大阪へ不逞浪士の取り締まりに行った芹沢、山南、永倉、原田、平山、斉藤、島田が帰ってきた。大阪へ不逞浪士を取り締まりに行ったはずなのに、力士と諍いを起こして斬り結んできた事は既に京に届いている。
 帰って来た彼らは、数日いなかっただけなのに懐かしく感じる屯所に眼を細めた。道場の大きなざわめきも木々の形も当たり前だが変わっていない。いや、道場が妙に人でごった返しているのは気のせいだろうか。普段は中に入りきる人数しかいないはずなのに、何故か道場から漏れ出した人たちが中を覗きこんでいる。妙な違和感と、聞こえてくるはずの野太い怒号が聞こえなくて、新八と左之助は顔を見合わせた。揃って道場へ行って、無理矢理人ごみを掻き分けて視線の中心を見た。その予想外の映像に言葉を失う。


「ちょ、紫苑さん……ったんま!」

「………」

「本当に勘弁してくださいって!紫苑さっ」

「待ったなし」


 ビシビシと木刀が人体を叩く音と平助の喘ぎが、悲痛に道場に木霊している。しかし、対峙した紫苑は痛いほどの殺気を纏って平助を打ち付けていた。彼を木刀で見方によっては私刑にしているように見える。既に足元がフラフラで、平助は今にも倒れそうだ。辛うじて紫苑の木刀を受けてはいるが、此れが実践なら確実に命はない。
 鮮やかな紫苑の木刀捌きに周りの浪人たちが嘆息しているのを横目に、新八は呆れたように息を吐き出した。何だって紫苑はとり憑かれたように木刀をふるって平助をいたぶっているのか。それ以上に紫苑の顔が楽しそうなのは気のせいだろうか。そう思っていると、総司がつつ、と寄ってきた。


「おかえりなさい、永倉さん」

「ただいま。……あいつ等は何やってんだ?」


 何でもないことのように総司が笑うから此れが普通なのかと一瞬思ったけれど、そんな訳はないと思いなおして新八は総司に訊いた。総司はきょとんと新八を見やり、次いで皆の視線の中心人物に視線を移す。数度瞬いて、視線を戻した。


「紫苑姉ぇがこの間芹沢さんに負けたでしょ?其れが悔しかったみたいでずーっと素振りしたりあぁやって藤堂さんを苛めたりしてるんだ」

「……よく土方さんは何も言わねぇな」

「だって半分歳兄ぃのせいだもん」


 総司がこっそりと笑ったとき、一際甲高い音がして平助の手から木刀が弾け飛んだ。同時に平助が床に座り込み荒く肩を上下させ、其れを見下ろして紫苑は額に薄く浮いた汗を拭った。
 誰も吹っ飛んだ木刀に意識を払わなかったのか紫苑に気を取られていたのか、不意に左之助の大声が静かな道場に響いた。一拍置いて木刀が床に落ちるむなしい音がする。左之助が涙目になって頭を抱えてしゃがみ込み、木刀の落ちる音に紫苑は初めて視線を獲物以外に向けた。そこでやっと新八達に気付く。


「あれ。お帰り、ぱっつぁん」

「………何やってんだ、紫苑?」

「見て分かんない?鍛れ」

「紫苑ーー!イテェじゃねぇか!!」


 鍛錬、と言い掛けた紫苑の言葉を遮って左之助が、涙目になって立ち上がって怒号を上げた。相当痛かったらしく、天頂が少し膨らんでいる。鍛錬じゃなくて平助イジメじゃ、と思った新八と、全く悪気のない紫苑が何事だと半分呆れ気味に左之助を見たが、彼の手にしている木刀に紫苑があはは、と乾いた笑いを浮かべた。


「避けろよ」

「謝れぇぇぇ!!」

「早く木刀返せ脳みそ筋肉莫迦。新八相手してくんない?平助はもう駄目だから」


 使えないと吐き捨てた紫苑に一瞬だけ平助は悲しそうに顔を歪めたが、此れでイジメの様なしごきから逃れられるのならと立たない足腰で無理矢理走って新八に場所を譲った。独りで喚いている左之助から無言で木刀を奪って、新八が薄く笑う。


「いいのか、俺強いぞ?」

「知ってる」


 釣られたように紫苑の口の端も笑みを形作る。その顔に新八は微かに頷いてゆっくりと真ん中へ足を進めた。
 剣の天才と称された沖田総司と同等の技術を持つ、天然理心流三代目の愛娘橘紫苑。しかし女である彼女が沖田総司をも凌ぐ実力を有す男に敵うだろうか。何度も手合わせして彼女の実力を十分知っていて、負けるわけがないと思っている新八は楽しそうに木刀で打ち込んでくる紫苑を見て薄く笑った。
 不規則にぶつかる木刀の振動が心地よく、新八は誘うように切っ先を揺らした。しかし釣られるほど紫苑は弱くない。眼を細めて紫苑が打ち込んでカンとぶつかる音がする。


「強くなってない、お前?」

「気付くの遅いんじゃないの」


 紫苑が笑って、袈裟懸けに木刀を振り下ろした。寸でのところで其れを避けると間髪入れずに突きが放たれる。それもどうにか受け止めたが、手が痺れるように痛んだ。紫苑ほどに実力と経験を持っていれば強くなることは容易ではない。彼女がこの短い期間で付けられるものは唯一筋力だけだ。
 動きを止めた新八の木刀を無造作に弾き、紫苑は木刀を担いで笑って見せた。


「どうよ?」

「……此れならあの人だってお前の事大好きだろうさ」

「…っぱっつぁん!」


 紫苑が強くなったのは、あの男の為だから。そう言って肩を竦めると、紫苑は顔を歪めて噛み付くように言う。しかしそれ以上は何も言わないで無言で拳を突き出してくる。本当は嬉しそうに笑いたいだろうに其れを顔に出したくないのだろう、紫苑の顔は不自然に歪んでいる。紫苑の拳に自分の拳をゴツンとぶつけて、新八はにんまりと笑った。


「たでーま、紫苑?」

「お帰り、新八」


 拳をぶつけたまま、男と女はにんまりと良く似た笑みを称えた。
 不意に、乾いた拍手の音が一つだけ鳴り響いた。何者だと紫苑が視線を巡らせると、入り口のところで芹沢が楽しそうに唇を歪めて手を叩いている。浪人たちも彼の姿に気付いて道を空け、其処をゆったりと歩きながら芹沢は紫苑と新八を交互に見やった。


「いい物を見せてもらった。今日は我々の帰還祝いも兼ねて宴会でもやろうではないか」

「はぁ……?」

「もちろん二人も参加してくれるだろう?」

「何でわた…もがっ」

「もちろんっスよ!」


 行き成り不機嫌になった紫苑の口を塞いで、新八が無理矢理笑みを浮かべて答えた。その言葉に芹沢は気を良くして数度頷く。芹沢にとっては紫苑はまず目をつけたいい女で、叶うなら直ぐにでも抱いてしまいたい存在だ。もちろん、多少の抵抗があったほうが燃えるというものだ。新八も同門でさっぱりとした性格が気にっている。出来れば二人とも手にしてしまいたい。自分の欲しいものが両方手に入りそうで、芹沢は笑って踵を返した。
 新八の手に口を塞がれもがいていた紫苑だが、芹沢が姿を消すと漸く開放されて早速文句を言う。


「何すんのさパチ!」

「お前なぁ、相手は一応局長だぞ?」

「でも嫌なもんは嫌」


 はっきりと言い切った紫苑に新八は呆息する。今まで試衛館の娘として、小石川の茨垣として力の頂点に近いところに君臨し続けたからこんな性格になってしまったのだろうか。ふと思い当たる所だが、そうでなければ紫苑ではないと思いなおして新八は紫苑の肩を叩いた。


「芹沢さんの横暴は過ぎる。だからこそ面白い事になるかもしんねぇだろ?」

「………新八がそういうなら、乗ってやるよ」


 やや置いて、紫苑がにんまりと笑って見せた。新八が言う事ならば、多少の信頼が置けるのだ。だって、彼は自分と良く似た人間だから。自分と良く似た、自分と正反対の人間を紫苑も新八も理解して、二人は同じように笑った。










 島原の角屋は、この日多いに賑わっていた。島原中の娼妓から舞妓に至るまでを全て総揚げにして宴は大いに盛り上がっている。京都市内を警護する『壬生浪士組』について京の人間も段々理解を深めてくれたので最近では好意的にしてくれる。だからこそ、宴は盛り上がるのだ。
 平隊士も幹部もなく騒いでいる中で、歳三は芹沢の隣りに座らされている紫苑にちらりと視線を送った。彼女の顔も不機嫌で、時折歳三の元に視線を送っている。其れを受け止めて、歳三は誤魔化すように猪口を傾ける。


「紫苑は永倉とも仲が良いな」

「親友なんで」


 上機嫌で左側に妓女を侍らせて、右側に紫苑を置いて酒を飲んでいる芹沢に紫苑は詰まらなそうに酒で喉を湿らせた。紫苑の隣では新八が女と戯れている。ちらりと歳三に視線を向ければ、女に見向きをしないで不機嫌だ。自分が彼を縛っているのかと思うと無償に腹が立ってくる。


「ねぇ、紫苑様?お綺麗どすなぁ」


 不意に、自分よりも一回り程年下だろう妓女が遠慮がちに紫苑の袖を引いた。紫苑はきょとんと彼女を見て、柔らかく微笑む。その顔に女はぽっと顔を赤らめて俯いた。自分には到底出来ないその女らしい仕草に紫苑は苦笑する。そう言えば、江戸にいた頃も女に良くもてた。


「可愛い顔、隠さないで?」

「……相変わらずだな、紫苑」


 江戸での紫苑を思い出して、新八は小さく呟く。しかし女には聞こえていなかったようで照れくさそうに顔を上げた。その姿が可愛くて紫苑は彼女の髪を掻き揚げて笑う。男物の着物に二本差しという紫苑のいでたちに男と間違えているのではないかと思うが、そんな事はないようで女は紫苑の気を引こうとしている。


「男様には勿体ないわ」

「残念ながら男に相手にされないよ」

「そないな事ありまへんえ」

「おい、紫苑」


 女と会話をしながら、紫苑はちらりと歳三を伺っている。意識が歳三に飛んでいるときだから、紫苑は突然掛けられた声に不機嫌に振り返った。女が酒を注ぐままに飲んでいるので強か酔っているのだが、芹沢は其れ以上に酔っているようで、眼が白んでる。


「ワシの相手もしろ」

「今はこの娘といるから嫌です」


 半眼で言って、紫苑は女に抱きついた。ぎゅーっと抱きしめると、江戸にいる友人を思い出す。もしかしたら女の友達よりも男の舎弟の方が多かった気がするが、気のせいだろう。
 紫苑の一言に、突然芹沢が切れた。寄り添っていた女を殴り飛ばして立ち上がり、身辺のものを手当たり次第に気に入りの鉄扇で殴り飛ばす。ぶんぶん唸る其れを危うく避けて、紫苑は畳に倒れこんだ。どうにか女も一緒に倒れこんだから良かったものの、芹沢の隣りにいた女は運悪く鉄扇が当たったのかぐったりと横たわっていた。


「貴様っ!」

「待て、紫苑!」


 女達は逃げ惑い、紫苑が牙を剥くが新八が紫苑を押さえつけた。それでももがくので、新八は苦しそうに左之助を視線で呼ぶ。しかし部屋の丁度端にいた左之助が紫苑の元にたどり着くのは相当無理があり、新八は舌を打ち鳴らす。それは歳三も勇も同じ事だ。誰かいないかと思っていると、後ろから大きな影が落ちた。


「失礼します!」


 一言断って、島田魁が紫苑を後ろから羽交い絞めにした。初めの応募で入隊した島田魁は、大きな体に見合う力を有している。しかしいつも温和な笑みを称えていてそうは見せない。今だって、人の良さ気な垂れ眼を険しくして、紫苑を押さえていた。そうしている内に芹沢も満足したのかどさっと腰を下ろす。


「不届きにつき角屋に七日間の閉店を申し付ける」


 はっきりと宣言して、芹沢は満足そうに立ち上がるとややふら付く足取りで部屋を後にした。其れを見送ってから島田が紫苑を離し、紫苑が新八に何をするんだとがなろうとすると、にんまりと笑った新八と眼が合った。その顔に怒気を殺がれ、紫苑が新八を見つめる。


「どうしたよ?」

「言ったろ、面白い事になるって」


 芹沢の去っていった方を見送って、新八は楽しそうに笑った。
 分からず首を傾げる紫苑の肩を、行き成り強い力が引いた。紫苑が驚いて小さな声を漏らしてたたらを踏むと、やや顔色を失った歳三が紫苑の肩を掴んでいた。その顔を安心させるように紫苑が微笑み、彼の手を払う。


「何?」

「いや、大丈夫か……?」

「この紫苑様を舐めんなよ?」


 紫苑を抱きしめたい衝動を息を吐いて誤魔化して、歳三は芹沢の出て行ったほうを見やって薄く微笑んだ。


「帰るか」


 急に醒めてしまった宴なので誰も反対するものも居らず、一同は居心地悪く店を後にすることにした。









 島原から屯所への道にはところどころに店があり、隊士は一人また一人と人数を減らしていった。屯所に近づく頃には紫苑と歳三、総司だけになっていた。途中で眠りそうな総司を背負って無言で歩きながら、歳三が紫苑の顔をちらりと見やり、眼が合うと視線を戻す。数度其れを繰り返して漸く歳三は口を開いた。


「お前が無事でよかった」

「アンタが安心するなら私は絶対に怪我しない。だからさ……」


 言いよどんで、紫苑は口を閉じた。本当はこんな事は言いたくないのだけれど、自分はもう彼を縛る事をしたくなかった。其れがこの地へ付いて来たときの誓いだから、自分はもう決して揺らぎはしない。迷い事も泣き言を言う事も、絶対にしない。


「私を女と思わないで。気を使わないで」


 隣にある手を繋ぐ権利も彼に愛される権利も何もかもかなぐり捨てたのに、此処で反故にしたくなかった。綺麗な月が冴冴と道を照らす。ふと自分はあの花のように独りで立っていられるかと不安になった。でも支えになってくれるものは何もない。自分から手放した。だから、きっと揺らぎはしない。この決意は揺らがない。
 紫苑の言葉を噛み砕いて、苦しそうな悲しそうな顔をして歳三が頷いたのを見て、紫苑は安堵したように微かに微笑んだ。

 独りで立つ為に、この力を手に入れたのだから。




-続-

新八と紫苑さんは親友です。