芹沢鴨が道中に不始末を起こして十二日経った。道中はあれ以降何事も無く平穏に進み、やがて浪士組は京の町へ足を踏み入れた。彼の横暴を示す唯一の事実は紫苑の髪が肩にも届かないほど短くなっている事だけで、誰もが其の事実を忘れかけていた。少なくとも、表面上は。


「……ちょっと」


 京について初めて休めたのは、日も落ちた頃だった。京について直ぐ浪士組を組織した清河八郎が皆を集め、演説を行った。「幕府の為ではなく天皇守護の為に働くべき」として江戸に引き返すという。各々の結論は又後日という形で浪士達は解散し、試衛館一派は京に残ることを決めた。
 皆が外で論を繰り広げている間に試衛館組は割り当てられた民家に戻り、各々町に出たり寝たりでこの場に姿は無い。月明かりだけがある縁側で、紫苑は不機嫌な声を上げた。其の声を聞き流し、歳三は無言で紫苑の短くなった髪に指を通す。手触りの良い絹のような髪は直ぐに歳三の指を滑り、かつて長かった頃の面影は無い。


「いい加減にしろ、何時までも未練たらしいんだよ!」

「お前が気にしなさすぎなんだ」


 眼を細めて言い放ち、自分の前で詰まらなそうに空を見上げている紫苑の髪に唇を落とした。さらりとした感触に心地よくて歳三は眼を細める。視線を背後の歳三から庭に移して、紫苑は溜息を吐いた。


「咲いてないね」

「何がだ?」

「紫苑」


 言って紫苑は淋しそうに眼を細めた。冴え冴えと明るすぎる月が照らす中庭には、紫苑の花なんて咲いていない。二月に咲いているわけが無いだろうと歳三が喉で笑うと、紫苑はそうだけど、と口の中で小さく呟いて隣に置いてある猪口に手を伸ばした。並々注いである酒に月が映り、揺れた。


「……勿体ねぇな」

「何が」

「綺麗な髪だったのに」


 微かに淋しそうに歳三が呟き、もう一度紫苑の髪に口付ける。くすぐったそうに紫苑が身を竦めると、猪口の中の月が揺れた。
 此処最近こんなに幸せな日々を、過ごした事はなかった。道中は芹沢が紫苑にちょっかいを出すので歳三と二人で過ごす事なんて出来ないし、それ以前にいつだって周りに人がいたから紫苑が彼と共にあるのを拒んだ。しかし今は、誰もいない。まるで試衛館に戻ったようだと錯覚してしまう。紫苑がいて歳三がいて縁側で月を眺めて花がないと紫苑が笑い。まるで、あの時のようで。


「ちょ、やめ……っ」

「いいだろ、誰もいねぇんだ」


 耐え切れなくて、歳三が紫苑の髪から首筋、外気に晒された項に口付けると、紫苑がハッとして抵抗を始めた。いくら小石川の茨垣といえど女の腕力が惚れた男に敵う訳も無く、簡単にに押し倒される。女を棄てて彼についてきたのに、此れではまるで私娼のようだ。そう思ったら悔しくて、でも目の前の男に泣き顔を見せたくなくて、紫苑は唇をきつく噛んだ。自分はただ、対等にありたいと思っただけなのに。


「……紫苑?」

「……莫迦野郎……」


 紫苑の泣きそうな顔に気づいて歳三が微かに眉を寄せて名を呼ぶと、紫苑は歳三から顔を逸らして小さく呟いた。消え入りそうな声は震えて歳三の耳に伝わり、彼は言葉を失って紫苑を見下ろした。
 震えるでもなく女特有の羞恥でなく、ただ自分はもう女ではないと誓った彼女は、初めて泣きそうな顔をした。紫苑の顔を照らす月の光がやけに目に付いて視線を上げると、月が自分の浅はかな行為を嘲笑うかのようにただ、其処にあった。


「……すまねぇ」

「私はもう、女じゃねぇんだ」


 女である事を棄て、ただ共にあることを願った。だから彼に抱かれるという甘美な誘いに乗る事なんて出来ない。あの夜の決意をもう一度口に出して言うと、意外にも震える事も掠れる事も無い声が耳に届いた。あの夜が最後だから、あの夜に総てを置いてきた。
 体を起こして着物を直し、紫苑は中身を庭に撒いて空になった猪口に指を伸ばした。入っていた月もすべて庭の土に沁みこんだのだろうか。空に浮かんでいる月を見上げて眼を細めて、紫苑は手ずから猪口に酒を注いだ。其れを月と一緒に飲み干して、あの夜の記憶と一緒に何処までも沁みこませる。


「……花を……」

「花?」


 歳三の肩に寄りかかって、紫苑はぽつりと呟いた。抱かれる事は出来なくても、隣りにいることは出来る。触れ合う事は叶う。紫苑の呟きに声だけで歳三が問うと、紫苑は綺麗に笑みを浮かべて頷いた。視線は空ではなく、何も無い庭に向けられている。投げ出された素足が月明かりに照らされて更に白く見える。


「紫苑の花を埋めよう。何度倒れても起き上がれるように」


 あの夜も、それからの事も、総てを忘れないように。これからどんなに辛い事がおきても、貴方の隣りにいれば何も怖くないから。
 懐かしむように言った紫苑に眼を細め、歳三は其の小さな肩を抱き寄せた。自分が護るべき女は、きっと自分よりも強い。でもそれ故に折れてしまいそうだから、そんな恐怖を感じないように添え木になりたいと思った。









 京都残留を決めたのは試衛館一派だけではなかった。同宿の芹沢一派も其れに同意した為、彼らはそろって浪士組を脱退する事になった。
 彼らの脱退にも清河はたいして動揺せず、大した影響力など無いとして何も言わずに江戸へを帰還した。京へ残っても生活がどうなるわけでもない。しかし浪士組の責任者であった鵜殿鳩翁が京都守護職を務めている会津藩主、松平容保候に話をつけ、将軍の警護を願い出た。
 そして文久三年三月十二日、壬生浪士組は正式に「会津藩お預かり」に決定した。屯所はそのまま壬生に置き、それから数日後に私用で京に戻ってきた清河はあまりの出来事に呆然とするしかなかった。
 清河が京に上洛すると知った幕府が黙っている訳も無く、結成から数日で壬生浪士組に大仕事が任せられた。清河八郎の暗殺である。


「この件は土方と沖田に任せよう」


 既に浪士組内で長の頭角を表していた勇が全員を集めて言うと、既に知っていた事なのか歳三と総司は無言で頷いた。無表情の歳三を見つめ、紫苑の顔が微かに歪む。其の顔に気づいて、歳三は紫苑にだけ分かる程度に笑って見せた。しかし紫苑の表情は固い。
 そんな中、芹沢が不機嫌に唸った。


「待て。其れはいかなる人選か」

「暗殺は少人数が定石。やはり場慣れしている者を、と」


 芹沢に勇が答えると、彼は不機嫌に勇をみやってふん、と鼻を鳴らした。この人選が気に入らないのか、其の態度は人を小莫迦にしている。考えるように太い指で顎を撫で、愛用の扇子をパチンと閉じて芹沢は口の端にいやらしい笑みを浮かべた。


「此度の暗殺、我々に任せてもらう」

「そうは参らぬ」

「我等が信用出来ぬか」


 はっきりと答えた勇に芹沢が欲に塗れた視線を向ける。其の眼は明らかに手柄の独り占めを話していて、紫苑は嫌悪感に隠す事もなく瞳を歪めた。幸い其れに気づいたものは居らず、代わりに勇はたじろいで歳三に視線を向けた。困り果てて助けを求めるような親友の視線に歳三は内心苦笑を浮かべる。同じ家に育って、こうも性格が違うとは面白い。


「貴方方だけに危険を背負わせる訳にはいかねぇ。だが俺たちばかりが危険を背負うのも通りじゃねぇ」

「如何しようというのだ」

「俺たちから二人、そちらから二人出し合ってやっちまおうじゃねぇか」


 手柄を独り占めにさせる事はさせないが、気を損ねることもないように。歳三には今目の前の男が何を考えているか手に取るように分かった。人間こうも素直ならありがたいもんだ、とこみ上げてくる笑みを噛み殺して歳三は言う。すると芹沢は考えるように二、三度扇子を開いて閉じて、最後にパチンと打ち鳴らした。


「良かろう。こちらからはワシと錦が行こう」

「他に何かある奴はいるか」


 芹沢が納得したので、勇が一応声をかけた。総司辺りが質問があるのではないかと思ったのだが、無言で手を上げたのは其の隣で大人しく座っていた紫苑だった。其の眼は完全に据わっている。余りの迫力に一瞬勇は言葉を失った。静かな声で、紫苑が口を開く。


「私にお任せ願いたい」


 思いもよらない言葉に、その場にいた全員が言葉を失った。彼女の一言を予想していたのは歳三と総司くらいなもので、総司は紫苑の隣りで苦笑を漏らしているし、歳三は無言で紫苑を見やり眉間に皺を寄せている。そんな周りの動揺を無視して紫苑は言葉に続いた。


「暗殺などは身軽な方が好都合ではないか」

「お前ぇは駄目だ」


 明らかにおかしい持論だが、紫苑が言うと何故か説得力がある。それほどに紫苑の言葉には力があった。誰もが納得しかける中、冷たい歳三の声が耳を叩く。何の感情も無く言い捨てる、初めて聞く歳三の冷たい声音に芹沢一派はもちろん試衛館組も背筋を冷やしたが、紫苑だけが怯むことなく歳三を見やっている。


「其れは、私が女だから?」

「……あぁ」

「そんなの関係ない!」

「刀を使う女はお前くらいだ。ばれた瞬間にお前の首が飛ぶ」


 感情を表す事のない、揺らがない声音に紫苑は小さく息を呑んで悔しくて唇を噛み締めた。自分はまだ信じてもらえていない。女だからと言われ、言い返すことすらままならない。そんな自分が情けなくて悔しくて、些細な事なのに折れてしまいそうになる。
 震える掌を握り締めたとき、歳三が口を開いた。


「今度の件は誰でもばれれば首が飛ぶ。良くある背格好の俺と総司が行くのが筋だろう」


 もしも姿を見られたとしても、誰の仕業かわ分からないだろうという歳三に、紫苑は固く手を握り締めた。白んだ其の手を、隣りで総司がそっと包み込んだ。
 自分は護られ、待っているしかない女にはなりたくなかったのに。其れが女だというのならなぜ自分は女になんて生まれたのだろう。その事が悔しくて、初めて自分を疑った。









 話もまとまり、決行は今宵の深夜となった。清河は小料理屋で飲んでいるという情報が上から入り、ほろ酔い状態の帰路を狙う事となったのだ。
 出立の準備をする訳でもなく、まだ時間もあった歳三は紫苑の姿を探して視線を彷徨わせた。


「紫苑?」


 声に出して呼んで見ても返事は無く、室内にはいないようだった。無意識に視線が外に向かう。紫苑は何時だって何かあるとどんなに寒くても外で花を、月を眺めていた。半信半疑で縁側を覗くと、やはり紫苑は縁側に腰掛けていた。左足を投げ出して、右足を抱えるように顔を伏せている。小さく息を吐き出すと、歳三は紫苑に後ろから近づいて優しく抱き竦めた。


「紫苑」

「………離して」


 耳元で囁くと、小さな呟きが返ってくる。答えずに、歳三は紫苑を抱きしめたままそっと頬に指を這わせた。柔らかいこの肌をもう何日もあわせていないだろう。抱きしめられたまま身じろぎしない紫苑の肩に顔を埋めて、歳三は囁く。


「お前を籠に仕舞う気はない」

「……知ってる。これは私の我侭だからほっといて」

「ほっとけない。言えよ、我侭」


 きっと其の言葉を聞き入れる事はないだろうけど、不安だけはどれほどでも聞くから。普段人に弱みも何も曝け出した事のない紫苑だから、せめて自分だけはいつでも彼女が安らげる場所でありたい。そう思うほどに彼女を愛している。
 あやすように紫苑の肩に頬を摺り寄せると、ややおいて紫苑が呟いた。


「……行って欲しくない。隣りにいたかった」

「……あぁ……」

「もしかしたら怪我するかもしれない、死ぬかもしれない。あんたがいなくなる事を考えたら怖くて堪らない」

「………あぁ」

「行かないで」

「俺はちゃんと帰ってくる。お前が月でも眺めてる間にちゃんと」


 独りになんてしない。いつだったか誓った言葉をもう一度口にすると、紫苑がゆっくりと顔を上げて振り向いた。ほんの少し涙の滲んだ瞼に口付けを落とすと、紫苑は艶やかに笑って見せた。剣蛸の出来た細い指で歳三の唇に触れ、囁く。


「破んなよ、約束」

「あぁ」

「いってらっしゃい」


 まだ不安の残る笑顔で笑うから、歳三は柔らかく笑ってそっと紫苑の唇に自分のを重ねた。重ねられた唇に何の抵抗も見せず、紫苑はゆっくりと其の感触を味わうように眼を閉じる。
 何時までも消える事のない不安も恐怖も、総てこの胸にしまって押し殺すのが女の役目なら、自分はきっと隣を歩くと誓った。次はきっと其の隣りで背を預けるから、今日だけはどうか無事に帰ってきてと願う。

 貴方がいないと、世界が何処にあるのかも分からないくらい愛しているから。




-続-

甘えたな紫苑姉さん。
歴史の捏造が開始されました。