時は移ろう。穏やかに、時に残酷に。其のことを示唆しているかのように庭に咲いていた紫苑の花が枯れた。其れをぼんやりと見やりながら紫苑はお茶を一口啜った。気がつけば風は冷たくなっていて、着物一枚では肌寒くなってきている。何よりも気になるのはあの日見た夢。あれ以来見ないが、心の底に澱のように積もっている。気になりはしないまでも、無視も出来ない想いがある。
 高い空に視線を移して羽織を取ってくるかどうか真剣に悩みだしたとき、カサリと誰かの足音が聞こえた。直ぐに音の主が紫苑を見つけて声を掛ける。


「紫苑」

「源兄ぃ?」


 珍しくやってきた源三郎に紫苑は小さく首を傾げる。彼は薄い着物一枚の紫苑を見て呆れたように彼女の部屋に上がった。適当な羽織を出してきて掛けてやり、彼女の隣に腰を下ろす。紫苑は何気なく彼を見やっていたが、何となく元気がないことに気付き彼の顔を覗き込むようにして問いかけた。


「源兄ぃどうかした?元気ない」

「ん、いや……そうだ、紫苑。団子でも食べに行くか?奢るぞ」


 曖昧に言葉を濁し、源三郎は柔らかく笑った。其の顔に一瞬だけ紫苑の顔が険しくなる。幼い頃から知っているのだから、彼の表情に何か隠していることなんて簡単に分かる。其れでも倹約家の彼が団子を食べに行こうといっているのだから何かしら話す気はあるのだろう。そう結論付けて、紫苑は頷いた。それからちらりと庭を見回す。


「……今日もいない……」


 一人ごちて、紫苑は草履を履いた。最近恋人が姿を見せない。いつもなら三日と開けずやってくるのに、もう五日逢っていない。其のことが気に掛かっているのを見透かしたのか立ち上がった源三郎が苦笑を漏らす。


「歳三なら八王子の方に行ってるぞ?」

「どうせ其処の人妻を床にでも誘ってるんでしょ」


 小さく口を尖らせると、意外そうに源三郎が紫苑を見やる。紫苑以外余り知らないが、彼女の恋人の土方歳三は恋人が居ようが居まいが関係なしに女と関係を持つ。しかも性質の悪いことに其の晩はどんなに遅くなっても紫苑の許に帰ってきて彼女を抱く。いつもよりも優しいく温かい腕で、彼女に愛を囁く。
 紫苑は肩を竦めて見せた。なによりも、其れを理解している振りをしている自分が一番滑稽だ。


「あいつは年上が好きなの。というか、人のものが」

「………」


 ばつが悪そうに沈黙してしまった源三郎の腕を取って、紫苑は笑って見せた。不器用な彼女が見せる精一杯の気遣いに源三郎は言葉を失ってただ紫苑を見つめる。団子食べに行くんでしょ、と源三郎の腕を引きながら、紫苑は艶やかな笑みを浮かべた。


「それに、私はあいつの一番だから」


 ともすれば揺らぐ想い。其れを必死に否定して彼女は笑う。彼女は自分が一番輝くときを知っている。だから自信を持って言い切れるのだ。彼の一番は自分だと、信じることは自由だから。真実そうだと想っていても揺らぐ想いを肯定する為に、彼女は強かに笑う。
 一瞬だけ見えた無理をした彼女の想いに源三郎は優しく彼女の頭を撫でた。









 紫苑の幼い頃のように一緒に茶屋まで行った源三郎は、人とすれ違うたびに言いようのない不安を感じていた。男気溢れる彼女に声を掛ける女はとても多いが、其の全てが友人というよりも恋する乙女というようで、彼女に声を掛ける男は男でこれまた彼女の舎弟のようだったり気の合う友人のような接し方をしたり、何処か間違っている気がしてならない。


「紫苑……。お前だって女なんだからかんざしくらい着けたらどうだ?」


 せめて少しでも女らしく、と着飾ることどころか化粧すらしない彼女に源三郎は溜息を吐く。しかし紫苑は動きづいらいなどと口の中で小さく文句を言って、団子をかじる。普通はもう少し女らしく食べるのではないかと思うが、彼女に其れは通じないのは分かりきっていることなので何にも言わずに源三郎も団子をかじる。ちらりと紫苑を伺って話し出す頃合を計っていると、向こうからやってきた山南敬介がやや息を切らしながら紫苑の隣に座った。紫苑が眼を瞬かせて山南を見やる。


「どしたの、山南さん」


 団子を飲み下してから訊くと、山南は曖昧な笑みを浮かべて源三郎を窺った。源三郎もなにやら真剣に頷き、お茶を啜ってからそのままの顔で紫苑を見詰める。両側から真剣に見られ、流石の紫苑も混乱しながら二人を見比べた。そんな紫苑の瞳を見詰めながら、源三郎が口を開く。


「紫苑、真面目に聞いてくれ」

「何、どうしたの?」


 口元を引きつらせて如何にか笑みを作って問いかけるが源三郎の顔は変わらずに、真剣に紫苑の眼を見詰めている。一度だけ山南に視線を移して頷くと、源三郎は一度生唾を飲み込んでゆっくりと口を開いた。


「紫苑、結婚しないか」


 いきなりの告白に紫苑は言葉を失った。源三郎のことは兄としか思っていないし、しかも自分に恋人が居るのを知っているのに何故そんな事を言い出すのか。訳が分からずに唇だけを開閉させていると、今度は後ろから山南が口を出してきた。


「紫苑ちゃんももう二十八になるだろう?そろそろ女として嫁いだ方がいいと思うんだ」

「俺がちゃんといい家をみつけてやったから、な」


 別に源三郎の告白ではなかったらしい。其のことに安堵しながら、紫苑は口の端を引きつらせた。何だってこの人たちは自分達が独り身の癖に自分に結婚なんて勧めてくるのだろうか。お節介この上ないではないか。それ以前に、自分には誰よりも好いた男が居るのに。
 考えているとイライラしてきて、紫苑は持っていた団子の櫛を握りこんだ。拍子にバキッと折れる。


「私は誰かのものになる気はないって言ってるじゃん」


 落とした声音だ。聞き様によってはチンピラのような声に二人は一瞬たじろいだ。一人では敵わないと踏んで二人で来たのだが、この女には二人でも敵わないのかもしれない。そのままの落とした声音で、紫苑ははっきりと言い放った。其の声音は誇りと自信が入り混じった凛とした色になっている。


「私は自分が好きな男くらい自分で分かってる。私はあいつが好きなの」


 少なくとも、自分の中では彼が一番だから。其れは分かりきったことだから自信を持っていえる。
 何処か据わった眼をして言い切った紫苑に源三郎も山南もこれ以上彼女を説得するのは無理だと判断して肩で息を吐き出した。懺悔の意味も込めて源三郎が幼い頃のように紫苑の髪をクシャリと撫でる。訳も分からず源三郎を見ていると、不意に男が数人近づいてきた。紫苑に向かって豪快に頭を下げる。


「ちわっス!紫苑さん」

「おぅ、久しぶりじゃん」


 其れはこの辺では腕っ節が強く人相の悪い男達で、なぜそんな男達が紫苑に頭を下げているのか……。不信感どころか恐怖すら感じ、源三郎は彼等が去っていった後を見詰めながら何でもないことのように団子を食べている紫苑に問いかけた。


「おい、紫苑……?」

「んー?」

「あいつ等は何なんだ?」

「舎弟」


 試衛館のお姫様は一体何処で何をしでかしたのか。彼女の所業が怖くて訊けず、源三郎は黙ってお茶を啜った。
 丁度其のとき、遠くから娘が駆けてきた。脇目も振らず全力疾走だ。しかし、娘は紫苑の姿を認めると彼女の許に駆け寄って涙目で叫んだ。


「紫苑ちゃん!助けて!!」

「わ、何」


 いきなり抱きつかれて、紫苑は驚いて声を上げた。しかし彼女を優しく抱きとめてあやす様に髪を撫でる其の仕草は優男のようで、両隣の本物の男は言葉を失った。娘が叫ぶように助けを求めるので落ち着くように紫苑が彼女の耳元で囁く。すると彼女は落ち着いたのか事情を話し始めた。


「向こうの村境で、雪が男に襲われてて!」


 其の言葉に紫苑は目を見開いた。隣の男達は何故其れを紫苑に言うのかが分からない。しかしそんなのは軽く無視して紫苑は勢い良く立ち上がった。半泣きで立っているのがやっとの娘の肩を掴んで場所を確認すると、紫苑は脇目も振らずに駆け出した。


「紫苑!?」


 其の後を源三郎が追う。残された山南も慌てて勘定を払って、彼等の後を追った。











「テメェら何してやがる!?」


 やや乱れた息を戻しながら、紫苑は怒気の篭った声を吐き出した。場所はあの娘の言っていた通りの村境で、小柄で紫苑とは正反対の可愛らしい女が巨漢に囲まれていた。紫苑の声に男が顔を上げると、下卑た笑いを漏らす。追いついた源三郎は其の光景に息を呑んだ。紫苑は長身といっても細い。自分よりも二倍以上も太い男を数人、紫苑一人で相手にしようとしているのだ。しかし紫苑は怯むことなく男達を睨みつけた。


「雪を離せよ」


 低く呟かれた言葉は背筋を凝らす力がある。男も一瞬怯んだ。しかし直ぐに我に返って紫苑の胸倉を掴み上げた。自分の顔に近づけて下卑た笑いを漏らす。嫌悪感に紫苑が隠すことなく顔を歪めると、男は低く笑い声を上げた。


「良く見るといい女じゃねぇか。この女と一緒に可愛がってやろうかぁ?」

「離せよ、下種が」


 聞こえないくらい低く紫苑が呟いた。源三郎が助けに入ろうと武器になりそうなものを見つけようと辺りを見回すと、其の間に紫苑は眼を細めて思い切り男の腹に足をめり込ませた。ゲフっと男が苦しげに顔を歪めてふらつき、更に紫苑は容赦なく男の顔面に拳を叩き込んだ。豪快に男が仰向けに倒れ、紫苑は不快そうに拳を見詰めた。


「こ…この女ぁ!」

「紫苑!」


 仲間を倒されて、もう一人の男が紫苑に殴りかかる。捕まっていた雪と呼ばれた女が紫苑の名を叫ぶが紫苑は振り向きもしない。男の腕が紫苑を捉える前に、紫苑は身を沈めて男の腹に拳を叩き込んだ。前のめりに倒れる男の首筋に容赦なく手刀を叩き込み、ゆっくりと男が倒れこむ。
 残った男を、紫苑が首をコキコキと鳴らしながら見やった。男は引きつった声を漏らすと雪を離してじりっと後ずさる。にやりと、妖艶にすら見える笑みを浮かべて紫苑は笑った。其の笑みはまるで鬼のようだと、源三郎は思う。其のとき、やっと息を切らした山南が追いついた。


「私を橘紫苑だと分かって喧嘩売ってんだよな?」


 彼女の名を聞いた瞬間、男達がたじろいだ。其の様子に紫苑は勝ち誇ったように唇を引き上げる。其の光景に傍で動けずに見ていた源三郎は言葉を失った固まった。山南もあんぐりと口を開けている。彼女の名前一つで大男が怯えを見せる。一体このお姫様は何をやらかして名を轟かせてしまったのだろう。
 紫苑の名に唇を引きつらせていた男は、やや強張った声音で紫苑を睨みつけた。


「小石川の茨垣がこんな細っこい女だったとはなぁ」


 揶揄を含んだ声音に紫苑の柳眉が微かに上がる。近隣の村の者からそう呼ばれる紫苑の通り名は多々ある。しかし其の中で最も力を持っているのは「小石川のバラガキ」だ。簡単に言えば、この小石川の喧嘩番長なのだが、近隣のならず者相手なら相当に力のある呼び名だ。
 男は歪に口の端を歪めて紫苑に殴られた腹を撫で付けた。唇を舐め上げて、紫苑を舐め回すように見やる。


「小石川の茨垣やっちまったら、俺達はどんだけ権力とれっかなぁ?」

「やれるもんならやってみやがれ」


 紫苑が答えるのと同時に男は駆け出した。紫苑との間合いを一気に詰めて拳を突き出すが、紫苑は軽く体を傾けてかわした。もともと試衛館の娘がこんな不良の大男に負けるわけがない。何度も其れを繰り返し紫苑が厭きてきた頃、男は徐に懐から刃物を取り出した。太陽の光にキラリと輝く其れに一瞬だけ紫苑の眼が眇められる。


「死ねぇ!」

「紫苑!」


 叫びながら男が突進してきた。めちゃめちゃに刃物を振り回しているので間合いが読み辛く、紫苑は不快そうに唇を曲げる。紫苑が男と対峙している間に源三郎に保護された雪が彼の腕の中から叫んだ。其の声に被さるように源三郎も紫苑の名を呼ぶ。山南は声も出ないようで真っ青な顔をしていた。
 完全に避けたと思ったのに、刃物の切っ先が紫苑の頬を裂いた。一瞬走ったちりっとした痛みに紫苑は微かに顔を歪め、雪の口からは悲鳴のような声が上がる。不快気に瞳を歪め、紫苑は男の背中に思い切り踵を叩き込んだ。そのままの勢いで飛び上がり、倒れている男の後頭部に踵を振り下ろす。


「…がっ!」


 小さく男の口から血が飛び散って、刃物が手から離れた。倒れこんだ男の顔を更に踏みつけて、紫苑は一つ息をついた。源三郎の腕を振りほどいて雪が紫苑に駆け寄り思い切り抱きつき、危うく倒れかけた紫苑は苦笑を漏らして彼女を抱きとめた。


「雪、怪我はないか?」

「紫苑こそ!顔に怪我してる」


 ゆっくりと女らしい細い指を伸ばされて、一瞬だけ紫苑の体が強張った。しかし直ぐに力を抜いて、彼女の指が傷をなぞる感覚に瞼を翳らす。不安そうにする彼女に心配ないと笑って、紫苑は彼女の髪を掻き揚げた。


「雪が無事なら其れでいいよ」

「紫苑……、大好き!」


 何となく恋人同士に見えてしまいそうだ。離れたところで見ていた源三郎は思った。そんな妹の姿を見ていたくなくて視線を村の向こうに移すと、丁度歳三が帰ってきたところだった。源三郎と山南を見つけて、彼が無愛想に手を翳す。特に歩調を変える訳でもなく歩いてきて、近くまで来て漸く彼は紫苑に気付いた。しかし、紫苑は気付かないで雪を宥めたりしている。


「もう大丈夫だから戻って、旦那さんだって心配してんだろ?」

「うん。紫苑、ありがとね」


 紫苑と正反対に可愛らしく笑んで小首を傾け、雪は小走りに村に戻っていった、其の姿を腰に手を当てて見送り、紫苑は深く息を吐き出す。彼女の姿が角に消えるまで見送っていると、不意にちりっと頬が痛んだ。一瞬だけ顔を歪めて忌々しげに舌打ちを漏らす。


「紫苑」


 突然、歳三の声が聞こえて紫苑は一拍遅れて後ろを振り返った。自分の格好やら傷やらの前になんで居るのだと聞きそうになって慌てて口を噤む。一しきり紫苑の格好を眺めた歳三は深く息を吐いてこん、と紫苑の額を小突いた。


「女が顔に怪我してんな」

「アンタが気にしなければ問題ないでしょ」


 果たしてそういう問題か。しかしサラッと紫苑が言うので歳三が苦笑して頷いた。そんな歳三を見詰めてから、徐に紫苑は源三郎に視線を移した。歳三と源三郎を交互に見やって、二人が不思議に思って顔を見合わせると紫苑は視線を逸らす。


「何、紫苑?」

「紫苑?」


 二対の不思議そうな眼に見られて、紫苑はばつが悪そうに彼等を見やった。歳三から僅かに視線を外して唇を噛んで口篭った後、意を決したように口を開く。其の唇からは怒ったような、其れでも凛とした鋭利な声音が紡がれる。


「私、こういうのあんまり言わないけど、私が好きなのはアンタだけだから」


 はっきりとそう言い切って、恥ずかしくなって紫苑は彼等に背を向けた。無言で歩き出すと、後ろから二人の歩いてくる音がする。やや慌てたような足音が紫苑の耳に届き、数拍置いて歳三が紫苑の隣に並んだ。キラリと視界に光るものが現れ何かと思ってそちらを見ると、歳三がかんざしを持っていた。


「土産」

「またかんざし?」


 もう幾つ目?と不満そうに言うが、其の表情は柔らかく笑みを浮かべていて紫苑は紅いかんざしを受け取った。彼が出先から土産を買ってくることは多いが、其の大半はかんざしだ。不器用なそんな男を、改めて好きだと思う。ちらりと隣の歳三に視線を上げて、紫苑は口を尖らせた。


「忘れないでよ」

「あぁ……」


 全てを理解して包み込むような歳三の微笑と声に、紫苑は柔らかく微笑んだ。忘れないで、と心の中で繰り返してヒリヒリと痛む頬の傷を拭った。
 私が好きなのはアンタだけだから。

 私がいることだけは忘れないで。




-続-

男前です、紫苑姉さん。
小石川とは、試衛館があった場所です。