月も傾きかけた深夜は肌を刺すように冷たかった。隣に出してあった熱燗はとうに冷たい。彼らが出て行ってどれだけだったろうか。清河八郎の暗殺を諮り、そのために歳三と総司、そして芹沢と新見が赴いた。暗殺といっても腕の立つ相手を狙うのだから無事に済むと思えず絶えず不安が影のように付きまとう。
 しかし歳三は必ず帰ってくると約束したから、紫苑は黙って待っていた。


「……紫苑」


 寝静まっているわけでもなく、皆が彼らの帰りを待っていた。他の者は皆別室で勇と共に待っているのだろう。
 背後から掛けられた静かな声に振り返らず、紫苑は空を見上げて眼を細めた。ひたりと足音が紫苑に近づき、ふわりと紫苑の隣に腰をおろす。一つ息を吐いてから、歳三は声を漏らさずに笑った。


「ただいま」

「お帰り。遅かったじゃん」


 声を掛けられてやっと紫苑も視線を動かす。わざとらしくても無理矢理笑みを作って明るい声で言うと、歳三は微かに眉を寄せた。其の顔に一瞬紫苑の笑みが崩れ、しかし開き直って笑う。歳三は小さく息を吐いてそっと紫苑の前髪を掻き揚げた。歳三の着物の袖口に赤黒い染みができていた。


「帰ってきただろ、俺は」

「熱燗。もう冷たい」


 歳三の手を取り払って、紫苑は徳利を彼の目の前に翳した。たぷんと中から小さな音が聞こえ、紫苑があれから呑んでいないでいることが分かり歳三は不安そうに瞳を歪める。時間としてはそう長くないかもしれないが、其の間ずっと紫苑は独りで待っていた酒に手を伸ばすことなく、ただ月を眺めて。


「すまねぇ、待たせた」

「帰ってきて良かった……」


 紫苑の首に腕を回して、其の顔を引き寄せた。額を合わせて囁くと、くすりと紫苑が綺麗に笑う。たった一言だけ呟いて、紫苑は歳三から離れた。本当はあのまま口付けたかった。体を合わせてお互いが隣りにいることを感じたかった。しかし自分たちはもう恋人同士では無いのだから。
 手を重ねる事のできる距離に座って、何気なく手を重ね合わせた。ほんの少し感じる事のできる体温は、月の光よりも冷たかった。











 清河の暗殺後、壬生浪士組は混乱した。二十四人いた浪士達は事実の人斬りに恐怖を覚え脱走し、残ったものは試衛館一派と芹沢一派の十五人になってしまった。
 漸く平定を迎える頃には衣替えの季節になっていて、そんな中で漸く浪士組は組織として動き出した。平和なほどに鳥がさえずる中、試衛館組の頭である勇と歳三、芹沢派の芹沢と新見が顔を突き合わせて密談を始めた。


「組には局長と副長を置き、その下に組長をつける方が良いのではないだろうか」


 あらかじめ歳三と話を合わせていた勇が口を開くと、芹沢は思案するように太い指で顎を撫でた。芹沢の隣りでは新見が口を結んで黙って歳三を見やっている。勇の隣りに座って煙管を吹かしていた歳三は其の視線ににやりと口の端を歪めた。其のとき、源三郎がお茶を運んできた。無言で彼らの前にお茶を置き、黙って部屋を出て行く。
 思案を終えた芹沢がにんまりと笑って言った。


「其の局長は当然ワシだろう?」

「二人だ」


 当たり前だというように笑った芹沢に歳三は厭らしい笑みを浮かべて言い切った。紫煙を吐き出して隣りの勇に視線を移す。依然新見は歳三を睨んでいるのだが、歳三にとってそんなものは痛くもかゆくもない。その代わり其れを見ていた勇のほうが戸惑っている。


「近藤さんも局長にしてもらう」

「……どういうつもりだ」

「なぁに、局長一人じゃ大変だろう」

「それなら新見にも任せてもらおう」

「それなら副長は俺と山南にやらせてもらう」


 こうなるともう芹沢と歳三の騙しあいになってしまい、勇は会話の中に入ろうと思うのを断念した。ばれないように溜息をついて源三郎の淹れたお茶を啜る。相変わらず絶品だ。
 話し合いの結果、局長は勇と芹沢、新見。副長に歳三と山南、その下に副長助勤としてとして総司、新八、左之助、平助、今日で合流した斉藤一、源三郎、芹沢派の平山、野口、京都で合流した芹沢派の佐伯となった。全隊員の配置が決まってから、歳三は微かに眉を寄せた。落ち着けるように紫煙を深く吸い込む。其の表情に気が付いたのか気付いていないのか、芹沢は気に入りの扇子を取り出した。


「紫苑の事だが」


 紫苑の名にピクリと冷静だった歳三の眉が上がった。其の表情には一瞬だけ紫苑の名を気安く呼ぶんじゃねぇという怒気が現れ、勇の背筋が冷える。歳三は紫苑のこととなると見境がないというか、らしくない。しかし歳三は意外に冷静で、ギンと芹沢を睨みつけた。其の苦みばしった顔に芹沢の顔が愉悦に歪む。


「あれはお前の女か?」

「………いや」


 好奇心を込めた声に歳三は一瞬躊躇って、首を横に振った。自分たちはそういう関係ではない。それを確かめ合ったのは記憶に新しい。すると、芹沢は楽しそうに笑みを浮かべて扇子をパタパタと動かした。


「それならワシの小姓にでもなってもらおうか」

「芹沢さん。あの娘は隊士です」


 紫苑の事となると見境がない歳三の代わりに彼が口を開く前に勇が口を挟んだ。自分たちは紫苑の願いが分かるから、それだけはたがえたくなかった。女としてではなく侍として此処までやってきた紫苑だから、彼女をこのまま誰かの私娼になんてしてやれない。
 すると、芹沢は意外そうに眉を上げて隣りの新見を見やった。其の顔が揶揄に歪んでいる。


「ほう、女がか?」

「女であっても心は武士です」


 彼に言っても理解はできないだろうが、と歳三は内心で付け足した。如何あっても芹沢の眼は紫苑を物にしようと思っているのが分かり、歳三は面白くなさそうに煙管を噛んだ。そもそもあの女は一体何をやらかしてこの男に魅入られてしまったのかと口の中で文句を言って、歳三は隣室で待機していた源三郎の名を呼んだ。


「源さん、紫苑を呼んできてくれ」

「……歳?」


 まさか人前で彼女が自分のものだと見せ付ける気かと思って、勇は戒めを込めた声音で歳三を呼んだ。しかしそれは杞憂で済んだようで、歳三はにやりと厭らしい笑みを浮かべて笑った。


「紫苑の事だ。本人に決めさせりゃいいだろ」


 安全な所で自分が死ぬのを待っているか、共に死線に赴くか。其の答えは分かりきっているけれど、何も知らない奴等に紫苑がどういう女なのか分からせるには丁度いい。
 紫苑を知ったときの奴等の顔が滑稽に浮かんできて、歳三は喉で笑った。その子供染みた独占欲に源三郎は小さく溜息をつくと紫苑を探しに行った。









 縁側で総司とじゃれ合っていた紫苑は源三郎に呼ばれて、歳三たちが話し合っている部屋の前に立った。見つかったときにまた源三郎に一通り文句を言われたのでやや不機嫌に顔が歪んでいる。全くあの小姑は、こんな所で剣士なんてやっている人間じゃないと思う。


「紫苑でーす」


 そう言って、紫苑は足で襖を開けた。源三郎が見たらまた怒鳴って小一時間説教を食らわせそうだが、見られていないので気にしない。紫苑の所業に勇は微かに眉を寄せたが紫苑は気にせずに歳三の隣に腰を下ろした。其の行動はとても自然で、ふわりと鼻腔を突いた紫苑の香りに心地良さそうに眼を細めた。
 芹沢が機嫌よく持っていた扇子をパチンと打ち鳴らし、脂を下げた。


「おぉ紫苑。良く来た」

「何の用ですか」


 不機嫌な紫苑の声が部屋に響き、勇は口の端を引きつらせる。歳三も困ったように眉を寄せるが、芹沢はやや驚いたように紫苑を見やった。遊女を呼ぶように猫撫で声で紫苑を呼ぶ芹沢の声に、紫苑はあからさまに顔をしかめた。紫苑が切れる前に、勇が口を開く。


「紫苑、お前の配置について話がある」

「………私?」


 数拍置いて、紫苑はきょとんと勇を見て問いかけた。其の言葉の意味を自分の中で反芻して、次第に顔を険しくする。此処まで来てまだ女だ何だといわれているのかと思うと悔しくて、紫苑は唇を噛み締めて手を握り締めた。白く握り締められたては歳三が触れるのすら拒むように膝の上に置かれている。
 彼女はもう一人で立つと決めたのだ。
 だから歳三は小さく紫煙と共に息を吐くと、感情を消して口を開いた。


「芹沢さんはお前を小姓にしたいそうだ。お前ぇの口から聞かせてやれ」


 自分の決意の程を。
 其の言葉に紫苑は微かに目を見開いて歳三を見やり、彼が頷くと今度は勇を見やった。彼は苦笑に似た笑みを浮かべて小さく頷く。其れを見て一つ息を吐き、紫苑は芹沢を見やった。相変わらず彼の視線はいけ好かない。言葉を選びながら、口を開く。


「私は、誰も為でもなく此処に来た。男に抱かれる気も護ってもらう気も全くない」

「お前は女だろう?女は男に抱かれるのが幸せだろ」


 決め付けられた常識に、紫苑は一度目を見開いた。ヤバイと勇が思うまもなく、其の瞳に鋭い光が灯る。野生の獣にも似たその視線は氷のように冷たく、芹沢が一瞬息を飲む。美しくすらある其の瞳に言葉を失っていると、紫苑は低い声で呟いた。


「……女の倖せ?」

「紫苑」


 咎めるように歳三が呼ぶが、そんなもので紫苑が黙るわけが無いのは分かっているのでそれ以上は何も言わない。固く握った拳を畳みに叩きつけて、紫苑は凛とした声で叩きつけるように言葉を吐き出した。迷いの無い鋭い声音に、新見がほんの少し後ずさった。


「そんなもんいらねぇよ!女じゃねぇ、橘紫苑だ!!」


 女というだけで蔑まれるこの世の中で、気位だけは誰よりも高く自分が橘紫苑だということに誇りを持って。はっきりと言い切って、紫苑は立ち上がった。もうこれ以上は言う事がないと無言で踵を返し、部屋を出て行く。歳三が立ち上がろうと微かに腰を浮かしたが、振り返った紫苑の視線に射られて動けずに腰を下ろした。


「……分かっただろ」


 紫苑の気持ちと、橘紫苑という女のことが。そういうと芹沢は呆然としたまま頷き、歳三は紫苑を二番隊に入れた。









 それから数日立って、芹沢が大量の衣服を持って帰ってきた。其の数日前に芹沢が大阪の富豪の家へ金を強奪したようにもぎ取ったという話は入ってきていたのだが、此れに使われたのだろう。
 上機嫌で帰ってきた芹沢は隊員たちを集めて自慢の作を皆に配った。


「我々も立派な武士だ。其れ相応の格好をせねばな」


 手渡されたものを見てみると、浅葱色に山形模様が染め抜かれた羽織であった。今まで着るものが碌なかったのも相俟って皆袖を通した。珍しそうに袖を通した紫苑に芹沢が寄ってきてそっと紫苑の腰を抱き寄せる。


「女のお前には細身のを用意した」

「……お気遣い感謝します」


 相手は一応局長だと紫苑は寛大を心がけて小さく頭を下げた。寛大にと思っているが、すでに口の端が引きつっている。紫苑が切れそうなのを見て取って歳三が紫苑の方に腕を伸ばしたが、紫苑の腕を掴む前に総司がにっこりと笑って歳三の腕を掴んだ。邪魔するなと言いたげな歳三の視線を無視して、総司は紫苑に後ろから抱きついた。


「紫苑姉ぇ!似合う?」


 さり気なさを装って芹沢から紫苑を引き剥がして、総司は笑った。新八等の所まで引っ張っていくと、紫苑を離して似合う?とまた笑う。紫苑はほっと安堵しつつ総司の額を小突いた。ちらりと歳三を伺うと、むすっと不機嫌に口を引き結んでいて、其れを必死で勇が宥めている。


「そうして並んでっとまんま兄妹みてぇだなぁ、紫苑?」

「誰が誰の兄貴だって?」


 ニマニマ笑って総司と紫苑を見比べている左之助に紫苑が不良丸出しで見やった。其れを見て新八が問答無用で左之助を殴り飛ばすが彼はこたえていないし紫苑は気に留めていない。そんな二人の間に平助も割って入った。


「紫苑さん!似合ってますよ!」

「おぅ平助、男前じゃん」


 わいわいと騒いで元気になった紫苑を見やり、歳三は安堵したように柔らかく眼を細めた。芹沢はえらく紫苑を気に入ってしまったようだし、この頃の暴挙も気に掛かる。
 本当は自分が紫苑を護ってやりたかったけれど、其れは叶わない。

 独りで立つ事を望んだあいつだから、俺は手を伸ばす事ができない。




-続-

紫苑姉ぇって短気だよね。
そして源兄ぃは完璧に小姑化。