自分の背中にくっついて黙っている女に、井上源三郎は困ったように眉を寄せた。昨日までは元気だった妹のような女は一体何があっていきなり幼い頃のように自分にしがみ付いているのだろう。包丁で手際よくたくあんを切りながら、源三郎は溜息を一つ吐いた。黙っている紫苑に問いかける。
「紫苑?」
「………」
言葉を促すような問いかけでも紫苑は黙ったまま源三郎の背に顔を埋めているだけで、源三郎は呆れて息を吐き出した。こいつは少々重症だ。すこし拗ねているだけだったら文句を言って騒ぐのだが、黙って顔を埋めているときは本当は泣き出しそうなときなのだ。
「黙っていたら分からないだろう」
「………」
肩を竦めて言葉を促すが、紫苑の手が源三郎の着物を強く掴んだだけだった。トントンと規則正しい音をさせていた包丁を置いて、板間に腰を下ろす。紫苑に隣を促すと無言で腰を下ろし、しかし源三郎の腕に顔を押し付けたままでいる。其処で気付いたが、紫苑の後ろには総司がくっついていた。本当に、幼い頃のようだ。
「歳三と何かあったか?」
訊くが、紫苑は首を小さく振っただけで何も言わない。困ったように眉を寄せて、源三郎は紫苑の短い髪を優しく撫でた。幼い頃から手触りは変わらないのに、何時の間にこんなに意固地になってしまったのか。溜息混じりに視線を紫苑の袖に顔を埋めている総司に視線を移す。
「総司はどうした」
「歳兄ぃに怒られた」
紫苑と違い素直に言った総司の髪を源三郎は腕を伸ばしてくしゃくしゃかき回した。総司が心地良さそうに眼を細めるのを見て、安堵して微笑みかける。間に挟まれた紫苑は身じろぎもしないで黙ったままだ。
「後で歳三に言っとくから」
紫苑と二人きりにしてくれという意味も込めて言うと、総司は頷いて台所から出て行った。其れを見送って、総司の姿が見えなくなると源三郎は紫苑の頭に大きな手を置いた。紫苑が口を開くのを待つ間ゆっくりと撫でていると、いつもの紫苑から想像もできないほど小さな声で呟いた。
「……負けた……」
不機嫌に呟いて、悔しそうに唇を噛むのが分かった。そんな事かよと思うが、何時だって紫苑は勝負というものにこだわってきた。女だからという言葉が何よりも嫌いで、その為に誰よりも稽古をしていた。試衛館の娘として剣術を叩き込まれ喧嘩には負けた事はなかったし、それだけ強かった。だから負けたという事実に簡単に打ちのめされそうになっている。
源三郎は微かに苦笑を浮かべて、紫苑の剣蛸だらけの手を撫でた。ごつごつした女の手ではない手は、確かに女の細さで冷たい。
「紫苑の信条は、何だった?」
「………」
生まれて直ぐに棄てられた彼女は、昔から辛い目にあっていた。近所の子供に蔑まれた事もあったし、謂れの無い中傷を受けた事もあった。其の度に源三郎だけではなく彼女の父も言い続けた言葉がある。お前の名前は『紫苑』なのだと、忘れて欲しくなくて思い出して欲しくて繰り返した。
「なぁ、紫苑?」
「………『紫苑』」
手を撫で続けて促す訳ではなく言うと、やや置いて紫苑が呟いた。源三郎の腕に顔を押し付けたままなのでくぐもった声で聞こえ、しかしはっきりした声音に源三郎が安堵したように微笑を浮かべる。紫苑がゆっくり顔を上げた。その瞳にはもう、泣きそうな色は何処にも見えない。
『あの花はね、倒れても起き上がる強さを持っているんだって』
口癖のように何処か自慢気に言っていた自分の名と同じ名を持つ花を思い出して、紫苑は泣きそうだった眼を強く擦った。
『鬼の醜草』とも言われる気高い花は、その強さを全身で表している。何度倒されても倒れることを知らない花は、誰よりも早く起き上がる。鮮やかな紫は真に男よりも気高い彼女をそのまま表しているようで凛としたその顔は誰よりも強い力を醸し出している。
「もう負けない」
誰にも止められない強い光は、紫苑が紫苑である所以。決意にも似た視線で真剣に源三郎を見やると、彼は苦笑して紫苑の頭をくしゃくしゃとかき回した。いつだって自分で立ち上がる強さを持っている娘だから、自分はほんの少し背を押してやれば良い。髪をかき回すと、紫苑は擽ったそうに眼を細め、にんまりと笑みを浮かべた。
「絶対負けない」
はっきりと言い切って、ぐっと顔を上げて台所を飛び出していった。昔はよく泣きそうに背中にくっついてきた彼女は段々一人で立てるようになった。元気になったその背を見送って、源三郎はあとどれくらい自分に頼ってくれるかと思った。でもきっと彼女はいつまでも頼ってくれるような、そんな気がした。
昼前に道場を出て行って昼間姿をくらませていた紫苑の部屋から微かな声が聞こえ、歳三は周りに誰もいないことを確認するように辺りを見回した。
紫苑が自分が部屋にはいることを良く思わないのは分かっているから、自然周りに気を使う。誰にもばれなければ、逢瀬を重ねる事も許されるこの関係が苦しくは無い。まだ、苦しくない。
「……紫苑?」
「歳……」
中を確認する為に声を掛けると、中から大きな息と共に紫苑の囁くような声が聞こえた。荒れているような熱い息と共に吐き出された言葉は、此処が男所帯であり彼女が女であるという事実から簡単にあってはならない想像を生む。最悪の場面を想像して、歳三は乱暴に戸を開けた。紫苑が簡単に男に組敷かれるほど弱くない事は彼の頭からは飛んでいる。
「紫苑!?」
「何、うるさいな」
腰に刷いた刀の鯉口に手を掛けながら入っていくと、眼に飛び込んできたのは予想外の映像だった。紫苑の竹刀には先端に重石が巻かれているし、胴着にも重石を仕込んでいる。其れを裁縫道具と共に脇に置いて、紫苑は重石を背負って腕立て伏せを繰り返していた。
膝を突いて不機嫌に見上げてきた彼女に拍子抜けして、歳三は後ろ手に戸を閉めながら安堵の息を吐いた。
「何してんだよ……」
「見てわかんない?鍛錬」
背から重石を降ろして、紫苑はその場に胡坐を掻いた。源三郎が見たら烈火の如く起こりそうだが、歳三は何処か安心したように顔を綻ばせて紫苑の前に腰を下ろすだけだ。全身をじっとり濡らす汗を手の甲で拭って、紫苑は不機嫌に顔を歪めて歳三を見やった。
「……聞いて欲しい話がある」
「何でぇ」
「ちょっと来て」
迷うように視線を泳がせて、紫苑が立ち上がった。机の上から小さな包みを大事そうに胸に抱き、縁側に出る。歳三は不思議そうに紫苑を見やっていたが、彼女が促すようにこちらを見たから訳も分からず彼女の後に続いた。下駄を引っ掛けて庭に降り立ち、紫苑が包みを開く。彼女の掌から大事に現れたのは、まだ蕾もつけていない紫の花を咲かせる花だった。
「紫苑の、花?」
「花を植えようって言ったでしょう」
数歩歩いて、紫苑はおもむろにしゃがみ込んだ。自分の部屋からも歳三の部屋からも見えるその位置は、江戸にいた頃紫苑の部屋から見えたあの花と同じ位置。歳三もその場にしゃがみ込んで、眼を細めて紫苑に抱かれる花を見た。そっと手を伸ばして瑞々しい葉に触れると、張り詰めた葉の感触が懐かしさを伴って心地よかった。
「そうだったな」
周りを見回して適当な棒を探して地面を掘り出すと、紫苑も花を置いて太目の木の棒で地面を掘る。夜も更けたこの時間に副長と女隊士が揃って地面にしゃがみ込んで穴を掘っている映像は他の者に見られたら何を言われるかと思うと軽く苦笑が浮かぶが、そんな事は気にならなかった。
黙々と、しばらく土を掘る音だけが聞こえる。梅雨の時期なのに、珍しく雲間から月が明るすぎる姿を覗かせていた。土を掘る音だけだった聴覚に紫苑の声がポツリと聞こえた。
「あの、さ」
「紫苑?」
迷いを感じさせるその声に歳三が顔を上げるが、紫苑は顔を下に向けたまま地面を掘る手を休めないでいる。歳三はじっと紫苑を見つめていたが、視線を元に戻してまた棒を握る手に力を込めた。やや置いて、紫苑が独り言のように呟く。
「今日初めて負けた」
「………実戦だったらお前の勝ちだった」
「そんな慰め要らない。初めて、男に敵わないって思った」
技術だけだったらば総司にも紫苑は引けをとらない。しかし女という絶対的な力の差は隠しようもないものだ。実戦ならば紫苑は絶対に負けないが、此処に飛び込んだ以上そんな事は許されない。試合では紫苑は、男には勝てない。それは女だからという単純で、絶対的な理由。手を止めて、紫苑は掠れた声で吐き出した。
「あんたの……足手まといにはなりたくないよ」
負けるとは思っていなかったのに、自分の世界はちっぽけだったのだと思い知った。それと同時に恐怖も生まれた。何よりも恐れていた事実を目の当たりにして如何すればいいか分からなくて怖くてしょうがなかった。でも守られる事だけはしたくなかったから、強くなりたかった。
言葉を搾り出して唇を噛み締めて、紫苑は棒を背後に放った。十分深くなった穴に大事そうに花の苗を丁寧に入れて、土をかける。苦しげな紫苑に、歳三が柔らかい声をかける。
「……不安だった」
「何が」
「お前が芹沢に傷付けられるんじゃないか、お前が傷付くんじゃないかと不安でしょうがなかった」
芹沢によって手折られてしまった紫苑の矜持。しかし彼女はその名の通り自分の力で誰よりも早く立ち上がり上を向いた。誰よりも何よりも怖ろしいほど強い彼女は、もう上を向いている。その胸に誰にも告げられない思いを隠して、懸命に立っている。
痛いほど分かるから、紫苑が自分にだけ垣間見せた弱さをしっかり受け止めたかった。
「私は、傷付かない」
「あのまま負けていたら芹沢の野郎はお前を手篭めにしていた」
「私は、傷付かないよ」
「俺が辛いだろうが……」
意地になっているように繰り返す紫苑に苦笑を浮かべて、
歳三は立ち上がった。掘り返した柔らかい土の周りを踏み固め、空を仰ぐ。厚い雲の間からほんの少しだけ姿を覗かせた月はもうすぐまた雲の中に姿を消すだろう。月明かりに照らされて凛と立つ花は、怖ろしいくらいに紫苑と良く似ていた。
「……そうだね……」
ふわりと笑みを浮かべて、しかしその表情とは裏腹に紫苑は乱暴に植えたばかりの花を踏みつけた。満足そうに上から水を掛けているその姿は残酷ですらあり、歳三は驚いて眼を見開いた。折角植えたばかりの花に何をしくさるか。
「何やって…!」
「土固めただけだって。大丈夫、この花は強いよ」
柔らかく笑って、紫苑は踵を返した。戸惑ったように花を見下ろして、しかし何をしていいか分からずにいる歳三に振り返って囁くようにゆっくりと笑みを浮かべる。
「私みたいに、ね」
「……そうだな」
紫苑の顔が余りにも月明かりに照らされて綺麗だったから、歳三は柔らかく笑みを浮かべて紫苑の短くなった髪に手を伸ばした。さらっと手から離れた髪に淋しそうに眼を細めて、さっさと部屋に戻る紫苑の後を追う。
「歳……」
「何だ?」
「………なんでもない」
「何でぇ、気になるじゃねぇか」
「何でもないって」
苦笑して、紫苑は下駄を脱いだ。『愛してる』という言葉を呑み込んで誤魔化すように笑って、ちゃんと笑ているかと不安になる。ちらりと後ろを振り向くと、不思議そうな表情の歳三と眼が合って、紫苑はふっと笑って自室に戻ろうと廊下を渡った。
その時慌てたような足音が聞こえた。歳三も邸に上がった所で、息を乱した勇と遭遇する。一度二人の姿に瞠目した勇だが、すぐに微かに微笑んで歳三に視線を移した。瞬間、歳三の眼が細くなる。
「歳、こんな所にいたか」
「そんなに慌てて何かあったのか?」
歳三が冷徹な声を装いながらちらりと紫苑に視線を移すと、如何するべきか紫苑は迷うような表情を浮かべた後自分には関係ないとさっさと部屋に引っ込んだ。貪欲に強くあろうとする紫苑に歳三は一度ゆっくりと瞑目し、勇を見やった。
「大阪で不逞浪士が出没すると報告があった」
「……そうか」
一度紫苑の部屋を振り返って、洩れる微かな明かりにきっとまた鍛錬しているのだろうと思って歳三は苦笑を浮かべて勇と共に彼の部屋に歩き出した。これから山南も交えて作戦会議だ。紫苑が一人で凛と立っているのだから自分も自分の居場所を思い直さなければならないと、はっきりと思った。
何度倒れても起き上がる強い女の為に、俺はいつまでも強くあらなければならないのだとはっきり気付いた。
-続-
紫苑さんの腹筋は軽く割れてると思います。