるかのように僕の中に染み込んだ。



「私のコト、覚えてる?」

「…いや……」



そう答えると、女は不機嫌そうな顔をして別のテーブルに行ってしまった。
一体なんだったのだろう。



「あの女は顔が広いからさ、気を付けた方がいいぜ。何せ百人もこれがいるんだからな」



同じ卓の男がいやらしく笑って云うから、僕は今日の稼ぎをポケットにそのまま突っ込んで席を立った。
僕は僕を忘れようとしてるのに、僕を知っている人が居るのはこの上なく耐えられなかったから。
後ろから下品に笑う男とさっきの女の声が聞こえたが、僕はもう全てを忘れようとしていたから振り返らない。




























当分…違う町に行けるくらいの金は稼いだので、僕はもう暗くなっている路を歩いた。
これ以上、此処に居てはいけないと、僕の本能が僕の頭を締め付ける。

折角、忘レテイタノニ

何もかも忘れて自由になりたいのは、罪なのだろうか?
いや、失われた自由を取り戻すのがいけないのだろうか。
失う事すら許されないのだろうか?ともすれば、此れは僕に課せられた罪で、鎖で、檻なのだろうか。
そして、僕は叫び続ける?

家ニ還シテ、と?


酷く頭が痛みしゃがみ込んだ時、眼の前に子供が倒れていた。危うく踏んでしまうところで僕は彼を跨いだ。
子供は、美しい顔をしていた。紺青の髪は切られたと云うより切り裂かれ、透けるような白い肌は見慣れた真紅ので彩られている。
如何したものかと僕は呆然と立ち尽くす。すると、子供は薄っすらと眼を明けて細い手で弱々しく僕のズボンの裾を握った。



「ゴメンナサイ……。ぼくが、ぼくが悪いの。だから、」



何かに必死に謝るその姿は、痛いくらいに僕を飲み込む。
小さく、其れでも其の声は必死で。
気付いたら僕は彼を抱き抱えていた。



「わかってる。君は悪くない」



そう云うと彼は泣きそうに目を細めて僕にしがみ付いた。
僕は只、抱き締める事しか出来なかった。


























彼も落ち着いたのか隣町までの道すがら、訥訥と話をしてくれた。
彼には、名が無かった。



「ぼくはね、シセツに居たんだ。毎日、毎日ジッケンだった」



其処では、人は番号で呼ばれていたそうだ。暗い部屋で話を出来る友も居らず毎日が色の無い世界だったと、彼は語った。



「ぼくはちゃんとした人だったのに……。それでも、母さんはぼくが嫌いだったの。ぼくは母さんが総てだったのに、」



世界がまるで色を失くしたみたいだったと、自分以外しか存在していないような感覚に絶えず教われていたと、そう云って笑った。
世界が色を失くしたら、僕のこの手も色を失くすのだろうか?真紅が染み付いたの手は、僕を許すのだろうか?




「オジサンは?」

「……お兄さん」



屈託無く笑った彼を見つめて、僕は一体幾つに見えるのかと思った。
そんな事を思ったのも『僕』を失くして初めてだった。だって、僕は如何見られても良かったから。如何見られようと其れは『僕』ではない気がしてならなかったから。



「名前、なんて云うの?」



僕は少し考えて、暫くやっていなかった『思い出す』と云うことをした。
僕の名は、僕の名は――



「紫翠」

「し、すい?」

「紫に翠と書いて、シスイ」

「如何云う意味?」

「宝石の、色だそうだ」

「ふーん」



彼が拗ねたように僕から視線を逸らして俯いたから、僕は彼の手を強く握った。



宝石ノ名前。綺麗デショウ?綺麗ナ貴方ニぴったりダワ。



屈託なく笑った、彼女の名は



「明」

「…えっ?」

「お前の名だ」

「メイ?」

「明るいと書いて、メイ」

「如何云う、意味?」

「『どうか、明日を照らしてください』」



彼がとても嬉しそうにはにかんだから、僕も嬉しくなって恥ずかしくなった。







もしかしたら、其れは運命だったのかもしれない。
過去と云う名の僕から逃げている僕と、君が出逢ったのは。






「紫翠は、何処に行くの?」

「……どこか、誰も知らないところ」

「ぼくと一緒だ。ぼくね、逃げてるの。シセツから。だから」

「………一緒に、行くか?」

「いいの?」

「あぁ……」





だからどうか、僕の明日を照らしてください。



to be ――?