体を揺らされて、彼女はうっすらと瞼差を押し上げた。太陽はもう高い所にあるのか外はかなり明るい。しかし昨晩夜更かししてしまったこともありまだ起きる気にはなれない。どうせ起こしに来ているのは総司か歳三辺りだから、紫苑は頭から掛布を被った。外からむくれたような声が聞こえた。


「紫苑姉ぇ」


 起こしに来たのは総司だったらしい。昨晩一緒に寝ていたと言うのにこの青年は朝が早い。潜り込んでもう一度寝ようとしていると、更に激しく揺さぶられた。何となく意地になって二度寝を決め込もうとするが総司が許してくれない。紫苑は諦めて重い腕だけを布団から出した。


「起きてる起きてるぅ」

「早く起きてよ!すごい人が来てるんだから!」


 漸く布団から這い出した紫苑に総司は顔を膨らます。頭を掻きながら其の顔を見やって彼女は適当に頷いた。それから布団を見回してもう一人の男の姿を探す。しかしこの部屋には男が隠れられる所はないし、彼がそんな事をするとは思えない。紫苑の視線に気付いて総司が立ち上がりながら言った。


「歳兄ぃなら帰ったよ。紫苑姉ぇと違って朝早くに」


 からかい混じりの総司を一睨みして、紫苑は自分が寝ていた隣にそっと指を伸ばした。女とは思えないほどにたくさん出来た剣蛸に微かに瞳を歪める。彼の温もりは完全に消えていて、紫苑は微かに淋しそうに笑みを浮かべた。土方歳三という男はいつもそうだ。特に後ろめたいことがあると夜中にふらりと紫苑を抱きに来て朝早くに帰ってしまう。しかも性質が悪いことに其の腕はいつもよりも優しい。
 ふと昨夜の夢を思い出し、同時に彼の温もりも思い出した。妙な感覚の夢を見た。背筋が寒くなるような、其れでいて他人事のような夢だった。出てきたのは間違いなく自分なのに、自分ではない気がした。


「……腹が減っては戦は出来ないって言うしね」


 考えることよりも行動に移ってしまうのは実に試衛館道場の娘らしい。考えるよりも腹を満たすのが先だと思い当たって、紫苑は適当な着物を引っ掛けて離れを出て道場の方に歩いて行った。








 生まれて直ぐ、彼女は試衛館の前に捨てられた。子の無かった先代の周助老は直ぐに彼女を拾い名を与え、実の娘のように可愛がった。早くから其の事実を聞かされていた紫苑は気がついたら男前になっていた。彼女なりに、父に絶望されたくないとか考えてなのだろうが、それに反して彼女の容貌は女の其れだ。
 それから一つ年長の勇が養子に入り、つい先日四代目を世襲した。
 紫苑が道場に足を向けると、食客として道場に出入りしている永倉新八、原田左之助、藤堂平助等が道場の隅の方に固まっていた。総司の言っていたすごい人はいないのか、彼等しかいない。紫苑は余り興味なさそうに片手を上げて彼等に声を掛けた。


「すごい人が来てるんだって?」

「紫苑さん」


 一番初めに紫苑の声に反応した平助は彼女の姿を認めると呆れを交えた声で呟いた。確かに彼女の格好は年頃のものとは思えない。着飾るわけでもないし、髪をきちんと結うわけでもない。それどころか着物は偶に総司のものを着ていたりする。紫苑曰く『楽で良い』そうなのだが、道場のもの全てが其れはどうかと思っている。
 平助の声音を完全に無視して、紫苑は道場を見回した。人の姿はやはりない。


「誰が来てんの?」

「紫苑は知らねぇと思うぜ?」


 からかい混じりに左之助が紫苑の頭を叩いた。寝起きなのも災いし、紫苑の目は据わっている。いくら気心知れた仲でも、紫苑は頭を撫でられるのは好きではない。不機嫌に顔を歪ませて左之助を見やると、彼は全く気にしていないように朗らかに笑っている。左之助がまた余計なことを言わないうちに、新八が答えた。


「伊藤大蔵だってよ、北辰一刀流の」

「……へー」


 やはり紫苑は知らなかったらしい。適当に頷いて、興味がないとばかりにダルそうに壁に背を預けて腕を組んだ。それから微かに長い睫毛を伏せる。一応剣術屋として他流儀の試合が気になるのかこのまま待っているつもりだろう。


「紫苑は土方さん以外の男には興味ないもんなー」


 完全に暇を持て余しているのか、左之助がからかい混じりに紫苑の額を小突いた。まだ頭の覚醒しきっていなかった紫苑は眼を閉じて半分寝かかっていて、無防備なところで攻撃されたものだから思い切り頭を壁にぶつけた。やや気まずい沈黙が流れ出したとき、ゆっくりと紫苑が左之助を半眼で見据えた。一瞬にして左之助の背筋に冷たいものが走る。


「ご飯食べに行く」


 女の其れとは思えないほどい低い声で呟いて、紫苑は壁から背を離した。すれ違いざまに左之助を睨みやり、無言で道場を出て行く。其の姿を見送りながら三人は苦笑を漏らした。機嫌が悪くても彼等は気にしない。紫苑がそういう女だと言うことをちゃんと分かっているから。
 出て行き際、紫苑は男が勇と連れ立って来るのに気付いた。総司の言っていた『すごい人』だろうか?左之助が言っていたのは事実で、紫苑は歳三以外の男に興味はない。ちらりと一瞥しただけで直ぐに視線を逸らして台所に向かう。が、後ろから声を掛けられた。


「綺麗なお嬢さん」


 余りにも陳家な言葉に紫苑の顔が一瞬険しくなる。媚を売ったような声音に振り返るのすらやめようと思ったが流石に道場のお客に其の態度は良くない。にっこりと偽りの笑顔を貼り付けて、紫苑は振り返った。男の向こうでは勇が不安そうな顔でこちらを見ている。


「何か御用ですか?」

「お名前はなんと言うのですか?」


 問われて如何にか笑顔を浮かべていたが、紫苑は内心唾を吐き出したかった。確かに顔は白く落ち着いた印象を受ける男だ。町に出ればさぞもてるだろう。しかし、この甘ったるい声が紫苑には合わない。にこりと笑顔で誤魔化そうと思ったが、丁度そのときバタバタと足音が聞こえた。紫苑の真後ろまで来ると、音の主は思い切り紫苑に飛びつく。


「紫苑姉ぇ!」

「紫苑さん、とおっしゃるのですか」

「……総司……」


 思った矢先にその作戦を無にしてしまった弟代わりの青年にだけ聞こえるように重低音で囁けば彼は誤魔化すように笑って紫苑から離れ、道場の中に駆けて行った。後で覚えていやがれと内心毒づいて、紫苑は目の前のいけ好かない男に軽く頭を下げた。


「所要がございますので失礼いたします」


 男の顔を見もせずに、無性に苛々してきて踵を返す。後ろから勇の取り繕うような声が聞こてきたが、紫苑は女とは思えない速さで歩いて行って、台所に続く角を曲がった。











 無言でずんずん歩いていた紫苑は台所に入るとふにゃりと顔を歪ませた。其の顔には嫌悪感しか表しておらず、中で洗い物をしていた井上源三郎は小さく首を傾げた。
 源三郎は紫苑が幼い頃からこの道場に出入りしていた美丈夫で、いつも優しげに微笑んでいる。彼は剣術も得意だが家事一般も卒なくこなすのでいつの間にか試衛館の炊事係になっていた。紫苑はドカッと畳に腰を下ろすと、不機嫌に頬杖を突いた。


「源兄ぃ、ごはん」


 ぶすっくれたまま不遜に言う年下の女に源三郎は苦笑して彼女の茶碗に飯を盛ってやる。彼女の幼い頃から試衛館にいる彼に紫苑も良く懐いていて、兄のように慕っている。源三郎も彼女の気性を良く知っているので苦笑したまま彼女に食事を差し出した。紫苑は不機嫌に顔を歪めたまま手を伸ばす。


「美味い?」

「ん」


 小さく頷いて、紫苑は黙々と箸を進める。其の姿に何処か親のような気持ちになりながら源三郎は彼女の前に腰を下ろした。
 紫苑は幼い頃、何か気に入らないことがあったり泣きたいときはぶすっくれた顔で源三郎にくっついてきた。歳を重ねるごとに減ってきたし、歳三と言う恋人が出来てからは泣きに来ることは格段に減った。しかし未だに其の癖は変わっておらず、幼い頃と同じ顔をして源三郎の許に駆け込んでくる。


「……何かあった?」

「………」


 出来るだけさり気なさを装って問うが、紫苑は無言で箸を運んでいるだけで視線すら上げようとしない。一体この娘はいつからこんなに可愛くなくなってしまったのだろう。昔は源兄ぃ、源兄ぃと泣きついてきたのに。ほんの少しだけ淋しく思いながらも源三郎は根気良く待った。お膳の上を空にしてから、紫苑は漸くぽつりと呟いた。


「変な男に会った」


 一瞬だけ彼女の言う変な男が分からずに、源三郎はきょとんと彼女を見やった。其の視線が居心地悪かったのか紫苑は微かに身じろぐ。記憶を探り、紫苑の言った変な男とやらを思い出して源三郎は眼を点にした。確かに変な男と言えば変な男だが、一目見ただけではどちらかと言えば好印象を持つ。
 なんとも言えない表情をしていた源三郎が不満だったのか、口を尖らせたまま紫苑は後ろに倒れこんだ。丁度顔から少しずれたところに陽が当たっている。


「私、あーゆー男大っ嫌い」


 はっきり言い放った紫苑に源三郎は苦笑を浮かべて立ち上がった。お膳を持って、流しに持っていく。其れを視線の端で捕らえた紫苑はそのままの体勢で更に言葉を続けた。


「何しに来たんだよ、あれ。総司は総司で騒いでるしさ」

「何しにって……」


 手合わせだろう。そう言って源三郎が笑うと紫苑はガバッと跳ね起きた。子供のように不満そうに顔を歪ませて、足の間に挟んだ自身の指を見詰めている。ちらりと源三郎に視線を上げると彼は食器洗いに精を出していて、紫苑の頬がぷぅと膨らむ。


「ちゃんと聞いてる!?源兄ぃ」

「聞いてるって」


 幼い頃から変わらない彼女に苦笑を漏らしながら答えると、源三郎はふと外に気配を感じた。食器から視線を移してそちらを見ると、微かに困ったように眉を寄せた歳三が視線を彷徨わせながらやってくるのが見えた。紫苑を探しているのだろうか。源三郎は手を止めて、紫苑に笑いかける。


「ほら、歳三が来たから機嫌直せよ」


 源三郎の言葉に、紫苑がピクリと反応する。しかし直ぐになんでもない風を装って立ち上がった。しかし彼女の瞳には嬉しそうな光が浮かんでいる。昔から彼女は感情を隠すのが上手かったのに、なぜか源三郎には彼女の感情が手に取るように分かった。紫苑が彼に気を許していると言う部分もあるだろうが、それ以上に源三郎は紫苑を想っていた。


「源兄ぃ」


 台所を出るところで立ち止まって、紫苑が視線だけを源三郎に投げて寄越した。しかし眼が合うと気恥ずかしそうに視線を逸らす。小さな声で紫苑は呟いて直ぐに走って源三郎の視界から消えた。


「ありがと」


 消えた彼女の残像が残っているかのように其の場所を凝視して、源三郎は柔らかい微笑を浮かべた。大事に大事に想っていた妹は、いつの間にか大人になってしまったのだと、遠くから聞こえるやや怒ったような声音を聞きながら思った。










「紫苑」


 さり気なさを装って、台所をでて歩いていると、歳三の低い声が聞こえた。出来るだけ怒ったように顔を歪ませて振り返ると薬売りの格好をした歳三がばつ悪そうに立っていた。紫苑と視線が合うとふいと避ける。紫苑はつかつかと彼の許に歩いて行って、自分よりも厚い胸元に軽く拳を叩き込んだ。視線を避けて、呟く。


「勝手に帰んな」

「……あぁ」


 特に、あんな淋しい夜は。言葉には出さないが紫苑の拳がそう伝える。其れを感じ取れたのかどうかは分からないが歳三はそっと紫苑の拳に自分の掌を重ねて柔らかく微笑んだ。いつもの歳三からは思いもよらないほどに可愛い笑みに急に恥ずかしくなって、紫苑は歳三の手を払い退けて足早に道場の前を通って自室として与えられている離れに向かって歩き出した。


「おい、紫苑?」

「おや、紫苑さん」


 訳が分からず歳三が首を傾げて紫苑の後を追ったのとほぼ同時くらいに道場から出てきた男は紫苑の姿を見咎めてにこやかに笑みを浮かべた。紫苑的に嫌悪の対象である『甘ったるい笑顔』だ。紫苑はぴたっと足を止め、微かに頬を引きつらせた。如何にか口から漏れそうだった「げ」と言う一文字を飲み込んだとき、歳三が紫苑に追いついて彼女の肩に触れる。


「こちらは……?」

「紫苑?」


 男が微かに眉を寄せて歳三を見やるので、紫苑はちらりと歳三を見やった。長身の彼女から見ても隣の恋人は長身で、頭半分ほど差がある。紫苑はともすれば背筋が寒くなるような視線で男を見据えた後、口の端に妖艶な笑みを浮かべた。


「私の男です。貴方には関係ないでしょう」


 凛とした、妙な気迫のある声で紫苑は言い放ち、視線だけで歳三を促すとスタスタと歩いて行った。真っ直ぐ前しか見ない彼女には、其の姿を呆然と見送りながら悠然と笑みを浮かべた男の顔など見えなかった。









 無言で歩いていた紫苑は、自室の縁側に腰掛けると漸く息をついた。歳三もその隣に腰を下ろし、やや戸惑った顔で彼女を見ている。其の顔を眼の端で捕らえて紫苑はこてんと彼の腕に頭を預けた。そのまま眼を閉じて、独り言のように呟く。


「勝手に女のところに行って、でも最後には私のところに帰ってくるの、知ってるよ」

「……紫苑……」


 何処か力のない紫苑の声音に歳三は悲しそうに瞳を歪めた。いつも強気な彼女にこんな泣きそうな声を出させているのは自分だと思ったら辛くなってきて、歳三は紫苑の肩を抱き寄せた。そっと唇を寄せるが、ぴしゃりと紫苑の小さな手に阻まれる。


「誤魔化すな」


 其の重低音は総司辺りには出せない声音だろう。瞳を眇めて歳三を見やり、紫苑は言った。しかし直ぐに柔らかく目元を歪めるとゆっくりと眼を閉じる。


「私が一番なんだって、信じててもいいよね……?」

「愛してる」


 力強く、歳三は言い切った。自分が愛しているのは紫苑だけなのだと胸を張っていえるから、其の一言に迷いはない。其の声に心地よさそうに眼を閉じていた紫苑は甘えるように歳三の首に腕を回した。答えるように歳三は紫苑の顎を掬い取って掠めるように口付ける。紫苑の唇の柔らかさを味わいながら、歳三は思った。
 自分は愛などと言う感情を持てるのか分からないだけだから。

 愛しているのはお前だけなんだと確認するように女を抱く自分は、許されるのだろうか。




-続-

源兄ぃが格好良すぎです。
この話はいい男が多すぎる。そして其の中で最も男前なのは紫苑姉さんです。