新見が死んだ。かつて人間だったものの肉塊なら見たことがあった。けれど、目の前で知っている人間が、たとえ好まない人間だったとしても死んでしまった。その事実にしばし呆然とした紫苑は歳三に方を支えられて血まみれのまま屯所に帰った。丁度きていたお梅が紫苑の姿を見た瞬間に悲鳴を上げて、けれど手早く湯浴みの準備を済ませてくれた。


「紫苑はん、気分はどないですか?」

「……大丈夫、ありがとう」


 着物を新しくして髪を洗っても、体からは血の匂いが消えない気がした。もともと芹沢は新見を殺すことには反対だった。けれど勇と歳三が口八丁で丸め込み、彼が芹沢を煙たがりその地位から追い出そうとしていると信じ込ませた。それを信じている今でも、芹沢は新見のために酔っ払って赤い顔で涙を流したのだという。お梅もその様子を見ていたようで紫苑に語ってくれたけれど、紫苑はどうも現実として直視できなかった。


「紫苑姉ぇ、元気になった?」


 血まみれの包帯は取らねばならず、折角の刺青の下書きが消えてしまった。紫がと赤がまだうっすら皮膚に付着しているだけだった。その痕を隠すように無意識に握り、開いた襖の方を見ると心配そうな総司の顔があった。そういえば小さい時から総司は紫苑が怪我をしたりすると彼が泣きそうになって部屋を覗きこんできたものだ。紫苑が微笑を浮かべてそっと手招きしてやると、総司は浮かない顔で入ってきた。


「紫苑姉ぇ、藤堂さんも心配してたよ」

「悪い、もう大丈夫だから」


 お梅が遠慮して出て行くので唇で「ありがとう」と述べると嬉しそうに頬を染めて軽くお辞儀し、彼女は出て行った。総司を手招いて近くに呼び、そっと頭を撫でてやるとやっと安心したように肩の力を抜き、総司は紫苑の胸に飛び込んだ。晒の巻いていない女性特有の柔らかさがある体に擦り寄ると、紫苑が苦笑して頭をなでてくれる。昔と変らない感触に安堵していると、襖の外から囁き程度の声がした。


「紫苑」

「……歳」


 声の主の名を紫苑が僅かに緊張した声で呟いた。少しだけ紫苑の体が強張ったのを感じて総司は眉根を寄せる。紫苑が何かを恐れるような態度を見せるなんて総司の記憶の中にはなかった。どんな悪戯をしても怒られても試合でボロ負けしても恐怖したことがなかった大好きな姉。その紫苑が、体を強張らせている。
 歳三は目を伏せたまま入って来て、紫苑にくっついている総司に眉を寄せたが何も言わずに紫苑の正面に腰を下ろした。久しぶりに向かい合って、けれど紫苑の表情は今までと変わらず凛としているように見えた。


「随分青ざめていたようだが、大丈夫か?」

「大丈夫、血まみれで気持ち悪かっただけだし」


 しらっと言ってのけた紫苑に歳三は僅かに安堵し、落胆した。紫苑がこれで人を斬ることに恐怖を覚えるか後悔を覚えれば江戸に帰そうと思っていた。けれど紫苑の瞳には相も変わらず、強い光しか宿っていなかった。不意に紫苑の長かった髪を思い出して、歳三はそっと手を伸ばした。けれどあった場所に髪はない。短くなった髪は、紫苑が変わった事を示している。伸ばした手を紫苑の訝しむ視線に押し返されるように引き戻して、手のひらを握りこんだ。もう紫苑は、手の中にいてはくれない。


「何の用?」

「……これから先の話を、しにきた」


 苦々しい表情で、紫苑の膝に寝転がっている総司の足の先を見ながら歳三はそう呟いた。もともと歳三の目的は芹沢派を壊滅させることだ。新見はその一角であり切欠であった。新見という参謀をなくした芹沢の力は半減したと見ていい。潰すなら、今だ。本当は紫苑が新見の死を目前にして潰れてしまうのだったらこの話をするつもりはなかった。けれど、それを確かめに来てもっと強い瞳があった。それが希望通りだったのか正反対だったのか、歳三には自分のことながら分からなかった。


「芹沢を潰す。これで最後だ」


 歳三の真剣な声に総司も体を起こして紫苑の隣に座った。二人が同じ目をしているのが当たり前のようで、歳三はじっと二人を真っ直ぐに見て最後の作戦を語った。
 秋に入り、雨が増えている。作戦の決行は次に雨が降った日だ。雨の日なら足音も気配も消えて都合がいいし、目撃者も格段に減る。雨の日に新撰組全員で宴会を催し、芹沢一派を酔わせる。彼らはきっと酔って一足先に帰るだろう。それを狙って暗殺する。面子は歳三と総司、左之助。勇と新八、平助には現場で怪しまれないように振舞うようにする。綿密に作戦をねり、事前の準備も怠らない。失敗は度はありえない。


「私は?」


 自分の名が出てこないことに紫苑は不機嫌に訊いた。歳三はとたんに顔を逸らし、その行動に紫苑は口の端を引きつらせた。まただ、歳三の作戦の中に紫苑の名は刻まれない。いつまでもいつまでも踏ん切りがつかない。これは紫苑が迷っているのか歳三が決断できないのか。けれど確かなのは、そろそろ潮時だ。


「……次は、私にやらせて」

「だがっ」

「言っただろ。私はもう、女じゃない」


 紫苑の声が一段と低くなって、歳三は背筋を震わせた。凛とした強さを持つ、紫苑の本当の姿を見た気がして無意識に頷いていた。紫苑に逆らえたことなんて、一度もなかった。そして紫苑に女を捨てろと言ったのは他でもない歳三自身で、あの時はこうなることを予測していた。だからあれ以降、彼女の体に触れられないのだ。手を繋ぐことも抱きしめて安心することも出来る。けれど、性的な意味で触れることは出来なくなった。


「話は終わり?出かけるけど」

「あ、あぁ……」


 これ以上向き合っているのが苦しくて、紫苑は話を挿げ替える為に笑ってみた。けれどぎこちなく頬が引きつっただけで笑顔になっていなかったのは自身で気づいていた。何となくばつが悪くなってさっさと立ち上がり、歳三の答えを聞くか聞かないかのうちに部屋を足早に出て行った。
 廊下に出て角を曲がったところで、紫苑は安堵の息を吐いて思わずその場にしゃがみ込んだ。本当は吐き気が止まらない。人の死が怖かったんでも殺すことに恐怖を覚えたのでもない。けれど新見の死は臓腑をかき回した。二日酔いにも似た吐き気を押さえ込みながら紫苑が目を閉じていると、背後から影が落ちたことに気づいた。気づいたけれど無視する。影の正体は平山と平助だった。


「紫苑さん!?大丈夫ですか!」

「……うるせぇ」


 低い声で唸って、紫苑は「よっこいしょ」と立ち上がった。心配そうに体を支えようとする平山の手を払って声をかけてこようとする平助を面倒なので睨みつけて黙らせて、紫苑は一人で屯所を出て行った。後ろで平山と平助が何やら言い争っている声が聞こえたけれど興味もなく、紫苑はただ暑い中を歩き出した。見上げた空は、憎いほど青かった。










 その店の暖簾を潜って、紫苑はきょろきょろと辺りを見回した。初老の男性が店の奥でなにやら作業しているので声をかけづらくて、黙って座敷の端に座った。しばらく待っていると奥から店主が顔を出して、紫苑に気づくと不機嫌に眉を寄せる。


「来たなら言え、女」

「あの、謝りたいこととお願いが……」


 不機嫌なままの店主だが、紫苑のことが嫌いな訳ではないし来たことが迷惑だった訳ではない。ただ彼は人間に対する表情を2種類しか持ち併せていないのだ。その一つが不機嫌な顔だ。始めはこちらもむっとなったけれど、慣れれば愛嬌のある顔に見えてくるから面白いものだ。紫苑は下絵の落ちてしまった腕を差し出して、店主の顔を窺った。


「落ちちゃったんで……描き直してください」

「落としたぁ?」


 「もう彫る前じゃなきゃ描かねぇ」と言われ、紫苑は引きつった笑みを浮かべて「彫って」と呟いた。僅かに眉を上げた店主に申し訳なさそうな顔をして見せると、彼はチッと舌を打ち鳴らして道具を取りに行った。客に対して舌打ちくらい隠せよ、と紫苑も表情を歪めて待っているけれどそれは嫌ではなかった。
 店主が再び道具を出してくれて同じ絵を書き出してくれたのを見ながら、紫苑は絵の消えた経緯をぽつりぽつりと話した。彼は聞いているのか聞いていないのか分からないので、話しやすかった。


「血ぃ引っ被ってさ、洗われちゃったんだよね」

「本気で彫るんだろうな」

「……ん」


 こくりと紫苑は頷いた。もう迷わない。新見の血を被って人が事切れる刹那の匂いを嗅いだ。血の匂いは体内の血を沸き立たせるような甘美な匂いを纏い、それでいて不快な温度で体温を奪った。あの瞬間、自分の居場所はあそこだと知ったのだ。だからもう、迷わない。


「彫って」

「この量じゃ相当時間かかるぞ」

「うん。……結局さぁ、愛って奴かな」

「にしても、何でこんな時期に彫るんだ。化膿しても知らねぇぞ」

「綺麗に彫ってねぇ」

「こういうのは女の方が綺麗に彫れんだよ。悲鳴上げんなよ」


 さっさと絵を描き終わり、何の予告もなく店主は紫苑の細い腕に針を刺して彫り始めた。ちくりとした痛みに紫苑が眉を寄せると、それに気を良くしたのか彼は鼻歌でも歌いそうな勢いでザクザク彫っていく。予想以上の痛みに紫苑は歯を食いしばり、けれど表情には極力出さないように軽く笑って見せた。けれど背中には痛みでいやな汗が流れているし、悲鳴を上げられれば楽になれそうだ。


「大の男でも始めは悲鳴を上げるもんだぞ。可愛くねぇな」

「上等。このナリで可愛くても嫌っしょ」

「痛みにゃ女の方が強ぇんだよ。ガキ産むんだからな」

「……オヤッサン子供いるの?」

「………女は強ぇや」

「あ、三下半?」

「痛く彫ってやろうか」

「嘘嘘、冗談です」


 噛み合っているのか噛み合っていないのか分からない会話が心地よくてもどかしい。紫苑は針の刺さる自分の腕から目を逸らして部屋を見回した。ぼろぼろの長屋の一室の壁はところどころ剥げていて、それを隠すように刺青の絵が貼ってある。この雑然とした雰囲気に安心するのだろう。


「刺青なんてもなぁ被虐的な人間に向いてんだ」

「……自虐的だとでも言いたいの?」

「女が彫るなんて珍しいっつってんだ」

「誓いだから」

「格好良いじゃねぇか」


 笑った店主の顔を直視してしまって、紫苑は照れたように笑んで頷いた。
 これは誓い。もう逃げられないという証拠と、逃げないという誓い。ずっと隣を歩くと決めた。女を捨てると自分で決めた。だから、ここに誓いを立てる。歳三の為ではないけれど、自分の為でもない。いうならば信念の為に入れる刺青に、後悔はなかった。

 刻まれた痛みとこれから奪う命の重さを比べても、きっと私は挫けない。




-続-

おやっさんに恋しそう。