隊編成後、副長の職に就いた歳三はあるものを書き上げた。烏合の衆である自分たちがまとまっていけるように、武士が武士らしくある為に作られた其れは、以後新撰組の命運さえ左右した。
 歳三に与えられた副長の私室で、書き上げられた其れを見て紫苑は眼を細めた。彼女の変化に歳三は緊張しているのか視線を外に送る。小さく溜め息を吐いて、紫苑は紙を歳三に返した。不安そうな瞳と眼が合って、苦笑する。


「いいんじゃん?」

「……そうか」

「別にあんたが作った訳じゃないじゃん、山南さんもでしょ。勝っちゃんは考えらんないし」


 暗い顔をしている歳三に笑いかけて、紫苑は勇の幼名を呼び、その名に歳三が眉を寄せた。歳三がもう昔のままじゃないと言おうとして口を開く前に、紫苑が分かっているのだと数度適当に頷いた。


「勝ちゃんじゃなくて近藤さん、でしょ。分かってる。でもいいじゃん二人しかいないんだから」


 笑って、紫苑は立ち上がった。
 隊士は全員揃って雑魚寝を繰り広げているが、組長までは私室を与えられている。もちろん紫苑も女だと言う事を考慮して部屋は与えられているが、試衛館組の組長の部屋の間に位置しているため誰も気軽に入っていけない。もちろん、試衛館組の人間はよく出入りしているが他の者たちは出入りしていない。芹沢一派は向かい側の前川邸を屯所として使っているが、開いた部屋で寝ていることもあった。
 部屋に帰ろうとした紫苑の腕を思わず掴んでしまい、歳三は不思議そうに向けられた視線に唇を歪めた。


「何、まだなんかあるの?」

「いや……別に」

「じゃあ帰る」


 曖昧に答えた歳三に眼を眇め、紫苑は鋭く言い放つと歳三の手を振り払うようにして腕を引き寄せて襖を開けた。本当に無いんだな、と確認の為に振り返ると、何か言いたそうに歳三が紫苑を見つめていた。廊下は寒い風が吹いているので襖を閉めて、紫苑は歳三に向き直った。溜息と一緒に言葉を吐き出す。


「何だよ」

「……行くな」


 別に行かなくたって問題は無いと言う歳三に紫苑は深く溜息を吐いて呆れたように歳三を見やった。
 言いたいことはよく分かる。自分だって一緒に居たいし、ここに居ても問題は無いと思う。でもそれでは誓った誇りを失う事になる。自分の足で立つという誓いも、女の倖せを棄ててでも隣にいることを望んだ事も、総べて水疱に消えていく。
 だから紫苑はふっと柔らかい微笑を浮かべて踵を返し、歳三に言い放った。


「揺らぐな、莫迦」


 笑みを含んだ声は余韻も残さずに彼女の姿と共に掻き消えた。自分の甘さに苦々しく顔を歪め、歳三は舌を打ち鳴らす。彼女はあんなにも強い決意を浮かべているのに、自分はこんなにも揺らぎやすいのか。気合を入れるように歳三は大きく息を吐き出し、手元の紙に視線を落とした。無意識に手が煙管を探す。紫苑が自分のとなりから離れて、代わりの様に手放せなくなった煙管に自分はなにを思っているのだろうとふと思った。










 日も高く上がった時刻、漸く紫苑は目を覚ました。眼を覚ましたというよりは叩き起こされたといって良いかもしれない。昨夜は歳三の顔が眼に焼きついて離れず寝るに寝れずに何度もあのままあの部屋に留まればよかったと思った。それでも其れでは何の意味は無いと思い直して、眠りに落ちたのは早起きな源三郎が起き出した頃だったのではないだろうか。ちなみに、源三郎は暗いうちから起き出して朝食の準備をしている。
 其れなのに、昼になる前に総司にたたき起こされたのだ。何でも大変なものが出来ているらしいのだが、朝見ようが夜見ようが変わらないものには違いない。不機嫌に起きだして総司に促されるままに紫苑が門の方に行くと、確かに人だかりが出来ていた。人ごみに紫苑の口から無意識に溜息が漏れる。はっきり言って、面倒くさい。


「後にしろ、混んでるだろ」

「だって大変なんだってば!」


 心底如何でも良さそうな顔で言うが、総司は全く聞く耳を持たずに紫苑の手を握って人ごみの中に入っていった。
 人ごみは我先に見ようとしていた人たちが押し合いをしていたが、紫苑が来たと気付いた瞬間紫苑に道を譲るように人間の団子が二つに割れた。呆れて紫苑が左右を交互に見やると、照れているのだか恐れているのだか分からない視線と目が合う。
 別に関係ないかと思って、避けてくれた人ごみをありがたく思って紫苑は先に進んで立っていた立て札を見やる。其れは昨夜見たものと同じで、紫苑は詰まらなそうに部屋に戻って寝なおそうと思った。踵を返した所で見知った顔がぞろぞろとやってきて、紫苑に気づくと平助がにっこりと笑って紫苑に駆け寄ってきて頭を下げた。


「紫苑さん、おはようございます」

「相変わらず礼儀正しいな」

「そんな事ないですよ」

「其れに比べて新八は全然駄目だな」

「何がだ!?」


 松前藩の良家の嫡男に生まれた新八は、優雅でこそ無いものの礼儀の通った人間だ。其れなのに紫苑は嘆息を漏らし、新八は冗談交じりに声を上げた。二人で数瞬見詰め合って、同時に笑い出す。周りが訳が分からないと目を白黒して顔を見合わせているのも無視して、二人はお互いを指差しながら大笑いした。


「あっははは、莫迦じゃん!」

「其れはお前も一緒だろ、バーカ!」


 訳が分からないことを言いながらお互いを罵りあっている奴らに左之助は豪快に笑い、平助はどうして良いか分からずに総司と視線を交わした。総司も訳が分からずに曖昧に微笑むだけで、平助は不満そうに眼を細めた。


「紫苑さん、どうしたんですか?」

「ほっとけほっとけ、こいつらは変な所で息が合ってんだ」


 平助が彼らに割って入ろうとしたとき、左之助が平助の肩を叩いた。昔から新八と紫苑は妙な所で気が合うのだ。サバサバした性格が近いからなのか、一見訳の分からない行動を一緒にとったりしているのだ。だから無駄だと笑った左之助にしぶしぶ頷きながらも平助は物言いたげにまだ笑いながら訳の分からない事を言い合っている紫苑と新八を見やった。
 分かっている筈なのに総司は無理矢理に二人の間に割って入った。


「紫苑姉ぇ!何笑ってるのさ」

「何でもないよー?ほんとバッカみたい」

「莫迦はお前だろ、莫迦女!短い髪も似合ってるぜ」

「うっせ、色男!」


 本格的に訳が分からなくなってきている。貶しているのだか褒めているのだか分からずに、会話に入っていくことも出来ずに総司は頬を膨らましてすごすご引き下がった。最早何をしにきたのか分からなくなった。
 その時、不意に背後に人の気配が生まれた。紫苑と新八が黙って腰の刀に手をかける。総司が眼を細めて鯉口を切った。


「……紫苑殿」


 ぼそりと聞こえた聞き覚えのある低い声に紫苑はあからさまに肩を竦めて刀から手を離した。総司も新八も安堵したように溜息を吐き刀から手を離す。後ろに立っていた小柄な青年に左之助も平助も驚いて数歩退いた。


「気配を消すな、気配を」


 気配を消して近づいてきた仲間に紫苑が呆れたように言い放った。その言葉に斉藤一は意外そうに眉を上げる。その間に平助と左之助は安心したように「なんだ、斉藤か」と呟いて会話の輪に混じろうとした。が、会話に輪なんか出来ていなかった。


「………」

「どうした?」

「………紫苑殿が騒いでいて気付かなかっただけです」

「溜めが長いんだテメェは!」


 黙ってしまって何かと思ったら、ただ言葉を探していただけのようで、相変わらず遅い反応に左之助は思わず叫び声を上げた。良くこれで総司や新八らと対等に戦えるものだと平助は思う。左之助の叫びも、斉藤の言った自分の非も綺麗に流して、紫苑は問いかけた。


「で、何しに来たの」

「………立て札を、見に」

「へー」


 やや置いて応えられた言葉に、自分たちの目的もそうだったと思いだして紫苑は気のないような返事をして立て札に視線を移した。初めに予想していた通り、其処には昨日見た通りの五ヶ条の隊規が張り出されていた。細くて柔らかい線をしている、女のような歳三の文字に紫苑の目が微かに揺れる。
 六人並んで立て札を眺めやり、となりから小さく引きつった声が聞こえたが紫苑は軽く無視した。




     局中法度書


     一、士道ニ背キ間敷事

     一、局ヲ脱スルヲ不許

     一、勝手ニ金策致不可

     一、勝手ニ訴訟取扱不可

     一、私ノ闘争ヲ不許


     右条々背候者
     切腹申付ベク候也




 はっきりと書かれた、自分たちを裁く律であり己たちの指針にふっと微かに笑みを浮かべて、紫苑は踵を返した。その時、丁度こちらに歩いてきた芹沢と眼が合った。彼は紫苑に気付くと満面の笑顔を浮かべて寄ってくる。酔っているの足元が少しふら付いている。彼とは対照的に紫苑の顔は不快そうに歪む。


「こんな所におったのか、紫苑」

「何の用ですか、芹沢さん」

「一緒に酒でも呑まんか、な」


 まるでご機嫌でも取るように言うので、紫苑は呆れたように溜息を吐いた。彼女の後ろでは総司達も不快そうに顔を歪めている。その中から薄く笑っている新八を見つけて、芹沢は彼にも声をかけた。意外なことで後ろで総司、左之助、平助の三人が顔を見合わせている。紫苑と新八は顔を見合わせて、お互いに含みのある笑みを浮かべた。


「永倉君も一緒にどうかね」

「残念ですけど、私たちこれから道場に稽古なんで」

「それならワシが付き合おうじゃないか。ワシだって神道無念流の免許皆伝だ」


 呑まないのなら、と引き下がってきた芹沢に表面上は納得したように頷き、彼がやる気になって踵を返した所で紫苑と新八は顔を見合わせてにやりと厭らしい笑みを浮かべた。
 京の町で狼藉が眼に余る芹沢に、自分の実力の程を知らしめるいい機会だと新八は笑い、紫苑は女という存在否定にすらなる事実を覆せる事が楽しみでしょうがなかった。










 芹沢達の駐屯している前川邸を改築して、道場を作った。日々浪士たちの稽古の場として激しい怒声が飛び交っている。紫苑は滅多に顔を出さないが、ほぼ毎日稽古をしている者も多いと言う。
 久しぶりに紫苑が道場に訪れると、歳三が浪人たちに稽古をつけていた。入ってきた紫苑たちに気付くと、不審そうに眉根が上がり、其れを認めて紫苑は曖昧に笑って防具を付け始める。無言で、何か妙な圧力すら感じる紫苑に歳三はツカツカと歩み寄って楽しそうに見ている総司に問いかけた。自分の愛している女でも、何となく訊けない気がした。


「どうしたんだ、紫苑は」

「芹沢さんと稽古するんだって。歳兄ぃ、僕見てていいよね?」


 芹沢を睨みつけている訳ではないのだが、背中から殺気すら漂わせている紫苑は見ていて怖いものがある。彼女に対して芹沢は何をやらかしたんだと思って歳三が芹沢に視線を移すと、彼は竹刀を一本持っただけで紫苑の準備を待っていた。その彼の行動に紫苑の額に皺が寄る。


「紫苑、準備は出来たのか?」

「防具をつけないんですか、芹沢さん」

「別に良いだろう。始めようじゃないか」


 苛々した口調を隠す気もなくそのまま言うと、芹沢は笑って軽く手を振った。竹刀だけを持って真ん中に入っていくと、あの芹沢局長が現れたと言うだけで浪士がみな引いていく。此処で自分たちが使って居るといって彼の不快を買うともれなくおまけとして五体満足で居られなくなる可能性が高い。
 浪士達の言い分はよく分かるが、気に食わなくて紫苑は面の中で苦々しく奥歯を噛み締めた。静まり返ってしまった道場の中心まで無言で歩いていって、竹刀を構える。総司が中央に立ち、にこりと笑って手を上げた。


「始め!」


 その瞬間、紫苑の眼に鋭い光が宿った。獣にも似た鋭利過ぎるその光は、敵と相対峙したとき特有の其れだ。すっと構え、目の前の男を見やる。いつまでも自分を女だと侮っている男に負ける訳にはいかない。仮令相手が誰であろうと絶対にだ。
 飄々と構えている男に、紫苑は一歩踏み出した。パァンと軽い音がして竹刀が合さり、簡単に均衡状態になる。近くなった紫苑の顔に、芹沢がにんまりと笑み腕に力を込めた。いくら腕では負けない自信があろうと実戦経験があろうと、所詮道場稽古だ。力の押し合いになってしまえば男と女、簡単に決着は付いてしまう。小さく舌打ちして、紫苑は一度芹沢から離れた。只の喧嘩なら男にだって負ける気はないが、あくまで稽古なのがまどろっこしい。


「なんじゃ、随分謙虚だな。床の中でもそうなのか?」

「……殺す……」


 べたつくような揶揄を含んだ芹沢の台詞に紫苑は低い声で唸った。試合を見ていた浪人たちは気付かなかったようだが、試衛館組の者は紫苑の面の中の表情まで簡単に想像できて苦笑を漏らした。きっと、嫌悪に瞳を歪めて、本気で殺す気で掛かっているだろう。
 面の中で彼らの想像と寸分も違わない表情をしていた紫苑は、眼を細めて芹沢を見やった。ゆらりと足を出すと、長身で一気に間合いを詰める。一気に駆け寄って胴に打ち込む角度で竹刀を揺らし、しかし彼が防ぎに竹刀を出した直前に手首の動きで思い切り顔面を叩いた。くぐもった鈍い音がする。


「一本!」


 総司の声に、芹沢は呆然と紫苑を見やった。しかし紫苑は無言で不機嫌に顔を歪めたままで、微かに愉悦の色がその瞳に浮かんでいる。まるで血に飢えた狼の狩りのようで、見ていた浪人たちの方が肝を冷やした。
 紫苑が踵を返して防具を脱ごうとすると、芹沢は低い声で彼女を呼び止めた。紫苑が面倒くさそうに振り返る。


「待て、もう一本だ」


 勝つまで逃がさんと言っているような声に紫苑は大きく溜息をついて構えなおした。面倒くさいのだが、一度勝負と決めたら負ける訳にはいかないので真剣に相手の挙動を窺う。


「始め!」


 また総司の声がかかり、今度は芹沢が積極的に攻めてきた。怒涛のように降り注ぐ竹刀に其れを防ぐだけで精一杯で、紫苑は奥歯を噛み締めて眼を細めた。パァンと竹刀のぶつかり合う音だけが断続的に響き、紫苑は身を低くしながら受け続ける。何度か攻めに転じようと思ったが、重い打ち込みが其れを許さず、紫苑は面の中で舌を打ち鳴らした。


「……っ」


 無理矢理竹刀を跳ね返して攻めに転じる。しかし其れは塞がれて再び打ち込まれた。何度も其れを受け続けて、紫苑は短く息を吐き出して芹沢を見やった。彼も本気なのか短い怒号を口から発しているし、眼が据わっている。
 竹刀同士が合さり、動きが止まった。舌を打ち鳴らして重心をずらそうとした瞬間、更に力が掛かって紫苑は体が宙に浮くのを感じる。ヤバイと思ったときには腕の力だけで飛ばされて、数尺向こうの床に叩きつけられていた。直ぐに反射的に体を捻ると、さっきまで体のあった部分に竹刀が振ってくる。更に体を捻り、紫苑は体を起こした。その時、総司のやや戸惑った声が響いた。


「それまで!」


 その声に、芹沢が気分良さそうに笑って竹刀を降ろした。紫苑は苦々しい顔のまま面を外す。一度頭を振って、竹刀を肩に担いでツカツカと歩み寄り、戸惑ったように視線を巡らせている総司の胸倉を掴みあげた。低い声で囁く。


「何で終わらせた?」

「だって歳兄ぃが終わりだって……」


 本気になっていたのだろうこちらが殺されそうな視線で紫苑が問うが、慣れている総司はそれほど怯える事も無く壁に背を預けて不機嫌に試合を見やっていた歳三の方を向いた。つられて紫苑も視線を移し、ぱっと総司から手を離すと防具を押し付けて無言で彼に歩み寄る。自分よりも長身の男に不機嫌な視線を向けると、彼は気まずそうに視線を逸らした。


「何で終わらせた?」

「……お前の負けだ。あのままなら確実にやられていた」


 同じ質問を問うと、はっきりとそう告げられて紫苑は舌打ちを漏らして歳三から視線を逸らした。自分だってそれはうっすら分かっていたから言い返すことは出来ない。芹沢に負けた事が悔しくて紫苑は竹刀を歳三に押し付けるとさっさと防具を脱いで歳三に背を向けた。


「……紫苑……」



 その背中に手を伸ばしかけて、歳三は自分の手を握って其れを抑えた。彼女は自分の手を必要としている訳ではないのだから。彼女は一人でこの世界に立っている。其れなのに自分が手を出してはいけないのだと言い聞かせて、歳三は奥歯を噛み締めた。

 どんなに倒れそうになっても気丈になっている女の為に出来るのは、揺らがない事だけなのだから。




-続-

新八さんと紫苑さんは男前同士気が合うんです。