この世界はかつて綺麗なものであったはずだった。
残酷なまでに綺麗で、そして醜くあった。それでも世界が美しいなどと笑ったのは、あのとき僕の隣にいた彼女だった。

今の僕の目には、単調なモノクロームの世界しか映らなかった。





「お花畑だぁ!」



街から街へ繋がる街道を歩いていると、突然明が駆け出した。
さっきまで繋がっていた左手は離され、まるで喪失感のように空気を握り締めた。けれど自然と僕は明を追いかけない。
明は僕と違って自由だから、僕がこの世界に留まっていても好きなところに、それこそ僕を簡単に置いて綺麗な世界に羽ばたいてしまう。そして僕は、それを心のどこかで願っている。


「紫翠、早く!」


決して明のために願っている訳ではない。ただ、僕には明は明るすぎて、僕なんかが束縛したらいけないんじゃないかと思わざるを得なくて、だからその罪深さから逃れたいだけなのかもしれない。
けれど明は、すぐに振り返ってぼくを見た。真っ直ぐに僕を、ただ僕だけを見ていた。


「行きたければ、行ってこい」

「紫翠も一緒に行こうよ」


明は屈託なく笑い、駆け戻ってきて僕の手を握った。なくなったはずの温もりが帰って来る。けして帰ってこないと思っていた温もりが、僕の手に帰って来た。
彼女はもう帰ってこないけれど、明ならば帰ってくる。彼はまだ、生きている。


「ぼく、こんなにたくさん花が咲いているのを見たのは初めてだ」

「そうか」

「とても……とても綺麗だね」


素直に綺麗だと言えること、綺麗だと感じる心。それを明は持っている。僕がとっくに亡くしてしまったものをまるで僕の代わりのように持っている。
もしかしたら彼は、僕の代わりに綺麗だと言ったのかもしれない。





















街道の途中にあった花畑は、人為的に作られたわけでは無さそうだ。花畑と言っても何のことはないシロツメクサが咲いて地面が真っ白になっているだけ。
まるで冬のようだ。全てが白く覆われて、何もかも見えなくなる。
己の罪も、過去も未来も全て塗りつぶしてしまうような、白。


「紫翠、真っ白で綺麗だね」

「……そうか」


嬉しそうな明に僕は単調な返事しか返せなかった。
僕には綺麗には見えないから。ただ己の手だけが赤く、罪の色に染まったこの手だけが色彩を帯びたような錯覚すら起こして、世界は全然綺麗なんかじゃない。
明は僕の返事にも何も言わず、ただ黙ってしゃがみ込んだ。


「ぼく、おはなの冠作れるんだよ」

「そうか……」

「でも、本当は冠を作るのが好きじゃないんだ」


まるでそれが悪いことだとでも言うのだろうか。
明の其れはやけに沈痛な音だった。僕のほうに背中を向けて、悲しそうに呟いた背中は子供と言うことを差し引いてもひどく小さく、頼りなく感じた。



「だって、お花がかわいそうでしょう?」



カワイソウ。その言葉の意味を僕は知らない。可哀相と言う感情がどこから来てどこに向かっていくのか知らない。

――カワイソウニ、マダ若イノニ

あの時僕等を可哀相だと言った人は、一体何に可哀相だといったのだ。
僕等は、少なくとも僕は可哀相じゃなかった。彼女がいるだけで、可哀相ではなかったのだ。それだけで、よかったのだから。
しかし彼女が可哀相でなかったかと言うと、それは知らない。僕は知ることができない。

だったら今可哀相なのは、誰だ。
明、なのだろうか。


「一生懸命咲いたのに、それを摘み取ったら死んでしまうんだよ」


明は必死に、花は生きているから抜いてしまったら可哀相なのだと言った。
其れを聞いて尚、僕は可哀相の意味が分からなくなって真っ白な花を一輪引っこ抜いた。青臭い。


「紫翠!」


何のことはない、儚い命だ。
生から死を強要され、最後まで生きようともがく見っとも無く薄ら汚い生だ。
僕はイライラする。生きることに対してか、生きる命の輝きに。イライラした。



「いつかは死ぬんだ、結局」

「でもそれは、今じゃないよ」



肩を震わせて、花の中で明は泣いていた。
真っ白な花の中で、明の泣き顔だけがモノクロームから抜け出したように輝いて色を放っていた。泣きながら、明は花を掴んでいる僕の手を握った。
明の手は、温かかった。



「一生懸命生きてるんだよ。だから、だから綺麗なんだよ」

「明……」



いつだって生きたいと思っている明は、だから綺麗なのだろう。僕が触れたら取り戻せなくなってしまうように思えるくらい、明は綺麗だ。
一生懸命に生きている明は、施設では毎日生きることを否定されていたといった。母親にすら「産まなければよかった」と。
生きることを、否定され続けた。


「生きよう、明」

「一緒に……

「あぁ、一緒だ」


一緒に生きたいといってくれた明は、僕にしがみ付いてわんわん泣いた。
足元で白い花を踏みにじっていることに彼は気付かない。気づかないままでいい。人はいつだって、誰かの生を踏みにじって生きている。


明を追った施設の関係者が現れたのは、そのすぐ後のことだった。





to be ――?