昨日失敗したので今日こそはと意気込んで紫苑は道場へ向かった。意気込んだ所で今日はもう買い物を言いつけられることはないだろう弱いと思っていた新撰組の女が十人ほどの男を簡単に斬り伏せてしまったのだ。動くなら今この時をもってしかない。
 源三郎に見つからないように極力気をつけて壬生寺へ行こうとすると、玄関で後ろから声を掛けられた。


「紫苑さん」

「野口……?」


 声の主は芹沢派唯一の生き残りの野口で、紫苑は不審そうに眉を上げた。芹沢派が静粛されてからと言うもの野口は目立たないようにひっそりと生活していた。芹沢が死ぬまでは頻繁に顔を見せていたのに最近では隊内で会うこともめっきり減っている。正直もう死んでいるかと思っていたので紫苑は驚いたが、野口は何かに怯えたようにしきりに辺りを見回していて彼女の表情を読み取ってはいなかった。


「お話があります」

「うん?」

「ここでは何ですので、こちらへ」


 野口は何を警戒しているのかもう一度辺りを見回し、誰もいないのを確認してから近くの部屋に身を滑り込ませた。怪しみながらも紫苑は道具を置いてその部屋に体だけ滑り込ませる。狭い部屋で襖を閉めて、野口はじっと紫苑を見やってから一度視線を逸らした。


「ご存知かもしれませんが、今新撰組には長州の間者がいます」

「……あぁ」

「昨日、永倉さんが襲われました」

「は!?」


 野口の話では、昨夜新八が御倉と荒木田に誘われて祗園の料亭に行った。そこで散々呑まされて気を抜いたところを襲われた。実際は新八はヘラヘラしているように見えて全く隅を見せず無事だったがその密談はしっかりと漏れている。
 話を聞いた紫苑は新八らしさに微笑してい頷き、それからギンと野口を見据えた。彼女の視線に思わず一歩後ずさったが、そのことが紫苑の猜疑心を大きくした。


「何でお前がそのこと知ってんだよ」

「自分は、隣の部屋で呑んでいたもので……」


 小さな声で恐縮したように呟いた野口から視線逸らし、紫苑は「そうかよ」と吐き捨てると部屋を出た。彼女にとってもはや野口はいつ裏切るか分からない人間だった。芹沢が生きていた時はまだ少し可愛げがあると思っていたが今はもう何をするか分からない。警戒が必要と言うわけではないが信用もできない相手だ。
 紫苑は廊下に出しっぱなしの荷物を担いで、さっさと道場に向かった。この話が真実だったとしたらことはもう起きているかもしれない。少なくとも何かは動き出しているはずだ。


「おぉ、紫苑」


 いつも野郎共の活気のある怒声が響いている道場は、紫苑が覗いた瞬間に水を打ったように静まり返った。紫苑が僅かに顔を歪めて入って行くと、一番に声を掛けたのは勇だった。他の隊士たちはただ身動きすらできずに佇んでいる。今だったら全員殺されても文句を言えないだろう。
 紫苑が竹刀を肩に担いで勇の傍によって周りを見回すけれど、目的の人物は見当たらなかった。


「紫苑の稽古はいつも大事だな」

「好きでそうなった訳じゃないんだけど。総司は?」

「何だ、総司が目当てか。だが今は仕事中だ」

「別に総司がって訳じゃないんだけどさ……」


 少し言葉を濁した勇に紫苑はつっと目を眇めた。一体何年一緒にいると思っているのか、紫苑を騙せる訳がない。勇は嘘がつけない剛健な人間だ、見破るなんて簡単でただの仕事だとは嘘だろう。大方間者の静粛でも命じられたのだろうか。
 けれどこれ以上は口を出すべきではないので紫苑は黙っていることにして、道場の中心に進み出た。


「松永、楠もちょっと付き合えよ」


 間者であると疑われている人物は六人いる。その六人が六人とも先日紫苑が桂に会った店に行っている。それはもしかしたら偶然かもしれないが、偶然じゃないかもしれない。
 おずおずと出てきた二人を避けるように道場の中心から人が引いていき、彼らが紫苑と対峙するとすでに大きな野次馬の群れのようになっていた。容赦なく見据え、紫苑は竹刀を構えてゆっくりと口の端を引き上げる。


「綺麗な試合はできねぇぞ。容赦なく来い」

「参ります!」


 綺麗な試合なんてできない。実戦で使う剣しか役に立たない。紫苑は幼い頃からそう言われて育ってきた。だから負けないし負けることは許されない。それが天然理心流の信念であり新撰組の矜持だった。
 紫苑が竹刀を下段に構えると、上段に構えた楠木がまず気合を発した。癖の強い平青眼は紫苑の得意とするところだ。理心流の構えは左の篭手を無防備に敵に晒すものだが、紫苑は特に其の癖が強い。けれど大振りに振り下ろされる楠のそれを紙一重で避けて角度の付いた剣先を彼の無防備な脇腹に埋め込んだ。ギリッと一度捻り、竹刀を引き際後ろから袈裟切りに振ってきた松永の竹刀の鍔を受ける。一瞬場内でざわめきが起こったが紫苑は全く気にせずにそのまま腕を引き寄せ、近づいた松永の腹に思い切り蹴りこんで吹っ飛ばした。


「グッ……げほっ!」

「松永さん!」


 数尺吹っ飛んで倒れこんだ松永がむせ返りながら体を起こした。普段なら足を更に捻りこむ所だが、彼は防具を着込んでいるのでこっちの足がどうなるか分からず自重した。止めを刺しにも行かないで紫苑は野次馬どもの「卑怯者!」という声を鼻で笑い飛ばした。その顔に綺麗な笑みを貼り付けて、けれど発された声は背筋が凍えるほど冷たかった。


「言ったろ。綺麗な試合はできねぇって」


 笑って紫苑は竹刀を構えなおした。今日ここに来たのは彼らに絶望を与えたかったからだ。恐怖よりも深い絶望を与えて立ち上がれなくなればいい。歯向かってこなくなれば無意味に命を落とすこともない。それが、昨日長人を斬ったときから紫苑が己の剣に誓ったこと。決して違えることのない誓い。動き出してしまった長州への責任を全て背負う形で、誓いをたてた。










 深更深く、もう夜も明けるだろうという時間まで紫苑は新八の部屋で呑み明かしていた。別に理由があったわけではない。ただ間者に狙われたことをからかいに言ってやろうと思ったら新八は既に平助と呑んでいたようで妙に明るかった。昨日命を狙われたばかりだとは思えない。


「にしてもよくこんなベロンベロンで殺されなかったな」

「俺は外で呑んでも酔えねぇんだよ。紫苑が近くにいるから酔ってんの」

「何だそれ。人を用心棒扱いすんなよ」


 げらげら笑いながら新八はつまみの干菓子を口の中に放り込んだ。甘いものが苦手な紫苑は干菓子なんかでよく酒が呑めるもんだと思ったが、新八は実に美味そうだった。平助は既に酔っ払って眠ってしまっている。
 でも新八の言い分は分かる気がする。外ではもう何があるか分からない。いざ敵に襲われてそのときに酔っ払っていて死んでしまいましたなんて洒落にもならない。だからきっと芯から酔ってはいないのだ。酔っているふりをしてどこかで冷めている部分があるはずだ。


「それにしてもあいつらが間者だったとはな。俺が一番に狙われたって事は厄介だって思われたのか」

「いや、弱そうだと思ったんだろ」

「紫苑!テメェ失礼もいい加減にしとけよ」


 なんて失礼なことを言うんだと新八は憤慨したが、紫苑は笑ってそれ以上答えなかった。弱そうと言うならば紫苑が真っ先に狙われるべきだったのだ。だがそれは起こらなかった。絶えず紫苑の周りには誰かがいたし、それでなくても紫苑は他人と交わることを好まない。今だって古株の奴等以外の隊士とは積極的に会話をしようとしていない。


「そういや紫苑、道場でやらかしたんだろ?」

「何が?ただ普通に死合っただけだけど」

「噂になってんぜ、お前。卑怯な試合だったって」

「死合いに卑怯もクソもあるかってんだ」


 吐き捨てて紫苑は器を煽った。空けた側から新八が注いでくれるので紫苑の杯が空になることはない。強かに酔ってきたのとそろそろ空が白んできたことで紫苑は立ち上がって傍らに置いた愛刀を掴んで立ち上がった。それを新八が不思議そうに見上げる。


「何だ、どっか行くのか?」

「ちょっと酔い覚ましに外行ってくる」


 微笑して紫苑は新八の部屋を出た。彼が苦笑交じりに「刀持って酔い覚ましかよ」と言ったのは聞こえたけれど振り向かず、火照った体に冷たい風が心地いいと目を細めた。ふと庭に紫苑の蕾があることに気づいて、それが妙に嬉しくなって一つ頷くと真っ直ぐに玄関に向かう。何だか酔いが冷めたような気がした。
 朝もやがひどく出ている。視界が悪いことに目を眇めて立ち竦んで周りの音に耳を澄ませてみると、外気の冷たさが背筋を這い登った。そこで漸く酒の酔いが冷めたのではなくこれから見るであろう血の酔っているのだと気づく。


「紫苑?」

「……何してんの、左之」


 ざりっと人の足音が聞こえて思わず緊張してもやの向こうに目を凝らすと、そこにいた人物は左之助だった。布を一枚持っている理由が分からずに問いかけると、左之助はにかっと笑った。けれど彼のかもし出す雰囲気は緊張感を孕んでいて、よく見れば近くの柱に槍が立てかけられている。


「お前こそ。オレはアレだ、乾布摩擦」

「私はただの酔い覚まし。九月に乾布摩擦?」

「悪いか?お前だって刀持って酔い覚ましかよ」


 紫苑は少し笑って周りの気配を感じられるように目を細めた。残っている間者が逃げるとしたらこの時間を置いて他にない。誰もが油断していて目の届かない時間帯だ。左之助もだから出てきたのだろう。きっと歳三あたりに言われたんだろうとは簡単に予想が付く。昨日には御倉と荒木田が一の手によって斬られているし越後と松井は総司に終われたが逃げ果せたらしい。逃げることと死ぬことと、どちらがマシな生き方だろうか。


「……紫苑」

「あぁ」


 ふと誰かの話し声と砂利を踏む音が聞こえて左之助と紫苑は顔を見合わせた。気配は二つだ。無意識にあいつらではなければいいと紫苑は思う。刀を合わせた人間を斬りたいとは思わない。特に楠は何となく総司に似ている気がして斬りたくない。
 けれど近づいてきた気配たちは先にこちらに気づいてしまったようだった。松永の、恨みがましい声が紫苑の耳に届いたが姿はもやに邪魔されて見えなかった。


「……橘紫苑!」

「戻れ、今ならまだ法度は通用されない」

「逃げると思うか!女の分際で!」

「紫苑!」


 斬りかかってきた松永の刀を受けようと鯉口を切った瞬間になぜか背中を押された。金属のぶつかるおとがしてふりかえると左之助が松永の刀を受けている。均衡を保ちながら左之助は紫苑に向かって笑って「楠木は任せた」と言った。
 それを聞いて、紫苑は刀を抜いて今にも切りかかってきそうな楠を見据える。左之助も分かってやっているんだったらあとでどついてやらなければならない。だから嫌だったんだ。


「楠小十郎、参る!」


 嘘をついてまで新撰組に入った理由は何だろう。前髪を落としたばかりのようなガキが一体何の理由で。
 真剣を合わせて、紫苑は至近距離に迫った少年の目を見た。何と悲しそうな色をしているのだろう、復讐に燃え憎しみに身をやつした色をしている。そこまでして彼に強いるものは一体何なのだろう。どこまでが嘘がどこまでが真か何も信じられない中で、どこまでを信じて進めば間違わないのだろう。


「嘘は吐くなって両親に言われなかったか?」

「その両親はお前らに殺された!壬生狼め!」


 そこが本当だったのか。彼の中で両親を殺されたのは本当のこと。長人に殺されたのは嘘。彼の両親を斬ったのは誰だろう。ここに着てから斬った人数が多すぎて全く分からないし分かろうとも思わない。自分の貫く信念のために斬った。だから後悔はない。己の信じるもののために斬り斬られる。それが全てだ。
 感情が爆発したのだろう一度間合いを取って大振りに飛び込んできた楠の刀避けず突っ込み、紫苑は彼の胸の中心を寸分違わず刺し貫いた。


「じゃあ死んどけ」


 理心流の突きは三度相手の胸を吐く。それは殺しそこなうことを恐れてのことだ。田舎剣法の癖にひたすら純粋に死を追い求める。それが紫苑が学んだことで信念だった。
 紫苑は一度ずるっと刀を抜くと力が抜けていく体にもう一度刀を突き刺した。それを今度は抜くのではなく躊躇いもなく右に払った。肺を切り裂いて完全に絶命まで達する。裂けた肺のおかげで彼の口からは大量に血があふれ出し、その体は力なく石畳に倒れて血で汚した。


「小十郎ぉぉお!」


 紫苑がピッと血脂を払って肩から力を抜くと、松永の絶叫が響き渡った。けれどそれはすぐにくぐもった音になる。左之助に突かれたのか殺されたのかはもやのおかげで定かではないが、少なくとも無事ではすまないだろう。
 ぶくぶくと血を体内から滲みだしている楠を見下ろしながら待っていると、彼の血が地面に染み込んでどす黒くなるころに左之助が帰ってきた。
 紫苑の手もこの地面のようにいつかどす黒く染まってしまうのだろうか。それとも信念のために戦い抜いた手は、隊旗のように赤く染まるのだろうか。ただ分かっていることは、今は紫苑の命は歳三のものだ。生気を失った死骸を見下ろして、紫苑は左之助と共に屋敷に戻った。

 ただ赤に染まった手は、同じ赤しか手にできない。





−続−

間者編終了!
松永さんと小十郎は相思相愛。