消えないようにと巻いた手首の包帯を何気なく撫でながら、紫苑は窓辺に頬杖をついてぼんやりしていた。視線の先では、紫苑の部屋にも関わらず総司と平助がくつろいでいる。二人が将棋を指しているのを眺めながら、紫苑はいつまでも頭の中を回り続ける醜悪な感情について考え続ける。
 進んでいく時と、立ち止まっている自分。進んでいると思っていたけれど、結局どこにも行けずにいたのだ。


「紫苑さん。ねぇ、紫苑さん」

「ん、何?」


 平助に声を掛けられて、紫苑は思考を中断させた。特に微笑んでやるでもなく首を僅かに傾げると、平助は心配そうな顔で紫苑の腕を見下ろした。その視線を追って紫苑も視線を落とし、やや考えて納得する。何度か落そうと思ったけれど、結局落とすことが出来なくて隠すように包帯を巻いたのは利き腕の右腕だ。これを腕に彫る勇気が無い訳ではないけれどまだ思い切ることができないのは、やはり覚悟が足りないからだろうか。


「怪我したんですか?」

「違う違う。ちょっと、隠し事?」

「なになに紫苑姉ぇ。僕に教えて!」

「やなこった」


 身を乗り出してきた総司から隠すように腕を背中に回し、紫苑は無理矢理笑って見せた。本当は笑えるような気分じゃない。けれど笑っていなければ迷っている事がばれてしまうから。この想いを誰かに悟られる訳にはいかない紫苑は、無理に笑うしかない。彼女自身がいつから自分がこんなに器用になったのか分からないけれど、いつの間にか笑っていた。
 その顔を平助が納得いかないような表情で見ているのを、誰も気づかない。その時、声をかけるでもなく新八が入ってきた。


「紫苑、芹沢さんが散歩に行かないかって行ってんだけど行こうぜ」

「……面倒くさい」

「そう言うなって。これも仕事のうち、芹沢さんが紫苑とってご指名だ」

「僕も行く!」


 にやりと笑った新八に紫苑は心底面倒くさそうに顔を歪めた。面倒くさいこともあるが芹沢は好きではないし、何よりも仕事が心配だった。何となく支障がでそうで彼にはあまり近づきたくないのが本音だ。けれど新八の表情からこれも必要な事で歳三の指示でもあるのだろうことが安易に想像できるので、紫苑は億劫ながらも着物を直しながら立ち上がった。一緒に行こうとする総司の額を叩いて、追い払うような仕草をする。


「お前は入隊審査だろ。とっとと道場行って来い」

「僕も行きたい!」

「さっさと行け。代わりに平助、一緒に行く?」

「い、いいんですか!?」


 ぶすっくれて立ち上がった総司の姿に紫苑は軽く肩を竦め、少し思案してから居辛そうにしている平助に声をかけた。窺うように新八を見れば、特に何も言わないので問題ないだろう。平助の妙に嬉しそうな顔が少し引っかかったけれど、彼がにこにこしているはいつもの事なので気にしないことにして紫苑は刀を手にした。新八の話では、嵐山の方に行くらしい。この暑い中面倒くさいなと顔に書きながら、紫苑は右腕の包帯に触れた。










 藤堂平助も沖田総司もまだ若い。歳若い平助などまだ一九だ。だからだろう、コロコロと表情がよく変わる。紫苑には記憶にないが、これは若いからだろうか。いや、同じ若さでも斉藤一は無表情と言っていいほどに変わらないから性格だろう。そう結論出して、紫苑はまた平助の顔を盗み見た。屯所を出るまで元気だったのだが、歩いているうちに元気がなくなったように見えた。


「平助。どうかしたか?」

「え、何でですか!?」


 そっと問いかけると、平助は少し顔を引きつらせて大げさに驚いた。わざとらしい台詞にもきょろきょろと意味もなく周りを見回す仕草も全てが芝居めいて見えて、紫苑は目を眇めた。総司も怒ったり笑ったりと忙しく表情を変えるが、平助は総司のそれとは異なっているように見える。彼は、笑っている所しか人に見せない。


「いつもの笑顔はどうした。品切れか?」

「え…や、やだなぁ。笑ってるじゃないですか、ほら」

「……たまには、落ち込んでもいいぞ。受け止めてやるから」


 無理矢理笑みを浮かべた平助の頭にぽんと手を置いて、紫苑は呟いた。気づいたのだ。屯所のすぐ近くに藤堂藩の藩邸があるのだ。そして平助は藤堂侯の落胤だ。誰が言っている訳ではなく、試衛館にまだいた頃に平助自身が話していた。どういう経緯でそんな話になったのだったか……。そうだ、紫苑が拾われた娘だったという話からだ。平助自身がどんなつもりで話したのかは紫苑は知りかねたが、彼はあまりこのことを吹聴しない。けれど証拠のように彼の佩いている刀は上等品だ。


「話、聞くぞ?」

「別に何でもないですってば。嬉しいなぁ、紫苑さんに心配してもらえるなんて」

「……平助ぇ。私が笑ってるうちに言っとけ?」

「何で怒ってるんですか……」


 誤魔化そうと笑った平助に早くも紫苑が声を低くした。怒気の混じったその声に平助は頬を引きつらせる。けれどやはり口にせず、紫苑がこれから起こることを予告させるように溜め息を吐き出した。その息に平助の背筋が冷えるが、まだ口にしようとしない。
 後ろを歩く会話に気づいてか気づかずか、新八が振り返って笑った。さっきまで芹沢派の人間と喋っていたのだが、こっちに話を振ってくるつもりのようだ。紫苑が視線で嫌がるが、新八も目だけで紫苑を宥めて口を開いた。


「今度芹沢さんが一緒に呑まないかってさ。お梅さんも一緒に。どうよ、紫苑」

「別にいいんじゃん」

「……お前、適当に返事しすぎ」


 呆れたような新八の声を紫苑は無視して平助の顔を覗き込む。けれど、平助はいつものようにニコニコしているだけだった。こうなったら本当の事を吐かせたいと思ってしまい、紫苑は目を眇めると平助の腕を掴んだ。とたん平助の顔が赤くなるけれど紫苑は気づかない。


「吐け」

「そんな物騒な言い方しないでくださいよ」

「いいから」


 凄む紫苑の視線に気圧されて、平助は彼女から顔を逸らして掴む手を振り払った。いつもは刀を握っているけれどやはり女のそれは簡単に離れ、平助はほんの少しだけ淋しそうな顔をしてけれどどこか安堵に似た笑みを浮かべて言葉を選ぶように空を見上げてゆっくりと口を開いた。紫苑も倣うように顔を上げると、夏の太陽に目が焼かれそうだった。


「俺は、どこにいるんだろうと思ったんです」


 新撰組に身を置いているのは分かっているけれど、どうしても近くに立っている藩邸に気を取られてしまう。本来あそこにいるのは自分だったのかと腹違いの兄に当たる嫡子の存在を思い、言いようのない不安に襲われる。それはきっと、平助と他の隊士を隔てている。無意識のうちに平助の中に落胤だという意識があり、それが邪魔をするのだ。平助にとって自分が落胤であるということは、今は亡き母親から言われ続けた言葉なのだ。
 ぽつりぽつりと語った言葉に、紫苑は自身を重ねて自身の頭をかき回した。紫苑自身は捨て子だったけれど、平助とは境遇が全く違うから上手い言葉は見つからなかった。けれどどうにか、一つだけ掘り出した。


「お前のいたい所にいればいい」

「………いたい、所?」

「今は私たちの隣でいいだろ?」

「……はい!」


 自身の中で噛み砕くように平助が沈黙し、やがて大きく頷いた。ちゃんと納得したのか、その顔は明るくいつものような笑顔が浮かんでいる。その笑顔に満足して紫苑は平助の頭を撫でようと思ったが、彼はきちんとまげを結っているので触れることができず、代わりに背中を叩いてやった。驚く平助ににこっと笑みを浮かべると、文句を言いそうに半分開いた口は息を飲んで閉じた。


「なんじゃ紫苑、怪我をしたのか?」


 不意に聞こえてきた芹沢の声に紫苑は反射的に右腕に手をやった。すぐに違うと言いかけて、左手に力を込める。もうすぐ死ぬ人間だ、何かを言う必要があるのだろうか。一瞬考えたけれど、その考え自体が馬鹿らしくなって紫苑は腕を離して苦笑を浮かべた。


「違いますよ。ちょっとした保護です」

「ほぅ、秘密でも隠してるのか」

「そんなもんです」


 紫苑が言うと、芹沢は太い腕で紫苑の右腕を掴んだ。反射的に拒もうとしたが、しかし思い直して体から不自然な力をゆっくりと抜く。もうすぐ死ぬ人間だ。何をされても怒る事なんて馬鹿らしい。そう考えようしているうちに芹沢はニヤニヤ笑って紫苑の腕の包帯を取り払った。紫苑は特に抵抗もしない。どうせ死ぬ人間なのだから、別に隠しておく必要もない。知らないのは、歳三だけで十分だ。
 紫苑の腕から姿を現した綺麗な紫の花に芹沢は驚いたように深く息を吐き出した。その息が腕にかかって紫苑は不快に眉を顰める。


「彫ったのか?」

「まだ、これからです」


 さり気なさを装って紫苑が腕を引くけれど、芹沢はそれを見透かしているように腕を強い力で握った。骨が軋みそうな強さに紫苑が僅かに眉を寄せるが、芹沢はにやにやと笑っているだけだった。その不快さにも紫苑は顔を歪める。いい加減に離せと怒鳴ろうとするが、息を吸ったところで横から出てきた手に口をふさがれた。


「何だ紫苑、刺青彫るのか?」

「…っ何だよいきなり!?」


 呼吸すら危機に感じ、腕を掴んで離させると近づいた顔をギンと睨みつけた。その顔に新八は苦笑して紫苑の腕を掴む芹沢の手にそっと手を重ねた。不思議そうな芹沢に苦笑に似た笑みを浮かべて「赤くなっちまいますよ」と言うと、芹沢がややばつの悪そうな表情を浮かべて手を離した。
 新八の行動の意味が分からず紫苑が不機嫌な顔で新八の目をじっと見ると、彼は笑って紫苑の耳に唇を寄せた。


「馬鹿紫苑。もうちょっと大人しくしてろって」


 今は、これは仕事なのだ。新八の落とした声音に紫苑は即座に理解した。けれど、簡単には割り切れない。仕事だろうが仕事じゃなかろうが嫌いな人物に近寄るのはいやだ。触れられるのも、いやだ。これは紫苑のわがままだろうか。それとも、女としての感情だろうか。また嫌な思考が背筋を流れ、紫苑は何かから逃げるように顔を背ける。


「紫苑さん?」

「………」


 平助の小さな声に紫苑は気づかず、きつく奥歯を噛み締めた。女でないと自分に言い聞かせてきた。『橘紫苑』でいること、それを昔からずっと追っていた。けれどやはり紫苑の中で答えは出ている。そしてそれが紫苑の胸に影を落とした。誤魔化す事もできなく程はっきりと、影が。
 いい加減に思考を切りたくて、紫苑はきつく右腕を握った。じわりと手のひらに浮かんだ汗が、紫色の花を滲ませる。


「ま、紫苑は人の好き嫌い激しいからな。どっかの野生生物か」


 気持ちを見透かしたかのような新八の言葉に、紫苑は無意識のうちに浅くなっていた息を肺から深く吐き出した。胸に沈んだ重りが体の奥に落ちていく感じがして、紫苑は大丈夫だとでも言うように軽く頷いてゆるゆると腕の力を抜いた。右腕には爪のあとがくっきり付いていて、紫苑の顔が僅かに歪む。


「良い絵じゃないか。ただそうだな、花の根元が赤ければワシ好みじゃ」

「……赤、ですか」

「さぁっすが芹沢局長!良い目をしていらっしゃる」


 紫苑が自分の腕に視線を落としてぽつりと呟くと、それにかぶせるように新八が大声で芹沢を褒めた。気を良くした芹沢が笑って懐から気に入りの『尽忠報国ノ士芹沢鴨』と書かれている鉄扇を取り出して仰ぎ始める。
 その鉄扇が空気を引っかく音を聞きながら、紫苑は自身の腕に視線を落とした。紫の花弁の根元に赤い色を入れれば、確かに綺麗な花になるだろう。総司が彼は絵が上手いと言っていたのは本当だったようだ。僅かに目を細めて、紫苑はその絵を思い浮かべて薄く笑った。


「にしても紫苑。その花、逆じゃねぇのか?」

「んぁ?」

「普通、肩に近いほうが上になるだろ?何で花が手のほう向いてんだよ」

「……あぁ。いいんだよ、刀握ったらこっちの方が綺麗に見えるだろ」

「ふーん……」


 あまり納得していないような顔で新八は軽く頷いた。それから一行はゆっくりと歩いて嵐山の方へ向かった。暑いけれど、歩いていけば段々涼しくなっていくのが肌で分かった。










 嵐山で涼んだ一行は、日が暮れることになって屯所に帰ってきた。芹沢は茶屋で強かに呑んだので顔を真っ赤にしているが、足元はしっかりしていた。やはり屯所のある壬生村は暑いのだろう、じっとりとして汗が肌に張り付いている。垂れてこない汗を拭って言葉少なに歩いていると、正面から山南と新見が歩いてきたのが分かった。紫苑が目を瞬かせるうちに山南がこちらに気づいて手を上げる。


「今帰りかい?」

「山南さん…と、新見局長」


 共通点の見えない二人に紫苑は僅かに眉を寄せた。山南は北辰一刀流を使う。北辰一刀流は勤皇を唱える志士が多く、学問にも力を入れている。だから山南は博識だし歳三と違う意味で理論的に物を考える。勤皇派は一歩間違えれば危険な思想だということを紫苑は理解している。そして、新見錦は危険な思想を持ち合わせていた。そのことに眉を寄せていることに気づいたのだろう、新八が紫苑の後ろで苦笑をもらした。


「……何、ぱっつぁん」

「いんや?ちょっと付き合えよ」

「どこに」

「井戸」

「はぁ!?」


 また訳の分からない事を言い出した新八の顔を振り返って紫苑が訝しむ様な表情を浮かべるが、新八はにやにや笑っているだけだった。その顔の意味が分からなくて、紫苑は綺麗な形の眉を下げる。けれど新八は紫苑に何も言わずに細い腕を取って、芹沢に頭を下げて彼女を引っ張って屯所になっている前川邸に入っていった。
 井戸に行くと思っていた紫苑は、何故新八が奥に向かっているのか分からない。この先にあるのは紫苑の部屋か歳三の部屋だ。帰ってきたことを報告するなら一人ですればいいのにとさっきの疑問を置いておいて考えていると、新八は歳三の部屋の前で止まった。


「土方さん。ちょっといいっスか」


 中から返事がない代わりに、人の動く音がした。それを了承と取ったのか、新八は遠慮なく目の前の襖を開けると体を滑り込ませた。それについて紫苑も中に入って素早く閉める。閉めてから漸く部屋の中を見回すと、さっき別れたはずの山南が座っていた。


「紫苑ちゃんは芹沢局長組かい」

「芹沢局長組?」

「悪ぃが新見はお前さんにしか任せてねぇ」

「それは大役を仰せつかったものだ」


 肩を竦めて笑う山南の言葉の意味が分からなくて紫苑が微かに首を傾げると、隣から新八が「山南さんは新見を探ってるんだ」と教えてくれた。隣に腰を下ろして、紫苑は軽く頷く。歳三は芹沢派全員を追い出す気でいる。芹沢の前に新見を追い出そうと企てているようで、その証拠を山南が同志と見せかせて探っているらしい。
 山南は歳三の前に手紙のようなものを差し出した。それを無言で受け取って、歳三がゆっくりとした動作で開く。歳三と山南は言葉を交わすことは少ないし交わしても互いの意見に反発しあうだけだ。けれどそれはお互いに分かり合っているからだと紫苑は思っている。


「新見局長の部屋から見つけたよ」

「田中伊織ってなぁ、新見のことか」

「そのようだね。その印は桂小五郎の物だと、今日聞いた」


 二人が何を話しているかは分かったけれど、紫苑はそれ以上の反応を示せずにただ俯いただけだった。そこにいたのは紫苑の知っている歳三ではなく、浪士組の副長がいた。それはもう違う人間なのだ。それを理解したら胸を締め付けられるような感じがして、紫苑は無意識に右腕を掴んだ。

けれど、この形が正しい形だと私は理解している。




-続-

最近平助が愛しいです。