寒くなればなるほど、布団から出るのが億劫になる。女として其れは間違ったことなのだろうが、橘紫苑という女にそんな常識は通用しない。昼近くになり大分気温が上がってきた頃、彼女は漸く布団から這い出した。のろのろと着物を着替え、髪も結わずに道場に足を運ぶ。朝食兼昼食を摂る為に、源三郎を探しているのだ。


「源兄ぃ、ごはん」


 道場に顔を出そうと思って通った台所に、源三郎はいた。ちょうど昼飯なのか、みんなが集まっている。紫苑は眠そうな顔のまま、座り込んだ。車座に座り込んでわいわい騒いでいる面子に視線を移し、何となく足りない気がして首を傾げた。


「紫苑、どうした?」


 顔を覗き込まれ、紫苑はじっと心配そうに自分を見つめる恋人を見やった。彼が不思議そうに眉を寄せるのを構わず、その額をつつく。彼が眼を瞬かせたのを無視して、紫苑は車座の輪に入った。彼の隣に座って、未だ覚醒しきれない意識のまま恋人の肩に頭を預ける。
 呆っとしたまま、騒ぐ野郎どもを見やる。近藤勇、沖田総司、原田左之助、藤堂平助、山南敬介。食事を作っている井上源三郎と自分と、隣にいる土方歳三。誰かがいない気がする。


「紫苑!ちょっとくらい手伝え」


 女なんだから、と小姑のように言う源三郎に紫苑は嫌そうにため息を吐いた。返事するのも面倒くさくて、そのまま眼を閉じる。源三郎の大仰な溜息が聞こえたが、無視だ。歳三がそっと髪に触れたのが分かって、紫苑は口元を綻ばせた。丁寧に、髪を梳く指が心地いい。ふと、気付いた。


「しんぱっつぁんがいないじゃん」


 見回しても、新八の姿はない。小首を傾げると、丁度紫苑の前に膳を置いた源三郎が青筋を浮かべ、其れでもどうにか笑顔を貼り付けて答えた。味噌汁が衝撃で零れそうだった。


「永倉ならちょっと出てる。もう直ぐ帰ってくるんじゃないか?」

「………何怒ってんの」


 その場にいた全員が、この娘は莫迦かと思った。普段めったなことでは怒らない源三郎が、周りに分かるほどに青筋を浮かべている。そんなはじめての現象に総司すら口を噤んでいる。一人だけ分かっていない紫苑に、歳三が軽く彼女の頭を叩いた。パンッと軽い音がして、一拍後に紫苑が恨みがましそうな眼で恋人を見やる。


「何すんの」

「莫迦女」

「まぁまぁ、歳」

「歳兄ぃ、もっと言っちゃえ」


 周りから紫苑を気遣っているのか紫苑に何か恨みでもあるのか、分からない声が飛んでくる。総司の声を睨みつけることで黙らせて、紫苑はちらりと源三郎に視線を移した。たぶん自分が悪いのだと思うから、一応謝っておいた方がいいだろうか。


「源兄ぃ、ごめんね?」

「……分かってないだろ、お前」

「そんなことないよ?」


 本人は可愛らしく小首を傾げたつもりらしいが、周りから見ればそうは見えない。この場にいた全員が紫苑が怒鳴られるだろうと思った。しかし、幼い頃から彼女と顔を突き合わせ、最早親以上の感情を抱いてしまったらしい源三郎は大きく溜息を吐いて膳配りを再開した。


「甘くねぇ?」

「あれは、何?」


 源三郎の行動が余りにも予想外過ぎて、如何反応して良いか分からなかった左之助と平助がこそこそと囁きあった。二人を興味なさそうに見やって、紫苑は目の前の膳に手を伸ばす。最近特に金銭的に危機らしく、ほんの少量の米と、具の少ない味噌汁。おかずはそこらの川で取れた魚か、野菜。
 不満そうに箸を銜えて、紫苑は源三郎を見やった。


「……たまには肉が食べたい」

「文句言うな!」


 ポツリと口の中で呟かれた言葉なのに、聞きつけた源三郎がカッと目を見開いた。彼もかなり苦労しているのか、その眼に殺気を感じる。むぅと唇を尖らせて不満そうな紫苑に、今まさに手を付けようとしていた男たちはぎょっと目を見開いた。


「でもさー……」 

「紫苑!いいから食ったら稽古しようぜ!!」

「それとも魚釣りでも行く!?」


 食客二人が必死だ。ここに住んで、源三郎の料理の手に生かされているといっても過言でもない彼等が必死になって紫苑の気を引くが、当の紫苑は不満そうに黙々と箸を進めている。しかし、早々に無くなってしまって、中途半端に膨らんだ腹は切なさを増す。


「………道場行って稽古しよーっと」


 この空腹を忘れようと、紫苑が呟いた。ちょっと切なくなっていた食客たちは、そんな紫苑を見やり、お互いに顔を見合わせている。そんな二人を意にも介さず、紫苑は歳三の着物を引っ張った。無言で立ち上がった紫苑に続き、歳三も腰を上げる。


「紫苑!自分の膳は自分で下げろ!」


 彼女が出て行く前に、小姑の注意が飛んだ。紫苑はあからさまに顔を歪ませ、一瞬黙り込む。それから総司に笑いかけた。


「総司、やっといて」

「なんで僕ー?」

「よろしく」


 ひらひらと手を振って道場に行こうとしたところで、新八が帰ってきたのに気付いた。急いでいるのか小走りで頬が紅潮している。何事だと思って足を止めると、新八は紫苑になんて目もくれずに未だ膳の前で切なそうな顔をしている奴等に叫んだ。


「近藤さんはいるか!?」

「永倉?」


 この食糧難を如何しようかと思案していた勇が顔を上げる。新八は何事かと訊いてくる友を無視して勇の前にずいっと持っていた一枚の紙を突き出した。新八の整った字で書かれている文をその状態で読み、近藤の顔が紅潮していく。


「何があったのさ、しんぱっつぁん?」

「何が書いてあんだ?」


 読んだまま固まってしまった勇を尻目に、平助と左之助が問う。紫苑も気になるのかその場に立ったままで、事の進展を待っている。固まってしまった勇のかわりに新八が紙を読み上げた。学のない奴等の為に、子供でも分かるように簡単に約して、だが。


「幕府が浪人を集めて雇うんだと。かなりの額の報酬が貰える」


 端的に約して言うと、左之助と平助はぱっと顔を好色に染めた。期待を込めた視線で、勇を見やる。勇は悩むように額に皺を寄せて目を瞑っていた。新八だけが不満そうな顔をしていて、その表情に左之助が首を傾げて新八の頭を叩いた。


「なぁに小難しい顔してるんだよ」

「知らなかったのか?」


 この周辺の道場には半月以上前から出回っていた檄文だったのだが、此処の面々は初めてみたという顔をしている。それ以前に、知っていたらもっと早く問題にしていただろう。納得行かない顔をしている新八に、山南が困り顔で言う。


「向こうが忘れていたのかもしれないだろう」

「外されたに決まってんだろ」


 嘲りの笑みを含んだ低い声が、耳に飛び込んできた。言葉を失ってそちらを見ると、うっすら笑みを浮かべた歳三がこちらに戻ってくる。彼の一歩後ろでは、紫苑が微かに瞳を眇めている。空腹で不機嫌なようだ。


「外された?」


 総司が無邪気に問うと、歳三は頷いてクックッと笑みを噛み殺しもせずに笑った。
 増えすぎた浪人を一掃するために幕府が立てた案は、「浪士組」という組織を作って浪人たちを収容するという手立てだ。待遇は低いものだが、何もないよりマシだろう。三月に京都に上る将軍家茂侯の身辺警護と言う名目で京都に送り込もうと言うものだった。


「こんな田舎の芋道場にゃ回す必要ねぇってことだろ」

「でもさ、知っちゃったんだし」


 笑いながら言って、総司はちらりと勇を窺った。黙って聞いていた勇が徐に目を開け、周りを見回す。その場にいる試衛館の主だった連中は皆行く気満々の顔をしていて、一人一人の顔に頷いてから、近藤は破顔した。


「行くか!」


 その言葉に、男達はぱっと顔を輝かせた。しかし歳三一人だけ、複雑な表情で黙っていた。
文久三年、新撰組の歴史は此処から始まる。










 自室の布団の中で、紫苑はダルそうに瞼を閉じていた。隣でキセルを銜えて黙ったままの歳三は、時折思い出したように紫苑の長い髪に指を絡めて、唇を落とす。そろそろ日も暮れるのだろうか、太陽は低い位置から橙色になって差し込んでいる。
 乱雑に脱ぎ捨てられた着物を手繰り寄せながら、紫苑は微かに笑んだ。


「もう直ぐ、こんな生活も終わりだね」


 ぽつりと、微かに浮かぶ希望に言葉を乗せる。金も食料も何もない、あるのは道場だけの生活は終わる。道場を失う代わりに食料と金と、戦場を手に入れるだろう。彼と一緒なら、何処にでも行けると思った。堕落した日常ではなく、生きることに意味を見出せるような、彼のために生きられるような世界を手に入れられる。
 着物に袖を通しながら言うと、歳三は不機嫌に紫苑を見やって、視線を外に移した。枯れてしまった紫苑の花が、風に揺られている。


「紫苑……」

「ん?」

「お前は駄目だ」

「……何、言ってんの………」


 戸惑った紫苑の声が、掠れて響いた。聞こえるのは風が擦る木の葉の音と、道場から響いてくる野太い声。その全てが現実味を亡くしている。ただ見えるのは、歳三の表情を隠してしまった黒い髪。きっとその向こうには感情を隠すために不機嫌に歪められた切れ長の眼と、感情を隠しきれていない冷たい顔だろう。現実離れして、紫苑はそんなことを考える。


「お前は此処に残れ」

「何で?……一緒に行く。アンタといられないなら何処にいたって意味ないじゃん!」

「お前を危険な目に合わせたくねぇ」

「なら、アンタも行かないでよ。そういう事だ」

「紫苑」


 紫苑の声が、凛とした響きを含む。やや低くなった声は譲らない意志を含んでいて、もう誰も彼女を動かすことは出来ない。彼女がそう言う事は分かっていたのに、歳三の声が微かに震えた。掠れて咎めるような声には彼女を非難する色よりも悲しみに染まっている。微かに逸らされた視線に、紫苑は微かに眼を細めた。


「そういう、事だよ」


 自分は護られる存在ではないのだと、紫苑の唇が告げる。その声音に歳三は顔を歪めて紫苑を見やった。懇願するような色を含んだ歳三の視線にも紫苑は揺らがず、彼を見つめている。歳三はキセルを置くと、そっと紫苑の頬に手を伸ばした。骨ばった指が、紫苑の柔らかい頬に触れる。


「お前は……、俺の為に女の倖せを棄てられるか?」


 先程まで自分の腕の中で赤く染まっていた彼女の頬は、既に熱を失っている。彼の手を取って、紫苑は震えもせずに歳三を見つめた。ふっと瞳を柔らかく歪め、囁く。


「アンタの傍にいられるなら、何処までも行く。一緒に往く」


 握った手を引いて、紫苑は噛み付くように歳三の唇に口付けた。温かな感触に気が緩み、不意に瞳から雫が零れる。
 幸せだった。彼に抱かれるのが幸せで、彼の隣にいられるのが幸せで、彼がいればそれだけでよかった。先のことを考えれば不安にならないわけがない。それでも、彼に自分だけを取って欲しくないから。彼の世界の一部にいられればそれで良いから自分は我侭を言ってはいけないのだけど。


「……愛してるんだよ、歳三……」


 唇が離れた瞬間、紫苑の唇から囁きが漏れた。普段唇から零れることのない言葉は涙を伴って流れ出る。涙が零れるから言葉が脆くなるのか、心が脆くなったから涙が零れるか分からないけれど、それでもどうか今だけは。


「もう、置いていかないで……独りに、しないで」


 弱くなってしまう自分を許して。貴方がいなければ強くなんてなれないから、貴方の胸の中でしか、弱くなることが出来ないから。
 子供のように歳三の手を握って飢えたように唇を求める紫苑に、自分は此処にいるのだと教え込むように歳三は深く口付けた。自分は此処にいると、彼女が忘れないように。


「……ずっと、傍にいる。独りになんてしない……」


 彼女に自分が要るように、自分には彼女が要る。
 女の倖せすら棄てる彼女の隣に、彼女が生きるために自分はいる。何度も何度も紫苑の耳元で囁いて、歳三は紫苑を抱いた。

 だから、この言葉は嘘じゃない。





-続-

彼女が初めて歳三さんの名前を呼びました。