文久三年二月八日、小石川の伝通院に集められた浪士達は七つの組に分けられ江戸を出発した。中山道六十九次を通り、浪士達は思い思いの服装、武器を片手にしかし心だけは高く京を目指した。
 三番組の芹沢鴨組に分けられた歳三、総司、新八、左之助、平助、山南、そして紫苑はそれぞれの思惑を秘めながら明るく振る舞っていた。


「紫苑姉ぇ、京って何があるの?」

「何って……何があんの、山南さん」


 子供のような総司の問いに早々に知識人に紫苑は匙を投げ、投げられた山南は苦笑し腕を組んだ。その後ろでは歳三が不機嫌に唇を結んでいる。そんな恋人の姿を見やり、紫苑は気付かなかった振りをした。気合を入れなおすように手を後ろ手に組み、先の長い列を見やる。


「そうだね、京の菓子は芸術品だと言うね。紫苑ちゃんとかは好きなんじゃないかな」

「んー、そこそこ。ねぇ、何で源兄ぃだけ違う組なのかね」


 生返事を返し、長い髪を揺らして後ろを振り返る。今日は長い髪を高い位置で結っていて、歳三としてはお揃いなので内心嬉しかったりする。後ろを振り返って不満気に口を尖らせる紫苑に総司等は頷き、歳三と山南は苦笑してお互いを見やった。
 三番組の新見錦組に組み込まれた源三郎と試衛館の面子は紫苑たちのやや後ろを歩いている。勇は道中先番宿割という職を与えられているので彼らから見ることは出来ないところを歩いている。きょろきょろと興味深そうに眺めやる総司と紫苑に呆れながら、歳三は不機嫌に目の前をちらつく紫苑の長い髪を引いた。手に馴染んだ柔らかい漆黒の髪が心地よくて思わず眼を細める。


「痛っ…何すんの」

「キョロキョロしてんじゃねぇ。餓鬼かお前は」

「うっさいな。いいじゃん別に」


 ぶっきら棒にそう言って、紫苑は歳三の手から髪を離させる。本当は図星だったのが恥ずかしかっただけなのは誰にも言わないけれど、きっと歳三には分っているだろう。ほんの少し歩調を緩めて、紫苑は歳三の隣りに並んだ。少しだけ体を寄せて囁く。


「何、まだ怒ってんの?」

「違ぇよ」


 一言呟いて歳三は紫苑の腰を抱き寄せた。今までと同じはずの彼女の腰には一差しの大刀が収まっていて、抱き寄せた自分の腕にぶつかった。紫苑が変わったことも、此処が浪士組の道中だということも総て分っているのに、違和感が拭えない。
 黙りこくって目の前を凝視している歳三に紫苑はいぶかしむように彼の顔を覗き込んだ。


「ちょっと、どうしたの」

「ちったぁ自覚しろ」

「何を」


 苦虫を噛み潰したような顔で歳三が視線だけを紫苑に向けてきた。紫苑が行き成りなんでそんな事を言われたのか分らずきょとんと彼を見ると、歳三が口を開く前に後ろから荒い足音と小姑の怒鳴り声が聞こえた。思わず紫苑は首を竦めて振り返る。


「しーおーんー!」

「源兄ぃ!?」


 後ろからドスドスと音でもしそうなほどに歩いてくる源三郎に紫苑が自分は何をしたかと眼を見開いて微かに体を強張らせると、彼は紫苑の前で止まり彼女をつりあがった眼で見やった。呼吸を落ち着ける為に一つ息を吐いて、彼女の頭を叩く。パンと良い音がした。


「この莫迦娘!」

「痛いなぁ、何行き成り」


 頭を抑えながら源三郎を睨みやるが、紫苑の鋭い眼光も源三郎には効き目がなかったらしく全く怯んだ様子がない。近所の野郎相手なら十分通用するのに、と紫苑はさして効果があるとは思えなかったが内心舌打ちを漏らした。紫苑の内心などお構いなしに、源三郎が一気にまくし立てる。


「いつも言ってるがお前は女だろ何で着物の裾をたくし上げてるんだ髪も上げすぎなんだよ男がお前をどんな眼で見てるのか知ってるのかお前がどれだけ歳三だけしか見てないといっても男は女ってだけで襲いたくなるそういうもんなんだ露出を控えろ露出をいっその事男の格好でもしてれば女なんかに見えないだろう寧ろ総司の方が女に見えるから」

「……源兄ぃ、失礼」

「僕にも失礼ー」


 呆れてぽつりと紫苑が呟くと、総司が振り返って笑った。しかし満更でもないようで、直ぐに前を行く左之助等に「女に見える?」などと訊いている。まだつらつらと呪文のように文句を言い募っている源三郎の言葉を聞き流しながら隣りの歳三に視線を移すと、我関せずの体で知らん顔をしている。手を繋ぎたくなって手を伸ばし、もう自分は女ではないのだと思い出して触れる直前に離れた。兎に角、と息を切って源三郎が改めて紫苑を上から下まで見やった。


「兎に角、気をつけるんだぞ。お前は一応女なんだから」

「はーい」


 適当に返事を返すと、満足したのか源三郎は自分の組みの歩いているところに戻っていく。後ろ手に手を振りながらそれを送り、裾を引くとか手を引くとかは嫌だったので、紫苑は視線を逸らしたままの歳三の脛に蹴りを入れた。


「っ何しやがんだ、オメェは!」

「あんたこそ何」


 視線を空に移して紫苑が言った。空は真っ青に晴れていて雲ひとつない。冬の青空ほど気持ちいいものはないなぁと紫苑が眼を細めると、隣りで歳三もそれに倣う気配がした。手を繋ぐわけでもないし恋人同士でもない。そんな微妙な関係が、二人の間に開いた手が届くのに、繋げない距離。其れを理解してしまって、お互い手を出しこまねく。一つ唸って、歳三が口を開いた。


「……紫お」

「おい、女」


 しかし再び邪魔された。急に影が落ちて紫苑が顔をそちらに移すと、図体のでかい巨漢が偉そうにニヤつきながら紫苑を見下ろしていた。自然と紫苑の瞳に剣呑な光が宿る。其れを見て歳三は一瞬だけ微かに身を硬くし、次いで目の前を歩いていた仲間に恨みの視線を送った。なぜ彼が紫苑と接触する前に止めなかったのか、と。しかしその視線に気付いた彼らも首を横に振るばっかりで、歳三は不機嫌に眼を歪める。
 その間に男は太い指で顎を撫でながら、ほう、息を吐いて紫苑に問いかけた。


「名はなんと言う」

「貴様こそ何者だよ」

「気の強い娘だ。ワシは芹沢鴨、水戸藩士だ」

「橘紫苑。小石川の茨垣って言えば分かるか?」


 不遜に笑んで、紫苑が答える。聞きなれない名に芹沢は一瞬眉を寄せたが、直ぐににやりと厭らしい笑みを浮かべて太い指で顎を撫でた。


「その名は知らんが仲良くやろうじゃないか、紫苑」


 言うと直ぐに芹沢は紫苑に背を向けた。馴れ馴れしく名を呼ばれた事に憤り声を荒げようとした紫苑は、危うく歳三に口を塞がれ左之助に押さえつけられた。だから彼がほくそ笑んでいたことには誰一人として気が付かなかった。


「落ち着けって紫苑」

「離せ左之。あの野郎なんかムカつく!」

「紫苑さん、何でそんなに喧嘩っぱやいんですか!?」


 この先に起こることなど何もないように、いつもどおりと言う平穏な時間が、このときは永遠に続くと思えた。浪士組の道中は、平穏に過ぎていった。











 故郷を旅立って三日目、その危ういまでの平穏は簡単に砕けた。
 夜も更けて今夜も宿に入ろうかとしたとき、彼らは宿の前で立ち止まった。其処には自分たちの部屋が用意されておらず、三番組の面々は何も言えずに立ち尽くしていた。


「まぁ、俺らは今までも野宿みたいなもんだったからな」

「隙間風とか寒かったよなぁ」


 今までぼろ道場で生活していた試衛館組は苦笑を漏らした。手違いが起こってしまったものはしょうがない。さっさと割り切って今晩を如何過ごすか決めようと宿から離れた裏小路に固まっていると、今まで黙っていた芹沢は無言で踵を返した。その後に続いて彼の身内者も踵を返す。


「何処行くんだ?」

「ほっとけ。其れよりも私達の寝る所」

「僕らはともかく紫苑ちゃんは宿に入れないとね」


 ちらりと左之助が言うが、紫苑は全く興味が無いようで芹沢の様子など気にもせずに自分たちを如何しようといっている。確かにそうなので、周りも頷きあって今晩の宿の相談を再開した。黙って其れを聞いている歳三は、そっと紫苑の髪に手を伸ばした。今日は流石に寒いのか低い位置で結われている。さらりと手触りの良い髪が歳三の指の間を流れて、心地良さそうに歳三は眼を細めた。


「歳兄ぃはどう思う?」

「あ?」

「宿のこと。聞いてなかったでしょ」


 行き成り話題を振られて歳三が視線を上げると、にやにやと笑んだ総司と眼が合った。弟分から視線を逸らしてしばし思案するように天を仰ぐと、藍色の空に星が輝いている。吐き出した息は白い。


「紫苑の好きにさせればいいだろ、最悪宿がなかったとしてもこの人数ならまとまって寝れば凍死はしねぇだろう」

「じゃあ紫苑さんは源三郎さんと代わってもらえばいいんじゃないですか?」

「何でそうなんの」


 平助の提案に紫苑が呆れたように呟いた。しかし周りの男共は其れが当たり前だと言うように首を縦に振り、紫苑だけをみやる。無言の強迫に耐えられなくて紫苑は視線を隣りに逃がした。空を仰いだままの歳三の横顔には好きにすればいいと書いてあって、ほんの少し安心する。反撃しようと息を吸ったとき、誰かの叫び声が聞こえた。


「火事だー!!」


 火事?と全員が顔を上げて大通りの方に出て行った。人並みの向かうほうに視線を移すと、勢い良く燃える火で空が薄くなっていた。そちらに駆けていく見たことのある気がする浪人を捕まえて訊いてみると、何でも宿が取れていなかったことに立腹した芹沢が野宿と称して大篝火を焚き始めたらしい。莫迦じゃないかと思いながら興味本位でそちらに向かう。別に自分たちもやることがある訳ではないので丁度いい暇つぶした。


「紫苑」


 歩いていると、急に腕を引かれた。たたらを踏んでなんだよ、と不機嫌に腕を掴んだ本人を睨みやると、何かを押し殺したような表情をした歳三が紫苑の耳元に囁きを落とした。たった一度、吐息が近づく。


「お前は俺が護る」


 何を言っているのだと叫ぶ前に腕を放され、紫苑は出掛かった言葉を飲み込んだ。自分は護られる存在ではないのに、其れを分ってくれていたはずなのになぜ。ほんの少し瞳に迷いを乗せて、紫苑は自分の少し前を歩く男を見やった。しかし、彼は気付かない。
 焚き火の前では宿割を任されている勇が芹沢にひたすら頭を下げていた。しかし芹沢は聞く耳を持たずに酒を煽っている。


「申し訳ありません。急遽用意いたします故」

「もう良い。もっと薪をくべろ」


 もう十分大きな火は天を焦がすほどなのだが更に薪をくべている。このまま燃えると周りの家にまで火が燃え移ってしまいそうだ。風が吹けばきっと直ぐに燃え移るだろう。其れを言っても芹沢は知らん顔で薪をくべている。


「芹沢さん。やめてください、民家が燃えてしまいます!」

「主は私に凍死ろと申すか?」

「そうではありません。ですが……!」

「平間。そのぼろ屋から薪を持って来い」

「芹沢さん!!」


 平間と呼ばれた芹沢の部下が薄く笑って、空き家だろう民家を壊し始めた。バリバリと嫌な音がしている。流石に勇は耐えられなくなって、ゆっくりと地面に両膝をつけた。武士が人前で土下座をすることがどれだけその矜持を傷つけるか分っているのに、彼の暴挙が耐えられない。
 勇が地面に手を付けたとき、彼の姿を隠すように数人の人影が芹沢の前に立ちふさがった。


「いい加減にしろよ、お前」

「……なんじゃ、紫苑か。お前もどうだ?女が体を冷やすものではない」


 そう言って芹沢は紫苑の長い髪に手を伸ばした。歳三の其れとは違う指が紫苑の項を撫でて髪を掬い上げ、歳三のものではない唇が紫苑の髪に押し当てられた。身を引くことも忘れ、紫苑が一瞬硬直する。眼を見開いたままの紫苑を見て歳三が芹沢の手を払おうとした瞬間、紫苑が低い声で呟いた。


「……離せよ……」


 言うが早いか紫苑は不機嫌に眇められた瞳で芹沢を睨みやった。鋭利な光を宿った双眸が芹沢の体に突き刺さり、芹沢は彼女から漠然と恐怖を感じる。キラリと紫苑の腕が一閃した。次いでカチンと刀を鞘に納める音がして紫苑の髪がふわりと舞った。


「テメェに触らせる髪は持ち合わせてねぇんだよ!」


 音もなく紫苑の漆黒の髪が地面に落ち、風に流されて炎の中に舞い込んで燃えた。全員が呆然としている中、紫苑だけが顔に掛かる短い髪を掻き揚げて低く唸った。


「何様のつもりだ、糞野郎」


 吐き捨てて紫苑が踵を返す。ちょうど勇と同じく道中先番宿割の任にある男が駆けて来て、宿が取れたのだと告げた。其れを聞いて山南が安堵したように深く息を吐いて、宿の方に案内してもらう。呆然としていた勇が漸く立ち上がり、彼らの後姿に問いかけると歳三が振り返ってうっすら笑った。


「何で、助けてくれたんだ?」

「あんたが俺たちの大将だからだよ、かっつぁん」


 こんな事くらいでも、大将が矜持を失うなんて耐えられなかった。それだけだと笑って、歳三は無言で先頭を歩く紫苑を追いかけた。










『お前は一応女なんだから』

 昼間言われた源三郎の台詞が頭を回って、紫苑は布団の中で何度目かの寝返りを打った。こうなることは分っていてそれでも付いてきたのだと分っているのに、弱くなる。女なのだと差別されていることが耐えられない。そんな積もりないのに、きっとこれから女だというだけで何も与えてもらえない。


『お前は、私の自慢の娘だ』


 しっかり立つことの出来る『橘紫苑』だと言ってくれた義父の声が脳裏によみがえる。ほんの些細な言葉で、人はきっと強くなれるのだろう。ふと、紫苑の視界に最後に見た紫苑の華が浮かんだ。庭で枯れていた紫苑は、きっと来年見事な花を咲かせるだろう。自分も、そうなれるように。


『お前は俺が護る』


 其れでも自分が護ると言った歳三の言葉。自分は護られる存在でないと分ってくれていると思っていたのに、そんなに女は護られるものでなければならないのか。ほんの少し胸が苦しくなって、紫苑は隣の布団に手を伸ばした。山南がまたいらない気を使って紫苑の左隣には総司が、右隣には歳三が寝ている。自分のよりも大きい手を捜すと、直ぐに手を捕まれた。髪の掛かった顔が覗いて、優しい瞳が紫苑を捉える。


「眠れないのか?」

「……私は護られない」


 呟くと、歳三は小さく息を吐き出してそっと紫苑の頭に手を伸ばした。肩口までしかない髪を指で梳きながらほんの少し眼を細める。


「紫苑は護れない。でもな、女のお前は俺が護る」


 総て置いてきたと思っていても、周りはそうは見ないだろう。そうするともう紫苑に身を護るすべはない。彼女は女なのだから。その部分だけは自分が護ると言った歳三に紫苑は数拍置いて微かに笑みを浮かべた。彼は分かっていなかったのではなく、分かっていて尚護ろうとしてくれた。其れが嬉しくて。


「手、繋いで寝ようか」

「護ってやれなくてごめんな」


 最後に一つ紫苑の髪に唇を落として、歳三は紫苑の手を握った。冷たい彼女の手を何時までも握っていたかった。この小さな手を護れるのは自分だけしかいないのだから。

 いつまでもこの手が離れないように。




-続-

紫苑姉ぇの髪がボブになりました。