壬生浪士組として京の治安を任されてから、気が付けば四月ほど経った。隊士の数も増えているし、制服として誂えた羽織が丁度良い季節になっている。
最近度々報告されている偽浪士に対する対策を練るために、歳三は勇の部屋を訪れていた。一月前には大阪の鴻池善右衛門方で偽浪人が現れ、芹沢、近藤局長以下歳三、紫苑、総司、平助、平間、野口が大阪まで出向いて此れを排した。
「あれで終わりかと思ったが、まだ出ているか……」
子供の悪戯にでも困惑しているように勇が眉を寄せた。
梟首した首を晒し『後日、右党の族これあるにはおいては、いささかも用捨なく天誅せしむものなり』と木札を付けたにも関わらず、最近京でも偽の浪士を名乗るものが跋扈している。更に芹沢の横行も酷くなる一方で、内外で問題が山積みだ。
「芹沢の野郎の女も最近は屯所に寝泊りしてやがるしな」
眉に深い皺を刻み、歳三は紫煙と共に重い溜息をゆっくりと吐き出した。煙管から立ち上る白い線を見ながら、屯所で顔を合わせる二人の女のことを思い出す。
先月、芹沢が無理矢理に自分のものにした女は、お梅という。最近芹沢の部屋で生活しているようで時折庭先や台所で見かけた。元は菱屋の妾だったその女は、一言で言って妖艶だった。指の先まで満ちている色香は女特有のもので誰もが目を取られるだろう。
そんなお梅と正反対の、浪士組唯一の女隊士である橘紫苑。顔を合わせると挨拶くらいはしているようだが、女同士だと言うのにそれ以上の事はないらしい。そもそも、あのような女は紫苑とは相容れない。彼女は男よりも強くあろうとする、一人で立つ事を望んでいる女だから。
「……いい女なんだがな」
「お前の眼にゃぁ穴でも開いてンのか」
お梅の姿を思い出してか溜息を吐き出すように勇みが呟いた。眼を細めて歳三が喉で笑い、紫煙を肺に吸い込んだ。どうやら歳三の目にはお梅よりも紫苑のほうがいい女に移っているらしいが、ずっと一緒にそれこそ兄妹として暮らしてきた勇には彼女は近すぎて手に余った。
「歳は紫苑しか見えてねぇんだろ」
「そんな事は……」
昔からそうだったと笑って言うと、歳三は口の中で呟いて視線を部屋の外に移した。涼やかな風が部屋の中に流れ込んできて、彼らの頬を撫でる。紫煙を運ぶその風に微かに眼を細めて、歳三は溜息を吐き出した。落ち込んでいると言うよりも悩んでいるような歳三の様子に、勇は彼に気付かれないように苦笑を浮かべる。彼がこのように悩んでいる時は何時だって紫苑のことだから、まだ彼が彼女のことを考えている事が何処か嬉しい。
「紫苑はいい女だよ」
「……知ってる」
「何で紫苑に刀を抜かせない?」
鋭くなった勇の声に歳三は不機嫌に眼を眇めて視線を勇に向けた。言葉を捜すように紫煙を吸い込んで、何を言っても言い訳にしかならない事に歳三は眉を寄せる。
大阪の一軒の時もそれ以前もそれ以後も、紫苑が刀を抜く機会は何度もあった。しかし彼女が刀を抜く前に歳三は他の者、あるいは自分で敵を屠って来た。総司にも極力刀を抜かせたくないようだが、紫苑にだけは絶対刀を振るわせたくないらしい。
眉を寄せて黙ってしまった歳三に勇は苦笑して一口お茶を啜った。流石に源三郎の淹れるお茶は絶品だ。
「総司だって紫苑だって隊士だぞ」
「……帰れねぇだろ」
歳三が総司にも紫苑にも刀を抜かせようとしないことを良く知っている勇は責める訳でもなく言う。歳三の気持ちは知っているが、紫苑の気持ちも良く知っている。どちらかの味方になる気はないが、敵になるつもりもない。総司にだってあまり刀を抜かせない歳三は、紫苑に刀を抜かせるのを特に嫌がっているように見える。
「人を斬っちまったら、引き返せねぇだろう」
搾り出すような声音で歳三が紫煙で誤魔化すように呟いた。歳三の手が持て余すように煙管を撫で、視線が勇から庭へ移される。微かな風が庭の草木を揺らし、月明かりが雲に隠されたのか光が閉ざされた。紫煙が風に流されて、天に昇らずにくゆって消えた。
「アイツは女だ。いつでも逃げられる道を残してやりてぇ」
「それなら連れてこなかったら良かっただろうが」
「……それは、あいつが決めた事だ」
此処に来るのは彼女が決断した事だと、勇の問いに視線を向けずに答える。此処に来るのは紫苑が決めた事だけれど、いつだって引き返す事ができた。だが人を斬ってしまったらもう帰ることは出来ない。
彼女は女なのだ。いくら強くとも、自分が愛した女だ。
言ったきり黙ってしまった歳三に勇は大きく息を吐き出した。湯飲みを持ったまま口を付けずに視線だけを落して眼を細める。
「誰かを斬るのも紫苑が決める事じゃないのか?」
「………」
「結局、紫苑が女だってことが一番引っかかってるのはお前じゃねぇのか」
「そんな事は……ない」
「だったら、紫苑に決めさせろ。紫苑は絶対に後悔なんてしないぞ」
幼い頃からの彼女を思い浮かべて、勇ははっきりと言い切った。自分の判断に絶対の自信を持とうとする彼女は、絶対に後悔なんてしなかった。だから自分たちは彼女の決断を待つしかない。奪うのではなく、選ばせるしかないのだ。
「紫苑は絶対に、血を浴びる事を選ぶ……」
「紫苑が選んだならいいじゃねぇか」
「……あいつに、そんな事をさせたくねぇ」
「其れは男の勝手な押し付けだ」
何時までも煮え切らない堂々巡りを繰り返している歳三に勇は笑った。仮令紫苑が修羅の道を自ら選んだとしても、きっと彼はいつまでも紫苑が血を浴びる事を嫌うだろうし、いつまでも紫苑を護ろうとするだろう。いつかは紫苑が切れるだろうが、きっと死ぬまで変わらないだろう。
苦笑して、勇は冷たくなったお茶を啜った。月を隠していた雲が退いて、庭を照らした。月明かりに照らされて障子の向こうに人影が見える。
「近藤さん……紫苑姉ぇ?」
「総司?」
窺うように障子が開き、不安そうな瞳が覗いた。総司が今まで話題に上がっていた女の名を呼ぶから、勇は彼を手招いて中に招き入れる。総司は室内を見回して目的の人物がいないことにいよいよ瞳を翳らせて、招かれるままに部屋に入った。無意識のうちに歳三の隣に腰を下ろして、彼を見上げるが歳三はばつが悪そうに煙管を吹かせているだけだ。
「総司、紫苑がどうかしたのか?」
「帰ってこないんだ」
「……何?」
不安そうに俯いた総司に歳三がピクリと眉を跳ね上げた。低い声で総司に事情を問うと縋るような視線が下から向けられる。
「鴻池のお屋敷に藤堂さんと紫苑姉ぇが出かけたでしょ。まだ帰ってこないんだ」
「平助はどうした?」
「とっくに帰ってきてる……」
昼間、鴻池の屋敷から金子を受け取る約束で紫苑と平助を向かわせた。まだ日の高い時間の事だ。普通に歩けば一刻もしないうちに帰ってこれるだろうに、もう月は高い。自ら下した人選だけに、歳三は言葉を失った。更に悪い事に、正当な理由なく門限を過ぎたものは切腹という決まりもある。紫苑ほどの女に何かあったとは思いたくはないが、紫苑は女だ。
言葉を失って微かに顔を青く染めた歳三を見て、総司は彼の着物を掴んだ。
「大丈夫だよね?紫苑姉ぇは強いもん」
「あ、あぁ……」
半ば無意識に返事をして、歳三は煙管を文机の上に置くとふらりと立ち上がって傍らの大刀を掴んだ。足早に部屋を出て行く彼を総司が慌てて追いかけ、其れを見て勇は苦笑して歳三の残していった煙管の灰をコツンと外に落した。そこ等の浪人程度では紫苑に危険はないだろうと彼女と長年共に過ごした勇は思って藍色に染まっている空に視線を移した。
月明かりの下で、蕾のついていない紫苑の花が揺れていた。
月明かりに照らされる夜の道を歩きながら、紫苑は鋭く背後に視線を送って忌々しく舌を打ち鳴らした。
鴻池の屋敷からの帰り道、用事があるからと平助を先に返し一人である店に向かった。気が付けば日が傾いていて慌てて帰ろうとしたところ、背後をずっと付けてくる人相の悪い浪人がいる。振り切ろうにも振り切れないのでこんな時間まで掛かってしまったのだが、そろそろ眠くなってきたので蹴りをつけたい。
「行き止まりだよ、お姉ちゃん」
裏路地で撒こうと思ったのだが、不慣れな土地では出来る事ではない。曲がった路地に先はなく紫苑は口の中で自分に悪態をつきながら背後を振り返った。乗り越えられるほど低い塀ではないので、此処から出るには道を切り開くしかないのだが如何せん人が多すぎる。
「女がこんな時間に刀差して歩くもんじゃねーぞ」
「こんな時間まで人を付回してんじゃねぇよ」
吐き捨てるように低い声で呟いて、紫苑は周りに視線を走らせた。金子は平助に預けて先に返したからいいものの、今日は鴻池の屋敷に正式に出向くのだからといって女物の着物をきっちり着せられている。こんな格好をさせた源三郎に内心で文句を言いながら、紫苑は一度も抜いた事のない刀に手を掛けた。
しかしこんな狭い所で抜いた所で大した役に立たないだろう。じりっと下がって、背に壁の冷たい感触を感じる。
「そんなに怯えないでよ。オレ達とちょーっと遊ばないかなって思ってんだけど……」
「何者だ、お前等」
「壬生浪士組。そぉんな強気な顔、そそるね」
下卑た笑いを浮かべた男に、紫苑は微かに目を眇めた。此れが例の偽浪士かと細く息を吐き出す。
目の前にいるのは十人には満たないだろうが、場所が悪い。一人一人倒すよりもここから脱出してから相手をした方がいいだろう。冷静にそう判断して、紫苑は刀から手を離した。こんな所で刀を振り回す莫迦はいない。敵を選ぶように眼を細め、紫苑の足が地面を力強く蹴った。
「邪魔だ呆け」
一番近くに居た男の顔面に思い切り拳を浴びせて、男達が驚いている隙に一番人の少ない左側に体を反転させる。手近な男の喉に強く手刀を打ち込むと、男が詰まった声を上げて前のめりに倒れこんでくる。その横腹を思い切り蹴飛ばして紫苑は身を屈めた。
「この女!」
捕まえようとしてくる男の手を避けて、足元の空箱を蹴り飛ばす。派手な音をさせて数人の男が転んだのを傍目で確認しながら紫苑は更に前の男の鳩尾に立ち回った勢いのまま拳を叩き込んだ。その向こうで刀を抜いた男を捕らえたが、男が構える前にその手を蹴り上げた。
「捕まえろ、そのまま押し倒しちまえ!!」
「鈍いんだよ!亀どもが」
段々楽しくなってきて、紫苑は薄く笑みを浮かべて大通りに走り出た。此処までくれば刀を抜いても問題なく、追ってくる男を確認して鯉口を斬る。人数を分散させるように、帰る方向を考えて屯所の方に向かって走り出すと刀を抜いた浪士達が半分の人数になって追ってきた。どうやらさっきので半分は沈んだらしい。
「もう容赦しねぇ!殺しちまえ!!」
「偽者に殺されるほど落ちぶれちゃいねぇよ」
笑って、紫苑は刀を抜いて男達に向き直った。月が影って、影を薄くした。追ってきている男に眼を細め紫苑が刀を傾けると、店に灯っていた提燈の明かりで刀身がキラリと光った。
「紫苑!」
紫苑が踏み出す瞬間聞き慣れた低い声が紫苑の鼓膜を揺らし、紫苑の体が固まった。何が起こったかわからないが男達は幸運だと刀を振り上げる。チッと紫苑が舌打ちを漏らして刀身を引いた時、彼女の横を風が横切り次いで男達の悲鳴が耳を裂く。
「怪我は無いか、紫苑」
「……邪魔しやがって」
紫苑の腕を掴んで引き寄せた長身の男に紫苑は不機嫌そうに顔を逸らして呟いた。久しぶりの喧嘩は、茨垣の彼女には快い感覚だった上に初めて刀を抜く機会に恵まれたというのに其れを邪魔された。不機嫌なまま紫苑は歳三の顔も見ずに刀を納めた。顔を上げたら心配そうな歳三と眼が合って何も言えなくなってしまう事は分かるから、顔なんて見てやらない。
「紫苑姉ぇ、大丈夫!?」
「お前こそ顔に血ぃ付いてんぞ」
刀を納めて自分の着物を掴んできた総司に紫苑は微かに笑みを浮かべた。自分の代わりに人を斬った彼は、変わらずに人懐っこい笑みを浮かべている。人を斬った所で誰も変わらない。何も、変わらない。
「離せ」
何時までも自分を抱きしめている歳三に冷たく言って、紫苑はふっと口元を綻ばせた。彼が自分に刀を抜かせないのは自分を護ってくれているのだと分かるから責める気にはなれないのだが、それでも譲れないものもある。
男達の死体に視線を向けることもせずに、紫苑は屯所に向かって歩き出した。総司が紫苑の右腕を取り安堵したように息を吐き出す。
「紫苑姉ぇが無事でよかった」
「私が負ける訳ないだろ」
「そうだよね!」
心底安心した笑顔でそう言った総司に笑みを向けて、紫苑は隣を無言で歩く歳三に一瞥をくれた。その視線に気付いて歳三も視線だけを紫苑に向けると、紫苑の鋭い視線とぶつかり気まずくなって視線を逸らす。さっきまで月を隠していた雲は、どこかに消えていた。空に視線を移して、紫苑がゆっくりと口を開く。
「私は後悔しない」
「………」
「後悔なんてしないよ。あんたの隣を歩くって決めたのは誰でもない私だ」
「…………そうだな」
はっきりと迷いなく言い切った紫苑の眼がほんの少し憂いを含んでいるように感じられて、歳三はばつが悪そうに口の中で呟いた。
結局紫苑を一番信じられていなかったのは自分だったのかもしれない。彼女が本当に自分を愛してくれているのか自信がなかったから、いつか其れに気付いてしまったら此処についてきた事を後悔するだろうから。そんな事をさせない為に、彼女の為を思って刀を抜かせなかったのに。
「愛してる、紫苑」
「……知ってる」
紫苑の声が微かに震えた気がしたから、歳三は彼女を抱き寄せようかと躊躇っていた手で紫苑の左手を握った。一瞬だけ驚いた表情を浮かべた紫苑は、何も言わずに瞳に柔らかい笑みを浮かべて眼を細めた。
あんたの為なら、鬼にも修羅にもなると決めたのだから、絶対に後悔なんてする訳ない。
-続-
初めは戦闘シーンを書く気はなかったのに、
紫苑さんは戦いたかったらしいです。