紫苑の腕の包帯が取れた。刺青を彫り始めてから二月かかり、やっと色も入れ終わって腕に鮮やかな紫苑の花が姿を現した。その頃にはすでに十一月になっていて、新撰組は京では知らないものはいないほどになっていた。
事件と言う事件はないけれど、毎日どこかで斬りあいが行われている。斬り合いは最早日常になってきていた。紫苑とて、芹沢を斬ったあの日から数え切れないほどの人を斬ってきた。初めは斬らなければならない恐怖心から。けれどいつの間にか、相手が人形のように見えてしまっていた。
「紫苑姉ぇ、原田さん!」
夕方、見回りを終えて左之助と一緒に屯所に戻ると、門の前で総司が手を振っていた。他にも人数がいて、急な出動でもあるのかと紫苑は左之助と顔を見合わせるとやや歩調を上げて屯所に戻った。けれど段々近づくほどに見える顔は緩んでいるし皆自前の着物に袖を通している。別に何でもないのかと少しだけほっとして歩調を落とす。
「……あれ、誰だっけ」
「新入隊士だろ、馬鹿」
「うっせ、脳みそ筋肉」
総司と一緒にいる者に見覚えのあるものもいるけれど、見覚えのない者が多々混じっていて紫苑が呟いた。左之助が馬鹿にしたように言うので、紫苑は彼を睨みつけて再び歩調を上げた。
門のところにいたのは新八、平助、一をはじめ、最初の募集で隊士になった島田魁、山崎烝もいた。けれど他には見覚えがない。紫苑は不思議そうにそれらを見、仔犬のように腕にくっついてきた総司を見た。けれど、回答はその後ろの平助からだった。
「こいつら何」
「やだなぁ、紫苑さん。新入隊士の皆さんです」
紫苑の問に平助が一人一人紹介してくれた。松永主計、楠小十郎、松井龍次郎、越後三郎、荒木田左馬之助、御倉伊勢武。名前を聞きながら紫苑はその顔を順々に見、何となく見覚えがあった気がしたので軽く頷いた。楠小十郎の若さが目立って、思わず同じく若い総司と平助と見比べてしまった。
「そこのチビ、若いな」
「は、はい。十六になります」
「もぅ、紫苑姉ぇってば楠さん怯えてるよー」
「違いますよ、きっと照れてるんです!」
笑った総司に理由は分からないけれど平助が言う。訳の分からない言葉は無視して、紫苑は面々を見回した。顔を覚えるつもりはないけれど、何だか妙に気になった。他にも新入隊士がいる中なぜこの五人を選んだのかと訊くと、新八が彼らが仲がいいから一塊で親睦を深めるつもりだからだと答えた。これからこの面子で島原へ呑みに行くらしい。
「紫苑も左之も行くだろ?」
「おう、あったり前じゃねぇか」
「私後から行くから先行ってて」
「えー、紫苑姉ぇも行こうよ!」
「見回りの報告すんだよ」
「よーし、じゃあ先に行くぞ。紫苑、後で来いな」
見回りのあと、報告をするのも仕事のうちだ。左之は先に行く気満々なので、紫苑がするべきだろうと判断した。
新八がそれを汲み取ってくれて、総司の背を押して足を進めてくれた。それをありがたく思いながら紫苑も屯所の門をくぐる。途中ですれ違った隊士たちにされる挨拶を軽く返しながら、迷うことなく歳三の部屋に向かった。一瞬気配を読んで、そっと声をかける前に中から低く耳に心地いい声が聞こえた。
「紫苑か?」
「……入るよ」
中には気配が三つしていた。紫苑がすっと襖を開けると、歳三と山南、勇が膝を付き合わせている。芹沢を斬ったときに山南が受けた傷も膿むこともなく良くなって、包帯も取れた。それに少し安心して、紫苑は後ろ手に襖を閉めて歳三の隣に少し距離を置いて座った。彼の隣に座ったのは無意識だったけれど、意識して距離を置いた。
「左之と見回り行ってきた。いつも通り」
「そうか」
「これからちょっと総司たちと出かけるから」
「……あぁ」
歳三は眉間に深く皺を寄せていた。この顔は歳三の顔だろうか、新撰組副長の顔だろうか。どちらかというと副長の顔をしているけれどどこか歳三の顔をしていて、紫苑は軽く唇を噛んで無意識のうちに右腕を押さえた。刀を握る為に誓った証を隠すように。
本当は話があったけれどどうしても言葉にすることが出来ず、紫苑は立ち上がろうとした。
「紫苑、その腕は……!?」
「ん?あぁ、これ」
紫苑をとめる声を発したのは歳三ではなく勇だった。ギョッとしたような目で右腕を凝視しているので、紫苑は僅かに首を傾げて右の袖をめくって見せた。堂々と咲き誇る紫苑の花は、白い肌のはずなのに夜の幽暗に咲いているようだった。
「私の、誓いだよ」
「……紫苑ちゃん……」
紫苑がさっと腕を隠すと、山南がふと悲しそうな顔で紫苑の名を呟いた。勇は紫苑の刺青に「ほぉ……」と感嘆にも似た息を吐き出し、歳三は僅かに目を見張ったけれどすぐに視線を逸らして煙管を口にやった。
「そうだ、山南さん。腕の調子はどう?」
「あ、あぁ。もう大丈夫だよ、心配かけたね」
「紫苑。お前ぇ出かけるんじゃなかったのか」
「あー、そだ。行ってくる」
紫苑の問いかけに山南は右腕をゆったりと持ち上げて笑った。けれどその笑みが弱々しく見えて、更に問いかけようとした。けれどその前に歳三に名を呼ばれ、紫苑は目の前の三人を順に見回した。ここにいるのは新撰組の幹部の局長副長で、紫苑は組長ですらない。もうここに勝手に入る権利なんてない。
紫苑は気にしていない風を装って立ち上がり、部屋を出た。新撰組において紫苑はどう言う存在なのだろう。幹部ではない昔からの仲間はきっと扱いにくい。ここまできて、やっと自分が酷く曖昧な位置に立っていることに気づいた。
馴染みの部屋に案内されて入ると、まだ日も沈んでいないというのに出来上がっていた。新入隊士はほぼ全員真っ赤な顔をしているし、歳若い総司も平助も完全に酔っている。新八と左之助が楽しそうに女に酌をさせていた。島田も瞼がくっつきそうになっている。山崎は端で一人で杯を空けていた。
紫苑が到着したのに気づいたのは、女たちが先立った。我先にとばかりに女たちは紫苑に寄り、紫苑は苦笑するしかない。新八たちの所に腰を下ろすと、彼らも苦笑している。
「女はみんな紫苑に取られちまうな」
「人を女泥棒みたいに言うなっつの」
「女にもてても紫苑だからなぁ」
彼らも少々酔っているのだろう、気分良さそうに笑っている。紫苑が釣られて笑うと、ふと杯を差し出された。いつの間にか紫苑の前にも肴が用意されていて、手を辿っていくと馴染みの女だった。紫苑にとっての馴染みは男と違う。けれど支えを求める所は同じかもしれない。
「待っとったんえ、紫苑はん」
「すっかりご無沙汰だね、千代雪」
差し出された杯を受けながら紫苑が笑うと、千代雪と呼ばれた小柄な女性はにっこりと笑って紫苑に寄り添った。その肩を抱き寄せて紫苑はふと動く気配に視線を合わせた。楠が松永と連れ立って席を立っただけだったので、厠だろうと放って注がれた杯を傾ける。
数杯煽っただけですっかりいい気分になって新八と左之助と馬鹿話をしていると、グデグデになった総司と平助が寄って来た。立つこともままならないのか、膝で這うようにしてきたので思わずぶん殴ってしまいそうになる。
「紫苑さぁん。私と沖田君、斬られかけてたらどちらを助けますか?」
「お前等どっちも助けいらないだろ」
「ひどぉい、紫苑姉ぇのケチ」
「うっぜ。もう寝ろよ」
どうせもうすぐ寝てしまうだろうと紫苑は目を眇めて女たちに言って更に酒を飲ませた。明日二日酔いになっていようが構うまい。そうしている間に何人かが女と共に別室に移動した。女を買う金もあるのかと少し疑問は残るけれど、今の新撰組にはあるのだろう。紫苑の腕に花が咲くまではなかったものが、今はある。
「千代雪ちゃんだっけ、可愛いなぁ」
「何だよ、パチには馴染みさんいるだろ」
「いんや、お雪ちゃんに似てるよな?」
「………」
「ま、紫苑の支えになるなら構わねぇけどさ。さ、俺も別室行こっかね」
新八は杯に残った酒を飲み干すと、隣の女の腰を抱いて立ち上がった。多少ふらついたけれど普段から呑んでいるのでこのくらいでは堪えない。新八が出て行ったからだろうか、左之助も近くの女の腰を抱いて出て行く。
新八の言葉を自分の中で反芻させて、紫苑は僅かに目を眇めた。確かに、千代雪は多摩の友人に似ている。顔が似ているのではなく、持っている雰囲気とかちょっとした所作が彼女を思い出させる。紫苑には唯一の親友であった彼女とは、たまに文を交わしている。だから、千代雪に心地よさを覚えるのだろうか。
「紫苑はん?お顔の色お悪いんちゃいます?大丈夫どすか?」
「……大丈夫、大丈夫だよ」
大丈夫だと言い聞かせている声はとても自分のものとは思えない小ささだった。何から逃げて何を追っているのかが、時折分からなくなってくる。
誤魔化すように杯を空けたとき、そっと襖が開いてまだ花魁ではない禿(かむろ)が入ってきた。紫苑の前に来ると、申し訳無さそうに一度頭を下げる。頭に載せられた豪奢なかんざしがちりんと綺麗な音を出した。
「お隣のお座敷の方が、一緒に呑みたいゆうてはるんどす」
「隣?」
「『もっけい』言えば分かるゆうてはりました」
「……木圭、な」
相手を悟り、紫苑は僅かに目を細めた。なぜあの人物がここにいると分かったのか、そして接触してくる気になったのか。どうも分からないけれど、紫苑にとって彼は敵でも味方でもなくただの知り合いだった。
木圭とは、桂小五郎の崩し名だ。桂と言う字を崩してばれぬように名乗っている。紫苑は昔、彼と何度か稽古したことがある。敵味方以前に、そういう関係なのだ。
「行くよ、隣でいいの?」
「へい」
「千代雪は一緒に来て酌して?」
僅かに笑い、紫苑は隣室に向かった。隣室と言っても襖で仕切られているからもしかしたら声が聞こえてしまうかもしれないが、どうせみんな酔っているのだから気にする所ではない。
隣の襖を禿の少女が開け、紫苑は中に入った。中ではたった一人桂だけが酒を呑んでいて、女すらいなかったことに少し面食らった。それとも隣の部屋に刺客が潜んでいるのだろうかと気配で察そうとして、腰の刀がないことに今更気づいた。強かに酔っているのかもしれない。
「久しいな、試衛館の鬼娘」
「今じゃ新撰組の橘紫苑なんだ」
懐かしい名で呼ばれ、紫苑は口の端を引き上げて桂の前に設えてあった座に腰を下ろした。紫苑の渾名はたくさんあった。最も有名だったのが「小石川の茨垣」だが、「試衛館の鬼娘」は剣を使う者がよく呼んでいた。試衛館道場の一人娘。鬼の醜草が異名の花の名を持った鬼のように剣の強い娘。褒めてるんだか貶しているんだかよく分からないし響きがよくないので、紫苑はあまり好んでいない。けれど、今日はその名を呼ばれるのが心地よかった。
「知っている。だから、今日確かめようと思った」
「……何を」
昔からかわらない真面目な桂の声に紫苑は声をとして杯を煽った。かたんと杯を置くと、それを待っていたかのように桂も杯を置きじっと紫苑の全身を眺める。杯に添えた袖口から見えた刺青に一度目を留め、僅かに口の端を歪める。
「新撰組として生きることに迷いがないようだな」
「ないね」
「二言はないな?」
「男だけじゃなく女にも二言はねぇんだよ」
「お主の場合、男も女も関係ないだろう」
「全くだ」
「ならば、お前は私の敵だ」
桂は長州出身の尊王論者だ。紫苑だって彼が敵なことくらい分かっていた。けれど今までぼやけたところにいる友人でしかなかった桂がはっきりと敵になった。それは同時に、明確に時勢が動いていたことを示していた。試衛館の鬼娘と呼ぶ人物が少なくなった。それだけ、紫苑は修羅の道を進んでいる。
今まで迷っていた自分がその言葉で吹っ切れた気がして、紫苑は千代雪に注がせた酒を一気に煽った。たたきつけるように杯を置いて、にやりと口の端を引き上げる。
「上等だ」
言い捨てるように立ち上がり、紫苑は千代雪を連れて桂に背を向けた。斬られるものなら斬って来い、そう簡単に斬られてやらない。酒の力も手伝ってか強気になっている。ふと、千代雪が右腕の花の輪郭をすっと撫でた。存在を主張されているようで、拳を握りこむと振り向きもしないで部屋を出た。
逃げるのは、もうやめだ。
-続-
桂が出てきた!?