女の倖せを棄てられるか?

 昨日の言葉が、ぐるぐる頭を回っている。あの時は只彼と別れたくない一心で言ってしまったけれど、あれから一人になって一気に頭の芯が冷えたように冷静になった。自分が出した答えは、本当にあっていたのだろうか。自分の幸せは、何なのだろう。


「……アホらし」


 昨夜から続く思考の連鎖に紫苑は眼を細めて呟いた。眠れなかった。眠りに落ちそうになると、自分の幸せはなんだろうと漠然と問いかけてしまう。眼が冴えて、眠れない。眠くならない。これ以上布団の中にいても気が滅入るだけなので、珍しくまだ朝食の時間に布団から起き出した。
 ノロノロと箪笥から着物を出す。着慣れた着物は最近の女性が着ているものでなく、貧乏だから仕様がないのだろうが着古したものだ。そんな自分に女の倖せなんてあるのだろうか。ダルそうに寝巻きを脱ぎ、着物に袖を通した。その時、珍しく勇が紫苑の住む離れに顔を出した。


「紫苑、起きてるか?」

「何?」


 膝で歩いて、縁側まで出た。ちょっと困ったように眉を寄せて縁側に腰掛けている勇に不思議そうに首を傾げた。彼が此処に来ることは余りない。普段紫苑に用事があっても伝えに来るのは総司か源三郎だ。圧倒的に総司が多いが、勇自身が忙しいので余り来ない。そして何より、普段なら紫苑はこの時間まだ寝ている。
 紫苑がもこもこの綿入れを二枚羽織って勇の隣に腰掛けた。足をブラブラしながら勇の言葉を待っていると、彼はちらりと紫苑を見てからゆっくりと口を開いた。


「昨日……」

「ん?」

「昨日何かあったのか?」


 歳三の様子がおかしかったからと口の中で呟いた勇に紫苑は微かに眼を細めた。折角自分が何事もなかったように振る舞っていたのに、なぜあいつはこう嘘が下手なんだろう。不機嫌に瞳を細めたまま紫苑は枯れた紫苑の花に視線を移した。枯れた花は最早なく、辛うじて枯色の茎が風に揺らいでいる。


「……何にもないよ」


 自分も体外嘘が下手だ。内心思ったが口に出してしまってもう遅い。曖昧に笑みを浮かべて、紫苑は立ち上がった。裸足のまま下駄を履いて、ご飯にしようかと台所に向かう。しかし数歩歩いたところで勇に呼び止められた。


「紫苑」

「何でもないってば」


 意地でも何もなかったと言い張って、紫苑は簡単に切れて勇を振り返った。何かあったのは、自分の中でだけだから誰に相談するつもりもない。しかし、勇は困ったように人の良さそうな顔に眉を寄せたまま、気負ったように言った。


「お養父さんが紫苑を呼べと」

「義父さんが?」


 意外な名前に紫苑がきょとんと勇を見る。彼等の養父で先代天然理心流の後継者だ。生まれて直ぐに棄てられた紫苑を実の娘のように育てた、大雑把なんだか心優しいのか良く分からない老人は最近体調が芳しくない。日に日に弱っていく姿を娘達に見せたくないのか、ずっと部屋に篭っていて食事を届けるのは源三郎だと決まっていた。その義父からの呼び出しに紫苑は首を傾げたが、まぁいいやと思って彼の書斎に向かった。尊敬できる師であり義父に会えるのが、単純に嬉しかった。











 彼の書斎に行こうと思ったら、途中であった源三郎に道場に居ると言われ、紫苑は引き返した。大体なんで病人がこの糞寒い中底冷えのする道場に居るのだと口の中で文句を言いながら道場に向かうと、いつもと正反対の緊張した雰囲気が漂っていて自然と紫苑の背筋が伸びる。


「義父さん?」

「……紫苑か」


 彼の姿を認めた瞬間、紫苑の瞳がぐにゃんと歪んだ。紫苑が知っている義父は何時だって大らかに笑っていて時に厳しくて、誰よりも強かった。それなのに今目の前にいる彼は弱々しくやせ細って小さく見える。只健在なのは、その強い眼光。
 紫苑は冷たい床に微かに眼を細め、心底嫌だと思いながら彼の目の前に腰を下ろした。床の冷たさが着物を通して伝わってくる。寒がりの紫苑はには辛い。病人の父の体にもよくないだろうと思い当たる。しかし良く見ると、周助老は座布団を二枚重ねて座っていた。ずるい。


「義父さん、一枚頂戴」

「嫌じゃ」


 紫苑の思い違いだった。この義父は健在だ。詰まらなそうに紫苑が口を尖らせて舌を打ち鳴らすと、周助老は飄々とした笑みを浮かべてじっと紫苑を見やった。温かな色を含んだその視線を紫苑はきょとんと見返すが、視線の色には半分恨みが篭っている。昔から変わらない優しい声が、紫苑の名を呼んだ。


「紫苑」

「……はい」


 やや躊躇って、紫苑が頷く。決して負けないように、その視線には昨夜と同じ凛とした力が込められている。この紫苑は、誰も止められない。自分を見つめてくる父の視線は何時だったか紫苑を叱ったときと同じ視線だから、同じ視線を紫苑も返す。自分は、絶対に間違えないから。


「京に行くそうだな」


 静かな声音だった。全てを認めたのに、微かな痛みを含んでいる。しかし紫苑は揺らぐことなく頷いた。自分は決して間違っていないから。それからふと思い出した。昔も、この視線とやりあったことがある。村の少年達と喧嘩したときだ。友達を護るためだったのだから自分が怒られる筋合いはないと泣きそうに歪んだ顔を必死で隠していた。周りからは女の子なんだからとどやされたのに、義父だけは同じ視線でよくやったと撫でてくれた。あの頃から彼は少し常人とは違った。


「お前が決めたことなら反対はせん」


 言って、周助老は後ろ手に一振りの刀を取り出した。何も言わずに紫苑の前に差し出すので、紫苑は躊躇いながらも其れを受け取った。紫苑の剣蛸だらけの細い手と、皺だらけの小さな手が触れる。彼は小さくなったのだと痛感しながら、紫苑は刀を見て言葉を失った。この刀は、


「国宗……?」


 名刀と言われるその刀は、この道場にただ一つだけの価値のあるものだった。過去周助老本人が使っていたらしいが、手入れもしっかりされているようで怖いくらいに輝いている。すらりと刀を抜き去って紫苑は眼を細めた。此れを手にするのは自分でいいのだろうか。それが伝わったのか、義父は目元の皺をより深く刻んで優しげに笑んだ。


「女だと言うだけで蔑まれる。気位だけは忘れるな、お前は男ではないが『橘紫苑』だ」


 これから彼女が立つ場所は、支えなんてない暗い場所だ。たった独りで立つにはいくら紫苑でも膝を折ることがあるだろう。そのときに自分は男でもないけれど護られる女でもないことを覚えておいて欲しい。昔から彼女は護られることを嫌ったから。刀を収めた紫苑の手に自分の手を重ねて、周助老は眼を細める。


「其れからお前は、私の自慢の娘だ」

「……うん……」


 いつまでも、義父は大きな存在だった。もう弱音を吐くことなんてできなくなった。その事実を確認して、紫苑は大きく頷いた。
 もう逃げ道なんてない。でも後悔だってしない。自分は、迷いなんてないから。











 キラリと、刀身が輝きを放つ。カシャンと鞘に収めて隣に置き、紫苑はブラブラとしていた足を引き寄せた。此れを見せたら、歳三はどんな顔をするだろうか。そう思ったらなんだか楽しくなって、紫苑はクックッと笑いながら冷え切った足を擦った。

 女の倖せを、棄てられるか。

 自分の倖せとは何だろう。漠然とし過ぎて分からないけれど、たぶん其れは歳三の隣りにいることだろう。だから自分は彼と対等であるように力を手に入れた。彼も和泉守兼定を探しているらしい。自分の倖せが歳三といることならば、捨てるものは女としての温もり。しかし、そんなものは必要ない。


「つーか、寒い!」


 一言そう吐き捨てて紫苑は眼を細めた。寒がりな紫苑は綿入れを二枚も羽織っているのに、何故か素足だ。単純に寒いなら運動して身体を暖めようかと思って草履に足を通して立ち上がると、屋敷の影から背の高い男が現れた。その手には一振りの刀が握られている。


「紫苑」


 彼女が外にいるのに意外そうに男が彼女の名を呼ぶ。恋人の姿を認めた紫苑は、彼の持っている刀に視線を移して眼を細めた。どうやら見つかったらしい。自然に紫苑が微笑むので歳三は不思議そうに微かに眉を寄せた。歳三の表情の変化を無視して紫苑は彼に腕を伸ばす。


「良かったじゃん」


 ボスっと彼の胸に拳をぶつけると、一拍置いて歳三が笑んだ。普段からは想像もつかない極上の笑みに紫苑は急に恥ずかしくなって視線を逸らす。この男が何時だって侍になりたいのだと言っていたのを紫苑は知っている。その夢が叶うのだから嬉しくないわけがない。この男に、自分は選択を迫っていたのだ。女か、夢か。それは、なんて罪深い……。
 堪えるように唇を噛んだ紫苑の様子に歳三は不思議そうに彼女の顔を覗き込んだ。しかし彼女は彼からグリンと顔を逸らして、置いてあった自分の刀を引っつかんで歳三に突きつけた。


「私の相棒」

「これ……!」

「義父さんに貰った。私の国宗」


 紫苑の刀に歳三が目を丸くするが、紫苑は勝ち誇ったように強い眼光で歳三を見やった。もうこれで、引き返せない。引き返すことなんて出来やしない。此れは紫苑の決意だった。誰よりも誇り高い瞳がそう告げるから、歳三は何も言わずにそっと眼を閉じた。刀を握った紫苑の手を握って、微かに掠れた声で言う。


「お前が強いことは知っている。けど…だけど、連れて行けない」

「……いい加減にしろよ……」


 低い声で、紫苑が呻いた。まだ、彼はそんなことを言う。自分を護ろうとして自分を犠牲にしている。自分は彼が自分を犠牲にするほど価値のある女じゃないのに。そして何より、護られることを嫌っていると知っているのに。歳三の手を払って、紫苑は瞳を歪めた。


「私は護られる女じゃないって言ってんだろ!」

「しかし……、お前を危ない目に晒したくない」

「今から試合しよう」


 紫苑の言葉に歳三がゆっくりと瞳を覗かせた。彼女の言葉が理解できていないのか紫苑を凝視しているが、紫苑は無視してズカズカと道場へ歩いていく。
 実際立ち会ってみれば伝わるだろう。自分がどれだけ真剣か、護られる存在でないということが。そして何より、紫苑は彼について行きたかった。彼のいない人生なんて、もう想像することすら出来なかったから。どんな形でも、対等に隣に立っていたかった。










 道場を覗くと、みんながみんな京行きに気合が入っているのか稽古に気合が入っていた。其れを眼を細めて見やり、紫苑が声を張り上げる。


「ちょっと試合するから、どけ」


 いつもよりドスの効いた声音に、全員の動きがぴたりと止まった。紫苑が真ん中までゆっくり歩いていくと、さっと道が割れて全員が端に寄った。紫苑は羽織っていた綿入れを脱ぎ捨て、袖と裾をたくし上げる。この寒いのにとっても本気だ。紫苑が投げた綿入れを平助が拾ったとき、戸惑ったように歳三が紫苑の前に立った。長い髪を高く結い上げ、紫苑が歳三を睨みつける。


「紫苑姉ぇ、竹刀?木刀?」

「木刀」


 総司の問いに躊躇いなく木刀だと即答すると、総司が木刀を投げてよこした。紫苑は掴んだが、歳三は掴みそこねてカランと木刀が床に落ちる乾いた音がする。其れをノロノロと拾い上げる歳三に紫苑が不機嫌に顔を歪める。歳三が遠慮がちに構えたところで、総司が勝手に二人の間に立った。


「はじめ!」

「……手加減したら別れるからな」


 本気でイライラした声音で紫苑が言った。その気迫に周りにいた連中はもちろん、歳三も息を飲む。それから一度眼を閉じて息を吐き出し、ゆっくりと眼を開けた。彼女が本気だったから、自分も本気で向かわなければいけないことを知る。紫苑は絶対に引かないから、彼女を護るためには勝たなければならない。
 そう思って、構えなおす。ギンと紫苑を睨みつけると、紫苑は眼を細めてゆっくりと木刀を歳三に向けた。片手だけで持った木刀は、普通の女なら剣先が下がってしまうだろう。しかし、紫苑の握る木刀はまるで真剣のように鋭利な気を放っている。打ち込む隙が、見つからない。


「俺の…、俺の負けだ」


 呻くように歳三が呟いて膝を着いた。その言葉に紫苑はふっと雰囲気を和らげて切っ先を下ろす。木刀を無造作に投げて、ゆっくりと歳三に近づいた。木刀は上手く左之助の手に収まった。膝を着いて俯いている歳三に手を伸ばし、笑ってみせる。


「護られるほど弱くないだろ?」


 だから安心して連れて行けと、絶対に譲らない瞳で言うから歳三は一つ息を吐き出した。彼女は其れほどまでに自分を愛してくれるから、だから。


「最後に一つだけ、聞いてほしい」











「女のお前を、抱きたい」


 耳元で睦言のように囁かれて、紫苑は自室に戻った。まだ日は高いが陽射しは室内には差し込まず、縁側に当たった日が別世界のように明るかった。着慣れない艶やかな色の着物に袖を通して、紫苑は長い髪を結い上げた。こんな格好をしたのは、幼い頃七五三をやった以来かもしれない。頭に刺したかんざしがシャランと鳴った。薄く化粧して最後に赤い紅を引いて、紫苑は照れくさそうに笑って歳三を振り返った。彼がくれたかんざしを着けたのは初めてかもしれない。


「着てやったぞ」

「……綺麗だ」


 紫苑の腰を抱き寄せて、歳三が囁く。当たり前だろうと強がりながら、紫苑はそっと歳三の首に腕を回した。
 これが、最後のつもりだった。自分なりの蹴りのつけ方。女としての倖せと引き換えに手に入れた彼の隣りに立つと言う権利。その為に、これで全てを終わりにしようと思っていた。女である自分を、棄てるために。


「どうせ脱ぐんだから着る意味ないじゃん」


 誤魔化しついでに笑うと、歳三も柔らかく笑みを浮かべて紅を引いた唇に触れた。噛み付くように口付けて、項から腕を差し込む。女の紫苑を抱くのは今夜で最後だと、そう決めた。だから彼女の全てが愛おしい。


「紫苑、愛してる」


 吐息が触れるくらい近くで、囁く。するりと衣擦れの音をさせて紫苑の着物の帯を解き、胸の膨らみに手を伸ばした。もう何度も繰り返した行為だと言うのに、知らない行為のように体が熱い。膨らみに触れると、紫苑の身体が震えてバッと歳三から離れた。


「や…っ」

「紫苑?」

「……ごめん」


 慣れた行為のはずなのに拒絶するような声を発した後、紫苑は照れたように歳三から顔を逸らした。歳三に擦り寄って厚い胸板に顔を埋め小さく、いつもの紫苑からは想像も出来ないように小さい声で呟いた。


「なんか、恥ずかしくて……緊張する」

「………俺も、初めて抱く気がする」


 二人で顔を見合わせて微笑み、どちらともなく唇を合わせた。
 これが最後だとわかっているから、せめて幸せな記憶を残したかった。この先何があってもこの時を忘れなければ生きていけるような、そんな気がした。
 二日後、試衛館道場の剣客含む二百三十人の浪士たちが江戸小石川の伝通院に集められた。

 これが最後だから、せめて優しい思い出になって。





-続-

やっと京に向かいます。
なげぇよ、試衛館時代。
周助老はきっと若い頃持てたと思います。
いっぷぅ変わったお父さんだったと思われます。