ここ毎日連続して続いていることだけれど、紫苑は今日も嫌そうに隠すことなく顔を歪めた。けれど彼女の目の前で源三郎は人の良さそうな笑みを浮かべて財布を押し付けた。
 数日間連続で源三郎は紫苑に買い物を頼んでいる。昔から紫苑は面倒がって嫌がっていたがそれは今も変わらない。けれど昔同様源三郎は紫苑に折れる様子はない。ものすごく不満そうな紫苑は俯いて動こうとしない。源三郎はそんな紫苑を見て溜め息を吐き出して諭すように言い聞かせた。


「紫苑、俺はお前が女だって見られるのを嫌がってるのは知ってる」

「総司とかに行かせればいいじゃん。毎日毎日私ばっかり」

「でもな、俺がお前に女だからって理由以外に仕事を押し付けたか?俺は差別とか言ってるんじゃない、お前が大事な妹だからだ」


 昔から源三郎だけが紫苑を女扱いして立派な女性に育てようとしていた。それを紫苑は嫌がったが、源三郎は譲る気がないらしい。紫苑のことを誰よりも過保護に心配しているのは源三郎だということはよく分かるが、それでは紫苑にとって根本から間違っている。


「……嬉しいようでいて嬉しくないんだけど」


 現状で女扱いされても嬉しい訳がない。ぽつりと呟いた紫苑の頭を子供にするようにかき回して、源三郎は笑いながら彼女の体を押して無理矢理外に出そうとした。そんなにまでして行って来いと言うことか。そこまでされたら紫苑だって行かないと頑固に言い張るのもばからしくなる。すでにこの時点で道場に行こうとしていた気分を折られているので、紫苑は諦めて不機嫌な顔で外に出た。
 屋敷を出て歩いていると、門のところで騒がしい声がした。どうせまた誰かが隊旗で騒いでいるのだろう、こんなことは日常だ。真紅に誠の文字を染め抜いた隊旗は羽織と一緒に新撰組の誇りだ。毎日のように誰かが隊旗をはためかせて騒ぎ、じゃれあっている。あの声は総司と平助だろう。


「……紫苑」
 
「ん、何?」


 背後気配があったことは知っていた。急に掛けられた声だとしても紫苑は全く動揺せずにゆっくりと振り返った。歳三が煙管を銜えてどこか心配そうな顔をしていて、紫苑は僅かに不審そうに眉を寄せた。どうして買い物行くくらいでこいつはこんな顔をしているんだ。
 お互いが顔を合わせてけれど言葉がないのか沈黙が支配し、その間歳三は言葉を探してるかのように視線を空と石畳とを往復させていた。最初に痺れを切らしたのは紫苑だった。


「何よ。何でもないんだったら行くけど、また源兄ぃに買い物頼まれたから」

「あ、あぁ……」


 少しきつめの言葉で口早に言うと、歳三は何か言いたそうな顔をしながらも頷いてそれ以上何も言わなかった。彼の顔が妙に網膜に焼き付いて胸が苦しくなるのを感じながら、それを知らないふりして門を出ようとすると、少し遠くで思ったとおり隊旗で遊んでいた総司と平助が気づいて手を上げた。


「紫苑さん!お出掛けですか!?」

「僕も!僕も行く!」

「ずるいぞ沖田君、私もご一緒します!」


 旗を持ったまま彼らは言い争いを初めこちらに足早に近づいてくる。煩い彼らに簡単に堪忍袋の緒を切って紫苑はその後ろで困ったように二人を見比べていた島田魁を睨みつけてさっさと門を出た。


「うるせぇ。島田、付いて来い」

「は、はい!」


 指名されて島田が慌てたのが気配で分かったが、紫苑は振り返らなかった。後ろから総司と平助の「ずるいずるい、僕も!」「沖田君は昨日もご一緒だったじゃないか。今日は私だ!」とか歳三の「オメェら偶には道場稽古しやがれ!」という怒鳴り声が聞こえてきて思わず忍び笑いが漏れてしまう。昔と変わらない関係があそこにはある。歳三は昔から面倒見がよくて、彼らを怒鳴りつけていた。そこに山南がやってきて助けを求めるのが常だった。けれど紫苑は変わってしまった。変わらなければならなかった。


「紫苑さん、どこに行かれるんですか?」

「買い物」


 追いついてきた島田に財布を押し付けて、紫苑は腰の得物を何度か撫でた。変わらなければ得られないものならば、偽造品と変わりないのだろうか。けれど今の居場所を手に入れるためには変わらなければならなかった。残念ながら守られて待っているほど女々しい精神を持ち合わせていない。
 どうにか雰囲気を明るくしようと色々話題を提供してくれる島田の声を聞き流しながら、紫苑は後ろからついてくる人影に気づいていた。










 二条通りの市で一通り買い物を済ませた紫苑は島田に全ての荷物を持たせて黙々と歩いた。どこに向かっているのかと問われれば目的もなく強いて言えば本能寺の方だろうか。本能寺の前には長州藩の藩邸がある。


「紫苑さん、いくら残暑だとはいえその格好では寒くないですか?」

「あー……少し」

「羽織りでも買いますか?」

「いいよ、こっぱずかしい」


 確かに少し肌寒いくらいで、昨日は総司が羽織を掛けてくれたのでそうも感じなかったがもう夏も終わりなのだろう。そういえば、昔から歳三は気温とかに敏感だった。足早に歩いて、紫苑はとある袋小路に入った。あまりにも自然な行動に島田も一瞬紫苑の姿を見失いかけた。慌てて彼女が入った路地を曲がると、狭い道が続いていた。この荷物では邪魔で辛いものがある。


「紫苑さん?こんな所で何が……」


 少し行くと奥が広い空き地に出た。けれど何もなく、家に囲まれた狭いところだ。おこにもしも敵がいたら簡単には脱出できないだろう。じめじめした雰囲気も手伝って島田が巨体を縮こまらせて紫苑を見るが、彼女は全く気にした様子もなく小さく切り取られてぽっかり空いた空を睨みつけていた。


「いい加減に出てこいよ」


 低く唸るような声に島田が思わずびくりと体を震わせた。静寂すら音にしているようなここは耳に圧迫感がある。耳鳴りがする直前のような、経験したこともないがそんな気がした。何の音も気配もしないことに島田は息苦しくなって、無理矢理笑みを浮かべると引きつる息を吐き出した。


「や、やだなぁ紫苑さん、何もいないじゃないですか。帰りましょうよ」

「出て来いっつってんだよ」


 紫苑の強い声に島田思わず一歩下がった。彼女のまとう雰囲気が剣呑としたものになり、近づくのすら憚られるほどだった。
 しばし沈黙が支配し、紫苑の表情に苦々しいものが広がった頃、漸くカサリと人の足音が聞こえた。けれど姿は見えず、紫苑は忌々しそうに舌を打つと腰の相棒に手を掛けて苛立ちを表すように何度か鯉口を切っては閉じるのを繰り返した。


「そない怒らんでもええやんか、橘紫苑はん」

「人のことこそこそ付回しやがって」

「せやかて命令ですよって」

「ふん、狗が」

「何とでも言うとったらよろし」


 声は男のものだが、姿は見えなかった。けれど声で分かる。姿を現す気のないその相手に紫苑が黙って目を閉じると、後ろから島田の「や、山崎……?」と困惑と疑念に満ちた声が聞こえた。普通の隊士は知らないが、山崎烝は監察方に属している主な仕事は情報収集であり、隊士にも姿を滅多に見せない。そんな男だから敵と勘違いしてもしょうがないだろう。けれど紫苑は別の意味で気分を害された。彼を見張りにつけられたという、その事実に。
 けれど紫苑の心中を読んだように、彼は短く笑った。


「言うときますけど、あんさんを守るためやあらへんで」

「……そうかよ」

「わてが狗ならあんさんは差し詰めミミズや」

「もうちょっと言い方があんだろが」

「どないな言い方しても変わらへんで」


 山崎は新撰組の狗だ。彼らに献身的につくし従順に従う。そして紫苑は敵をおびき寄せるための餌なのだろう。それで全てに合点が行った。歳三のあの顔も源三郎が毎日のように買い物を頼むのも。そして総司たちと見回りに出ると襲撃の回数が格段に減ることも。すべて、橘紫苑が“女”だからだ。
 全てが明らかになるとそれはとても明快で正解の形をしていた。この形を出すまでに彼はどれほど悩んで辛い思いをしたのだろうか。それがいつか辛くなくなればいい。自分のためにあの男が辛い思いをするのは、耐えられない。


「島田、先帰ってろ」

「へ?紫苑さん?」


 これから全てのケリをつけて帰ろうと思う。紫苑がそう思って言うと、島田は不満そうに眉を寄せた。帰れというのに帰ると言う選択肢が存在しないのかその場から動く気配が全くないので、紫苑はもう一度今度は唸るような声で言った。


「先帰れって言ってんだよ」


 紫苑の半眼と目が合って、島田はその瞳に一瞬恐怖を移した。一瞬後には荷物を抱えなおして頭を下げている。踵を返して、けれど紫苑が気になるのか何度か振り返っていた島田の姿がやっと見えなくなって紫苑はうっすらと笑みを浮かべた。


「なってやるさ、餌でもなんでも」

「ほな、わても仕事があるさかい。あぁ、一つ言うときますわ」

「ンだよ。まだなんかあるのか?」

「わては用心棒やあらへんで」

「……知ってる」


 自分の居場所などとうに見当がついている。笑って紫苑は山崎がいるだろう場所に背を向けてゆっくりと小路を出て行く。背後で彼が笑った気配がしたが振り向かなかった。誰の眼にも滑稽に映ったとしても、自分はこれしか知らないのだから。










 縁側で酒とつまみに沢庵を持ってきて一人で小さな器に月を映してぼんやりしていた。月は存在感を主張しているように冴冴と輝き、その下でまだ蕾の紫苑の花が咲いている。何も言わずに動きもせずに、ただ昼間のことを考えていた紫苑にはそれらの光景は意識の外にあった。
 買い物に行く時の歳三の顔が忘れられない。ずっと頭にこびりついて離れない。あの何かを決断した、けれどそれがとても辛かったのだと押し隠すような表情は見ているこちらが苦しくなるほどだった。あんな顔をさせたのが自分だったと言うだけで嫌悪感で吐きそうになった。それを抑えて酒を呑み下す。こうして忘れて埋没した記憶は幾つになるのだろう、これから幾つ増えるのだろう。


「紫苑……」


 すっと襖が開く音がしてけれど反応しないでいると、歳三の声が隣から聞こえた。小さなそれの後に続いてふわりと羽織りを掛けられる。昔から変わらない、女は体を冷やすなという無言の意思表示。京に上るとき、歳三は言った。護る、と。それは紫苑自身ではなく紫苑の女の部分。あの時漠然としていたものが今分かった気がした。


「長州の奴等に襲われた」

「……そうか」

「斬り伏せてきたけど、文句ないよね?」


 歳三が腰を下ろした拳一個分向こう。その距離を見越して紫苑は間に徳利を置いた。干した器に酒を注ごうと体を彼のほうに向けると、驚いた顔をした歳三の顔があった。やはり、と素直に思う。彼は紫苑が逃げることを望んでいたのだ。“女”は弱いのだと印象付けたかったのだろう。
 けれど紫苑が先に発した言葉に言うべき言葉を奪われたようで、ただ困惑した目で紫苑を見ていた。


「信念だけは曲げられない。そうだろう?」

「……だが!」


 注いだ徳利を置いて、口をつけようとする前に歳三に手を取られた。反動で酒が半分以上も庭に落ちて石に染みを作った。
 歳三の言いたいことは分かる。分かるけれど紫苑には絶対に曲げられないことがある。逃げるくらいなら死んだほうがマシだ。それは昔から変わらない。負けると分かっていても絶対に敵に背を見せなかた。それが紫苑の唯一の信念。守るべきものは、信念だから。


「離して」


 握られた手を振り払って、紫苑はその器の酒を全て石の上にこぼした。真新しい染みが先ほどのものを大きくし、側面を伝って地面に沁みこんだ。振り払われた手を居心地が悪そうに歳三はつまみに持ってきた沢庵に伸ばしていた。
 本当はお互いに分かっているのだ。だから、お互いに頑なになって意地になって譲れないものは譲れないのだと声高に言い続ける。まるでそうでもしていないと全てが砕けてしまうように思えた。


「曲げられない、曲げちゃいけないんだ」

「……お前は、駒だ」


 曲げられない矜持がある。組織としての是非がある。お互いが譲れない線に立って、けれどそこから前進も後退もしようとしなかった。そしてそのままで安定を迎えようとする。
 それを肯定するように歳三は紫苑の器に酒を注いだ。紫苑がそれを持ち上げるのと歳三の武骨な指が沢庵を一欠けら持ち上げたのは一緒。
 組織の中で女だと言う事実を利用する手段なんて腐るほど思いつく。そしてそれは当然敢行されるべきものだ。例外なく持っているものを全て使うのだから当たり前のこととして認識されるべきもの。それを紫苑は分かっていて受け入れた。そこが紫苑のいるべき場所なら、地獄の業火の中だろうがそこに立つと決めた。ただ、譲れない唯一は存在する。

 あんたが望むなら捨て駒でも裏切りでも何でもやるから。





−続−

紫苑さんは短気。