大きな望月が、人影を照らしている。明るすぎる月は彼の顔を鮮明に描いている。まだ涼しい風がさやさやと彼女の髪を揺らし、紫苑の花を揺らした。月明かりに照らされた花が何か魔力を持っているように鮮やかな色を放っている。彼が、ゆっくりと口を開いた。


「お前は日野に帰れ」


 低く、何処か感情を押し殺したような声は聞きなれた愛する彼のものなのに、切なくて泣きそうになる。此れは夢だ。自分はこんな場所を知らないし、目の前の男を知らない。自分の愛した人はこんなに髪が短くない。しかし其れが彼であることは間違いなくて、自分が自分であるのも間違いない。彼女の口が、自然と言葉を紡いだ。


「一緒に行くって言ったでしょ。どこまでも一緒に、って」

「……紫苑……」


 彼が彼女の名を愛しそうに呼ぶ。何処か苦しくなる彼の声に、彼女は無意識のうちに彼を睨むように見やっていた。早く眼を覚まさなければ。そう思うのに体がいう事をきかない。眼を覚ませば彼は隣で寝息を立てているはずだ。彼女の意識の向こうで、彼女は口調を荒げた。


「私はもう女として生きるのをやめた。アンタの為に生きてんだ」

「お前はっ」


 つられて、彼の声も大きくなる。自分の言っていることが理解できない。其れでも彼女の体は意識に反して勝手に動く。これ以上彼を困らせてはいけない。此れは夢でしかない。意識では分かっているのに、無意識に涙が零れそうになる。
 彼が短く息を吐き出して微かに眼を伏せた。押し殺したような声音は堅く、微かに震えている。彼は、変わっていない。


「……俺はもうお前といるのが辛い。お前が死ぬんじゃないか、俺の傍からいなくなるんじゃないか。そう考えるのが怖い」

「アンタみたいな男、残して死ねるわけないでしょ」


 此れ以上彼を苦しめたくない。別れてもいいのだと告げようとして、彼女の口は違う言葉を紡いだ。微かに笑みを浮かべた唇に、自分自身を疑いたくなる。なぜ、自分はこんなに褪めてしまっているのか。此れは本当に夢なのか分からなくなる。自分に嫌悪が募っていく。


「勝っつぁんが死んだ。井上さんも、山南も。お前が死なないって保障がどこにある?」


 嘘だと、心が叫ぶ。みんなが死んでしまったなんて誰が信じる。しかし彼女は何も反応も示さず身を固くする。震えもしない、彼女の声音が妖艶に歪められた唇から凛と響いた。


「其れは私だって同じだ」


 自分はこの声を知っている。迷い無き故に生まれる絶対の自信に満ちた声音は、いつも自分が啖呵を切るときに発する声だ。それだけ、自分の決意は重い。困ったように悲しそうに彼女を見ていた彼の瞳が閉じられて、一拍の後彼は刀を抜いた。キラリと月の光を反射して、刃文が煌く。


「……帰れ。此れは命令だ、分かるな。橘紫苑」

「先に…、先に帰って待ってるから」


 初めて、彼女の声が歪んだ。震えるのを堪えて、無理矢理にでも笑ってみせる。震える拳を握りこんで誤魔化して、しかし笑顔が保てなくて彼から顔を逸らした。刀を納めた長い影が、彼が微かに震えているのを教えてくれる。


「紫苑……っ」


 搾り出すような彼の声が彼女の鼓膜を揺すった。愛しくて、愛しすぎて如何しようも出来ないような、そんな引きつった声で呼ばれ、彼女は反射的に顔を上げた。眼一杯に溜まった涙が、キラリと月明かりに輝く。それでも、懸命に微笑んだ。泣かないと、誓ったから。


「お土産、忘れないでよ」


 決して彼の前では泣き崩れたりはしない。絶対にいつもの自分でいるのだと、彼女は気丈に立っている。引き寄せあうように見詰め合って、彼がゆっくり手を伸ばしてきた。彼女も躊躇うように手を伸ばし、彼の手が触れる瞬間世界が崩れた。











 彼女はゆっくりと眼を開いた。月が明るい夜なのか部屋の中は仄暗く、物の影だけがぼんやりと浮かんでいる。彼女はふと、自分の頬を流れる涙の筋に気付いゆっくりと触れた。まだ温かい其れが余りにも切なくて、隣にゆっくり手を伸ばす。何となく不安になって隣に寝ているはずの彼の姿を探すが、彼がいない。
 彼女はゆっくりと体を起こした。涙の筋を手の甲で拭って、辺りを見回す。縁側に人影が映っていて、彼女は足音を忍ばせて其方に向かった。


「……何してるの」


 縁側で一人月を眺めていた彼が、彼女の声に振り返った。結っていない長い髪が彼の顔を隠しているが彼女には彼が今苦い顔をしているのが手に取るように分かる。笑みを含んだ息を短く吐き出して彼女は彼の隣に腰を下ろした。


「月が……」

「え?」

「月が綺麗だな」


 長い沈黙の後、彼が呟いた。彼女は言葉を失って彼を見詰め、吹き出した。一度笑い始めると止まるどころか震えが止まらなくなってくる。腹を抱えて彼女は思い切り笑った。其れを彼が困ったような、ばつが悪そうな顔で何も言わずに見詰めている。くの字に体を折って笑っていた彼女は、笑い終わるとやや息を乱しながら浮かんだ涙を拭った。


「紫苑」


 彼の苛付いた声が彼女の名を呼ぶ。
 月明かりでも分かる陶磁器のような白い肌と相反するような漆黒の髪。一目見れば長身痩躯の美女の名を橘紫苑と言う。此処、江戸の試衛館道場の娘で、遠くから見ればどこの姫にも遅れを取らないだろう。そんな彼女の隣に座っている男の名は、土方歳三。彼女に比べても長身で、長い髪は今は下ろされている。切れ長の瞳が、紫苑の横顔を映した。綺麗な顔をした恋人は何が可笑しいのか未だ顔を歪ませている。


「紫苑」


 もう一度呼ぶと、彼女は甘えるようにコテンと歳三の肩に頭を預けた。長い髪がさらりと彼の肌を擽る。紫苑はクスクスと笑いながら庭先の花を見やった。からかう様な声音で呟く。


「今日は何の懺悔に来たの」


 全てを見通しているように言うから、歳三は微かに体を強張らせた。動揺を悟られないように紫苑の腰に腕を回して引き寄せて、彼女の髪に唇を寄せる。誤魔化すように唇を彼女の髪から額へ、頬へと落としていくと、紫苑は柔らかく笑った。


「差し詰めどこかのお嬢さんのところに夜這ってきたんでしょ。こんな時間に来るなんて珍しいし」


 今日歳三が彼女の元を訪れたのは、夜も深くなってきた時刻だ。月は天頂に近かった。何を言っても言い訳になりそうで歳三が言いあぐねていると、紫苑は足をブラブラさせながら特に気にしていない様に続ける。紫苑と言う女はいつもそうだ。妙にサバサバしていて、掴みどころがない。其れなのに変なところには意地になる。何年も想っている歳三にすら、彼女のことが分からない。


「そういう事があった後は抱き方変わるし」


 言って、紫苑は懐に忍び込もうとしていた歳三の手を払った。至近距離で眼が合ってばつが悪くて歳三が顔を逸らすと、紫苑は彼から体を離してその場に寝転がった。足はブラブラさせたまま天頂の月を眺める。彼女の淡白な反応に歳三は顔を歪めて彼女の顔を覗き込んだ。吐息が掛かるほど顔を近づけると、紫苑の細い腕が歳三の首筋に回された。顔を引き寄せて、噛み付くように唇が触れる。


「泣きそうな顔してんな」


 こういう時の彼女は、妙に男らしい。
 照れたようにぱっと顔を逸らして、歳三は不機嫌に顔を歪ませた。そんな歳三に笑みを噛み殺して、紫苑は起き上がる。風に揺れる紫苑の花を見て、微かに眼を細めた。優しい紫色をした華が月明かりの下で魔力を持ったように妖しい輝きを放っている。


「私、紫苑の花って好き」

「お前の華だもんな」


 視線を華に向けて、歳三が呟いた。不機嫌だった彼の顔が柔らかく笑みの形に歪み、短い吐息が風を揺らす。小さく頷いて、紫苑は隣に置かれた歳三の手に自分の手を重ねた。


「あの花はね、倒れても起き上がる強さを持っているんだって」

「お前みてぇだ」


 柔らかい声音で歳三の声が響く。彼は彼女がこういう人間だと認めている。彼女は彼がこういう人間だと知っている。だからそこ彼らの間に流れる空気は恋人達の甘いものではない。この空気が心地よくて、紫苑はゆっくりと眼を閉じた。隣には温かい彼の体温がある。それに気付いて、彼は紫苑の肩を叩いた。


「紫苑、風邪引くぞ」

「ん」


 返事だけするが、動こうとはしない。歳三は溜息を吐き出して彼女の肩を抱き寄せた。いつもはどんな男とも対等に渡っている彼女の肩は、自分のものよりも明らかに華奢で歳三は彼女の肩を抱く腕に力を込めた。其のとき、カサリと草の揺れる音がした。


「紫苑姉ぇ?」


 月明かりの下に、一人の青年が遠慮がちに現れた。寝巻きのままで、歳三の姿を大きな瞳が捉える。この青年の名は沖田総司。現在二十歳だが幼さを残した顔は未だ子供のようだ。
 青年は人懐っこそうに笑って、紫苑の隣に腰を下ろした。つんつんと彼女の頬を突いて、楽しそうに笑う。


「紫苑姉ぇ、寝てるの?」


 微睡んでいた紫苑が億劫そうにゆっくりと瞼を上げた。不機嫌そうに顔を歪ませた姿に歳三は苦笑を浮かべる。そのまま紫苑はとなりに視線に移し、子供のように無邪気に笑っている青年に瞳を眇めた。其の顔は不機嫌以外の何物でもなく、しかし彼女は怒っているわけでなく眠いだけなのだ。其れを分かっているから総司は甘えるように彼女に頬を摺り寄せた。


「一緒に寝ていい?」

「餓鬼じゃねぇんだから一人で寝ろ」


 女とは思えない口調で、彼女は吐き捨てた。眠いと機嫌が悪いのはいつものことなので総司は気にせずに紫苑越しに呆れている歳三に視線を移した。幼い頃から紫苑に懐いている総司にとって、歳三もまた兄のように慕っていた。強請るように小首を傾げる。


「歳兄ぃ、駄目?」

「俺が言っても関係ねぇだろ」

「歳兄ぃが良いって言ったら、紫苑姉ぇも良いって言うと思うけど」

「勝手にしろ」


 呆れたように言って、歳三は紫苑を抱き上げた。完全に寝入ってしまった姿は女そのもので、普段の男らしい言動など想像も出来ない。
 彼女を寝具に寝かせて、歳三は其の隣に体を滑り込ませた。総司は反対側に潜り込み、紫苑の手を探し当てて握った。其の様子を見ていた歳三は、子供のような行動に首を傾げる。


「怖い夢でも見たのか?」


 すると、思いがけずに総司は頷いた。ふと、歳三の方を向いていた紫苑が仰向けに寝返りを打った。小さく声を漏らして瞼の奥を侵す月明かりを遮るように腕で瞼を覆う。ゆっくりと腕を外しながら、紫苑が呟いた。


「総司、いい加減に大人になれよ?」

「紫苑姉ぇはいつまでも紫苑姉ぇだろ」


 拗ねたように総司が言うと、紫苑は大きく溜息を吐いた。天才剣士はいつまでも子供で、変わらない彼を紫苑自身ほんの少し嬉しく思う。しかし彼の為には良くないことだ。しかし、思わぬ所から援護の声が飛んできた。


「良いじゃねぇか、少しくらい」

「ねー、歳兄ぃ」

「甘やかすな」


 苑のややドスの利いた声に二人は揃って肩を竦める。紫苑は総司と繋いでいない方の手を歳三の手に重ねて、瞼を閉じた。不意に、先ほどの映像が浮かんでくる。明るい月、揺れる紫苑の花。泣きそうな彼の顔と、引きつった自分の声。其の光景が余りにも似ていて、思わず紫苑は歳三と繋いでいた手に力を込めた。


「紫苑?」

「あ、ごめん……」


 不思議そうな歳三の声に、紫苑は小さく首を振った。忘れたい映像なのに、眼の奥に鮮やかなほどに焼きついたように離れない。震えそうになる息を短く吐き出すと、歳三の大きな手が紫苑の髪を撫でた。同じように剣蛸はたくさんあるのに骨格が違うから、自分のよりも大きく強い手。其の手の温もりに紫苑は安堵の息を漏らした。


「怖い夢でも見たか?」

「僕と一緒?」

「ん、平気。総司は怖い夢見て寝れなくなったの?」


 呆れを含んだ声音で言ったが紫苑自身、歳三がいなければ眠れなかったかもしれない。だから邪険にせずに、総司と繋いだ手に安心させるように力を込めた。すると総司は柔らかく笑って、瞼を下ろす。それからポツリと呟いた。


「僕が死ぬ夢を見たんだ。僕は上から見てるんだけど、僕の葬儀が進んでいくんだ……。紫苑姉ぇ以外は誰もいなくて、紫苑姉ぇは泣いてた」

「バーカ。私は泣かないかんな」


 其の闇に合わない底抜けに明るい声で、紫苑が言った。え、と総司が瞼を上げるが逆光で彼女の表情は読めない。しかし彼女が柔らかく微笑んでいるのが気配で分かり、総司は安心した子供のように笑った。そのまま自然に眠気が押し寄せてきて瞼が落ちる。


「紫苑姉ぇ、大好き……」

「うん、おやすみ」


 総司の寝息が零れてくるのを待って、紫苑はそっと呟いた。弟代わりの青年はあどけない表情で眠っていて、紫苑は無意識に笑みを漏らす。
 歳三の筋肉質の腕が紫苑の頭を抱き寄せて、吐息が彼女の髪を揺らした。


「お前は大丈夫か?」

「何が?」

「怖い夢、見たんだろ」

「……アンタがいれば大丈夫」


 アンタがいれば、大丈夫。もう一度胸の中で繰り返してから、紫苑はゆっくりと瞼を下ろした。隣から感じるぬくもりはいつまであるか分からないけど今は確かに其処にある。時は文久二年、新撰組誕生の僅か二年前だ。
 アンタがいれば大丈夫だから。

 だから、私を置いていかないで。





-続-

紫苑姉さん格好良すぎです。
歳三さん、一度も名前を呼んで貰っておりません。