偽浪士の件で、紫苑は謹慎処分を受けてただ一人、屯所にいた。
 新撰組の絶対の支配者である法度により、門限を過ぎた者は切腹が課せられていた。しかし紫苑の場合は止むを得ない事情があったため、謹慎処分という事になった。それが本当に、法度に従っただけだったのならば。
 あれから数日経った本日の昼頃、会津藩公用方から出陣の命が下った。壬生浪士組の初の出撃命令に局長以下全員が気合十分にだんだら模様の羽織を着込み、「誠」の文字を染め抜いた隊旗を持って戦場となるであろう蛤御門へ向かった。謹慎処分の紫苑を除いては。時は一八六三年八月一八日。世に言う八・一八の政変である。


「………腹減った」


 たった一人屯所に残された紫苑は自室の前の中庭で一人無言で竹刀を振っていたが、空腹を覚えてぼそりと呟いた。其れも其の筈で、出動命令が下ったのは昼前で其れから一人で延々と竹刀を振っていたのだ。太陽はもう真上を通り過ぎている。
 紫苑は浮かび上がる玉の汗を拭って、竹刀を廊下に放った。重石をつけた分大きな音で床に落ち、その音に紫苑は微かに眼を細める。耳鳴りのような蝉の声に小さく舌打ちを漏らして、空腹を満たす為に台所へ向かった。料理は禄に出来ないけれど、生で食べれるものがあるだろう。










 ただ歩いているだけなのに汗が流れてきて、紫苑は苦々しく顔を歪めた。途中の井戸で水を頭から被ってついでに喉を潤して、源三郎が見たら悲鳴を上げるのではないかと思う格好で台所を覗く。水を浴びた瞬間は気持ちが良かったが、直ぐにまた暑くなって張り付いた着物が気持ち悪いので脱いでしまおうかと軽く考える。


「あれ、人」


 誰もいないと思っていた台所に人の姿があり、無意識に紫苑の口から言葉が洩れた。その声に中にいた小柄な女性が振り返り、紫苑を見て可愛らしく小首を傾げた。妖艶さすら漂わせるような彼女の持つ雰囲気に、紫苑が無意識に一歩後ずさる。


「紫苑はん、ですやろ?」

「そう、だけど」


 まるで、自分と正反対だと思った。女らしい物言いも柔らかい物腰も総べて自分にないもので、紫苑が気圧されたように小声で答えると、彼女は綺麗に微笑んだ。
 彼女は紫苑を知っているが、紫苑も彼女を知っている。芹沢の女だ。菱屋の妾だった彼女は芹沢に奪われ、溺れてしまった。確かに女としては申し分ないだろうが、好きになれない。男に犯されそれで生きるなんて、紫苑には絶対に出来ない芸当だ。相容れないからこそ、臆すのだろうか。


「今日はみなはん出動やあらへんの?」

「謹慎中だから」


 一瞬だけ浮かんだ自分らしくない考えをを振り払うように紫苑は一度ゆっくりと眼を閉じて細く息を吐き出した。再び眼を開けたときには、絶対に何者にも制圧されない強い意志を含んだ紫苑がいる。甘いお梅の質問に紫苑はぶっきらぼうに答えて、かまどの上の鍋をのぞいた。しかし、何も入っていない。チッと誰に憚ることもなく不機嫌に舌を打ち鳴らして、何かないかと戸棚を探す。


「お腹空いてますのん?」

「…まぁ、それなりに」

「簡単なものやったら作りましょか?」

「………、じゃあお願い」


 背中でお梅の声を聞きいて、紫苑は一つ頷いた。腹が減っているのは事実だし、自分が探したところで見つからないのは目に見えて分かっている。其れこそ子供の頃から、源三郎は紫苑から物を隠すのが上手かった。見つからないのを承知で探していたのは、一応探さないと気が済まないからだ。
 視線だけを背後に投げると、お梅が綺麗に笑った。その笑顔を見て一瞬だけ紫苑は故郷を思い出した。多摩の地にいる友人は、今何をしているだろう。


「紫苑はん、食べられないものとかあります?」

「別にない」


 お梅が台所を動き回るのだから邪魔だろうと思って紫苑は台所の横の座敷に上がった。張り付く着物のままその場に胡坐を掻いて、動き回るお梅を何気なく見やる。其れに気付かないお梅は台所の中を馴れたように動き回っている。


「紫苑はんとお話しするん、はじめてやね」

「そーだな」

「いっつも綺麗な人や思っとったんよ」

「……自分よりも美人に褒められても喜べないんだけど」

「何言うてますのん、紫苑はん美人やで」


 たぶん自分とは正反対だろうけれど、お梅は美人だと紫苑は思う。自分が綺麗だという自覚はないし、そんな事を言うのは歳三くらいなものだったから信用ならない。良く動くお梅を見ながら、紫苑は面倒くさそうに溜息を一つ吐いた。彼女はもしかしたら、自分と似ているのかもしれない。相反するような自分たちだからこそ、もしかしたら。
 紫苑の思案するような表情に気付いて、お梅はきょとんと紫苑を見やった。憂いを含んだような眼を長い睫毛が隠していて本心は読み取れないが、何となく紫苑が落ち込んでいるように見える。


「紫苑はん?」

「ん、なに」

「どうしたん?」

「……別に」


 誤魔化すように苦笑して、紫苑は足を崩してばつが悪そうに細い指で頭を掻いた。自分の生乾きの熱を含んだ髪をかき乱して、小さく唸るとだいぶ微かに浮かんだ迷いなんて消えてしまう。片胡坐を掻いて、紫苑は片膝を引き寄せた。顎を乗せて、せっせと動いているお梅を見やる。


「お梅さんは、さ……」

「何ですの?」

「今、倖せ?」


 その声はまるで、子供のようだった。何の迷いもなく生み出された純粋なその疑問にお梅の動きが一瞬止まる。引きつった顔をどうにか笑顔にして、お梅が出来上がった料理を膳に載せて紫苑のところに向かった。


「何言うてますの。倖せに決まっとるやろ。お口に合えばええけど、どうぞ」

「なら、いい。ありがとう」


 差し出された椀を膳ごと受け取って、紫苑は笑いもせずに箸をつける。其れを微笑んでみながら、お梅は紫苑の隣に行儀よく腰を下ろした。其れを端目で見ながら、紫苑が薄味のご飯を掻きこむ。
 笑わなかったのではなくて、笑えなかった。彼女は倖せだと言ったけれど、其れが本当に幸せなのか自分には分からない。女の平凡な倖せを棄ててまで求めたものは間違っていなかった代わりに、正解でもなかったようで胸の中に疼くものがある。自分に迷いはなかったはずなのに、刀を抜くと決め手から、この地に来てから迷いが生まれた。
 本当に、自分は、此処で、倖せなど見つけられるのだろうか。


「紫苑はんには好いた男はんはいらっしゃいまへんの?」

「………いない」


 不意に聞かれて、紫苑はやや躊躇った後顔が強張らないように意識して微笑んで見せようとした。しかし、顔とは裏腹に声は硬い。仕舞ったと思ってお梅の顔を窺うと、お梅は意外そうな顔をしてから一度瞬いて微笑んだ。その顔につい、紫苑の顔が緩んでしまう。


「ウチね、よく土方はんにお会いしますのや」

「……へー」

「紫苑はんも一緒におるやろ。沖田はんとも一緒に」

「土方はん、お二人んこと大事にしとるね」


 一瞬だけ、紫苑の手が止まった。
 歳三が自分を大事にしてくれているのは知っている。多摩にいた時よりもずっと一途に自分だけを見つめてくれている。島原にも出歩く事は少ないし、いつだって紫苑と時を過ごそうとして。そして、総司も同じ。可愛い弟のようだと可愛がる。そしていつしか、其れが重い。紫苑にとって、其れが一番怖かった。自分よりもいつだって、前を見て欲しかったのに。


「紫苑はん、倖せやろ?」

「……ごちそうさま」


 顔を歪ませて、紫苑は乱暴に椀を置いた。お梅は驚いたように紫苑を見たが、黙って片づけを始める。その姿が気に食わなくて紫苑は大きく舌を打ち鳴らすと、何も言わずに台所を出て行った。
 こんなに泣きたい気分なのは何故だろう。











 ざばっと井戸の水を頭から被って、紫苑は大きく溜息を吐いた。
 さっきの自分はどうかしていたと思いなおして、縁側に置いてある愛刀に視線を移す。自分は、こいつに誓って護られに来た訳でも囲われに来た訳でもない。彼について、彼の隣を歩きたくて此処まで来た。さっき愛していると言えなかったのは、自分は迷っていたからだ。この愛し方が正しいか分からずに、でもあいつは好きな人なんかじゃない。好きなんて程の軽い言葉で表せるようならば、きっと自分は此処まできていない。


「つーか、帰ってくんの遅い!」


 そろそろ日も傾いてくる頃だと言うのに、帰ってくる気配は全くない。イライラしながら、紫苑は愛刀の隣の木刀を再び握った。普通の木刀とは違いやや細く、先端に鉛の巻いてある紫苑専用の木刀だ。筋力もつくので紫苑の愛用品だが、たまに総司が使っているらしい。
 其れを振り下ろしながら、紫苑は無意識に唇を噛んだ。一人になると、考えが堂々巡りして自分の首を絞めているようだ。


「……紫苑はん」


 背後に気配は感じたが、紫苑は振り返らなかった。戸惑ったような声が木刀が風を切る音の間からか細く聞こえても、紫苑は手を止めない。返事の変わりに視線だけを彼女に向けると、お梅はばつが悪そうに俯いて紫苑から顔を逸らした。居心地の悪い沈黙を、風の唸りだけが斬りきざむ。


「あの……」

「………」

「…気ぃ悪くさせること言うたやろ……」

「……別に」


 先ほどのことを謝りに来たらしいお梅に紫苑はぶっきら棒に呟いた。まだ不安そうなお梅の顔にこちらの方が悪者のような気がしてきて、紫苑は手を止めて汗を拭って縁側に腰を下ろした。其処からは、風邪に揺られて紫の蕾をつけた花が見える。いつの間にか蕾をつけた、自分の花は自分のように頑なに世界を拒絶している。


「別に、私が餓鬼だっただけだから気にしないで」

「……せやかて……」

「お梅さんは悪くない。むしろ吹っ切れた」


 自分の生き方が、間違っていないのだと改めて信じられた。自分はそう、まだ蕾の花のように世界を拒絶して蹲っていただけだった。
 自分が正しく、周りは正しくないと思い込んで、自分以外の答えを見ようとしなかった。人は余りにも違うのに、答えは一つだと思おうとしていた。その中で自分の正しさが証明されたかった。でも人は絶対に一人なんかじゃなくて、答えはたくさんある。生き方も、死に方も。
 紫苑は微かに笑んで、木刀を傍らに置くとその場に寝転んだ。ひんやりした板張りの床の感触がほてった体に心地よく、紫苑は眼を細める。その顔を覗き込んで、お梅が不思議そうに顔を傾げた。つくづく自分と似ていないと内心苦笑して、紫苑は眼を閉じる。お梅が隣に座る気配がした。


「私はあんたみたいに生きられない。でも、私の生き方は間違ってない」

「紫苑はんの、生き方?」

「そ。私はぬくぬく愛されるのなんて真っ平御免だ。どうせならアイツの隣で死にたい」

「………わからへん」

「分からなくていい。それが私とあんたの違い」


 眼を閉じたまま言って、床がぬるくなってしまったしはっきりと言葉にした照れを含んだ顔をお梅に見られたくなかったので紫苑はゴロンとお梅に背を向けた。
 自分たちは正反対だからこそきっと、惹かれあっているのだと思う。かつて、自分が友人とそうだったように。故郷にいる友人も、自分とは正反対でまるで姫のような女だった。彼女は守ってあげなければと言う気がしていたが、確かに羨ましくもあった。護られるように、弱い女でいれたらどれだけ良かっただろうか、と。しかし、自分は自分にしかなれないのだから、せめてこの名に恥じないように、同じ名を持つ花よように生きたいと思った。


「紫苑はん、格好良い」

「まぁね」

「ウチ、紫苑はんの事好きやで?良い友達になれそうや」

「……そうだね」


 自分たちは正反対なのだから。
 お梅に気付かれないように紫苑は苦笑して、そのまま静かになった縁側で会話もせずに黙っていた。それだけでも、十分だと思えた。









 ――取らないで!

 それだけは奪わないで!他に何もいらないから!!

 泣き叫ぶような声が聞こえた気がして、紫苑は眼を覚ました。意識だけ覚醒したが眼を開けるのが億劫で、小さく唸る。瞼の向こう側から柔らかい灯りが透けて見えて、その光に何故か安堵して紫苑はもう一度眠ってしまおうかと思った。それほどこのほの暗いこの空間が心地よかった。誰かの気配はするけれど、体に馴染んだ其れが心地よくて怒る気にも擦り寄る気にもなれない。
 明かりに背を向けるように寝返りを打って自分の腕を枕代わりに抱きこんで、再び浮かぶような微睡へ落ちようとする。


「紫苑?」


 寝ようと思ったら瞼の裏に影が落ちて、耳元を生ぬるい吐息が擽った。囁くような声を無視して紫苑が耳を覆うように腕を持ち上げると、その腕を節くれだった手が握りこむ。体を起こすのも億劫なので、紫苑は観念したように小さく息を吐くとうっすらと思い瞼を押し上げた。


「……何」

「別に何でもねぇよ」


 聞きなれた紫苑の寝起きの不機嫌な声に苦笑して、紫苑の腕を握ったまま歳三が文机に置いてあった句帳を懐に仕舞いこんだ。それまで紫苑の文机にうずたかく積まれていたゴミや刀の手入れをした懐紙などは部屋の隅に積んであり、今にも崩れそうになっている。
 その光景を目の端で捉えて、紫苑は微かに眼を細めた。重い瞼を閉じたくて手で視界を覆うと心なしか目元が熱く、紫苑は不思議に思ってゆっくりと体を起こした。感触を確かめるようにゆっくりと指を這わすと、長い睫毛が湿り気を帯びている。そういえば、何かの夢を見たことを思い出す。


「歳」

「ん?」

「おかえり」

「……あぁ、ただいま」


 眼を細めて笑うと、歳三は一瞬きょとんと紫苑を見て次いで柔らかい笑みを浮かべるとそっと手を伸ばした。紫苑の瞼に優しく触れて、睫毛を濡らした雫を掬い取る。湿った指に歳三が微かに眉を寄せたから、紫苑はばつが悪くなって歳三から顔を逸らして壁に背を預けて片胡坐を掻いた。視線を向けるところがなく、抱き寄せた膝に視線を落す。


「夢をみた」

「夢?」

「小さい頃からずっと見ている、知らない夢」


 上も下も前も後ろも分からない真っ暗な世界で、ただ意識だけがある。自分の姿も一筋の光さえも見えないのに意識だけは確かに感じられる。狂ってしまいそうなほどの悲鳴だけが、自分の中にあった。幼い頃から何度も見ている同じ夢。何時だって自分は何かに向かって叫び続けているのだ。それだけは取らないで、と。気が付くと涙が溢れているのも変わらない事で、其れが怖くなる。
 自分の体を抱くように腕を回して、何処か白い顔をして震えをこらえているような紫苑に腕を伸ばして、歳三は彼女の耳朶に囁きを落とした。昔から彼女は変わらないから。強がって何でもない振りをしているのに自分の前ではほんの少しの本心を見せてくれるその姿が変わっていないから、変わらずに護りたくなる。


「俺は此処にいるだろう。ずっとお前といる」

「……うん、お帰り」


 至近距離で歳三の真剣な顔を見つめて、紫苑は微かに微笑を刷いた。まだ何処か強張った体は震えているが、きっともう迷いなんてない。そう思って紫苑は大きく息を吸った。この息を吐いたら、きっと変わらない自分に戻れる。今までと同じ、強い自分に。

 だから、私はもう迷わずにあんたの隣で刀を抜くよ。





-続-

紫苑さんにお友達が出来ました。