雨が、降っている。新見が死んでから十日目のことだった。朝からしとしとと切なげに降っている雨は夕方には益々酷くなり、日が沈むといよいよどしゃぶりとなった。けれどその雨の中、歳三は角屋で宴会を催した。表向きには会津公から正式に取り立てられた祝宴であり、金もそちらからでている。わいわい騒ぐ宴会をそっと抜け出して、紫苑は廊下の柱に寄りかかってぼんやりと外を眺めていた。無意識に刺青を彫った右腕を押さえ、これからのことを考える。


「紫苑姉ぇ?」


 ひょっこりと顔を出した総司を一瞥したけれどそれだけで、黙って視線を戻すと総司も分かっているのか黙って紫苑の隣に座った。
 新見が死んでから芹沢の横行はひどかった。揚屋で暴れたり押し込みをしたり、最後には隊士の女に目をつけて殺して更に女を手篭めにしてしまった。会津の本陣もこれはいよいよだと言っていたけれど、紫苑にはそうは思えなかった。いつも酒気で顔を赤くさせていたがその中にどこか淋しそうな表情を浮かべて、何かを諦めているようだった。もしかしたら彼はもう、諦めているのだろうか。けれど諦めるものもないだろう。ならば彼は何によって己の運命を知ったのか。もしかしたら彼が見たのは、時勢かもしれない。


「紫苑姉ぇ。芹沢さんね、この間僕に言ったんだ。何も心配するなって。強くなって強くなって、それで……」

「………」

「……何も心配するなって。心配しないでずっと、紫苑姉ぇについて行けって」


 芹沢を毛嫌いしている紫苑は極力あの男に近づこうとは思わない。けれどお梅から彼の話を聞き、ほんの少しだけ彼はただの乱暴者ではないのかと思い始めていたのだ。ただ対し方を知らないだけで、もしかしたらとても純粋な人間なんじゃないかと、思い始めていた。確かに彼のおかげで浪士組は金に困らず組の形を取ってこられた。けれど、彼は死ぬ。今日殺されるのだ。そして、お梅も。それがどうしようもなく紫苑の心に空洞に似たものを形成していた。


「芹沢さん、もしかしたらそんなに悪い人じゃないかもしれないね」

「でも、もう遅い」


 総司の呟きに似た言葉に紫苑はゆっくりと目を閉じて答えた。もう決定してしまったいわば彼の運命。これは変えられるわけがなくこの日の為にたくさんの計画がなされた。もちろん新八と一にはこの話はしていない。新八は芹沢と同門で彼が信用できないというわけではないが辛い思いをするだろうし、一は芹沢に恩義がある。もしかしたら邪魔をするかもしれないので黙っていることになっている。


「本当に遅いのかな。ねぇ、どうにもならないのかな」

「ならねぇよ。なるとしたら、あの男の死が意味を持つだけだ」


 浪士組のための人柱となり、これから先の未来に何かの黒点を残していくのだろう。でなければ彼の死はただの過去の清算。そうはならないだろう、そんな気がする。少し気を荒げた総司を半眼で黙らせ、紫苑は細く息を吐き出した。これでお梅ともお別れだろう、周りの人間が欠けていくのを感じる。共に浪士組を編成した佐伯又三郎や殿内義雄などは身内に暗殺され、今日芹沢も命を失う。これで浪士組には近藤派しかいなくなる。それが少しだけ怖い気もするけれど、迷う必要はない。初めから、歳三についていく為に京に上ったのだから。


「紫苑ちゃん、沖田君。ここにいたのかい」

「山南さん。何、時間?」

「芹沢局長たちが籠を呼んで帰ったよ」


 山南の報告に紫苑は目を眇めて腰の得物を確認した。父から譲り受けた相棒をまだ使う機会に恵まれていない。けれど初めて吸う血が芹沢鴨という時勢に流され生贄になった男のものならば、それで満足だ。一度右腕の包帯の腕からぎゅっと腕を握って、紫苑は総司と頷きあってそっと玄関に向かった。
 玄関には歳三と左之助と勇が揃っていて、全員が揃ったことにお互いに軽く頷きあう。


「お前たちのことだから心配はねぇと思うけど、気をつけろ」


 苦々しい顔をしている勇の肩を叩いて、紫苑は綺麗に笑った。勇がこの暗殺を良く思ってないのは知っている。芹沢があって浪士組が出来たのだ、恩義を感じているのは彼の気性上おかしくない。けれど今となっては膿でしかない。それは早く処理しなければ大惨事になりかねないのだ。
 雨が、更に強さを増して降り出した。










 急に明るくなったかと思ったら、空を厚く覆っていた雲が晴れ間を見せて綺麗な満月を覗かせた。けれど雨は変わらずに激しく肌を痛いほど叩きつけていて妙な天気には変わりない。覗いた満月を見上げて、紫苑は目を細めた。こんな月夜の晩に、運命と遭遇する。こんなゾクゾクすることはない。
 しばらくすると騒がしかった家の中から明かりが消えて静かになった。芹沢と共に平間と平山がそれぞれ馴染みの女と共に屯所に戻っていたので、現在六人が眠りについたはずだ。ここにいる以上女も斬る必要があるだろう。それも彼女たちの運命だ。なんとなく自身の背中にも死が迫っているようで、紫苑はゆっくりと口の端に笑みを刷いた。


「総司と山南さんは玄関から回ってくれ。俺は紫苑と左之助と外から行く」


 再び曇ってきた空からは雷鳴が轟き始めた。これで音も気配も消せる。頷きあって、五人は別れて各々の場所へと走った。
完全に月は隠れてしまいまた暗くなった。それに慣れるのを待って、歳三は土足のまま縁側に上がった。これまで何度も歩数から高さからを下見して間違いはない。抜き身の刀をぶら下げて襖を蹴破ろうとしたら、先に左之助が槍で突き破った。予想以上の大きな音がしたけれど大量に酔わせたのが良かったのだろう、彼らは深く眠り込んでいて起きる気配はなかった。


「待って、私にやらせて」


 小さく呟いて、紫苑は目を眇めると芹沢の首筋目指して刀を振り下ろした。けれどそれは皮を一枚破いただけで、芹沢は反射的にそれを避けて全裸のままで枕元の鉄扇を掴んだ。チッと舌を打ち鳴らして、紫苑は次の一撃に備える。芹沢を挟んで歳三も左之助も刀を構えていた。


「……紫苑、か。おい、お梅起きろ」


 芹沢は足でお梅を揺り起こした。深く眠り込んでいたお梅が眠そうな目を擦りながら「何ですの」とゆっくりと体を起こす。彼女がまだ事態を理解する前に、すぐ近くから悲鳴が上がった。同時にバタバタと足音が木霊する。その悲鳴にお梅が刀を向けられている状況に気づいて引きつった息を吸い込んだ。刺客たちの中に紫苑の顔を見つけ、綺麗な顔が歪んだ。


「……紫苑はん……」

「紫苑、刺青は彫ったのか?」


 芹沢の言葉を無視して紫苑は刀を振り上げた。思い切り振り下ろすけれどそれは紙一重で交わされて、沈んだ体の上に容赦なく落ちてくる鉄線を鍔で受け止める。金属のぶつかり合う音は、お梅の悲鳴にかき消された。押しつぶされそうな重さに蹴りを繰り出そうとするけれど、今やったら足が届く前にこちらが潰されてしまう。瞬間的に思って留まると、急に上からの重さが立ち消えた。ぱっと顔を上げて現状を確認すると、左之助が槍を構えて横っ面に飛ばされた芹沢に向けていた。


「悪ぃな」

「いいってことよ」


 にかっと左之助が笑ったので紫苑も微笑み返し、芹沢に踊りかかる。相手は腐っても神道無念流の免許皆伝。簡単に受け止められて紫苑は飛び退った。ちらりと裸で固まっているお梅を見て、けれど目が合ってしまい慌てて反らす。けれど気づいたお梅は絞り出すような声で紫苑の名を呟いた。


「……紫苑はん…、殺さんといて……。その人を、殺さんといて……」

「……逃げろ!」


 お梅の目が必死で、もしかしたらその言葉をするのは自分なのではないかと思ったら見ていたくなくて、必死に叫んでしまった。大きく目を見開いたお梅がゆっくりと首を横に振るのを見て、もう一度更に鋭く叫ぶとお梅は立ち上がって出口を探した。けれどその前に彼女の前に歳三が立ちふさがって、躊躇いなく彼女の心の臓を寸分の間違いなく刺しぬいた。刀を抜いた所から血柱が上がり、それを避けもせずに物でも見るような顔をして立っている。


「……歳!」


 歳三が血脂を払うように刀を振るった瞬間に芹沢が歳三に踊りかかった。紫苑が悲鳴のような声を上げて反射的に刀を芹沢に向けて振るうと彼の足を傷つけた。けれど彼を怯ませることは出来ず真っ直ぐに鉄扇が歳三の頭を狙う。血の気が全て引いて頭が真っ白になったかと思った。


「土方君!」


 紫苑の視界から歳三の姿が消えて、代わりに人影が飛び出してきて芹沢の鉄扇を腕で受け止めた。痺れる頭で現状を把握しようとするけれどただ見えるのは芹沢だけで、紫苑は妙に落ち着いて刀を平星眼に構えた。音が何も聞こえないことは気にならなかった。
 すっと目を据わらせて足を斬りつけると、芹沢が咆哮のような声を発してメチャメチャに鉄扇を振り回し始めた。それを紙一重で避けて、更に数箇所斬りつけるけれど致命傷には至らなかった。恐怖は感じない。寒気も嫌悪も何も感じない。ただ肌を裂き肉を絶つ感触だけが鮮明に脳を刺激している。向けられた背を袈裟懸けに切り結ぶと、芹沢が逃げるように縁側に出た。足元が覚束ないのだろうふらふらになりながら八木家の子供たちが寝ている部屋に逃げ込む。彼の足元が覚束ないのは血が足りないからか酒によるものかは分からない。


「……誓い、なんだ」


 呟いて芹沢の背を追うと、部屋に逃げ込んだ芹沢が大きな音を立てて倒れた。ちらりと彼の足元に視線を移すと文机がずれて置いてあり、これにけつまずいたのだろう。ピクピクと痙攣する彼の手をわざと踏んで、紫苑は肋骨の間から芹沢の肺に穴を開けた。ビシュッと飛び出した血が右手を染めて、包帯を濡らすが頓着せず刀を横に引き肉を裂いた。ビクビクと痙攣する芹沢に更に数太刀浴びせると、やがて動かなくなった。


「紫苑姉ぇ、大丈夫 !?」


 腕を引かれ、紫苑は僅かによろけた。声のほうに視線を移すと、総司が顔に血を点けて僅かに顔を青くして紫苑を見ていた。ぼんやりと総司を見てから死んだ芹沢を見、やっと終わったのだと深く息を吐き出す。不意に感じた死臭に眉を寄せ、紫苑は抜き身の剣を鞘に収めようと思ったけれど曲がってしまったのか収まらなかった。


「……歳は?」


 自分の口から漏れた囁きに紫苑ははっとして刀を総司に押し付けると隣の部屋に駆け戻った。今紫苑の頭には歳三が殺されそうになったところ以降の鮮明な記憶がない。けれどあの時感じた恐怖とか芹沢を刺した感触とかは背筋が冷えるほど覚えている。お梅も、この感覚を知っているのだろうか。
 血を拭いもせずに戻ると、左之助が所在無げに立っていた。視線を巡らせれば、歳三の背が見えてどうやら無事だということは分かる。ほっと胸を撫で下ろし、紫苑はゆっくりと部屋の中に入った。


「サンナン……」

「はは、情けないね。余計なお世話だったね、すまない」


 入った瞬間に聞こえた掛け合いに、紫苑は足を止めた。歳三が無事で、山南が伏しているなんて。紫苑が足を進めることが出来ずに立ち竦んでいると、左之助が寄ってきて紫苑の耳元で説明した。歳三を庇って飛び出した山南が代わりに鉄線を受けて吹っ飛ばされたこと、それを見て紫苑が芹沢に斬りかかったことを。


「何て顔をしているんだい土方君、真っ青だよ。君らしくない」

「……地顔だ」

「君のせいじゃない」

「……とにかく、戻ろう」


 自分は悲鳴を上げなかったのかと現状を受け入れたがらない脳が安堵を促し、けれどそれ以上動くことも出来なかった。歳三を守るのは自分であるはずなのに、自分がしたのは我を忘れて芹沢を斬ったことだ。守れなかった後悔と自身への怒りで気分が悪くなり、けれど涙なんて出てこないで紫苑は山南に腕を貸す歳三の後ろを黙って歩いた。










 前川邸で血を流し、紫苑は自身の部屋ではなく源三郎の布団に潜り込んだ。源三郎は布団に潜ることもできずに紫苑の頭を撫でながらただ黙っている。いつまでも変らない紫苑の癖に柔らかい笑みを浮かべ、彼女が変ってしまわないことを願う。その中には、紫苑は女なのだからと言う意識が含まれている。


「さっき、芹沢を斬った」

「……うん」

「守ろうと、思ったのになぁ……」


 急に涙声になって紫苑の声が聞こえなくなったと思ったら、撫でていた頭が震えて彼女が泣いているのだと悟った。源三郎も今日のあらましは聞いていた。紫苑が芹沢を斬ったことも山南が歳三を庇って怪我をしたことも全て知っている。聞いた時は紫苑はもう戻れなくなってしまったのだと苦しく思ったけれど、紫苑はそんなことには傷ついていないのだろう。一言も後悔を口にしていない。


「守らないといけないのに、私。守れなかった……」


 歳三を護るためにここまでついて来たつもりだった。けれど実際は死の影に怯えて我を忘れて芹沢を殺した。歳三を失うのかと言う恐怖に駆られて芹沢を滅多斬りにし、それだけだった。何にも執着せず歳三に背中を預けて対等に戦って支える為に誓ったはずなのに、実際は女のように泣いて怯えているだけだ。変らないどころか、弱くなった。江戸にいた頃はこんなではないはずなのに、力を得た分弱くなった。望まない弱さを手にしてしまった。


「……弱いままじゃ、いられないのに」


 このままではいけない。彼を護るために必要な強さを、何を引き換えにしても手にしなければならない。この右腕の紫苑にかけて、この誓いを破る訳にはいかない。でなければ、存在意義を失ってしまう。ただ待つだけの女なら、紫苑でなくてもいいのだから。
 源三郎に頭をなでられながら、紫苑はうとうとと眠りの淵についた。眠りに落ちる瞬間に強く感じた血の匂いに、お梅のあの瞳を思い出して唇を噛み締めた。

 これ以上弱くなる訳にはいかないのだと、この腕の私に誓ったのだから。




-続-

紫苑さん、刺青膿みますよ?