総司の高熱は二日続いたが、三日目には熱は引き総司自身はけろっとしていた。その間ずっと総司に付きっ切りだった紫苑はやっと隊務に戻れるはずだったが、源三郎に医者に見せて来いと何故か紫苑が怒られたので二人は久しぶりに連れ立って私服姿で歩いた。町医者の前で、総司は口を尖らせる。


「紫苑姉ぇ、ついて来ないでよ」

「昨日までピーピー泣いて『一緒にいて』って言ってたくせに」

「泣いてないよ!」

「はいはい。じゃあ適当な時間に迎えに来るから」


 紫苑はいつだって適当で総司の好きにさせる。幼い頃はそれが淋しかったけれど、今はありがたかった。総司はさっさと背を向けて歩き出してしまった紫苑を見つめて、少し目を眇める。この間から様子がおかしいことには気づいている。熱でうなされていたとは言えずっと一緒にいたのだ。気づかない訳がない。歳三に仕事を任されてから、ぼんやりしていることが多くなったように思えるのは総司の気のせいではないはずだ。


「何か御用なん?」


 不意に生まれた気配に息を飲んで総司は振り返ったが、眼に入ったのは可愛らしい少女だった。少女と言うにはもう少し大人を感じさせる体つきをしていたが、彼女の雰囲気からは少女と言う言葉を連想させた。
 彼女はきょとんと小首を傾げて、にこりと微笑んだ。今まで見たことのないような柔らかな笑みに総司の心臓は突然大きく跳ねる。顔が熱くなってきて頭が真っ白になって口をパクパクしていると、彼女は合点したように小さな手を口の前で合わせた。


「もしかして、患者はん?」

「あ、はい……あの」

「そんなトコに突っ立とらんと、入ってくださいまし」


 促されて、総司はそろそろと足を進めた。熱い体もドキドキと脈打つ鼓動も総司は何も分からなかった。帰ったら紫苑姉ぇと歳兄ぃに相談しないといけないと頭の片隅で訳の分からないことを考えながら、総司は診察室に入った。










 総司と別れた紫苑は、どうせ仕事がないならばと京で通いなれたある店に足を運んだ。年取った男性が一人で経営しているこの店に紫苑が密かに通っていることは誰も知らない。源三郎辺りが知ったら怒鳴り散らすだろう、刺青屋だ。
 店主は紫苑が入ると無愛想な顔を僅かに綻ばせた。けれど眉間に皺を寄せたまま無言で部屋の一箇所を指差すだけだった。店主の前の畳の上は最近やっと紫苑が座らせてもらえるようになった客の席だ。


「ども。下絵できました?」

「おう。にしても、女が本当に彫るのか」


 腹にじかに響くような低い声だ。慣れたようにそれを聞きながら紫苑は躊躇いなく頷いた。京に来てから紫苑は刺青を入れようと思っていたけれど、だいぶ延び延びになってしまっている。下絵が出来ていないというものあるけれど、それ以上にまだ引き返せる気がしていた。まだ人を斬っていないという甘えと女だからという最悪の甘言。けれどもう引き返せない。引き換えさない。その為に誓いを一つ、立てたくなった。


「聞いてよ、オヤッサン」


 ひらりと自分の目の前に示された半紙には、綺麗な紫で紫苑の花が画かれている。長くしなやかな茎は長く伸び、すっと溶けるように消えている。まるで望月の光に冴冴と晒されているあの花のようで紫苑は満足そうに一つ頷いた。


「江戸の友達から手紙がきたの。子供が生まれたって」

「めでてぇじゃねぇか」

「なんか、淋しくて」


 江戸で別れた親友から手紙が来たのは昨日のことだ。書面には近況と出産の報告が可愛らしい文字で書いてあり、その紙に紫苑の心はかき乱された。今まで彼女が結婚した時も妊娠した時も取り乱しはしなかったのに急に焦燥のような慟哭のような妙な気分になり、逆にそれが苛立たしかった。大事な親友を祝福してあげたいのに、素直にそんな気持ちになれなかった。自分が思い通りにならなくて、もどかしい。


「悩め、餓鬼」


 僅かに笑みを含んだ声で言われ、紫苑は思わず顔を上げた。しかし店主の顔はいつも通りのしかめっ面で、変わったところなどない。紫苑の周りに、今そんなことを相談できる人間がいないのは事実だ。歳三も源三郎も隊務に一生懸命で煩わせたくはない。それが理由だとは思いたくないけれど、紫苑はそれを誤魔化す為に軽く頷いた。
 店主が「ん」と手を促すので大人しく腕を出すと、いつの間に用意したのか下絵を描く用の道具が用意してあった。


「雪に子供ができた時、ちゃんとおめでとうって思った」

「……動くなよ」

「私が変わっちゃったのかなぁ」

「確認しとくが、この向きで良いんだろうな」


 筆が腕の上を滑るのを何気なく見やりながら紫苑が呟いていると、店主は淡々とした口調で全く関係のないことを告げた。紫苑にとっては独り言に突っ込まれる方が嫌なのでありがたいと思い、軽く頷いた。紫苑の手首の外側から肘にかけて花の絵が描かれている。普通は逆の向きだとは思うが、紫苑はこれで良かった。これはただの誓いではない。誓いと証拠。そして罪の証。そして、目的。だから刀を構えて魅えるくらいがいい。


「これでいい。でも、彫るのはちょっと待って……」

「怖気付いたか?」

「そうじゃなくて、ちょっと」


 理由になっていない答えだが、紫苑の顔が不安そうに歪んだのを見て取って店主は黙って筆を動かした。するする描かれる紫苑の花は誓い。『紫苑』のようにあることを忘れないように。そして対等であることを、忘れないように。










 腕に下絵だけ書いてもらって店を後にした紫苑は、総司を迎えに町医者のところまで行った。紫苑が着くとちょうど総司も終わった所だったのだろうか玄関口に立っている。紫苑は左手を軽く上げて総司に合図した。ぱっとまだ赤い顔で見てくる横に、小柄な少女が立っていた。紫苑が小さく首を傾げると、総司が声を荒げる。


「遅いよ紫苑姉ぇ!」

「悪い悪い」


 軽く左手を顔の前に持ってきて謝る振りをすると、総司が早く帰ろうとでも言うように駆け寄ってきた。紫苑が「病み上がりが走るんじゃねぇ」とがなるが総司は軽く返事をしただけだった。その様子に違和感を感じて、紫苑は総司の額に手を乗せた。まだ顔は熱いけれど、風邪という訳ではなさそうだ。手を振り払って無理矢理引っ張って帰ろうとする総司の額にデコピンを食らわせて、紫苑は玄関先の少女を見た。紫苑の視線に気づくと彼女はにこりと微笑んで軽く会釈する。


「総司。お前どのくらい前に診察終わった?」

「半刻くらい前だよ。早く帰ろうよ」


 急かす総司の慌てた態度と熱い顔。そしてずっと見送りしてくれた少女。全てが繋がって紫苑はにやりと笑んだ。その笑みは自分の中の違和感を誤魔化すようなものだったけれど、総司は気づかなかった。


「総司の初恋かぁ。帰ったら義父さんに手紙書かないと」

「違うよ!紫苑姉ぇの莫迦!!」

「どこが違うんだぁ?」


 紫苑がからかうように笑うと、総司はぼっと頬を染めて繋いだ手をぎゅっと握った。完全に一目惚れかなと思いながら紫苑は更に総司をからかいにかかる。自分の事を考えなければならない事は分かっている。けれどどうしても目を逸らしたくなって、それが更にあとで紫苑を苦しめる。けれど、問題からは逃げ出したい。今はきっと、支えになってくれる人間はいない。


「総司にとって支えになってくれる人間て誰だろうな」

「紫苑姉ぇだよ。僕が紫苑姉ぇを守るからね」

「いらねぇよ」


 戦場に身を置いて、きっと一人で立てる人間なんていない。歳三には紫苑は自分がついていると言える。けれど紫苑自身は歳三が支えになるとは思えなかった。それは甘えと同一で、一度寄りかかったらもう戻れなくなってしまいそうだから。独りで立つ勇気なんてないくせに強がる所がダメなのかと紫苑は思っているけれど、それ以外に方法はないことも分かっている。
 だから、総司には幸せな恋をしてもらいたい。その女性が雪みたいに柔らかい思いで守ってくれるような女性なら尚更。


「あの子、なんて言うの?」

「……お香さん」

「おこう、ね」


 数度紫苑が納得顔で頷くと、総司は顔を真っ赤にして怒り出した。それが面白くて紫苑はカラカラ笑って総司の頭を撫でた。すると総司は萎れるように大人しくなって黙ってしまった。これは相当本気なんだなと思いながら、紫苑は総司の頭を撫で続けた。










 部屋で一人で腕に描かれた紫苑の花を見つめていると、先ほどの感情がぶり返してきた。祝福できるはずだったのに浮かんでこない感情も代わりのように湧きあがってきた虚無感も、もしかしたら全て自分が原因ではないかと思い出してきて背筋が冷えた。


「紫苑はん、起きてはります?」


 お梅の声が襖の向こうから聞こえて、紫苑が「起きてるけど」と言うとそっと襖が開いてお梅がきちんと化粧をした顔を覗かせた。にこりと微笑むので紫苑もつられるように引きつった笑顔を返すと、お梅は膳を持って入ってきた。その膳には銚子と漬物が乗っている。無意識に紫苑は「歳三が漬物好きなんだよな」と考えて、意識した途端にそれを振り払うように強く頭を振った。


「お漬物いただいたんやけど、紫苑はん好きかと思うて」

「ありがと。好きだよ」


 紫苑は手早く腕を隠すと膝で歩いてお梅が膳を置いたところまで行った。上には紫苑の分の酒しかないが、お梅は酒が苦手らしい。よく気がつく人だと改めて感心しながら紫苑が手酌で酒を注ぐと頬を膨らませて「次からお酌させてね」とお梅が言う。その女性らしい仕草が可愛らしくて紫苑はぐいっと猪口の中の酒を一気に飲み干した。
 本当は、分かった気がした。沈んでいる感情の正体も、原因も。でもそれは認めたくなかった。だから、それを忘れる為に胸にぽっかり空いた空洞を埋めるように酒を流し込む。


「何で私の所に持って来たの?芹沢先生にでも持っていけばいいのに」

「先生には別に持って行ったで。これは紫苑はんの分や」

「……親友にね、子供が生まれたんだって」


 酔いが回ってきたのだろうか、紫苑は呟いた。まだ酔っていないことは分かっているけれど、全てを酔いのせいにしてしまいたい。明日、また笑って今日の事を誤魔化す為に。
 江戸にいる友人は日々を過ごしている。ちゃんと前に向かって進んでいる。紫苑が彼女を心から祝福できなかったのは、紫苑が立ち止まっていたからだ。変わったはずなのに変わりたくなくて目を逸らして変わった振りをしていた。そして周りが変わることも怖がった。


「そりゃおめでたいどすな」

「おめでたいこと、なんだよね」


 変わったら失われるものがある。それは本能的に紫苑の中に渦巻いている。過去全てを失ったことがある紫苑だから、失う事を過剰なまでに恐れていることを誰が知っているだろうか。そしてそれに気づく者は、たった一人しかいない。
 変わりゆく中で失われる事を紫苑は極端に恐れ、だから変われなかった。女を棄てると言ったときも捨てたつもりで自分の心に嘘をついた。その方が辛くはなかった。失ったらもう二度と手に入らないことを紫苑は知っている。だから他人が前に進んでいる姿に戸惑いを覚えた。けれど進むことは当たり前の事だ。そして紫苑だけがまだ同じ場所に立っている。


「私は成長しないから」

「……紫苑はん?」


 その場で立ち止まってしまっている紫苑は置いていかれている。そう感じてもおかしくはない。そして紫苑は、置いていかれることを恐れている。失うことも置いていかれることも、全ては紫苑の手のひらから零れ落ちることをあらわしている。それを恐れている。けれど気づいてしまった。もう、誤魔化せない。


「ごめん、ありがとう。ちょっとすっきりした」

「紫苑はんは優しいんやね」

「……優しくなんてないよ」

「優しい。優しいから悩むんよ。大丈夫やで、みぃんな紫苑はんのこと置いていったりせぇへん」


 にっこりと笑ったお梅に紫苑はぞくりと背筋に泡立つものを感じた。そう言ったお梅はもうすぐ紫苑の目の前から消えるだろう。きっと今の隊士もどんどん離脱や死別を繰り返す。それは、この戦場に置いては当然のこと。それが妙に現実味を帯びて紫苑の中に伝わって、紫苑は軽く唇を噛んだ。何か選択する必要はもうない。答えは決まっている。
 不思議そうな顔をしているお梅に微笑みかけて、紫苑は彼女が酌をして注いでくれた酒を飲み干した。

 私はもう前に進むしかないのだから。




-続-

歳さんが出てきてません。
そして総司の恋が勃発しました。