後に「八・十八の政変」と呼ばれる事件の翌日、長州軍は国元に落ち延びようと全軍が撤退した。しかし軍は撤退したものの、素浪人は依然京の町中に身を潜めていた。警戒のため浪士組は町中の警備を厚くし、終始怖い顔をして京を歩いていた。これが『壬生狼』と呼ばれる所以になったのだろう。
 市内ではそうであっても、屯所にいるときの隊士たちはずっと気を張り詰めていた訳ではなく、道場での稽古や置屋遊びなど適度な娯楽に溺れていた。それは特に芹沢や新見などが目に付いたが、彼らも例外ではなかった。


「紫苑、お梅さんと仲良くなったんだろ?」

「仲良くっつーか……まぁ」

「羨ましいぜ!超美人だもんなぁ」

「紫苑さんも美人ですよ!」


 紫苑の部屋で部屋の主である紫苑と、新八、左之助、平助、総司がだらだらと酒を片手に話していた。よく晴れているので外に出るには暑すぎて外に出る気すら失せるのだ。
 紫苑に寄りかかって寝ている総司を邪魔そうに払い除けて、紫苑は猪口を空にした。さっきまでの話題は、昨日の出動の詳細だった。実際の戦闘こそなかったものの、御所警備という仕事は全うできたので良しとしている。いかにして暇を潰したかというくだらない事この上ない話題だったのだが、いつの間にか話は逸れて謹慎処分の紫苑がいかにお梅と仲良くなったかの話をしていた。紫苑としては仲良くなった訳ではないのだが、野郎から見ると女同士の話が気になるらしい。


「どんな人?マジで芹沢局長の女って感じ?」

「あー……私と正反対な感じ?」

「じゃあいい女だな!」

「何言ってんだ左之。紫苑さんよりいい女なんかいるもんか」

「何言ってんだ平助!紫苑のどこが女なんだよ!?」


 若干聞き捨てならないことを言っている気がしないでもないが、平助と左之助の言い争いを無視して紫苑は自分に体を預けていた総司の顔を覗き込んだ。眠いのだろうか、今にも瞼がくっつきそうになっている。たたき起こそうかと思って総司の額に触れた瞬間、紫苑は常と違う状態に気付いて身震いした。子供の頃から総司は紫苑に甘えるように体を寄せてくることが頻繁にあったし、今もそれは変わっていない。だからこそ分かるのかもしれないが、総司の額が熱い気がする。紫苑は顔を寄せて、総司の耳元にそっと囁きを落とした。


「総司?」

「んー……何、紫苑姉ぇ?」

「お前、熱ある?」


 紫苑の真面目な顔に総司は一瞬口篭り、誤魔化すようにふいと顔を逸らすと紫苑の崩れた膝に乗って顔を逃がすようにぐりぐりと紫苑に押し付けた。子供の頃から変わらない行動に、紫苑は自分の事を棚に上げて米神に青筋を浮かべた。紫苑自身にも熱を出すと源三郎に甘える癖があることを彼女は気付いていない。紫苑は一度溜め息を吐き出すと、後ろに手をついて体重を乗せ、「源兄ぃー!!」と腹の底から叫んだ。いきなりの叫び声に言い争っていた平助や左之助はもちろん、それをにまにま見ていた新八も驚いた顔で動きを止めた。総司だけが不機嫌な声で「うるさい……」と呟く。
 すぐに廊下からせわしない足音が聞こえたかと思うと、躊躇いも遠慮もなく部屋の襖が開いた。


「紫苑!用事があるならお前から出向くのが……そんな格好をしてるんじゃない!」


 やってくるなり小言を並べ、男物の着物で片胡坐を掻いている紫苑に源三郎は叫び声に似た怒声を上げた。けれど聞きなれている紫苑は煩そうに顔を歪め、無言で自分の腰にしがみ付いている総司を指出した。源三郎が不思議そうな顔をするので、溜め息混じりに言う。


「熱出した」

「総司が?珍しいな」

「僕、大丈夫ぅ」


 大丈夫ではないだろう甘える声で総司が言うので、紫苑と源三郎は揃って溜め息を吐き出した。幼い頃から総司はそうだった。心配と言うものを掛けたがらない。紫苑に対しては迷惑は掛けるのに、心配を掛けようとはしなかった。余計厄介だと紫苑は思っているが、幼い頃からなのでもうなれた物だ。紫苑が自分の腰から総司の腕を引き剥がすと、すかさず源三郎が総司を担ぎ上げる。強制連行される総司を見送って、紫苑は薄く微笑んだ。


「紫苑姉ぇも来てぇ?」


 総司の泣きそうな声に紫苑は溜め息を吐き出して、けれどいつものように暴言を吐くではなく立ち上がった。苦笑した源三郎の「相変わらず総司は紫苑に懐いているな」という声を無視して、紫苑は源三郎の後ろに続いて部屋を出て行く。
 その時、歳三とばったりあった。何となく昨夜を思い出して気恥ずかしくなって紫苑があからさまに顔を逸らすと、僅かに歳三が不思議そうに眉を寄せたがすぐに源三郎に担がれて苦しそうに呼吸している総司にほんの少し切れ長の目を見開いた。歳三の僅かな変化に紫苑だけが気付き、無理矢理微笑を浮かべる。


「熱だしたみたい」

「……源さん、総司に少し話があるんだがいいか?」

「まぁ、構わないが……仕事か?」

「それから、永倉がどこにいるか知っているか?」

「そこで呑んでるけど」


 紫苑が後ろを指差すと、紫苑の部屋だというのに居座る気満々で呑んでいた三人が揃って顔を見合わせた。新八だけが立ち上がると、歳三は左之助と平助を軽く睨みつけた。


「藤堂、原田。酒を呑んでいる暇があるなら道場でも見回りでも行って来い」


 歳三の冷えた声音に二人は体を竦ませて、すぐに残っている酒を両手に持てるだけ持つと部屋を飛び出していく。どこか別の場所で呑むつもりだろうが歳三は何も言わずに残った彼らを促して総司の部屋まで歩き出した。
 総司の部屋は紫苑の部屋の隣に位置している。けれど調度品のおかげで直接繋がってはおらず、廊下を通らなければならない。源三郎は部屋に入るとテキパキと布団を敷き、総司を寝かせる。それを待って歳三は総司の左側に、紫苑と新八は右側に並んで腰を下ろした。


「この話は誰にも漏らすな、いいな」


 歳三の固い声音に紫苑はすっと背筋を正した。歳三の声からもそうだがそれ以上に、彼の姿から変わったのが分かった。未練がましく紫苑に刀を抜かせなかった歳三が、今日はそのことを排除しているような雰囲気で紫苑を見ている。紫苑は女ではなく仲間だと認められたようで、紫苑は自らの顔を引き締める。きっと今まで無意識の甘えがあった。橘紫苑は女で、歳三の女なのだと心のどこかで思っていたのかもしれない。そんな自分に吐き気もするが、これで終わりになるだろう。もとより後戻りをする気はない。
 普段なら紫苑をみて一度視線を留める歳三が、しかし今日は自然に新八に視線を移した。


「永倉。お前は芹沢局長と親しいようだが」

「まぁ、同門だからな」


 疑う視線に新八は肩を竦めた。まるで新八の事を疑ってでもいるような歳三の視線にぼんやりと見ていた総司は物言いたげに乾いた唇を割るが、声を出す前に紫苑の指が総司の唇を塞ぐ。再び口を噤んで総司が紫苑を不満気に見やると、紫苑は薄く笑っていた。


「悪いが、そのまま関係を続けてくれ。俺が欲しいのは奴の確実な罪の証拠だ」

「了解」


 口の端を引き上げた歳三につられて新八もにやりと笑った。総司が目を白黒させていると、紫苑が顔を寄せて馬鹿にしたように事情を説明してくれる。実は、芹沢の暗殺命令が数日前から下っていたのだ。けれどそれは先日の戦いの為に実行されていなかった。行動を起こす事ができるようになり、歳三はまず芹沢の罪の証拠を抑える所から始めた。目的を分かっている新八は兼ねてから極力芹沢と親密に生活してきた。だから、新入隊士やあまり親しくない人間には新八は芹沢派であるかのように見えていた。
 紫苑の説明でやっと納得した総司の頭を満足そうに紫苑が撫でると、今度は紫苑が歳三に名を呼ばれた。


「紫苑。お前、あの女と親しくなったらしいな」

「親しいって言うかなんて言うか……誰から聞いたの」

「源さんが嬉しそうに吹聴して回ってる」

「………あの小姑は」

「あの女からできるだけ情報を引き出せ。女のお前にしか出来ない」


 歳三の言葉に心臓を掴れたかと思って、紫苑は息を詰めた。『女』の紫苑にしか出来ないとはどういう意味なのか、単純に取る事は出来ないけれど喜ぶべきことではないような気がする。女だからとかそういうことを、この男にだけは言って欲しくないのだ。
 紫苑の思いが顔に出ていたのだろうか、歳三が渋い顔をして紫苑を見た。その顔はいつも見ていた歳三の顔ではなかった。強いて名をつけるのなら、『鬼の顔』とでも言うべきだろうか。


「俺は利用できるものは全て使う。お前だって例外じゃない」

「ま、土方さんも抱かれろって言ってる訳じゃねぇんだし」

「……分かってる……」


 本当に分かっていた。自分がそれを望んでいた事も、これが本来の理想の形なのだということも。誰かに聞かれたら、ただのわがままだと言われるだろう事を紫苑は自覚していた。けれど、『女』でありたくなかったのだ。『女』は、護られるべきものだから。そうありたくないと思いながら、そうあるべきだと思ってきた。だからきっと紫苑は我武者羅に強くなろうとしたのだろう。


「……雪に、会いたいな」


 歳三が総司にも新八に言った事と同じ事を言うのを聞きながら、紫苑は無意識に総司の髪を撫で呟いた。江戸にいた頃、一番仲の良かった友人は今どうしているだろう。旦那もある身でありながら「紫苑が一番好き」と言ってくれた彼女は、またあの頃と変わらずに自分の事を見てくれるだろうか。自分と正反対のお姫様のような女の子が、急に恋しくなった。それは分かったつもりはないのに、どこかが変わり始めている証拠だった。
 紫苑の声に気付かないふりをして、歳三は総司に「ゆっくり休むんだぞ」と昔から変わらない優しい笑みでそう言って、部屋を出て行った。続いて新八も腰を上げるので紫苑も立ち上がろうとしたら、総司に着物の裾をつかまれた。紫苑が溜め息混じりに総司を見ると、涙目で淋しそうに顔を歪めた。


「紫苑姉ぇも行っちゃうの?」

「だぁー、もう!分かったから泣くな!」


 紫苑はいつもと変わらずにがなると、ドカッとその場に腰を下ろした。それを見ていた新八は「後で酒かなんか持って来てやるからなー」と言いながらさっさと退却してしまった。歳三はそんな紫苑を見ていたが、何も言わずにほんの少し瞳を翳らせると部屋を出て行ってしまった。襖が閉まった後に足音が聞こえなくなるまで待って、紫苑は深く溜め息を吐き出した。


「でも、これで良かったかも」

「何が?」

「アンタが引き止めてくれたから仕事しなくていいって事」


 そういって笑って見せたけれど、総司は不思議そうな目をしていた。口の中で紫苑が「何だよ」と呟くが、総司はゆっくりと紫苑に手を伸ばした。紫苑の冷たい手を握って心地良さそうに目を細めてから、ゆっくりと言った。


「何か、紫苑姉ぇ変だよ」

「変じゃねぇよ」


 紫苑は笑って総司の頭を乱暴にかき回した。紫苑自身自覚はしていないが、僅かな変化があった。それは常人では気付かないだろうが人一倍人の感情に聡く、幼い頃から紫苑と同じ時間を過ごした総司には簡単に分かってしまった。総司の言葉で自身の変化を自覚した紫苑は、それが今まで心の奥底に沈めていた感情だけに誤魔化すように表情を作る。もしかしたら歳三にも気付かれたかもしれない変化に改めて背筋を冷やした。自分は、常に強く対等にありたいと願ってきたのに。


「総司、薬飲めるか?」

「苦いからやだぁ」

「何だ、紫苑もいたのか」


 薬と水をお盆で持ってきた源三郎は、部屋の中にいた紫苑の姿にいつものように怒るのではなくにこりと微笑んだ。紫苑と反対の総司の枕元に腰を下ろすと、総司が逃げるように紫苑の方に逃げた。いつもは鬱陶しそうに引き剥がす紫苑だが、今日だけは何も言わずに総司の背を優しく叩いた。苦しそうな笑みすら浮かべるその姿に、源三郎は顔を翳らせる。


「紫苑、何かあったのか?」

「別に何もないけど。変な源兄ぃ」

「……それなら、いいんだ」


 もう相談もしてくれないのかと僅かに落胆して、源三郎は微笑んだ。ここ数日で歳三も変わったが、紫苑も変わった。今まで頑なに強くあろうとしていたけれど、僅かに揺らぎ始めている。それを喜んでいいのかは分からなかったが、源三郎はふわりと体を持ち上げると紫苑を抱きしめた。幼かった妹の成長は淋しくもあり、嬉しくもあるものだ。驚く紫苑だが、何も言わずにそのままでいた。源三郎の腕の中は気持ちがいい。歳三とは違う意味で安心させられて、紫苑はゆるゆると腕を持ち上げると源三郎の背に回す。僅かに香ってきた汗の匂いに、不意に泣きそうになった。


「汗臭い」

「……我慢しろ」


 源三郎が幼子をあやすように紫苑の背を叩くと、背に回された紫苑の手に力が篭る。けれど、紫苑は涙を流さなかった。
 その時、軽快な足音が聞こえてきて部屋の前で止まった。ほぼ同時に襖が開き、源三郎と紫苑が顔を上げると、新八が大きな目を更に大きく瞬かせていた。


「何してんの、二人して」

「別に何も」


 さらっと言って、紫苑は源三郎の腕から抜け出して立ち上がると新八が持っていた酒瓶を受け取って微笑んだ。
 迷いなんてない、そう思っていたけれどそれはただ胸につかえる小骨のようなものを無理矢理押し付けて隠していただけなのだ。それが露呈した今、紫苑は正面からそれと立ち向かうだろう。けれど、心の中では結果は出ている。だから、紫苑は笑えた。

 どのみち、もう戻ることは私自身が許さない。




-続-

やっと暗殺する方向に話が進んでくれました。
この回紫苑さん格好良くないですよね?